あわいを往く者

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紅玉摧かれ砂と為る 四 誰がために

  
  
  
「とんでもないことをなさってくださいましたな」
 一夜明けたルウケの館、扉を閉め切った書斎にて、ヘリストがこれ見よがしに溜め息をついた。
 昨夜は、この館を訪れたがる領主親子を躱すために、ラグナ達は交代で仮眠をとりながら、夜通し怪我人の世話や事故の後始末を手伝った。最初のうちは「素晴らしい」「お優しい」と誉めそやしながらラグナに付きまとっていた領主達も、どうやら睡魔には勝てなかったようで、夜半過ぎには来た時と同じ馬車に乗って、すごすごと城へと帰っていった。また近いうちにお屋敷にお邪魔いたします、との言葉を残して。
「ブローム公爵に借りを作ることだけは、避けたかったのですがね。国内の勢力図を不用意に書き換えるわけには参りませんから」
 苦々しげなヘリストの声に、ラグナは我慢しきれずに抗議の声をあげた。
「ならば、先生は、あのまま皆を見捨てればよかったとでも?」
「何事も、それぞれにはそれぞれの優先順位がある、ということです」
 ヘリストは、ラグナの問いには直接答えずに、険しい眼差しを返してきた。
「もしも、怪我人の中にフェリア殿のご母堂が含まれていなかったら……、ラグナ様はどうされましたかな」
「勿論、やはり同じように、皆の命を助けようと……」
「ウルスに止められても?」
「……そうだ」
「サヴィネを探しに来たのがフェリア殿ではなくとも?」
「そ、それは……」
 反論を試みたものの、すぐにラグナは言葉に詰まってしまった。そもそも、あの時フェリアが助けを求めてこなければ、おそらくラグナは、歯がゆい思いを抱えながらも、大人しくウルスとともにアンやサヴィネの帰りを待っていたに違いないからだ。
 ラグナは、唇を噛んで、足元に視線を落とした。
 ヘリストの溜め息が、ラグナの胸に突き刺さる。
「テア様のことがありますからな、どうしても軽くお考えになってしまうのでしょうが、陛下とテア様のご結婚も、本来なら許されるべきものではなかったのですよ」
 穏やかならぬ単語を耳にし、ラグナは勢いよく顔を上げた。
「これまでも、爵位を持たぬ家の者と結ばれた王族がいなかったわけではありません。しかし、それらの方々は全員が王籍を離脱しておられます。身分の違いというものは、それほどまでに重いことなのです」
 それでは、何故、現国王は平民との成婚後もまだ王位についていられるのか。そもそも、何故このような婚姻が成立できたのか。
 ラグナの表情を読んだのだろう、ヘリストが静かに語り始めた。
「陛下のご結婚が、世の平均的な男性に比べて少々遅めであったということは、お分かりですな?」
 小さく頷くラグナに、ヘリストは驚くべきことを口にした。
「もともと陛下は、生涯どなたともご結婚なさらぬおつもりだったのです」
 テア様と巡り会われるまでは、と、付け加えて、ヘリストはそっと微笑んだ。
 先々代の王の御代みよから、カラントという国は急速に発展し始めた。厳しく長い冬に痩せた土地、という不利な条件を補おうと、地道に積み上げてきた技術がようやく花開いたばかりか、その抜きんでた冶金技術が、大いに他国にもてはやされ始めたせいだった。
 かくして、大陸の北の端に引っかかったような貧乏な小国は、豊かさと引き換えに牧歌的な生きざまを失うこととなった。それまで自らの領地経営に手一杯だった地方領主達は、こぞって他国と交易を行い、手に入れた富でおのれの勢力を拡大することに腐心した。現国王クラウスの代になる頃には、そうやって強大な力を持つに至った者どもが、伝統あるカラント王家をも呑み込まんとして、互いに牽制し合う状況となっていた。
「中でも、セルヴァント伯、ブローム公、ドゥリアス伯のお三方は、それはもう露骨に王妃様の座を狙っておられましてな。しかし、非常に残念なことに、どなたも到底陛下の御眼鏡に適える方ではあらせられなくて、それで、陛下は一計を案じられたのでございます」
 このままでは、そう遠くない未来に、カラントという国はバラバラになってしまう。危機感を抱いたクラウス王は、妃の座を餌に対立する家々を上手く使い、各領主が有していた交易などの権利を王家の統制下に置こうとした。より激しくしのぎを削り合う貴族達をなんとかあしらいつつ、これまで慣習と不文律が埋めていた政策の穴を、少しずつ塞いでいこうとしたのだ。
 そのような駆け引きを貴族達と行う一方で、クラウスは生涯独身を貫ぬく腹づもりでいた。自分を囮にして可能な限り貴族達の権力を削いだのちに、既に良縁を得ていたたった一人の弟に王位を譲ろうと考えていたのだという。
 王妃の座を狙う者どもは、互いに苛烈に足を引っ張り合う一方で、一致団結して自分達の縁者以外の者がクラウスに近づくことを許さなかった。妃候補がこれ以上増えることがないように、彼らはクラウスの周囲から自分達に関わりの無い女をことごとく排除しようとしたのだ。もっともも、誰とも結婚するつもりのなかったクラウスが相手では、彼らの努力は完全なる徒労であったわけだが。
 そして、今から十九年前、運命は誰もが想像していなかったほうへと転がり始めることになる。
「陛下がヴァスティ鉱山を視察なさった際も、何人もの太鼓持ちが王都から随行していたのですがね、案内役の技師が女性とは思っていなかったようで、彼らはあっさりと陛下とテア様の出会いを許してしまったのです。しかも、彼らはあろうことか肝心の鉱山の見学を、退屈だと言って欠席したため、その結果、我々は非常に有意義な時間を過ごすことができました。
 あの時、テア様は仰いました。私はこの国を愛していると。この町がこの町たりえるのも、私が私たりえるのも、カラントという国があってこそだと。不満なところが無いわけではないが、それは陛下がなんとかしてくださるのでしょう? と、そうテア様が微笑まれた時の陛下の御顔は、中々の見ものでしたぞ」
 ヘリストの頬が、ふ、と緩む。普段あまり表情をおもてに出さない彼にしては、とても珍しいことだった。
「テア様は、実に聡明な方でした。この才能が埋もれてしまうのは惜しい、と、私は強く思いました。全てを失いかねない陛下のこの恋を、止めねばならぬ立場にもかかわらず、私は酷く悩みました。テア様が陛下を補佐してくだされば、陛下のお仕事は格段に楽になるに違いない。加えて、譲位の必要もなくなれば、陛下はより長い時間を国政のためにお使いになることができるだろう。我々側近の者がそう逡巡している時に、どこから聞きつけたかセルヴァント伯が、テア様を支持する、と申し出てきたのです」
 セルヴァント伯爵とは、先ほどもヘリストの話に登場した、ブローム公爵をしのぐ力を持つ臣民爵位筆頭の家系である。
「セルヴァント家とのしがらみが増えることになるとはいえ、直接セルヴァント家と姻族になるわけではない。それよりも、テア様を王家にお迎えできる利点のほうが大きい、と、我々は考えました。そうして、陛下は、晴れてテア様にご結婚の申し込みをされたのです」
 ならば自分だって、と、即座にラグナは考えた。確かに母は博識な上に頭が良い。だが、フェリアだって捨てたものではないだろう。少なくとも、これまで王都で会った同年代の娘達の誰よりも、フェリアのほうがずっと知的で、教養豊かだった。あんな、服装と食べ物と他人の噂話にしか興味を示さない連中なんかよりも、ずっと。
 ラグナの考えなどお見通しと言わんばかりに、ヘリストがすっと目を細めた。
「平民との結婚という暴挙に出られた陛下が、今なお王の座に留まることがお出来になっているのは、セルヴァント伯の後ろ盾のおかげもありますが、何よりも、テア様の並々ならぬ才覚のおかげです。どこの馬の骨とも知れぬ町女が妃の座に相応しいわけがない、と、どんなに熾烈な無理難題が、どれほどテア様に投げかけられたか……」
 師の声は、これまで聞いたこともないほど暗かった。冷たさを増した眼差しが、ラグナの幼稚な幻想を、完膚なきまでにへし潰す。
 ラグナは、言葉も無く、ただ黙って話の続きを待ち続けた。
「テア様は気丈なお方ですが、ご懐妊なさってからは、諸々がお身体に障らないよう、しばらくの間ご公務をお休みいただくことになりました。このルウケの館が建てられたのは、その時です。故郷の近くに、息を抜ける場所を、との陛下のご配慮でした。
 そのあとのことは、ラグナ様もよくご存じでしょう」
 そしてヘリストは教師の顔に戻ると、「いいですか」と、ラグナの目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「ラグナ様がフェリア殿をお求めになるということの意味を、今一度よくお考えください。我々と同じごうを、お二人が背負う必要が、本当にあるのでしょうか」
 その瞬間ヘリストの瞳に浮かび上がったのは、紛れもない苦悩の色だった。彼が今「我々」と言ったように、彼自身もまた、国王夫妻の結婚に対して多大なる責任を感じ続けているのだろう。国のため、王家のために、本来なんの義務も負わないはずの一人の女性に、苦難を強いているということに対して。
 しかし、テアは自らの意に沿わぬことに、唯々諾々と従うような人間ではない。ならば、彼女は自分でこの道を選んだのだろう。尊敬する王と、愛する国のために、全てを覚悟して、茨の道に足を踏み入れたのだ。
 ラグナは、フェリアのことを考えた。昨夜、選鉱場で、確かにフェリアはラグナの声なき呼びかけに答えてくれた。そればかりか、ラグナのもとへ駆け寄ろうとすらしてくれた。
 子供の頃から変わらぬ短い髪をなびかせ、屈託なく笑うフェリア。彼女に理不尽な苦しみを科すようなことはしたくない。そう思う一方で、都合のいい考えもラグナの頭をよぎる。平民との結婚が王家にとって御法度だったとしても、現国王夫妻という成功例が目の前に存在している以上、諸々の風当たりは以前よりもやわらいでいるのではないだろうか、などという身勝手で楽観的な考えが。
 物思いにふけるラグナを、ヘリストの冷静な声が現実に引き戻す。
「さて、お小言はこれぐらいにして、ラグナ様、出立のご用意をなさってください。準備でき次第、王都へ帰ります。ぐずぐずしていると、ブローム公がご息女と押しかけてこられるでしょうからな」
 あまりにも急な話に、ラグナは思わずヘリストに食ってかかっていた。
「何故だ。適当な理由をつけて、またヴァスティにでも避難すればすむことだろう」
「ブローム公が足繁くラグナ様のもとにやってくる、ということ自体が問題なのです」
 溜め息一つ、ヘリストの声音が僅かに低くなった。
「先ほども申し上げたとおり、テア様の一件で、我々はセルヴァント伯に大きな借りを作りました。ですが、なんとしてもまつりごとでその借りを返すわけにはまいりません。となれば、他の部分でできる限り伯の不興を買わぬように動くしかないのです」
 その言葉の裏に潜むものに気づいて、ラグナの奥歯に力が入る。
「逆に、もしも押しかけてくるのがセルヴァント家の者だったならば……、黙って受け入れろ、と言うつもりか」
 重苦しい沈黙が、しばし辺りを支配した。
「幸い、今のところセルヴァント伯がラグナ様に縁談を持ち込んでこられる様子はありませんが……」
 一瞬、ヘリストの瞳が不安げに揺れた。だが、すぐに彼は小さく首を横に振ると、静かにきびすを返す。
「お忘れ物のないようにご注意ください。ここへは当分の間、来られませんから」
  
  
 その言葉どおり、王都に帰ったラグナがその後一度もルウケの館を訪れぬうちに、夏が終わった。
 秋が過ぎ、冬を越し、やがて春がやってくる――。