あわいを往く者

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紅玉摧かれ砂と為る 七 砂の漏刻

  
  
  
 カラントにもようやく本格的な夏がやってきた。
 積乱雲浮かぶ紺碧の空の下、みずみずしい蔬菜や果樹が、来るべき収穫の日を待ち望んで、豊満な身体を甘い風に揺らしている。木々はいよいよ青く、水はますます清く、休みの日ともなれば人々は競って近郊へ足を延ばし、短い夏を全身で謳歌するのだ。
 王城の菜園で採れたばかりの野菜のスープを、朝食にいただきながら、ラグナはふと窓の外を見やった。
 植栽の緑よりも更に深い常盤の山が、脳裏にゆらりと浮かび上がる。
「今年はヴァスティには行かないそうね」
 まるでラグナの心を読んだかのような言葉が、向かいの席から投げかけられ、彼は勢いよく視線を室内に戻した。
 ラグナの母、テア王妃が、灰緑の瞳を真っ直ぐにラグナに向けていた。
 肩口に優雅な螺旋を描く朱の髪は勿論、その顔貌も、テアは妹であるアン叔母と非常によく似ていた。ただ唯一、この眼差しだけが、彼女達姉妹を決定的にたがえさせている。真理を見通さんとばかりに対象物に打ち込まれる、容赦のないこの眼差しが。
「珍しくアンから手紙が来たわ。ラグナはいつこちらに来るのだろうか、って」
 動揺を悟られないように細心の注意を払いながら、ラグナはそっと目を伏せた。
「勉強しなければならないから、当分は無理だとお伝えください」
「勉強なら、向こうでもできるのでは? 今までは、そうしていたでしょう?」
 あまりにも無神経な問いかけに、ラグナはつい語気を荒くした。
「主席を取れと言ったのは、母上でしょう」
 と、テーブルの左辺から、わざとらしい咳払いとともに、クラウス王が苦笑を投げかけてきた。
「あー、すまないが、あの条件をつけたのは私なんだよ」
「父上が」
「まあ、なんだ。お前が、想い人が近くに来たことで浮かれてしまって、為すべきことを疎かにしてしまわないか、と心配してね。どうやら、とんでもない杞憂だったみたいだけど」
 クラウスはそこで少し息を継いで、お前は私と違って本当にしっかりしているね、と、破顔した。
「条件を少し厳しくしすぎたかな、と後悔しているんだよ。なんなら……」
「別に構いませんよ。私が暇になったところで、ケルヴィネ嬢が忙しくては、浮かれようもありませんからね」
 半ば投げやりに肩をすくめてみせれば、テアが、「フェリアも?」と眉を寄せた。
「本当に、勉強熱心な娘さんだね。麦秋祭では驚いたよ。生まれついての貴族のお嬢さんと言われても、誰も疑わないだろう。違和感なんて微塵も無かったからね」
 クラウスが上機嫌で話している間も、話し終えたあとも、テアはじっとラグナを見つめ続ける。
 やがて、テアが静かに口を開いた。
「ウルスが、工房で班長に昇格したらしいわ」
 その名を聞くなり、ラグナの目の奥を火花が走った。痛みに似たその感覚に、食事の手が一瞬止まる。
 ラグナは、気力を振り絞ると、何事もなかったかのように、パンを口に運んだ。
「それって、凄いのかい?」
 クラウスが、唐突な話題転換に頓着することなく、無邪気にテアに問いかける。
 テアは、ラグナから視線を外さぬまま、「あの若さでは普通は無理です」と答えた。
「誰よりも早く工房へ行って、誰よりも遅くまで残っている、と、アンの手紙にありました。休みもほとんどとらず、一心不乱に仕事に没頭しているそうよ。アンとヨルマが何を言っても耳を貸さず、このままでは身体を壊してしまうんじゃないか、と心配している、と。ラグナが来てくれたら、ウルスも気分転換ができるんじゃないか、と、そう記されていました」
 全力で平静を装うラグナの脳裏に、絶望に見開かれた灰色のまなこが、まざまざと浮かび上がってくる。
 ラグナは、胸の中が空になるまで息を絞り出した。未だ記憶の片隅にこびりついていた残像を、吐く息とともに、今度こそ残らず追い出さんとして。
 ほどなく、しぼみきった胸腔に、新鮮な空気が勢いよく流れ込んでくる。
「奴が好きでやっていることでしょう。私が行ったからといって、何か変わるとは思えない」
 依然としてラグナを見据えつつ、テアは静かにラグナの名を呼んだ。
 ラグナは、黙ってテアを見返した。
「仮に、もしも主席の条件が無かったとしたら、お前はヴァスティに行くのですか?」
「行きませんね。代表委員会の仕事もありますから」
 しばしの間、母子は互いに正面から睨み合った。
 クラウスが、固まった空気をほぐすように二人に話しかける。
「そりゃあそうだろう、テア。ケルヴィネ嬢も王都に居るとなれば、ここを離れがたく思うのも当然だろう。なあ、ラグナ」
「そうですね」
 おざなりに頷くと、ラグナは目の前の皿に意識を戻した。刺すようなテアの視線を全身で感じながら。
  
  
  
 テアに言ったとおり、生徒を取りまとめるべき代表委員長として、ラグナは放課後も多忙な日々を送っていた。
 ラグナの通う王立学校は、いわゆる上流階級の子弟のための学校だ。生徒達は、将来人の上に立つことが約束されている者ばかり。領地経営や事業経営に携わる人材を育てるという観点から、課外演習の一環として、多種多様な学校行事の運営を、代表委員を中心に生徒自らが行うことになっている。
 夏の休暇が終わった今は、来月に開催される馬術競技会の準備が、いよいよ大詰めを迎えようとしていた。この日の放課後も、ラグナは授業が終わると、同じ組のもう一人の代表委員とともに、校舎の北の端にある代表委員執務室へ向かった。
 執務室には、既に何人もの下級生の姿があった。対して、最上級生である六年生は、ラグナ達二人しか来ていない。どうせ政治学か歴史学あたりの授業が長引いてしまっているのだろう。もう少し人が集まるまでは自由にしてくれ、と、ラグナが一同に告げた時、派手な音をたてて扉が開かれ、五年の委員が部屋の中へと駆け込んできた。
「大変だ、競技会の日程を変更しろ、って先生が」
 何故ですか、と声を上げた下級生のほうを向いて、五年生は話を続ける。
「例の会談だよ。秋に南の帝国との平和会談がクセスタで行われる、って話だったろ。その日程が、ついさっき学校に通達されたらしいんだけど、それが、よりによって競技会当日なんだって」
 皆がざわめき始める中、先に来ていた別な五年生が、「委員長」と、ラグナに呼びかけた。
「どうしましょう? 今から調整すれば、前の週に行えるかも……」
「当初から、競技会は会談のあとに行うと決めていただろう?」
 ラグナはやんわりと指摘したつもりだったが、その五年は血相を変えて「すみません!」と頭を下げる。
 気にするな、と苦笑を投げかけてから、ラグナは一同をぐるりと見回した。
「今のカラントにとって、帝国との会談は最優先事項だからな。万全の体制で臨むべきだ。たとえ学生の行事であったとしても、少しでも余計な労力を会談前に割くわけにはいかない」
 たかが学校行事といえども、生徒達が動けば必然的にその親や縁者も動く。国の根幹を成す大勢に影響が出るのは必至だ。
「なあに、延期については、もとより想定済みだったから、問題ない」
 鷹揚に構えるラグナに、知らせを届けた五年生が、急いた調子で問いかけてくる。
「日付はどうします? クセスタまで片道二日ぐらいだから、余裕をみて、一週間後?」
「いや、二週間後にしよう」
 ラグナの言葉を聞いて、皆が意外そうな表情になった。それらを代表するようにして、六年生が口を開く。
「帝国と我が国と、互いに不可侵条約を結ぶ。それが、今度の会談の内容だろう?」
「そうだ」
「条約の内容は、既に両国の間で調整済みだと聞いているが」
「そのとおりだ」
「ブラムトゥスとの国境に行って、条約に調印して、帰ってくる。それだけのことに、二週間を? 冬が来るぞ」
 正面切って異議を唱える級友に、ラグナもまた、真摯な眼差しで応えた。
「万が一を考えたまでだ。二度の延期は、流石に難しかろう」
「……まあ、確かに、二週間もあれば、何があっても大丈夫ではあるな」
 この場にいる全員の同意を得たところで、ラグナは皆に指示を出した。
「まずは、この新しい日程の案を、早急にそれぞれの組に伝えてくれ。異論がある者は明日の放課後までに申し出るように、とも、頼む」
 まだ教室に何人か残っているかも、との誰かの声を皮切りに、ばらばらと全員が執務室をあとにする。
 最後の一人となった先刻の六年生が、ふと、戸口のところでラグナを振り返った。
「ラグナ」
「なんだ」
「万が一、ということが、あると思っているのか?」
 ラグナは、ゆっくり大きく息を吸い込むと、涼しい顔で笑ってみせた。
「まさか」
「……そうか」
 級友の背中が扉の向こうに消えるまで、ラグナがその表情を崩すことはなかった。
  
  
  
 秋の気配が日に日に色濃くなる中、親しい者を招いてのラグナ王太子十八歳の誕生祝いの会が、王城にて催された。
 大広間には長い長いテーブルが用意され、料理人達が前日から仕込んでいた豪勢な料理が、所狭しと並べられた。王族公爵の面々は言うに及ばず、ヘリストを始めとする王の側近や近侍達までもが、テーブルに席を与えられ、ともに晩餐を楽しんだ。
 勿論、その中には、ケルヴィネ男爵一家の姿もあった。
 ラグナがフェリアに会うのは、先月に余所の夜会でエスコートして以来、実に三週間ぶりのことだった。見るたびに洗練さを増す彼女の姿に、ラグナはただ見惚れるばかりで、何度も親戚の大人達のからかいを受ける羽目になった。
  
 楽しいひとときはあっという間に終わりを迎える。
 招待客が三々五々いとまを告げるごとに、吹き込む風に宴の余韻は吹き散らされ、賑やかだった大広間は、みるみるうちに物寂しくなってゆく。
「今日は身内の集まりだっただけに、皆、遠慮が無かったからな。疲れただろう」
 最後に残ったケルヴィネ男爵夫妻が、国王夫妻と話し込んでいる横で、ラグナはフェリアをそっとねぎらった。
「いいえ。皆様、親切な方ばかりで、とても楽しゅうございました」
「そうは言っても、無理は禁物ですよ」
 と、いつになく真顔で、サヴィネが横から口を出す。
 邪魔者は去れ、とのラグナの視線に一向に気づく様子もなく、サヴィネは眉間に皺を寄せたまま話し続けた。
「あまり根をお詰めにならないでくださいよ。我々が力になれることがあれば、遠慮なく仰ってください」
「ああ。そのとおりだ。何でも言ってくれ」
 言うべき台詞をサヴィネに取られてしまい、ラグナはつい声に力を込めた。
 だが、当のサヴィネは、ラグナの機嫌などお構いなしに、真剣な表情で更に言葉を重ねていく。
「例えば、ヴァスティに何か手紙など届けたいものがあれば承りますから。ね、ラグナ様」
「え、あ、ああ」
 思わぬ話が飛び出したことに、ラグナはつい声を詰まらせた。
 フェリアは、にっこりと微笑んで、うやうやしくサヴィネに頭を下げる。
「ありがとうございます。でも、特に何もありません」
「遠慮なさらなくてもよいのですよ。ルウケのお屋敷へは、定期的に人が参りますから。改まった用件ではなくても、気軽に手紙を託けてくだされば。生みのご両親やウルスさん達もお喜びになるでしょうし」
「大丈夫です。必要な時は、お父様やお母様にお願いいたしますから」
 その瞬間、微笑んだままのフェリアの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
 燭台の灯りを映して煌めく雫が、ラグナの目を焼き、脳髄をも焦がす。
 ラグナが、身動きは勿論、声を出すことすらできないでいると、フェリアが慌てて指の背で目元を拭った。
「あら、いけない」
 サヴィネが、おろおろとフェリアとラグナを交互に見やる。
 フェリアは、再び花綻ぶようにサヴィネに微笑みかけた。
「すみません。殿下ばかりか、サヴィネさんにまでこんなに親切にしていただいて、私はなんて幸せ者なんだろうと思って……」
  
  
「フェリアさん、随分お疲れのようでしたが、大丈夫でしょうか」
 ケルヴィネ家の馬車を玄関先で見送りながら、サヴィネが心配そうにラグナに語りかけてきた。
 国王夫妻やヘリスト達が、馬車が門から出てゆくのを見届けて、建物の中へと戻っていく。それを横目で見つつ、ラグナはサヴィネのほうに向き直った。
「仕方がないだろう。彼女が王都へ来て、まだ半年も経っていないんだからな。慣れない地で気も張るだろう」
「それはそのとおりなんでしょうが、でも……」
 サヴィネは、まだ門のほうを気にしている。
 ラグナはなんだか無性に腹立たしくなって、思わず声を荒らげた。
「でも、何だ。彼女が俺との結婚を嫌がっているとでも言うのか」
「どうしてそんな話になるんですか?」
 心底不思議そうなサヴィネの声音を聞き、ラグナはハッと息を呑んだ。
 狼狽える余裕すらなく顔を背けるラグナに、サヴィネの視線が突き刺さる。
「ラグナ様は、何を誤魔化しておられるのですか?」
 ラグナの脳裏に、ヘリストの声がこだました。我々はこの秘密を墓場まで持っていかなければなりません、と、何度も、何度も。
 大きく深呼吸をしてから、ラグナはサヴィネの顔を見た。
「何も誤魔化してなどいない。そもそも、俺ごときの誤魔化しが通用するお前ではあるまい」
「そういう意味ではないです」
「なら、何だというのだ」
 しばしラグナを見つめたのち、サヴィネは静かに口を開いた。
「ラグナ様は、何について、ご自分を誤魔化しておられるのですか?」
  
  
 瞼を閉じれば浮かび上がる、フェリアの笑顔。柔らかい曲線を描く白磁の頬をつたう、一筋の涙。
 あの涙が、目に焼きついて離れない。
 ラグナは、枕を思いっきり寝台に叩きつけた。
 白い羽毛が幾ひらも宙を舞う。
 彼女が俺との結婚を嫌がっているとでも言うのか。――この言葉が口をついて出た刹那、ラグナは、自分が自らの咎をいつの間にか心の奥底に塗り込めてしまっていたことに気がついた。
 そう、この婚約は、彼女の弱みにつけ込んでこぎつけたも同然のもの。それは、ラグナ自身理解していたはずだった。自分の行いが、どれほど卑怯で唾棄すべきものかということも、充分に。愚かな行為に及んだラグナの涙を拭い、抱き寄せてくれはしても、それは彼女の優しさが為せたものであり、ラグナに心を寄せてくれたわけではない、と、解っていたつもりだった。
 だが、と、ラグナはこぶしを握りしめた。だが、あの見送りの時、彼女はラグナに笑顔を向けてくれたのだ。
 それは、暗闇を彷徨うラグナに差し込んだ、一筋の光だった。フェリアの心を失い、ウルスという知己を失い、故郷をも失おうとしているラグナに残された、たった一つの希望だった。
 ラグナは、このか細い光明に、全力ですがりついた。もしかしたら、これから少しずつ二人の時間を重ねてゆけば、やがてフェリアの心をウルスから完全に引き剥がせるのではないか、と夢想した。いつかは自分達も父や母のようになれるんじゃないか、と、夢を見た。
 そして、それが現実となったかのように、フェリアはラグナに微笑みかけてくれた。両家の顔合わせの時も、麦秋祭の舞踏会でも、そして今日も――。
 ラグナの脳裏で、また、涙の雫が床に落ちる。
 次いで、無言で俯く頼りなげな人影が、ラグナの目の奥をよぎった。ルウケの館で、失意のまま去っていくウルスを見送ったあと、ヘリストに連れられて部屋を出ていったフェリアの姿が……。
 ラグナは奥歯を噛み締めた。それから、床に落ちた羽毛を蹴散らして、寝室を飛び出した。
  
 ヘリストは、図書室にいた。一番奥まったところにある机で、分厚い本を傍らに、難しい顔で何か書類を書いていた。
 ラグナは、大きく息を吸うと、腹に力を込めた。
「先生!」
 ヘリストが、顔を上げた。
「先生は、フェリアに、何を言ったんですか」
 ランプの炎とともに、壁に映ったヘリストの影も揺らぐ。
 ヘリストの眉が、怪訝そうにひそめられた。
「何の、いえ、いつの話ですか」
「ルウケの館で、ウルスと先生に、フェリアとの婚約を告げた、あの晩に」
 ラグナの言葉を聞いて、ヘリストの顔から一切の表情が消えた。
「ケルヴィネ嬢のご意思の確認はいたしましたが」
「意思の、確認」
「ええ。あなたは本当に、快く、ラグナ様の求婚を承諾なさったのですか、と」
 ラグナの喉が、ごくりと鳴った。
 ヘリストは、淡々と話し続ける。
「ケルヴィネ嬢は、『勿論です』とお答えになりました」
 風が吹き込んだか、机上の灯りが明滅する。
 ヘリストの眼差しが、深みを増した。
「ですから、一言、ご注意申し上げました。『ならば、皆にそう見えるように振る舞ってください』と」
 ラグナは、目の前が真っ暗になったような気がした。
 愕然と立ち尽くすラグナに、ヘリストが囁いた。あくまでも無表情のまま、「何か問題がありましたかな」と。