あわいを往く者

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九十九の黎明 第一章 雀の眼

 緊迫した状況にもかかわらず、ウネンはつい心の中で溜め息をついていた。〈双頭のグリフォン〉という二人組について、大仰な二つ名をつけられてしまってさぞや困惑していることだろう、と同情していたのだが、まさか彼らが自ら進んでそう名乗りあげているとは思ってもみなかった、と。
 剣士のほうのグリフォンが、オーリの前へと進み来る。オーリは、鼻血男の手から剣をもぎ取るとウネンのほうへ放り投げ、それから男を解放してやった。
 腰が抜けてしまっているのだろう、四つん這いで仲間のところへ戻ろうとする鼻血男を、剣士グリフォンがすれ違いざまに蹴りあげた。うめき声を上げ、腹を抱えてうずくまる男に、「足を引っ張んじゃねえよ」と唾を吐き捨てる。
「……仲間じゃないのか」
 オーリの気配が、凄まじいまでに殺気立った。
「オレは雇われているだけだからな」
 さて、ろうか。剣士グリフォンは、そう言って右の口のを吊り上げた。切っ先を真上に、顔の横に剣を構える。
 オーリも同じ構えをとった。
 両者は、しばし微動だにせず、互いの隙を窺うようにして対峙した。
 風が、草の海を一斉に波打たせる。
 次の瞬間、二人が同時に剣を打ち込んだ。金属同士がぶつかる甲高い音とともに、二人の剣が膠着する。互いに互いの刃を牽制し合いつつ、引いては押し、押しては引いて、突破口を探り合う。
 先手をとったのはグリフォンのほうだった。力任せにオーリの剣を地面ぎりぎりのところまで押し下げてから、いち早く突きをくらわそうとする。しかしオーリは即座に手首をひねると、喉元に迫る切っ先を剣身で撫でるようにして受け流した。やいば同士が強くこすれる音が響き渡り、今度はオーリの一撃がグリフォンの胸を突き通す――。
 だが、それよりも一瞬早く、上背のあるグリフォンがやいばやいばを跳ね上げた。ならば、とオーリは突きから薙ぎへと切り替えるが、またもグリフォンの剣に阻まれる。
 再び膠着状態に陥った二人は、まるで力比べでもしているかのように互いの剣で剣を圧した。
 二人の靴底が大地を噛み締める音だけが、静まり返った草原を震わせる。
 グリフォンの咆哮とともに、事態は動いた。腕力にものをいわせてオーリの刃を左体側たいそくへと押しやった彼は、間髪を入れず左手を剣から離し、オーリの剣はおろかつかを握る手をも左腋に抱え込もうとする。オーリは咄嗟に左手を振り開いたものの、右手を剣とともにグリフォンにがっちりと固められてしまった。
 絶体絶命のオーリに向かって、グリフォンが、歓喜の笑みを浮かべて剣を振りあげた!
 オーリは顔色一つ変えず、右腕を引き抜こうともせず、むしろグリフォンへと更に身を寄せた。右腕をより深く相手腋へ押し込み、手首を背中側へと抜けさせる。
 慌ててグリフォンが、腋に力を込めた。オーリの手首をひねるようにして、力の限り締めあげ、剣を取り落とさせようとする。
 オーリの眉間に深い皺が寄った。歯を食いしばりながら切っ先を上に剣を起こすと、その剣身をグリフォンの肩越しに左手でむんずと掴まえた。右足を軸に転身し、胸元に迫るグリフォンの切っ先を紙一重で躱すと同時に、剣を握った左手でグリフォンの肩を思いっきり下方へ押さえつける。それを支点に、抱え込まれた右手を使って相手の肘を背中側にねじり上げた。
 グリフォンの肩口から、何か固いものが砕ける嫌な音が響く。
「ぐあぁぁぁぁ! 肩が! 肩があぁぁ!」
 薄ら笑いを浮かべて戦いを見つめていた、魔術師のほうのグリフォンの顔から笑みが消えた。激しく狼狽しながら、一歩後ずさる。
「先生、魔術でやってしまってください!」
 無頼漢の求めに、魔術師グリフォンは首を小刻みに横に振った。
「あいつが術の巻き添えになってしまう」
「そんなぁ!」
「考えてもみろ、あっちは二人、こっちは七人だ。どんな手練れだろうと、一気に全員でかかれば負けるはずがない。皆で嬲り殺しにしてやろう! 血は血であがなうのだ!」
 グリフォンが背後に居並ぶ無頼漢を振り返り、焚きつける。その拍子に彼のフードが脱げ、つややかな黒髪が現れた。
 あれ? と、ウネンは首をかしげた。魔術師というものを噂でしか知らないウネンだったが、このグリフォンの外見は、噂に聞くものとは違っているように思えたからだ。
 困惑するウネンをよそに、剣を握った男達が三人ずつに分かれてオーリとイレナに突進してきた。
 さしもの二人も、同時に三人を相手にするのは無謀というものだ。少しでも死角を減らすべく、どちらからともなく背中合わせの体勢をとる。
 睨み合う六人と二人を尻目に、魔術師グリフォンが短剣を抜いてウネンに近寄ってきた。
 ウネン、逃げて! と、イレナが悲痛な声で叫ぶ。
 オーリが舌打ちをした、まさにその時、突然巻き起こった一陣の風が、物凄い勢いで二人の周囲に渦を作った。取り囲んでいた六人が、口々に悲鳴を上げて剣を取り落とす。全員の手の甲には、まるで刃物で切られたかのような傷がぱっくりと口をあけ、そこから鮮血が滴り落ちていた。
 その刹那、ウネンは、また濃密な木々の香りを周囲に感じていた。耳を澄ますまでもなく、微かな声が鼓膜を震わせる。
 ――……を守りしもの……、……を滅ぼさんもの……
 息苦しさを感じ、ウネンは思わず身体を折り曲げた。どこからともなく怒濤のように押し寄せてくるのは、途方も無く深い後悔と、これで良かったのだという満足感。二つの相反する感情に、四肢が引きちぎられそうになる。
「遅いぞ」
 どこか楽しげなオーリの声を聞き、ウネンは顔を上げた。森の気配はいつの間にか消え、身体をさいなむ苦しみもすっかり引いてしまっている。今のは一体何だったのか、ウネンが思い悩む間もなく、今まで誰もいなかったはずの方向から、やけに得意げな声が聞こえてきた。
「主役は遅れて登場するものだと決まってるでしょ」
 ああこれは、昨夜聞いた、風の声。
 声のしたほうを振り向けば、草原の中に一人の青年が佇んでいた。高くも低くもない背の丈に、男性にしては少し華奢な体格をしたその人物は、まったき黒髪をしていた。俗に「魔術師の黒」と謂われる、一切の光を映さない漆黒の髪を。
 青年は、光沢のない影のような髪を風に巻き上げながら、手に持った木札を身体の前に突き出した。
 途端に火焔が渦を巻いて、グリフォンの片割れに襲いかかる。
 同時に、ウネンの耳の奥でまた〈囁き〉が乱舞した。声の主の性別も、年嵩も、本当に声なのかすら分からない〈囁き〉が。ただ、なにものかの存在だけを感じさせる、〈波動〉が。
「ま、まさか、お前達が、本物の〈双頭のグリフォン〉なのか!」
 偽魔術師が、身体についた炎を消そうと地面を転がって絶叫する。
「その小っ恥ずかしい二つ名、やめてもらっていいですか」
 本物の魔術師が、大きな溜め息とともに肩を落とした。
  
  
  
「僕の名は、モウル。連れのオーリがお世話になってます」
 総勢十一名の暴漢達を皆で残らず縄で縛りあげてから、魔術師があらためて名を名乗った。朗らかに笑って、ウネンやイレナと握手を交わす。
「連れと言うのなら、もっと早くやってこい」
 不機嫌さを隠そうともしないオーリに、モウルはひらひらと右手を振った。
「いいじゃん、間に合ったんだから。それよか……ああ、来た来た、そろそろだと思ってたんだ」
 右手で目陰まかげを作って、モウルが東を望む。
 つられてウネン達もそちらを向けば、遠くから数頭の馬がやってくるのが見えた。
「なんだか大変そうなことになってるのが見えたから、城のほうへ風で声を送っておいたんだよ。波風を立たせたくないって言っても、流石にこれだけの狼藉は放っておけないでしょ」
 果たして、モウルの言ったとおり、やってきたのは城仕えの者達だった。ここまでの大ごととは思っていなかったのだろう、暴漢達を乗せる馬車を呼びに、一人が慌てて城へと取って返す。
 ウネン達も、詳しい話をするために、彼らとともに領主の城へと向かうことになった。野営地に置いてきた荷物は、オーリが馬を借りて拾いに行ってくれるという。そのことを城の人間から聞いたウネンは、オーリに礼を言おうと、馬達が繋がれている大岩へと向かった。
 大岩の手前で、ふとウネンは足を止めた。初めてオーリと会った時の、あの厳しい声が聞こえてきたからだ。
「子供が一人いたらしい。震災で亡くなったそうだが」
 ヘレーさんのことだ、と、ウネンは息を呑んだ。
「奴が住んでいたという小屋の裏に、小さな墓を確認した」
「なるほど、それで、尻尾を出す羽目になったってわけね」
 モウルの声も、相変わらず飄々としているが、時折ぞっとするほど冷たい風が底のほうから染み出してくるようだ。
「ひとところで怪しげな技をふりまけば、追っ手の耳に入らないわけはない。なのに彼はギリギリまでここにとどまり続けた。彼を引き止めた何かがイェゼロの町にあったのではないか、という、君の想像は当たっていたってわけだ」
 お見事、とふざけてみせる声音を、オーリの刃物のような声が受け止める。
「最終的に、また全てを捨てて逃げてしまったわけだがな」
 一呼吸の間ののち、モウルが静かに答えた。
「でも、僕は、そうは思わないな」
 夏だと言うのに足元から冷気が這いあがってくるような気がして、ウネンはその場に立ち尽くしたまま、ぞくりと背筋せすじを震わせた。