あわいを往く者

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九十九の黎明 第一章 雀の眼

 オーリが、目をしばたたかせた。
「女……の子?」
 ウネンがこれ見よがしに深い溜め息を吐き出すに至って、オーリの顔面から血の気が引いた。彼は、しばし呆然とその場に突っ立っていたが、我に返るや直立不動の姿勢をとり、正面からウネンと視線を合わせてくる。
「すまなかった」
 苦渋の声で謝罪の言葉を述べている割に、オーリの表情には先刻からと大して変化は見られない。なぜそこまでして無表情を努めるのか。少し不思議に思いながらも、ウネンはオーリの詫びを受け入れる。
「いいよ、別に。慣れてるし」
 慣れている、という単語に、またもオーリが「すまん」と反応した。
「だから、いいって」
「すま……、あ、ああ、すまん。あっ、いや、ええと……」
 冷静さを装おうというのなら、表情もだが、仕草や声の調子にも気を使うべきだろう。おたおたと動かされる両手や急いた声が、全てを台無しにしてしまっている。
 まてよ、とウネンは考え直した。もしかしたらこの男は、表情を取り繕っているわけではないのではないか、と。思いを顔に表すのが不得意な人間は、イェゼロの町にも何人かいる。オーリもそういった者の一人で、この不機嫌そうなかんばせは彼の地顔なのかもしれない、と。
 ウネンがつらつらとどうでもいいことに思いを巡らせている間に、ようやくオーリも落ち着きを取り戻したようだった。大きく息を吸って、吐いて、咳払い一つ。そうしてオーリは、最初に戻って同じ質問をウネンに投げた。
「ということは、ヘレーがこの診療所に逗留している時に、あんたは彼から測量方法を教わったということか」
 ウネンは慎重に頷いた。
「間接的には、そういうことになる、と思う」
「間接的?」
 分からない奴だな、と、シモンが横から口を挟んできた。
「大震災の直後だぞ。地図の作り方を教えるだの教わるだの、そんな暇なんてあるわけないだろう。何しろ、日毎に増える怪我人の山に、みんな総出で働きづめだったんだからな」
 そこまで語って、シモンはこぶしを握り締めた。「その間、俺はずっと寝ていただけだったがな」と唇を噛む。
 すかさずイレナが、シモンの後頭部を平手でペシッとはたいた。
 シモンはイレナに苦笑を返してから、再びオーリのほうを向く。
「大地震から三箇月が経った頃、あの人は、誰にも何も言わずに忽然と姿を消した。それから今まで、あの人の姿を見た者はいない。少なくとも、ここイェゼロの町では」
「ならば、この地図は……? 間接的、とさっき言ったのは何なんだ?」
 矢継ぎ早に質問を繰り出すオーリに向かって、シモンが嘆息した。
「ウネンの父親とうちの親父とは古い友人でな。そのよしみで、両親を地震で亡くしたウネンを、うちで引き取ったんだ」
 シモンはそこで言葉を切ると、ウネンを見た。
 ウネンはシモンに小さく頷いてみせると、ぴん、と背筋せすじを伸ばしてオーリを正面から見上げた。
「ヘレーさんがいなくなって、空いた部屋をぼくが使わせてもらうことになって、それで、しばらくして、寝台と壁の隙間に落ちている折本を見つけたんだ」
 その瞬間、オーリの瞳に火が入った。「もしや、その折本に」と、勢い込んで身を乗り出してくる。
 ウネンは、ゆっくりと頷いた。
「うん。そこに、測量の方法が書いてあった」
「その折本は、今、どこにある?」
「面倒事になる前に、って、ミロシュさんが燃やしちゃった」
 探し物かもしれない物を燃やされたと知ったオーリが、一体どういう反応を見せるのか。内心びくびくしながら答えたウネンだったが、当のオーリは、意外にも「そうか」と呟いただけだった。
「あの人がいなくなってすぐ、胡散臭い二人組がうちに押しかけてきたんだよ。『ヘレーはどこだ、隠すとためにならないぞ』だってさ。もしかしたら君の同業者かな? そんなことがあったもんだから、親父が、これ以上余計なことに巻き込まれないように、と、さっさと処分してしまったんだ」
 そこでシモンは一旦息を継いだ。そうして、一言一言、言い含めるように、オーリに語りかける。
「そんなわけで、ここに『ヘレー』なる人物はもういないし、彼に関わる物も何もない」
 この話はもう終わりだ、と言わんばかりの眼差しを、油断のない目が受け止めた。二人は、しばし微動だにせず、無言で互いを見つめ続ける。
 先に視線を逸らせたのは、オーリだった。彼は、何事も無かったかのようにウネンに顔を向け、更なる問いを発した。
「その折本には、他に何が書いてあった?」
「地図のこと以外は、何も」
「それを読んだのは、あんただけなのか?」
 そうだよ、というウネンの返答にかぶせて、シモンがいら々とした様子で口を挟む。
「もういいだろう? ヘレーさんはいなくなってしまったんだから。それともなんだ、まさか、ウネンにまで、『その知識は、本来お前が持つべきものではない』なんて言うんじゃないだろうな」
 オーリは、何も言わなかった。ただ黙って、ウネンを見つめていた。
「一体お前は何様のつもりだ」
 シモンが、憎々しげに言い放つ。
 オーリの口から、深い溜め息が漏れた。
「知識は、ちからだ。そして、不必要に大きなちからは、それだけで災厄を引き寄せる。それに……」
「アッそうだ、いいこと思いついた!」
 これまでずっと黙って聞き役に徹していたイレナが、突然オーリの語りを遮って、朗らかに両手を打った。
 唐突過ぎる発言に、話の腰を折られたオーリはもとより、ウネンやシモンも目を剥いてイレナのほうを向く。
 三人の視線を一身に集めたイレナは、少しはにかみながら、「あのさ」とオーリに向かって話しかけた。
「あんた、私と一緒にウネンの護衛しない? 三日間だけでいいから」
「どうして今、そういう話になるんだ!」
 当事者であるオーリよりも先に、シモンが苛烈に反応した。
「いや、だって、今、彼が『災厄』とか言うから……。ほら、護衛を探そう、ってことになった時、万が一の災厄に備えて、って、シモンも言ってたじゃない」
「連想遊びをしている場合じゃないんだぞ」
「遊んでなんかいないわよ。それよりも、オーリ、っていったっけ。その腰の剣、飾りじゃないんでしょ? さっき現れた時、完全に気配を殺してたもんね。この私が接近に気がつかないとか、あんた絶対にタダ者じゃないわ」
 イレナの怒濤の勢いに、オーリはひたすら面食らったさまで絶句している。驚いた顔はできるんだ、と、ウネンは胸の内で独りごちた。
 折りよく、診療所のほうから、「いつまでサボってる気だ、シモン!」とミロシュの怒鳴り声が聞こえてきた。
「ほら、シモンの貴重な時間をこんなに使わせて、このままタダで帰れると思ってんの? だいたい、彼らの協力がなかったら、あんた、何日もお尋ね者について町中聞き込まなければならなかったところなのよ。それが短時間で済んだんだから、お礼をしてもいいんじゃない?」
「待て。こんな胡散臭い奴に命を預けるのか? 俺は反対だ」
「あら、きちんと『ごめんなさい』が言えるんだから、上出来でしょ。仕事熱心なのも見てのとおりだし」
 驚きの表情から、あきれ顔を通り過ぎ、やがてオーリの眉間に皺が寄る。本人を目の前にしての、この勝手な言いざまだ。無理もない。
「それに、三日間だけだし」
「三日間も、だ! 三日間も、君はこんな男と一緒に……」
 話の方向性が変わってきたのを察知して、ウネンは密かに溜め息をついた。胸一杯に息を吸い込むと、痴話喧嘩の様相を呈し始めた二人を尻目に、オーリの前に立つ。
「もしも手が空いているのなら、お願いしてもいいかな。あまり多くは払えないけれど、ぼくはこのとおりチビで非力だし、イレナ一人に負担を背負わせるわけにはいかないから」
 それに、オーリといれば、また〈囁き〉が聞こえるかもしれない。
 初めてウネンが〈囁き〉を感じたのは、ヘレーと出会った時のことだった。以来、ヘレーとともにいる時に限って、その〈囁き〉はウネンの耳元をくすぐった。ヘレーがいなくなって、ヘレーを探しているという二人組が診療所の戸口に立った時も、微かな〈囁き〉が感じられた。
 そして、今、それから一度も耳にすることのなかった声ならぬ声が、三年の月日を経て、オーリの出現とともに甦ったのだ。
 ウネンは、祈るような心地でオーリを見つめた。現状において、彼は、ヘレーに通じる唯一の手掛かりだ。この〈囁き〉の謎が解けたら、もしかしたらヘレーの行方も分かるかもしれない、と。
 ウネンの命を助けてくれた、温かい手。隙を見つけては勉強を教えてくれた、優しい声。あんなに沢山のものを与えてもらったのに、ウネンは、彼にお礼の一つも満足に言えなかったのだ……。
「……わかった。三日間だな。護衛を引き受けよう」
 もはやじゃれ合っているようにしか見えないイレナとシモンに、冷ややかな視線を投げかけてから、オーリはウネンに向かって力強く頷いた。
「ヘレーのことで色々手間をとらせた代わりに、報酬は食費を含む必要経費だけでいい」
「ありがとう!」
 ウネンは、心からの感謝を述べた。
 ほんの少しだけ、オーリの口元が緩んだように見えた。
  
 実地測量に出発するのは明後日の早朝と決まった。それまでにめいめいで三日分の遠出の用意を済ませ、診療所に集合。そこであらためてそれぞれの荷物の量を調整することになった。
 からが小さい上に測量道具を携行せねばならないウネンは、残る二人に自分の荷物を分担してもらう必要がある。イレナはもとよりオーリも特に嫌な顔をせず、ウネンの頼みを引き受けてくれた。もっとも、彼の場合は単に表情に出ていないだけかもしれないが、ウネンはこの際、細かいことはあまり気にしないことにした。
 オーリは、酒場の近くに宿をとっているとのことだった。まさか二日も経たずに宿を引き払うことになるとは思わなかったな、との呟きを聞いて、ウネンは、イレナの「聞き込みが短時間で済んだお礼」という主張が、あながち間違っていなかったことを知った。
「ああそうだ、一つだけいいか」
 宿に帰ろうときびすを返したオーリを、シモンが呼び止めた。
「お前にヘレーさんを捜せと依頼したのは、『ノーツオルス』か?」
 それは、色んな地方の言い伝えに、しばしば登場する魔術師の名前だった。寒さに震える人々に炎を分け与えたり、大きな山を崩して深い谷を埋めたり、盗賊の町に神の雷を落としたり、嵐の到来を予言したり。可愛らしいものだと、迷子を捜し出したとか、牛の出産を手伝ったなどという逸話まである、普遍的な、昔語りの要となる人物だ。
 だが――いや、やはり、と言うべきか――、その名を聞いた瞬間、オーリが目を見開いた。愕然とした表情で、身動き一つせずにシモンを見つめ返す。
「……ヘレーが、そう言っていたのか?」
「いいや」
 シモンはそこで一旦言葉を切り、それから挑戦的な眼差しをオーリに突き刺した。
「三年前に来た二人組が言っていたんだ。『もしもヘレーが戻ってきたら、伝えておけ、ノーツオルスはお前を決して許さない、と』ってね」
 オーリの表情が、険しさを増す。
 シモンの眉が、つうとひそめられた。
「ノーツオルス。九十九の姿かたちを持ち、何百年と生きる、伝説の魔術師。お伽噺の登場人物だとばかり思っていたが、お前は彼に本当に会ったというのか?」
 たっぷり一呼吸の間ののち、オーリは静かに背を向けた。
「依頼人のことを他人に明かさぬ、というのも、依頼のうちなんでな」
 オーリの広い背中が夜の闇に溶けていくのを、ウネン達は黙って見送った。