あわいを往く者

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徳間文庫「うつしゆめ」

うつしゆめ(徳間文庫)表紙
 
価格:\580+税
著者:那識あきら
表紙:花えん
発行:徳間書店

あらすじ

柏木陸は関西随一の国立大生という肩書きと美しい容姿を利用し、刹那的な生活を送っていた。ある嵐の日、愛車で山中を走っていた彼は道に迷い、偶然見つけた洋館を訪れる。出迎えたのは陸と同年代の美しい女性。しかし彼女は、常に他者との関係で主導権を握ってきた陸を翻弄し、心を先読みする…。彼女は何者なのか? 陽炎のように儚い、ひと夜の出会いを描いた、ミステリータッチのラブストーリー。(書誌情報より)

作者より

電子書籍『うつしゆめ』を修正、書籍化。後日譚を二篇追加収録しました。

後日譚「いっぷく」

彼女との会話は、常に真剣勝負だ。隙あらばツッコミを入れようと、お互い手ぐすね引いて対峙している。
今日は彼女の誕生日。準備万端で迎える陸の、策士が策に溺れた物語。9,300字。
初出:東日本大震災チャリティ本「Love&Happy」(2011/7/1刊行)

後日譚「むかしがたり」

今思えば、初めて会った頃から、あいつは気にくわない奴だった。
高校一年の春の遠足。陸は、新しく友人となった高嶋珊慈や原田嶺と、三人でグループを組むことになったのだが……。10,200字、書き下ろし。

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目次&序盤試し読み

序章 京の夢
第一章 現の夢
第二章 白日夢
第三章 夢は逆夢
第四章 夢のまた夢
第五章 胡蝶の夢
終章 現し夢
 
番外編 空夢
後日譚 夢の続きは
後日譚 いっぷく
後日譚 むかしがたり
 

   序章  京の夢

 
 多くの日本の大学生にとって、夏休みは、日々を無為に送るには長過ぎる。通年単位の授業を履修していれば、課題まみれの夏を過ごす羽目になることもあるが、そうでない者は、バイトやレジャーに延々と明け暮れるのが常だ。
 この夏めでたく京洛大学大学院理学研究科への進学を決めた四回生の柏木陸も、御多分に洩れず、二ヶ月の休暇を少々持て余していた。
 前半一ヶ月は、院試に向けての受験勉強で潰れてしまったから問題ないとして、院試が終わってからの一ヶ月をどうやって過ごすべきか。なにしろ、半年後には卒論提出が待っているのだ。去年までのように、あまり暢気に遊びまわるわけにもいかない。所詮は学部生の卒業論文とはいえ、どこかで見かけたような研究テーマと使いまわしのデータの切り貼りで、論文を組み上げるようなことだけは、絶対にしたくなかったからだ。
 そういうわけで、今年は旅行もバイトもすっかり諦めていた陸だったが、ちょっとした息抜きまでオミットするつもりは毛頭なかった。実験の合間をぬって、彼は気の合った仲間と繁華街に繰り出したり、合コンに参加したりした。やや彫りの深い顔立ちと、毛並みの良い猫を思わせるさらさらの髪は、関西随一の国立大学生という肩書き以上に陸の武器であり、彼は悪友達の羨望の眼差しを一身に受けながら、刹那的な娯楽に身を投じるのだった。卒業研究に没頭するための英気を養う、との言い訳を胸に。
  
 そんなこんなで、陸の学部生最後の夏休みは、平常と代わり映えのないままに終わりを迎えるはずだった。それが、どういうわけか今、彼は愛車のハンドルを握って、又隣の県の山深い国道をひた走っている。
  
  
「合同セミナー?」
 九月中旬、院試の合格発表日。揚々と研究室に向かっていた陸は、薄暗い廊下の真ん中で、同じ研究室の先輩に呼び止められた。修士合格をねぎらう言葉に次いで告げられた知らせに、陸は小さく眉を寄せる。
「そう、ウチと神部こうべ大とのやつ。今月末にあるんだけど、お前行かない?」
「あれは修士以上が対象じゃなかったですか?」
「そうなんだけどさ、田原先生が、院に合格した四回生も誘ってやれってさ。なにしろ、今回の会場は神大の新しい観測所で、お披露目式も兼ねてるらしいから」
 そう言って差し出された薄藤色の紙には、「伏無山観測所落成記念講演会」という活字が、青空を背景に建つ近代的な建造物の写真とともに並んでいた。明るい色合いの建物の向こうに、銀色のドームが見える。なるほど、これがその「伏無山観測所」なのだろう。
 講演会パンフレットを受け取ろうとして、陸はその下に重ねられたコピー用紙の束に気がついた。ぴん、と張った上質紙に対して、それらの両端はだらしなく下方へと垂れ下がっている。
「あ、そっちがセミナーのパンフね。またあとででもゆっくり読んどいて。当日は大学がでっかいバスを出してくれるらしいぞ。ちょっとした小旅行だな」
 無造作にステープルでとめられた小冊子の、不揃いな紙の端が気になったが、陸は黙ってページをめくった。セミナーの内容、タイムテーブル、参加者一覧、目で項目を追いながら、ふと浮かび上がった疑問を口にする。
「大型観光バスってことは、田原研だけじゃないんですね?」
「あ、ああ、今回は、ほら、講演会があるし」
 わざとらしいほどに狼狽する先輩の様子に、陸は密かに溜め息をついた。噂というものは、思いのほか広範囲へと伝わっていくものらしい。
「泊まりのセミナーはウチだけなんだけど、講演会のあとの懇親会までは、一応他の研究室の連中も……」
 陸が黙りこくっている理由を勝手に誤解したのだろう、彼の眼差しは明らかに同情の色を帯び始めていた。
「……佐々木さんなら、懇親会で帰るはずだけど……。気まずいなら、今回はやめておくか?」
 このタイミングでこんな行事に理由もなく欠席すれば、噂好きな人間の格好の餌になることは間違いないだろう。恋人にフられた傷心の男、という称号は別にどうでもいい。だが、フられた相手との同席を避けて重要な行事を欠席するような根性なし、と思われるような事態は、激しく心外だ。
 それに、他大学の観測所を見学できる機会など、そうそうあるものではない。こんな貴重なチャンスをみすみす逃す手はないだろう。更に加えて、セミナーの参加者名簿に見つけたあの名前……。
 とはいえ、正直なところ、自分をフった相手と二時間以上も同じバスの中というのは、あまり愉快な体験ではない。そもそも彼女のほうから別れを切り出してきたというのに、あの物言いたげな視線は一体何なのか。自分のことなど、きっぱりすっぱり忘れてくれたら良かろうものを。
「僕の心臓には毛が生えていますからね。それよりも彼女のほうが気まずく思うかも」
「そうだな、お前は意外と図太そうだからな。うん、確かに彼女のほうがつらいかもな」
 他人事だと思って、好き勝手なことを言ってくれる。胸の奥でムッとしながらも、陸は慎重に言葉を継いだ。
「あ、そうだ。僕だけ現地集合っていうのはどうです?」
 なるほど、と両手を打つ先輩に見えないように、陸は微かに口角を上げた。
  
  
 と、いうわけで。
 夏休み最後の週末、陸は愛車に乗り込むと午前のうちにアパートを出発した。
 カーナビにいざなわれ、高速道路を乗り継いで二時間。車窓にはのどかな田園風景が広がっていた。緩やかな上り坂の向こう、山々の稜線がくっきりと空を切り取っている。
 眩しさを苦手とする陸は、日中の運転時にはいつも薄い色のサングラスを着用していた。明度とともに色調を落とした景色には慣れているが、ふと、せっかくの遠出が勿体なく思えて、そっとグラスを外してみる。
 途端に、鮮やかな緑が視界一杯に飛び込んできた。と、同時に、前日にセルフスタンドで磨き上げた青のボディが、フロントグラス越しに陸の眼底を射る。
 どうだい、まるで新車じゃないか、と陸は満足そうな笑みを浮かべた。少しクラシカルな外観が特徴のこの小型輸入車を、陸はただ同然の金額で入手した。去年卒業した先輩が引っ越すにあたって「もう乗らないから」と廃車にしようとしていたのを耳にし、頼み込んで譲ってもらったのだ。
 一度水をかぶっているから覚悟して乗れよ、と心配そうに語る先輩とは対照的に、陸は至極上機嫌で車のキーを受け取った。二十世紀の終わりとともに生産が終了してしまったこのモデルを、陸はとても気に入っていたからだ。
 ――そういえば、彼女はこの車がお気に召さなかったんだっけ。
 考えるともなく彼は、初夏のドライブでの会話をぼんやりと思い出していた。
  
「どうして、突然熱風が出てくるのよー。エアコン、壊れてるんじゃないの?」
「あー、まあ、これ冠水車だからね。そのうちに自分の仕事を思い出すさ」
「あ、ダメ! 窓はあけないで、って、きゃあ、ああもう、髪がむちゃくちゃじゃない……」
「暑いだろ?」
「暑いわよ。だから、エアコンつけようって思ったの。もう、どうしてこんなポンコツに乗ってるの? 信じられない」
  
 退屈しなくていいだろ? という意見は、真っ向から却下されたのだった。今から思えば、こんな些細な衝突が一つ一つ積もり積もって、二人の間に壁を築いたのだろう。
 そこまで考えて、陸は我に返った。不快な記憶をわざわざ掘り返すつもりなどなかったのに、うっかり余計なことに頭を使ってしまったではないか、と。
 ――何か楽しいことに思考のスイッチを切り替えなければ。
 陸は、これから向かう先で待っているであろう出来事へと、思いを巡らせることにした。
 新設の観測所。太陽系の新惑星発見の功績から、またこれからの研究のために、神部大学が新しく建設した天文台。おそらくは最新鋭の機材が導入されているはずだ。全ては無理だとしても、その一部を見学することはできるだろう。
 それに、楽しみなことがもう一つ。いや、一人、か。兵庫県立播磨大修士二年、渡瀬蒼悟。
 陸はその名前を、合同セミナーの会誌で何度も目にしていた。なんでも、担当教官が播磨大から神大へ異動した関係で、彼も京洛大と神部大の合同研究会に参加するようになったらしい。播磨大自体はセミナーに関わっていないために、会合そのものへは直接参加していないようだったが、会誌から窺える裏方としての彼の仕事ぶりに、陸は並々ならぬ興味を抱いていたのだ。
 その彼が、どうやら今回のセミナーに初参加するというのだ。是非とも話をしてみたい。
  
 いよいよ辺りから人家が消えた。国道は木々のトンネルの中を複雑なカーブを描きながら蜿蜒と延びている。
 目指す伏無山は、兵庫県の中央部、中国山地の東端に位置する標高千メートル余りの山だ。すぐ西には、県最高峰とそれを取り巻く国定公園が広がっている。少し北には県内でも有数のスキー場があり、シーズンにはスキー客の車で渋滞が起きることも珍しくないという。
 冬の賑わいがまるで嘘のように閑散とした山あいの道を、陸の青い車は快調に飛ばしていった。
  
  
  
 遥か下界を見下ろす山の頂上に描かれた白銀のラインは、空を舞う鳥からは、均整のとれた十字形に見えることだろう。だが、地に足をつけた者の目には、その形は複雑極まりなく映る。まるで山肌を這い進む巨大な白蛇のように、草地の上にその身を横たえるのは、円蓋で覆われた渡り廊下だ。
 伏無山観測所は、大きく五つの建物から成る。反射式、屈折式の望遠鏡をそれぞれ一つずつ備えつけた二つのドーム天文台、分光スペクトル観測望遠鏡棟、講堂、それら四つの建造物が、敷地中央の管理棟をぐるりと取り囲むようにして建てられていた。
 各々の建物は、天候の如何によらず容易に行き来できるように、ドーム状の通路で管理棟と繋がれており、上空から眺めれば、その銀色のトンネルが綺麗な十字を形作るのだ。
  
 記念講演会は、定刻通りきっかり十七時に終了した。
 会場から退出しようとする人々で混雑する出口を見ながら、陸は小さく溜め息をついた。大学の大教室よりも少し小振りな講堂ではあったが、階段状の聴衆席は満員だった。それだけの人数が狭い扉に殺到すれば、通勤ラッシュさながらの混乱が起こるのは当たり前というものだろう。各々が自分を抑えて、余裕を持って行動すれば、もっとスムーズに動けるはずなのに、どうして誰も彼も自ら進んで混沌の渦に身を投じるのか。
「このあとの懇親会って、立食パーティなんだろ? 俺、昼食抜いて来たから、スッゲ楽しみでさ。柏木も早く行こうぜ」
 別の研究室入りが決定している同級生が、ポン、と陸の肩を叩いた。苦学生のサガだろう、食費が浮くことを心から喜んでいる様子で、「明日の分まで食うぞー」と息巻いて人ごみに飛び込んでいく。お前もか、と肩を落とす陸の背後で、聞き慣れたしわがれ声が豪快に笑った。
「若いモンは元気だなあ。ほれ、君も早く行かないと、皆に全部食われてしまうぞ」
 振り返った陸の視線の先、彼の指導教官である通称「親父さん」こと田原教授が、細い目を更に細くして立っていた。
「その時は、先生の分も牛丼を買ってきますよ」
「葱を抜くのを忘れんでくれよ」
 いつもの調子で応答してから、田原はまたも大きな笑い声を上げた。
「島野君から、君だけ現地集合だと聞いて、少し心配していたんだよ。ドライブは楽しかったかい?」
「すみませんでした。どうしても都合がつかなかったものですから。でも、一人きりだとつまらないですね。無理をしてでも、皆と一緒に来たほうが良かったかな。バスも凄く豪華そうだったし」
 心にもないことをしれっと言ってのけるのは、彼の特技である。
「合同セミナー参加者以外は、懇親会で帰ってしまうからね。あのバスともそれでお別れだよ。残るのは地味なマイクロバスと、皆の溜め息ばかりなり」
 芝居がかった調子でそう語る田原だったが、陸の肩越しに何かを認めたらしく、やにわに右手を上げた。
「おお、井上先生!」
 田原教授よりも若干年上に見える、眼鏡の紳士がそこに立っていた。胸元のネームプレートには神部大と記されている。つまり、この人物が合同セミナーの相手方である井上研のボスなのだろう。
「講演会も重なって、今回は色々大変だったでしょう」
「いいや。どうせなら兼ねてしまったほうが良いんじゃないか、と思って、こちらから事務局に頼んだのだ。余計なお誘いも『明日もセミナーがあるので』の一言で、さっさと逃げてしまえるだろうしね」
 田原の大きな相槌に頷き返してから、井上は陸のほうを向いた。眼鏡の位置を直しながら、油断のない視線を陸に絡ませる。
 陽気で「気のいい親父」然とした田原教授に対して、井上教授は鋭利な刃物にも似た気配をその身に纏っていた。苦手なタイプだ、と陸は胸の内で呟く。そして、こういう場合は十中八九、相手も陸のことを苦手としているに決まっているのだ。
「君は……四年生かな」
「はい」
「彼が、例の柏木君ですよ」
「ほう、君が」
 我が師の言葉に陸が驚く間もなく、井上教授が口角を上げた。思わせぶりなその反応に、陸の心臓が一気に跳ね上がる。
「非常にユニークな学生がいると、田原先生から聞いていた。必須単位を落とすことなく、他専攻の授業を片っ端から履修しているそうだね」
 含みのありそうな口元とは裏腹に、眼鏡の奥の瞳には純粋な好意の色が湛えられていた。それを見てとった陸は、密かに安堵の息をつく。そうして、まだ治まりきらない鼓動を意識しつつ、苦笑にも似た笑顔を浮かべた。
「実は『物知り博士』に憧れているんです」
 その言葉は本心からのものだった。器用貧乏は御免だが、専門バカとも言われたくない。周辺分野をある程度押さえることができれば、それはきっと専門を極めるにあたって非常に強力な武器となるだろう。そして自分にはそれを可能とするキャパシティがある、そう陸は信じていた。
 何より、「あいつはなんでも知っている」と言われることは、非常に快感だ。コンパの席でも、ちょっとした雑学のお蔭で美味しい思いをしたのは、一度や二度のことではない。
「今時、ほとんど見られなくなってしまったがね、彼を見ていると古き良き『エリート』を思い出すよ。一般教養ごときでも、最近の若い者はすぐに『専門じゃないので解りません』などと悪びれもせずに吐くからなあ」
「器用貧乏、という言葉もありますよ」
「なに、学部にいる間は、それで充分だよ」
 勿論、修士で同じようなことをするつもりは、陸には毛頭なかった。田原教授もそのあたりを解ってくれているのだろう。
「そういえば、君の秘蔵っ子も紹介してくれるんじゃなかったのかい」
「ああ、渡瀬君かね。そう、人手が足りないから、と今回は無理を言って来てもらったのだよ」
 神部大のほうも、京洛大と同様今回は四年生も一緒にセミナーに参加するということだった。更に加えて記念講演会のホストでもあるわけだから、忙しさは普段の比ではないはずだ。これまで裏方に徹していた彼が、表舞台に顔を出すことになったのは、このような理由があったからに違いない。
 意中の人物の名前を聞いて、陸の背筋がピンと伸びた。一瞬の逡巡ののち、彼は思いきって井上教授に語りかけた。
「あの、僕も是非、渡瀬さんにお引き合わせ願えますか」
「ほう?」
「会誌やセミナーのサマリを拝見していて、不遜な言い方ですが、とても頭の良い人だな、と尊敬しているのです」
 その言葉に、途端に井上が相好を崩した。本当に「秘蔵っ子」なのだろう。
「うむ。他人の論文を完全に理解し、更に自分のものとしなければ、ああは書けないからね」
「それに、文章が非常に客観的です。誰のとは言いませんが、元の論文よりも思考の道筋がずっと整理されていましたから」
 島野先輩が聞いていたら怒るだろうな、と思いつつ、ついつい陸はつるりと毒を吐いた。そもそも、彼なら自分のことだとすら解らないんじゃないだろうか。そう心の中で舌を出しながら。
「渡瀬君の学士論文は読んだかね?」
「いえ、そこまではまだ余裕がなくて」
 井上教授の機嫌は、すっかり上り調子だ。
「非常にエレガントだよ。一度読んでみるといい。私が神大に移って唯一後悔したのが、渡瀬君を手放さなくてはならなかったことだ。素地は充分、鍛え甲斐もあるときたもんだ。ああ、下浦君、渡瀬君はどこだね?」
 後片付けを始めていた年齢不詳の髭の学生が、ほんの少し小首をかしげてから、丸い目をぐるりと回した。ポロシャツの胸ポケットから突き出た名札には、下手な字で「D1(博士課程一年)」とある。
「渡瀬の奴なら、さっき帰りましたよ」
「帰った? どうやって?」
 人里離れた山のてっぺん、しかも一般には公開されていない新設の観測所。当然路線バスなど通っているはずもない。
「神大に寄るよりも近いからって、あいつ、家から直接、いつものあのでっかいバイクで来てたんですよ。颯爽と跨って去っていきました。相変わらずおとこですなあ」
「そうか、帰ってしまったのか。残念だ」
 それは、そのまま陸の思いでもあった。これで、今回の遠出の目的の半分が潰えてしまったことになる。
 いや、最新の天文設備を見学できるだけでも充分ではないか。陸がそう思い直そうとした丁度その時、演壇から井上教授を呼ぶ声が響いた。
「井上先生! このプロジェクタなんですけど……」
「ああ、すまんが少し失礼するよ。またのちほど」
 そう言って井上は、階段をきびきびとくだっていく。それを見送っていた田原が、ポツリと呟いた。
「私も、今日こそ井上先生の愛弟子に会えると楽しみにしていたんだがね。ま、今日の講演会には、播磨大の狩野先生も来られているから、無理もないか」
 狩野というのは確か、渡瀬蒼悟が本来所属する研究室の教官だったように記憶している。二人の「先生」の間に立って双方に気を遣うのは、あまり楽しい仕事ではないだろう。裏方の役務を成し遂げた以上は、懇親会をパスするぐらいは許されるべきかもしれない。そう陸は自らに言い聞かせた。一向に払拭しきれない失意を、なんとか誤魔化すべく。
「あー、そういえば、君は以前から渡瀬君のことを気にしていたね」
「去年からずっと、隠れファンなんですよ」
「残念だったね。ま、研究を続ける限り、これから幾らでも会う機会はあるだろう」
 さて、ご馳走が待っているぞ。そう言って田原教授は、もうすっかりひとけの途絶えた出口へと陸を誘った。