あわいを往く者

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紅玉摧かれ砂と為る 七 砂の漏刻

  
  
  
   七 砂の漏刻
  
  
  
 サヴィネが王都からの返信を携えてルウケの館に戻るや否や、事態は急速に動き始めた。
 国王夫妻は、ラグナとフェリアの婚約を、幾つかの条件を提示した上で、認める、と回答した。
 まず、フェリアは、早急に王都に上がること。そして、古くから王家に仕えるケルヴィネ男爵家に養女として入ること。
 婚約についての正式な発表は、六月末の麦秋祭で行うことにするが、それまでは極力公にはしないよう、ヴァスティ鉱山に申し入れること。
 結婚の時期は、来年のラグナの中等学校卒業以降とすること。そして、ラグナは、卒業試験で少なくとも五科目以上で主席をとること。
 他にもフェリアの両親宛てのものなど細かい項目が幾つか並んでいたが、ヘリストはそれらを元に、各方面への書状を淡々と作成した。
 封筒には、ラグナ宛ての私信も同封されていた。父からは、驚きと応援の言葉が、そして母からは、励ましの言葉とともに「お前はもう少しこらえ性というものを鍛えなさい」とのお小言が記されていた。
 そもそも今回の婚約は、所詮は王太子個人による独断専行に過ぎない。国王を始めとする王家ゆかりの人々から無効と断じられる可能性は少なからず存在したが、過去に同じ道を選んだクラウス王としては、とても反対する気にはなれなかったようだった。
 それに加えて、ヴァスティ鉱山の経営陣が既にこの婚約話を知っている、という事実も、ラグナにとっては追い風となった。なにしろヴァスティは、今や国内有数の規模を誇る鉱山なのだ。鉱山主のランゲは、身分こそ平民に違いないが、財力や経済界への影響力は下手な下級貴族よりも勝っている。王太子妃輩出に沸いているであろう彼らを失望させるのは得策ではない、というのが、王城の見解だった。
「いいですか、ラグナ様」
 明日にはルウケの館を発つという晩、書斎にラグナを呼びつけたヘリストは、周りに誰もいないのを確認してから、静かにラグナに語りかけた。
「ラグナ様の婚約に纏わる『真実』を知るのは、我々を含めて四名だけです。ラグナ様と、フェリア殿と、ウルスと、私。我々は、この秘密を、墓場まで持っていかなければなりません。たとえ相手が国王陛下やテア様であろうと、決して口外しないとお約束ください」
  
 翌日、王都への帰途につく王太子の馬車を、今までにない大人数が街道に出て見送ってくれた。
 仏頂面ではあったがエリックも、父親であるランゲ親方の隣にいた。ハルス機械工房の工房長を始めとする顔見知りの技師達も、アン叔母もヨルマ叔父も見つかったが、ウルスの姿だけはどこにもなかった。
 当然だな、と一人ごちた次の瞬間、ラグナは我が目を疑った。
 フェリアが、両親に押し出されるようにして人々の前に出てきたかと思えば、にっこりと笑みを浮かべて馬車に向かって手を振ったのだ。
 ラグナは、思わず腰を浮かせると、馬車の窓にかぶりついた。ガラスに額を押しつけ、後方へ流れていくフェリアの笑顔を見つめた。
 やがて木立に隠れて見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも、見つめ続けた……。
  
  
  
 王都へ戻ったラグナは、目が回るほどに忙しい日々を送ることになった。
 もともとラグナの成績は、ほとんどの教科において常に学年の上位ではあった。おのれを支持してくれる者の期待に応えるため、そして、それ以外の者に対して隙を作らぬため、日々真面目に学業に取り組んできたからだ。
 だが、そんなラグナにとっても、「五教科以上で主席をとれ」という条件は、決して簡単なものではなかった。友であり好敵手でもある者達の顔を思い浮かべながら、ラグナは腹を括った。彼らに確実に勝とうとするならば、今から少しずつ知識を積み上げていかねばなるまい、と。
 それに加えてラグナは、この春、学生を取りまとめる代表委員会の委員長に選出されたばかりだった。弁論大会や舞踏会といった硬軟入り混じった沢山の行事の準備に追われつつも、ラグナは、学校への行き帰りの馬車の中など、ちょっとした時間を見つけては、こつこつと勉強に励むのだった。
  
 フェリアは、ラグナに遅れること僅か二日で、王都に入ったとのことだった。
「これからは、人前では彼女のことを『ケルヴィネ嬢』とお呼びくださいますよう」
 と、ヘリストが、フェリアの養子縁組が問題無くなされたことをラグナに報告した。
 壮年を過ぎたケルヴィネ男爵夫妻には子供がなく、また、彼らの人柄もあって、フェリアの輿入れによって国内の貴族達の勢力図が変わることはないだろう、と、ヘリストは語った。
「面倒臭いな」
「面倒臭いんです」
 大きく肩で溜め息をついて、ヘリストは眉間に皺を寄せた。「面倒臭くされたのはラグナ様なんですから、お諦めください」
 返す言葉も無く、ラグナは「解った」と頷く。それから、「それで」と言葉を続けた。
「私は、フェリアにはいつ会え……」
「当分はお諦めください」
 ラグナの言葉を遮って、ヘリストが言いきった。
「ケルヴィネ嬢には、麦秋祭までの二カ月の間、いわゆる貴族社会というものについて、みっちりと学んでいただかなくてはなりません。それこそ、礼儀作法から、主要な方々のお名前、家族構成まで。ラグナ様と遊ぶ時間などありません」
「私は別に、彼女の足を引っ張るつもりはないぞ。何か彼女の助けができないかと思……」
「ラグナ様」
 非難めいた眼差しで、またもヘリストがラグナの言葉を遮った。
「来月あたり、彼女が養家にいくらか慣れた頃を見計らって、両家の顔合わせを行うつもりです。それまでは大人しくなさっていてください」
 こう言われてしまうと、もはやラグナには何も言えなかった。なにしろ、全ては、他ならぬ自分に端を発しているのだから。
「それと、先ほど陛下から例の紅玉の代金を賜りましたので、明朝にでも鉱山へ届けさせようと思います。つきましては、紅玉のお受け取りはどうなさいますか?」
 盗難騒ぎを引き起こした反省も込めて、きちんと筋を通すために、代金を支払うまでは紅玉は鉱山で預かってもらうことになっていた。
 胸の奥からせり上がってきた重苦しい塊を、ラグナは今一度、深呼吸ののちに呑みくだした。それから、なんでもないような態度で、口を開いた。
「既に婚約は為された上に、像は未完成なのだろう? 約束通り金を払った上で、紅玉は鉱山の好きに任せよう。迷惑をかけた詫び事代わりに」
「……よろしいのですか?」
 ヘリストが、そっと眉をひそめる。
 ラグナはおざなりに首を縦に振った。
  
「ラグナ」
 課外授業が終わり、ヘリストの部屋から自室へ戻る途中、西日差す廊下の片隅で、ラグナは父王クラウスに呼び止められた。
「丁度私も、用があって部屋に戻るところでね」
 ラグナに歩調を合わせながら、クラウスはにっこりとラグナに微笑みかけた。
「このところ、なかなか二人で話す機会がなかったからね」
 屈託のない表情のせいだろうか、クラウスは、同年代のヘリストよりも十は若く見える。身分の差ばかりか十六もの歳の差を乗り越えてクラウスがテアと結ばれることができたのは、彼の人となりの他に、この見目もものを言ったのではないだろうか、と、ラグナはつい下世話なことを考えた。
「しかし、驚いたなあ、いきなり婚約だなんて」
「……申し訳ありません」
「ああ、いや、もう既に我々も心を決めたことだからね。お前を責めるつもりはないよ」
 石造りの壁や天井に、二人の靴音がばらばらと反響する。
「素敵な娘さんなのだそうだね。思慮深くて、芯が強くて、お前ととてもお似合いだとテアに聞いたよ」
「母上が」
 こらえ性を鍛えなさい、と、何よりもまずラグナに釘を刺したテアが、そんなふうに二人のことを肯定的に語っていたと知って、ラグナは思わず驚きの声を漏らした。
「彼女はお世辞なんて言わない人だからね。だから、皆、お前が良い相手と巡り合えたんだな、と、心から喜んでいるよ。ハスロの叔父貴なんて、テアの時にはあんなに反対したくせに、『テアさんがそう言うのなら、良い娘さんなんだろうな』なんて言うんだから、どうしてくれようかと思ったよ」
 そう満面の笑みを浮かべ、それからクラウスはそっと視線を伏せた。
「まさかこの私が、子の親になれたばかりか、子の結婚相手を迎えることができるとはなあ」
 ありがたいことだ、と呟いたクラウスの声は、本当に嬉しそうだった。
 ラグナが無言で見つめる中、クラウスは再びラグナのほうを向くと、照れを隠すように、口角を引き上げる。
「お前達のためにも、まだまだ頑張らないといけないな」
 ラグナは、八カ月前にヘリストに聞いた、両親の馴れ初めの話を思い返していた。王家のために生涯独身を貫くつもりだった父が、あの鉱山で母と出会ったのは、まさに僥倖だったのだろう。しかし、と、胸の奥で続けると同時に、ラグナは「父上」とクラウスに呼びかけていた。
「なんだい?」
「父上は……、その……、どうして母上と結婚しようと思ったのですか」
 目の前に実父という前例が存在するラグナと違い、クラウスの場合は、最初の一歩目からして、先を見通せない漆黒の闇に足を踏み入れるようなものだったはずだ。そこに不安や躊躇いは無かったのか。ラグナの問いかけに、クラウスはそっと目を細めた。
「私はね、お飾りや政治の具が欲しかったわけじゃないんだ。生涯をともに語り合い、ともに歩むことのできる連れ合いが欲しかっただけなんだ」
 例えばヘリストのように、と付け加えてから、クラウスは少し芝居がかった調子で周囲を窺った。「おお、いけない。これを言ってしまうとテアに怒られるんだった」と朗らかに笑う。
「『どうしてそこで先生のお名前が出てくるんですか。私の恋敵ですか。全く勝てる気がしないんですが』だってさ。テアが誰かに負けるはずなんてないのに」
 息をするようにするりと吐き出された惚気に、ラグナは内心で溜め息をついた。いつぞや聞いた『いつまでも仲良くていいわよねえ』というアン叔母の台詞が、まざまざと脳裏に甦る。
 そんな息子の心情に全く気づいた様子もなく、クラウスは柔らかい笑みとともに、ラグナの顔を覗き込んできた。
「そうだ、ラグナ。ヘリストには、お前も大いに感謝しなければならないよ」
「どうしてですか」
 一体何の話だろう、とラグナが首をかしげれば、クラウスは悪戯っぽく片目をつむってみせた。
「紅玉の像での結婚の申し込みはね、元々ヘリストの考えた案だったんだよ。『それぐらいの予算は分捕りますから、さっさとそれ持って心置きなく思いの丈をぶつけてきてください』ってね」
 クラウスの話を聞きながら、ラグナは、ウルスが罪を告白した時のことを思い出していた。ウルスが何を目的に紅玉を盗んだのか知ったヘリストが、憔悴しきった顔で床にくずおれたことを、思い出した。
 俺はどこまで他人を傷つければ気がすむのだろうか。機嫌よく話し続ける父親の横で、ラグナは密かにこぶしを握りしめた。
  
  
  
 楽隊の奏でる円舞曲が、軽やかに風に乗って、広い庭園を囲む木々の葉までをも踊らせる。どこまでも澄み渡った青空の下、煌びやかに着飾った人々が、笑いさざめきステップを踏む。見事なダンスが披露されるたびに、飲み物を手にした見物から惜しみない拍手が湧き起こった。
 今日は、小麦の収穫が無事終わったことを祝う麦秋祭だ。王都の広場という広場に楽器を持った人々が集まり、天からの恵みに感謝を捧げて歌い踊る。それは王城でも例外ではなく、聖堂脇の庭園では、国内の主だった有力者を招待しての舞踏会が行われていた。
 六月は、カラントが一番輝く季節だ。刈り取りを待つ小麦の海と、その背後にそびえる緑なす山々。滄湖に写り込む風景は、まるで巨匠が腕を振るった一枚の絵画のよう。やがて刈り入れを迎えて、一度は枯れ草色と化した小麦畑が、次第に若草色に塗り替えられていくさまにも、胸躍らされる。
 そうして迎えた祭の日、浮かれ騒ぐ人々を更に浮かれ立たせたのは、ラグナ王太子ご婚約の知らせだった。もっともも、大多数の市井の人々にとってケルヴィネ男爵の名は、北のほうにそういう名前の町があったような、という程度の認識でしかなく、皆は「あのお小さかった王太子殿下が」と、ラグナの成長を喜ぶばかりだった。
 しかし、詳しい話が事情通などから広まってゆくにつれ、人々の噂話は、当初とは少し趣を変えて盛り上がってゆくことになる。
  
 男爵のご令嬢って、もともとはアタシらと同じ平民なんだって。
 命がけで火事から子供を助けた姿に、男爵夫妻がいたく感動して、是非我が娘に、と引き取ったらしいよ。
 王妃様もだけど、王家に嫁ごうって人は、やっぱり普通の人とは違うんだねえ。
 結局のところ、元平民っていっても、今は男爵様とやらのお嬢様なわけだし。
 でも、少なくとも、そこらのお貴族様よりかはずっと、わしらのことを見てくださるんじゃないか?
 王妃様のように。
 そうだな。王妃様のように……。
  
  
 養父母とともに王城庭園に姿を現したフェリアは、もう、どこから見ても押しも押されもせぬ良家の娘だった。銀糸をあしらった翠玉のドレスに、大きく開いた胸元を飾る金剛石のネックレス。胡桃色の髪は、襟足を逆立たせた上で耳の脇からぐるりを生花で飾り、短さを目立たなくさせている。そして、それら華やかな装いにも負けぬ、強い輝きを放つ琥珀の瞳。
 物見高さからフェリアに向けられた、幾つもの不躾な眼差しが、漏れなく感嘆の色を浮かべるさまを目の当たりにして、ラグナは密かに胸を撫で下ろしていた。危惧していた短い髪も、化粧けわい師の見事な仕事ぶりに加えて、ヘリストが事前にそれとなく流した「火事から子供を救い出した勲章である」という逸話が功を奏したか、居並ぶ一同に嘲るような気配は感じられない。
 ケルヴィネ男爵一家は、真っ直ぐに国王夫妻とラグナの前に進み出ると、深く最敬礼をした。重ねて招待状へのお礼を述べたのちは、王の前から下がり、王族公爵から順に、挨拶を交わしていく。
 神妙な顔で養父母に付き従っているフェリアを、ラグナははらはらと見守り続けたが、次なる招待客が自分達のほうへやってくるのを見て、仕方なく意識を目の前に戻した。
  
 お客様は全員おいでになりました、と家令がクラウス王に告げるや否や、ラグナはフェリアを探しに庭園の奥へと向かった。
 先ずは、ダンスに興じる人々の中にフェリアがいないことを確認し、そっと安堵の溜め息を吐く。そうしてあらためて周囲を見回して、一番外れにあるテーブルの傍に、背筋を伸ばして佇む、愛しい娘の姿を見つけた。
 ラグナは、他の客に失礼のないよう気を配りつつも、出来得る限りの早さでフェリアのもとへと向かった。
「ケルヴィネ嬢」
 心持ち上がった息を整えながら、ラグナはフェリアに声をかけた。
 フェリアは、優雅な仕草で軽く膝を折り、返事の代わりとする。
 カラント家とケルヴィネ家、両家の顔合わせ以来、実に一か月ぶりの再会だ。次に会えたら、と楽しみにしていたことが、ラグナには山ほどあったはずだったが、胸の奥から溢れ出す熱にのぼせてしまったか、一向に思考がまとまらない。言うべきことを見失ったラグナは、とにかく右手をフェリアに差し出した。
「一曲、踊っていただけないか」
 絹の手袋に包まれた華奢な指が、そっとラグナの手に乗せられる。
 フェリアの所作に、すっかり見惚れてしまっていたラグナだったが、握りしめた彼女の手が微かに震えていることに気がついて、彼は小さく息を呑んだ。
 深呼吸一つ、頭にかかる靄を振り払う。それからラグナは、父親仕込みの見事なステップで、フェリアを優しくリードした。
 風とたわむる軽やかな調べが、二人を世界から切り離す。
 フェリアの動きにはまだ少しばかり堅さが残ってはいたが、その足運びは完璧だった。一体どれぐらい練習したのだろう、と感嘆する一方で、誰と練習したのだろう、との悋気もラグナの中で首をもたげる。
 本当に俺はどうしようもないな、と、ラグナは内心で苦笑を浮かべた。大きく息をつき雑念を追い出し、フェリアを見つめる。
 フェリアは、真剣な表情で、進行方向を見据えていた。
 そのひたむきな眼差しを眺めるほどに、胸の奥を締めつけられるような感覚に襲われ、ラグナは奥歯を噛み締めた。
「苦労をかけてすまない」
「いいえ」
 あまりにも早い返答が、余計にラグナの心を切りさいなむ。
 痛みに耐えて、ラグナは胸一杯に息を吸い込んだ。
「お前は、絶対に、俺が幸せにする」
 それが、フェリアへの償いだ。そして、ウルスやヘリストへの贖罪でもある。そうラグナが胸の内で呟いたその時、フェリアが僅かに顔をラグナに向けた。
「存じ上げております」
 取りすました口調を裏切る、柔らかい眼差し、悪戯っぽい笑み。
 ラグナは、自分の頬が一気に熱くなるのが分かった。
 フェリアが再び視線を前へ戻す。
 ラグナは自動人形のごとく淡々とステップを踏みながら、ひたすらフェリアの横顔を見つめ続けた。
  
 無事一曲を踊り終え、最初のテーブルへと戻ってきたラグナ達のところへ、一人の恰幅の良い紳士が近づいてきた。派手やかな宝飾品を幾つも身につけ、波打つ緋色の髪をだらりと両胸に垂らしたその男こそ、臣民爵位筆頭の力を持つ、セルヴァント伯爵に他ならない。
 伯爵は、わざとらしいほど愛想の良い笑顔で、ラグナに向かって両手を大きく振り開いた。
「ラグナ殿下、そのお嬢さんを紹介していただけませんかな」
 ラグナは、フェリアに小さく頷いてから、セルヴァント伯に向き直った。
「彼女は、フェリア・ケルヴィネ嬢です。ケルヴィネ嬢、こちらが、マルクス・セルヴァント伯爵」
 フェリアの披露した丁寧な挨拶に、セルヴァント伯は至極満足げな笑みを浮かべた。
「いやはや、お噂に違わぬ美しい方ですな。流石、殿下のお心を射止めただけのことはある」
 フェリアをねめまわすセルヴァント伯の目つきが、次第に粘り気を増していく。
 込み上げてきた不快感を、ラグナは無理矢理呑みくだした。
「今しがたのダンスもお見事でしたな。お二方とも、息もぴったり合っておられて、ほれ、会場のあちこちから、恋破れた者どもの嘆きが聞こえるようではありませんか」
 そう言って伯は、大きな動作で庭園をぐるりと見まわす。
「私めの孫がもう少し大きければ、私もあれらの仲間入りをするところだったんでしょうがね。良かった、と申しましょうか、残念、と申しましょうか……」
 芝居がかった調子で胸に手をあて、セルヴァント伯は深々とお辞儀をした。
「心から祝福いたしますぞ、殿下」
「ありがとうございます」
  
 機会がありましたら是非我が城にもおいでください、と去ってゆくセルヴァント伯と入れ替わるようにして、ヘリストがラグナ達の傍にやってきた。
 ヘリストは、飲み物を乗せた銀の盆を、ねぎらいの言葉とともに、ラグナよりも先にフェリアに差し出した。殿下のあとで、と何度も遠慮するフェリアだったが、とうとうヘリストに押し切られて、恐縮しつつも錫の酒杯に手を伸ばす。
 紅を差した唇が器の縁にそっと口づけるさまを横目で見ながら、ラグナはヘリストに語りかけた。
「先生」
「なんでしょう」
「セルヴァント伯のご令孫は、確か十三歳になられたと記憶しているが」
 一瞬、ヘリストの気配が大きく乱れたのがラグナには分かった。
 だが、流石はヘリスト、ほとんど間を置くことなく、彼は平静を取り戻す。
「左様でございます」
「伯は、父上の時にご息女を妃にと仰っていたとのことだが、その時、伯のご息女はお幾つだったのだ?」
 ヘリストは、しばしの無言を経て、絞り出すように声を発した。
「……十二歳であらせられました」
「ということは、伯は」
「お待ちください、ラグナ様」
 ラグナの言葉を遮って、ヘリストは静かに話し始めた。
「伯が父君として振るうことのできたお力と、現在、祖父君として振るうことができるお力とを、同列に語ることはできません。ましてや、伯のご子息――くだんのご令孫の父君であるミュリス男爵は、かつて従者として陛下にお仕えしておられた少年のみぎりから、忠臣の誉れ高いお方です。さしもの伯も、ミュリス様のご意向を無視して、ラグナ様にご令孫を差し出すことはできなかったかと思われます」
 ヘリストの口調は、普段よりも若干早口に聞こえた。
「しかし」
「ラグナ様」
 有無を言わさぬヘリストの声に、ラグナは思わず口をつぐむ。
「ここから先は、我々の仕事です。ラグナ様には、ラグナ様の為すべきことがおありになるはず」
 そう囁いたのち、ヘリストは、優しい眼差しを二人に向けた。
「今は、ご学業のことと、ケルヴィネ嬢のことを第一にお考えください」