あわいを往く者

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九十九の黎明 第三章 逃げる者、追う者

  
  
  
 めでたく、王の補佐官ハラバルの助手として王城に住み込むことが決まったウネンは、ミロシュ達に報告するために、一度イェゼロの町へ戻ることになった。ウネンの出仕を我がことのように喜ぶイレナとともに、徒歩で五日の帰途につく。
 そして、街道をゆく二人の傍らには、護衛としてオーリとモウルの姿もあった。
  
 王都を出て三日目の夜。四人はケナという町に投宿した。
 日没前からパラパラと降り始めた雨が、今は激しい雷雨となって宿屋の屋根を叩いていた。窓にかかった鎧戸の隙間から、霧のように細かな雨のしぶきが、ひっきりなしに部屋の中へと吹き込んでくる。ひんやりとした風のおかげで、蒸し暑さをあまり感じずにいられるのが、せめてもの救いだ。
 王から路銀を賜ったこともあり、ウネン達は今晩は宿屋からランプを借りることにした。少し贅沢かなとは思ったが、狂ったように咆哮し続ける嵐の音を聞いているうちに、何か善からぬモノが周囲の闇から這い寄ってくるような気がしたからだ。
 窓際の小机に置かれたランプが、天井に何重もの光の輪をえがく。部屋は、荷物を床に置けば足の踏み場がなくなってしまうほどに狭かったが、芯を絞った頼りない光では、その隅々までは照らしきることはできない。それでも、部屋の窓を震わせる得体のしれない怪物の声を、単なる風雨の音へと引き戻すには充分だった。
 ウネンが、寝台に寝そべって風に揺らめく橙の炎をじっと見つめていると、隣の寝台に腰かけて剣の手入れをしていたイレナが、いつになく静かな口調で「あのさ」と話しかけてきた。
「あの晩、一体何があったの?」
「え? 何のこと?」
 反射的に問い返したウネンに、イレナはオーリ達の部屋がある方向を顎で示してみせた。
「王都を出発する前の晩、あの二人と何か話をしてたでしょ? 一体何を話したの? あれから皆、なんか様子がおかしくって、すっごく気になるんだけど」
 そう問いかけてくるイレナの眼差しは、とても心配そうだった。
 そう言えば、三日前のあの夜、彼らとともに櫓塔へと向かうウネンを見送る時も、イレナはこんな目をしていたな。そんなことを思い返し、ほどなくウネンは息を呑んだ。我が身のことで手いっぱいなあまり、この三日間イレナがどんな思いでいるのか、今の今までまったく気にめていなかった自分に気がついたのだ。
 櫓塔の上で交わされた会話について、ウネンがイレナに話すことができる内容はほとんど無い。だが、話の詳細を語らずとも、イレナを安心させることはいくらでもできたはずだった。ウネンは自己嫌悪を奥歯で噛み砕いてから、寝台の上にきちんと座り直した。
「心配をかけてごめん。実はあの時、彼らに、ヘレーさんのことについて、ぼくの知っていることを話してたんだ」
「そういや、モウルが王様に、ウネンの師匠がどうとか言ってたもんね」
 三日も前のモウルの台詞がするりと出てくるあたり、イレナは、本当にこの件についてずっと気にしてくれていたのだろう。申し訳なさに、ウネンがもう一度謝ろうと口を開きかけた時、イレナが眉間に皺を寄せてウネンのほうへ身を乗り出してきた。
「ね、もしかして、その時、モウルが、ウネンから情報を聞き出そうとして、しょうもないこと言って煽ってきたんじゃない?」
「あー……、うん。だいたいそんな感じ」
「で、三人揃って微妙に落ち込んでいるってことは、ウネン、派手に口喧嘩でもやらかした?」
 悪戯っぽく微笑むイレナに、ウネンはまず目を丸くして、それから、心から「恐れ入りました」と息を吐いた。
「でも、落ち込んでる、かな? それも、三人揃って?」
「そうよ。様子がおかしいな、ってずっと思ってたんだけど、今、自分で言って気がついたわ。あの二人ね、何かやらかして叱られたあとのウチの弟どもの様子と、そっくりなのよ!」
 イレナと二歳ずつ年の離れた生意気坊主二人組が、「お前が悪い」「お前のせいだ」と互いに責任を転嫁し合ってむくれているところを思い出し、思わずウネンはふき出してしまった。
 それを見たイレナが、得意げな笑みを浮かべて、片目をつむる。
「で、ウネンは、落ち込むの半分、怒ってるの半分、って感じ?」
 イレナの言うとおり、ウネンはまぎれもなく怒っていた。もっとも、怒りの対象は、ヘレーのことを人殺し呼ばわりしたオーリ達ではなく、ヘレーの弁明が望めないにもかかわらず、彼に対する糾弾を聞かなければならなくなった、この理不尽な状況に対してだったのだが。
 そして残り半分の「落ち込んでいる」についても、イレナの意見は見事に正鵠を射ていた。オーリ達と知り合ってからかれこれ半月、ウネンは彼らに何度も命を救われた。依頼人と護衛という関係にせよ、ウネンの中には、彼らに対する信頼が多少なりとも生まれてきていたのだ。なのに……。
「オーリは元々あんまし喋んないから、あまり目立った変化じゃないけど、ウネンもモウルも明らかに口数が少なかったわよ。ていうか、黙りこくってるモウルって、何か良からぬことを企んでそうで、本当にやめてほしいんだけど!」
「え、でも、さっきモウル、下で他のお客さんと楽しそうにしてなかったっけ」
 そんなに普段と違っていたかな、とウネンが首をひねれば、イレナが「違ってたわよ」と力説する。
「町に入ってからは、いつもの調子が戻ってきてるみたいだったけど、街道歩いてる時なんか、ほとんど喋ってなかったじゃない。本っ当、何か悪巧みしてるとしか思えないっていうか、実際に悪巧みしてるんだったらどうしよう」
 ぶつぶつと悪態をつくイレナに苦笑を投げかけてから、ウネンはそっと目をつむって、今日の昼間の記憶を探ってみた。
 荷物を積んだ馬の手綱を引くオーリと、馬を挟んでその右側を歩くモウル。ウネンを先導するよう前をゆく二人の後姿が、瞼の裏に甦る。
 言われてみれば、確かに、オーリもモウルもこれまでに比べて口数が減っていたような気がした。だが、ウネンの昔語りに、何か彼らを落ち込ませる要素が含まれていたとは思えない。せいぜい、チビの小娘に「お前達こそが災厄だ」と正面切って罵られたことぐらいだろう。そして、その程度のことで彼らが気落ちするとは、ウネンにはとても思えなかった。
 だいたい、彼らはウネンに対してまだまだ多くの秘密を抱えたままでいるのだ。ウネンが、過去の話を洗いざらい彼らにぶちまけたにもかかわらず。塞ぎ込みたいのはこちらのほうだ、そうウネンは胸のうちで溜め息をついた。
 満天の星の下、知識の拡散を防ぐのが目的の一つだ、と、彼らは言った。
 しかし、ウネンがヘレーから教わった知識なぞ、本当にたかが知れている。ウネンを監視する以前に、他にもっと監視すべき人がいるはずだ。……そこまで考えて、ウネンは、今度は羞恥で顔から火が出る思いに襲われた。
「どうしたの、ウネン、顔が真っ赤だけど」
 再び剣の手入れに戻ったイレナが、仕上げ拭き用のフェルト片手に、首をかしげる。
 ウネンは必死で両手を振った。
「き、気のせいだよ!」
 何度も深呼吸を繰り返すものの、思い出してしまった過去の自分の愚かしさが、ちくちくとウネンの胸をさいなみ続ける。
 そう、ウネンは今まで、おのれがなかなかの知恵者である、と、うぬぼれていたのだ。なにしろ、イェゼロの町には読み書きのできる者はほんの一握りしかいなかったし、こと算術に限って言えば、ウネンと同等の知識を持つ者は、皆無といってもよいほどだったからだ。
 勿論、医者や鍛冶屋をはじめとする町の大人達は、ウネンには到底太刀打ちできないような多くの知識を有している。しかし、ウネンは日常的にそれらの恩恵に浴していながら、そういった生活に根差した知識を、「在って当然のもの」とばかりに意識していなかった。そうして、文字や数字を扱えるというだけで、自分は特別な人間なのだと、心のどこかで思い上がってしまっていたのだ。
 だが、それは間違いだった。それに、仮に「文字や数字」に限ったとしても、世の中にはウネンなんかよりもずっと知識の深い人間があちこちに存在する。クージェの城での晩餐会にて、あらためてハラバルと話をして、ウネンはそのことを思い知らされた。と、同時に、それまでのおのれの幼稚なうぬぼれを自覚させられ、その場に穴を掘って頭まで埋まりたくなったのだった。
 流石は数学者というだけあって、ハラバルは、ウネンの知らないことを山ほど知っていた。例えば、謁見の際にちらりと言及された三角法もそのうちの一つである。かつてヘレーは、ウネンに、そういう概念があるということは教えてくれていたが、それ以上については、「詳しい数表が手元にないから」と、残念そうに首を横に振るだけだった。
 そのことを聞くなり、ハラバルは晩餐会を中座し、ほどなく一冊の本を手にして戻ってきた。「これは、南のカォメニ王国の数学者が作った数表です」と、嬉しそうに本をウネンに差し出し、それから誇らしげに胸を張った。「今、わたくしは、これよりも更に大きな桁の表を作成している最中なのです」と。
 その時の会話を、すぐ横に座っていたモウルが耳にしなかったはずがない。にもかかわらず、それ以後もモウル達がハラバルに注意を向けている様子はなかった。つまり、彼らの監視対象は、単純に知識の量や深さで決まるものではない、ということだ。
 ヘレーが、里とやらから持ち出した知識。それが、ハラバルには無くてウネンには在る要素だ。具体的にどのような知識のことを指しているのかウネン自身にもさっぱり分からないが、そんな門外不出の謎の知識が、ウネンから他へと広まることを、彼らは問題視しているのだろう。
 その懸念を解決するための一番簡単な方法は、ウネンを殺してしまうことだ。死人に口なし、晴れて秘密は墓穴の中へ。しかし、今まで何度もその機会があったにもかかわらず、彼らは今のところそれを実行しようとはしていない。
 ということは……、彼らがウネンを気にしている理由は、他にもあるのだ。先ず思いつくのは、ヘレーをおびき出す餌にする、ということだろうか。だが、どこにいるのか分からない人間を相手に、餌も何もないのでは……。
「ウネンってば、大丈夫?」
 いつの間にか思索に没頭してしまっていたウネンを、気遣わしげなイレナの声が現実に引き戻した。
「あ、ああ、うん、ごめん、イレナ。ちょっとぼうっとしてた」
「随分疲れているみたいだし、もう寝ようか」
 そう言って、イレナが鞘に仕舞った剣を鞄の上にそっと下ろす。
 おやすみの挨拶を交わして、二人はそれぞれの寝台にごろりと横になった。
 ランプを消せば、暗闇の中に再び幻獣の咆哮が甦る。明日の朝になってもこの天気が続くようだったらば、しばらくこの町で足止めを喰らってしまうことになるだろう。
「ねえ、ウネン」
 雨の音に消え入りそうな声で、イレナが囁いた。
「なに?」
「何か私に手伝えることがあったら、遠慮なく言ってよね」
 イレナの声が、ウネンの胸にほんのりと明かりを灯す。
 ウネンは心からの思いを込めて、「ありがとう」と言葉を返した。
  
  
 激しい嵐も夜半過ぎには勢いを失い、夜が明ける頃には、軽やかな小鳥のさえずりが鎧戸の隙間から聞こえてくるようになった。
 ウネン達は予定どおり朝食後に宿を引き払うと、雨上がりの街道をイェゼロ目指して一路進み始めた。
 道の左右に広がる野原の上には、目が痛いほどに澄み渡った青空が広がっていた。見渡す限り雲は一つも見当たらず、草の葉を飾る無数の雫や水たまりが、陽光を宿して眩く輝いている。今日も暑くなりそうだな、と、ウネンはげんなりと息を吐き出した。
 今回のイェゼロ行きに際して、王はウネン達に一頭の馬を貸し出してくれた。つややかな鹿毛のこの馬が、こうして荷物を引き受けてくれなければ、道行きはもっと過酷なものになったに違いない。オーリに引き手を引かれ機嫌よく歩く馬の尻尾を見つめながら、ウネンは、胸の奥で何度も感謝の言葉を呟いた。
  
  
 太陽が頭の真上にさしかかるのを待って、一行は街道脇の木陰で休憩をとった。木の切り株や大きな石など思い思いの場所に腰を下ろし、王都で買い込んだ塩漬け鰯と、ケナの町で調達した堅焼きパンを昼食にいただく。
 イレナが言ったように、モウルは確かにこれまでよりも明らかに口数が減っていた。無駄口を叩くこともほとんど無く、この先の道や町についてオーリと意見を二、三、交換したほかは、黙々とパンを口に運んでいる。
 対してオーリは、口数についてはあまり変わりはなかった。敢えて違う点を挙げるとすれば、……以前よりもウネンを見ていることが多い……ような気がする……ことだろうか……。
 きっと気のせいだ、と、ウネンは自分に言い聞かせた。だが、視界の端に引っかかるオーリの顔は、どうにもウネンのほうを向いているように感じられる。これまでの道中を思い返しても、オーリと目が合う回数が前より増えていたのは間違いない。
 思い切って、ウネンはオーリに顔を向けた。
 真正面から、オーリと視線がぶつかった。
 仏頂面は相変わらず。しかし、ウネンを睨みつけているわけではないようだった。どちらかというと、観察している、といった雰囲気が近いかもしれない。
 そんなふうに、ウネンが負けじとオーリを観察し返している間も、彼はまったく怯むことなくウネンを見つめ続けていた。もしかしたら、猫の喧嘩のように、視線を先に外したほうが負けだと思っているのだろうか。ウネンも意地になってオーリを見つめ返していたら、とうとうオーリが重い口を開いた。
「どうした」
 どうしたと聞きたいのはこっちのほうだ、と思いつつ、ウネンは「いや、別に」と首を横に振った。
 オーリは、しばし自分の手元に視線を落として、何か考え込んでいるようだったが、やがて再びウネンと視線を合わせ、静かに問いかけてきた。
「馬に乗りたいのか?」
「えっ、なんで馬?」
 思ったままの素っ頓狂な声が、ウネンの口から飛び出した。
 違うのか? と言わんばかりに、オーリが怪訝そうな表情を浮かべる。
「歩いている最中、ずっと馬を見ていただろう?」
「いや、別に乗りたかったわけじゃ……、ていうか、そもそも乗れないし」
「乗り方を教えてやろうか」
 予想もしていなかったオーリの言葉に、ウネンは思わずまじまじと彼の顔を見つめた。
 オーリは、どこまでも真顔だった。
 一体、彼はどういうつもりで、ウネンに馬の話を振ってきたのだろうか。皆目見当がつかないままに、ウネンはとりあえず首を小刻みに縦に振る。
「あ、うん、ありがとう。また、そのうちに……」
 オーリはまだ何か言いたそうにウネンを見つめていたが、やがて深く息を吐いて、食事の続きに戻った。
 ウネンもまた、心の中で首をかしげてから、そっと静かに息をついた。
  
  
 昼食を終え、再び街道をゆくウネン達一行は、チェルナ川の支流に出た。
 ウネンやイレナ、スィセルでさえも名前を知らなかった、川幅十メートルほどの小さな川。だが、昨夜の雨の影響で、往路の時とは比べものにならないほど水嵩は増え、白茶色の濁流が、橋の下すれすれを渦を巻いて流れていた。
 何本もの丸太を組み上げて作られた橋桁は、両端をしっかりと岸に固定されているおかげで、暴れる水流にもびくともしていない。王都へ向かう時は、川の規模に対して少々頑丈過ぎるように感じられた橋だったが、然るべき理由があったのだな、と、一同は深く頷いた。
 しかし、橋を作った者の気概は非常に素晴らしいものであったが、それを維持するための情熱には、少しばかり欠けが見られるようだった。丸太の桁を覆う橋板には、既に幾筋もの轍が刻まれ、人や馬の足元を悩ませていたし、何より欄干が酷く痛んでいるのだ。
 深さが大人の腰ほどもない澄みきった水の流れを、遥か橋の上から見下ろして進む限りは、橋板や欄干の状態など何ら気になるものではなかった。だが今は、白く濁った水面が、橋桁に迫る勢いだ。
「ウネン、もう少し橋の真ん中に寄ったほうがいいわよ」
「あ、うん」
 馬の左斜め後ろを歩いていたウネンは、イレナのほうへと寄ろうとした。
「苔は踏むな。滑るぞ」
 ちらりと後ろを見やりながら、オーリが忠告する。まさにそれと時を同じくして、ウネンの右足が苔を踏んだ。
 それはもう見事なまでに、ウネンの靴底が苔の上を滑った。
 ぐるり、と、世界がひっくり返った。
 ウネンが転倒した音に驚いたのだろう、いななく馬を、オーリが慌ててなだめている。その向こうには、馬を警戒して距離を置くモウル。イレナが、小さな声で「大丈夫?」とウネンを気遣いながらそっと近づいてくる。
 左肩と背中を打った痛みよりも、転倒した恥ずかしさにべそをかきそうになりながら、ウネンは「大丈夫」と、傍らの欄干を支えに身を起こした。
 次の瞬間、手元の支えが崩れ落ちた。
 刹那、消え失せる重力。
 イレナの悲鳴が間延びして聞こえたかと思えば、ウネンの身体を冷たい水が包み込んだ。