あわいを往く者

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九十九の黎明 第四章 祈りの丘

  
  
  
 次の日、まだ夜も明けないうちに、ウネンはモウルの声の強襲を受けた。
「おはよう、朝だよ、さァ起きようか」
 寝ぼけまなこを擦りながら寝台の上に身を起こしたウネンは、わけが解らないままに周囲をきょろきょろと見まわした。
「さっさと外出の支度して、廊下に出てきてくれないかな。昨日の続きの聞き込みといこう」
 ようやく闇に慣れた目が、そよ風にそよぐ蚊帳を捉える。風が運んできたモウルの声は、ウネンの眠気を吹っ飛ばすほど、昨夜とは打って変わって上機嫌だった。
 大急ぎで身繕いをして、愛用の肩掛け鞄を斜めに引っかけると、ウネンは廊下に飛び出した。館内がまだ寝静まっていることに辛うじて気がつき、慌てて扉の握りを持つ手に力を入れる。細心の注意を払って音をたてないよう扉を閉め、ウネンはあらためて背後を振り返った。
 暗い廊下を淡く照らす手提げランプの灯りの中、お馴染みの顔が二つ、ウネンを見て満足そうに口角を上げた。
  
「先手必勝って言うでしょ。講談師の住み処が分かってるんだから、ぐずぐずする必要なんて無いや、って思ってね」
 東の空がようやく薄赤く光り始めた中を、底意地の悪い笑みを満面に浮かべたモウルが風を切って歩く。農作業にしろその他の仕事にしろ、そろそろ皆が起き出す時間ではあるが、食堂の給仕兼講談師はおそらくまだ布団の中に違いない。
「逃げられないように、寝込みを襲う作戦だ」
「だから、なんで君の言い方は、そう物騒なの……」
 違うのか? イヤそのとおりなんだけどさ。真顔と苦笑顔との間で始まった言い合いを遮るべく、ウネンは腹の底に力を込めた。
「あのさ、もしかしてだけど、水利の件、まだ領主様に報告していない、とか……」
「そうだ」
「そうだよー」
 オーリとモウルが、示し合わせたように声を揃えてウネンを見た。
「報告は、講談師の件が落ち着いてからにしようと思ってね。だってあの領主、今度は灌漑規定を改める手伝いをしてくれ、とかなんとか言ってきそうなんだもん。そうなってしまったら、自由に出歩けなくなってしまう」
「早く対処しなくて大丈夫かな」
「まァ、大丈夫でしょ。講談師を締め上げるのに、半日もかけるつもりはないし」
 さらりと物騒なことを口にしてから、モウルは「それに」と話を続けた。
「なんだかんだ言っても、領主の土地が広さに対して一番多く水を取っているからね。むしろ、もう一つの用水路の、下流にある土地のほうが、つらそうだったじゃない」
 モウルの言葉を聞き、ウネンはリボルのことを思い出した。僕は水が欲しい、と切々と訴えるリボルの、思い詰めたような眼差しを思い出した。
 灌漑規定とやらを改めるといっても、恐らく農地に使える水の総量は変えようがないだろう。となれば、領主が今よりも多くの水を取ることになった場合、リボルの畑は一体どうなってしまうのか……。
 胸を締めつけられる思いに、ウネンが唇を噛みしめたその時、オーリが「あ」と小さく呟きを漏らして足を止めた。
 オーリが見つめる道の先、朝靄にけぶる街角を、小柄な人影が酷く急いた様子で走ってくるのが見えた。
 目陰まかげを作って目を凝らしたモウルが、「あの少年だね」と囁く。
 それは、今まさにウネンが思いを巡らせていたリボル当人だった。手に持っているのは、空の水桶だろう。わき目もふらずに川縁かわべりに到達したリボルは、そのままの勢いで水辺へと堤を駆け下りていった。
 ただ事ならぬ雰囲気を感じ取り、ウネン達三人は川へと急いだ。
 橋の上から下を覗き込むと、桶に水を汲んだリボルが、必死の形相で堤の法面のりめんを道へと上がってくるところだった。
 オーリがいち早くリボルに駆け寄った。返事を待たずに桶をもぎ取って、「どこへ運べばいい」と問う。
 リボルは右手の甲で目元を二度三度と擦ってから、「こっち」とオーリを先導して走り出した。
 ウネンとモウルも二人のあとを追った。
 町の北門をくぐり、草原をひたすら駆け、丘を迂回し、畑に出た。
 そこで彼らを出迎えたのは、干からびた作物達だった。豆も、葉物も、辛うじてまだ緑みがかってはいるものの、カサカサに乾き、今にも風に砕かれてしまいそうだった。このまま日が昇ってしまえば、一時間も経たないうちに、ただの枯れ葉になってしまうに違いない。
 リボルが指さした場所を目がけて、オーリが桶の水を撒いた。
 水は、またたく間にひび割れた地面に吸い込まれていき……、まるで何事も無かったかのように、乾いた地表が再び風に晒された。
「灌漑規定とやらに則って、町で水を汲んでいたんだな」
 モウルがぼそりと呟いた。
 この遠い道のりを、この細腕で。ウネンは堪らずに声を張り上げた。
「ねえ! 他に水を運べるものは無い? 皆で手分けすれば……」
「だめなんだ」
 リボルが、力無く首を横に振った。「桶一つ、って決まってるから……」
 その声が終わりきらないうちに、オーリが町のほうへと駆け出していった。空になった桶を持って。
 祈るような心地でオーリの背中を見送っていたウネンは、涙声を聞いて背後を振り返った。
「いいんだ。分かってるんだ。もう、何やっても、無駄だってことは……」
 リボルが、がくりと地面にくずおれた。
「昨日までは、まだ少しだけ土も湿っていた。でも、今日は、まだ夜も明けてないのに、カラカラに乾いてて……」
 地面についた手の甲に、ぽたり、ぽたり、と雫が落ちる。俯くリボルの喉から、押し殺した嗚咽が漏れ始めた。その合間に、震える声が、もうだめだ、と繰り返す。
 水さえあれば。水がほしい。すすり泣く声はやがて慟哭に変わり、枯れかけた葉を、乾いた大地を、何もできずに立ち尽くすウネン達の胸を滅多打ちにする。
 ウネンは奥歯を噛み締めた。何か、何か自分にもできることは無いのか、必死で頭の中を探り続ける。
 ふわり、と、耳元で風が動いたような気がして、ウネンは顔を上げた。
 微かな、微かな〈囁き〉が、ウネンの鼓膜を撫でた。それはさざ波のごとくウネンの内耳をつたって、身体の隅々へと消えてゆく。
 傍らではモウルが、ああ、と溜め息を漏らしていた。ああ、そういうことだったのか、と。
 ウネンとモウルが無言で見守る中、やがて、領主の畑がある高台のほうから、少しずつ土の色が黒味を帯び始めてきた。
  
  
  
 気が遠くなるほどに深い星空の、ふちを切りとるは連山の鋸刃のこば。沈みつつある三日月の光に照らされて、山肌が墨色に浮かび上がって見える。
 大地の灰、木々の黒。単彩で塗り分けられた夜の世界に、小さく蠢く暗い影があった。
 影は、全部で三つ。それらは互いにつかず離れず、風に波打つ煤色をかき分け進んでいく。やがて平坦な灰色に到達した影達は、前方に細長く横たわる銀色の筋へと近づいていった。
 小さな水音に続けて、ぬかるみを踏む音がした。それが繰り返されるたびに、滑らかな銀色に波が立った。
「完全に止めても、まだ粘るとはな」
 みなもに落ちる黒々とした影が、いら立たしげに揺れた。
「でもよ、もう一息、って感じじゃねえか」
 二人目の声は、岸辺から。胸元に抱えていた板状のものを、残る二人に手渡している。
「ようやく、な」
「だから、半分じゃ甘い、って俺は言ってただろ。最初っから全部止めてりゃ、一箇月も無駄にすることなかったのに」
 木の板を手にした二つの影は、大きな動作で板を泥の中へ突き立てた。
「しかし、もう一箇月か……。流石に寝不足がこれだけ続けば、こたえるな……」
「女どもが、午前中だけでなく午後も頑張ってくれたらいいんだけどな」
「そこまで頼んだら流石に怪しまれるだろ。それでバレて密告でもされたらどうするんだ」
 四枚目の板によって、用水路の水はそこで完全に堰き止められた。水は、本来潤すべき下流への――リボルの畑のあるほうへの道を断たれ、その手前の畑に流れ込む。以前からリボルの家と悶着のあるペルツ家の畑へと。
「これでよし、と」
 三兄弟のうちの髭面が、得意そうに笑って両手の土をはらった。
「本当に、このまま朝まで、いや一日中、こうやっておけたらいいのになあ……」
「ああ。いつもこれだけ水があれば、何も心配することはないのにな……」
 細面と丸顔が切々たる溜め息を吐き出した、次の瞬間、彼らの足元で水面がいきなり波打ち始めた。
 いち早く異変に気づいた細面が、上ずった悲鳴を上げる。丸顔が「兄貴!」と髭面を呼ぶ。
 目を剥いて立ち尽くす三兄弟を取り囲むようにして、水の流れが輪をえがいた。それは徐々に動きを速め、やがて巨大な水蛇の姿となって、彼らの周囲をぐるぐると回る。
 腰を抜かしたか、髭面が水路に尻餅をついた。細面と丸顔が、がくがくと膝を震わせながら互いに両手を握り合う。
 ゆらりとおもむろに、水蛇が鎌首をもたげた。牛すらひと呑みにできそうな大きなあぎとを開き、ぎらりとまなこに月光を宿し、一直線に三兄弟の面前に迫る。
「う、わ、ああああああ!」
「助けてくれえええ!」
「許してくれええええ!」
 俺達が悪かった、との絶叫がほとばしると同時に、用水路の岸辺に鬼火が点った。
 否、あやかしではない。覆いを外したカンテラを手に、モウルがくらい瞳で三兄弟を見据えている。
 その隣で水使いのノルが、右手を閃かせた。
 水蛇が形を失い、無数の水滴となって、三人の愚か者の上に降り注いだ。
  
  
「連れていけ」とのエドムント領主の声が、夜陰を凛と震わせる。捕縛され、言葉もなく震えるばかりのペルツ三兄弟を、四人の騎士達が引き立てていった。彼らは町の水利組合に引き渡され、後日に領主立ち合いのもとで裁判にかけられるとのことだった。
 騎士達が三兄弟を連れて去ってしまうと、辺りは一気に静けさに包まれた。
 エドムント公の傍らでは、彼の近侍がカンテラを掲げて控えていた。近侍の反対側では、不測の事態に備えてオーリが剣のつかに手をやったまま周囲に気を配っている。
 もう一人の灯り係であるウネンは、リボルの畑の北の端に立っていた。その灯りの輪の中で、二人の魔術師が、難しい顔で足元を見つめている。
「確かに、向こうからこちらにかけて水の通り道ができている。ここまで水の流れがまとまれば、すぐに感知できるな」
 そう言ってノルが、顔をしかめて前方を仰ぎ見た。その視線の先にあるのは、領主の畑地だ。
 モウルも地面から目を上げて、辺りをゆっくりと見まわした。
「馬鹿兄弟が夜な夜な水路に細工をするようになったのは、彼らの言葉を信じるなら、先月から。晴天が続いて自分達の畑の水が心許なくなってきたのが直接の動機でしょう。もともと水不足だったところに更に水を盗まれ、あの少年の畑が全滅するのは時間の問題でした。少年は必死で神に祈ったんでしょう。『水が欲しい』と」
 モウルの言葉を聞いて、ノルが小さく「ああ」と嘆息する。
 一息とって、モウルが静かに言葉を継いだ。
「そして、ほどなく、その願いは叶えられた。恐らくは、土を司る精霊によって」
  
 今日の朝まだき、枯れかけた畑に再び水が戻ってくるのを見た時、モウルは、リボルの慟哭にヒトならぬものが応えたことを感じ取っていた。
 それは、リボルに纏わりついていた魔術の残滓と、まったく同じものだった。
 精霊使いがわざを使う時も、魔術と似たような気配を感じることがある。一箇月前の灌漑の異変も、呪符などではなく精霊のちからが働いた結果である、と確信したモウルは、ウネンとともに、今度はリボルの畑の周辺を徹底的に精査した。
「あの水使いも、僕も、考えが足りなかったんだ。あの少年が術で水を引き寄せたとしても、それはあくまでも一時しのぎにしかなりえない、ってことに気づくべきだった」
 語気も荒く、モウルは眉間に深い皺を刻んだ。
「魔術で地下水脈の流れを変えることは、そう難しいことではないだろう。だから僕達は誤解してしまったんだ。いいかい、ウネン。魔術は万能ではない。ただ神のちからを借りるだけ。何かを為すには、術師が『そうする』ことが必要だ。地下水の流れを変えたいのなら、施術者がそのための具体的な手順を考えなきゃならない。『水が欲しい』と漠然と願うだけでは無理なんだ」
「でも、一時的でも地下水が動けば、水脈も影響を受けて変わってしまったりしないかな。それか、『水が欲しい』って願いが強烈過ぎて、水脈ごと引っ張って来てしまった、とか」
 ウネンの疑問を聞き、モウルの口元に微笑が浮かんだ。
「あの少年は、特定の場所から水を取るつもりはなかった、ってことを忘れてもらっちゃ困るな。『水が欲しい』という単純な願いだけなら、選択的に領主の畑だけから水を引き寄せることはできない。ましてや水脈ごと引き寄せるなんて規模の術なら、領主の畑以外にも影響が出ないわけがない。
 なのに、他の畑では一切の異常が見られなかった上に、ちからが発動してから一箇月が経っても、領主の土地の水は減ったままだ。つまりね、動いたのは水じゃなくて、土のほうだったんだよ。水が欲しいという彼の願いを聞き、単純に、水のある高い所から彼のもとへ、通り道を作ったんだ」
 モウルはそこで一度大きく息をとってから、ゆっくりと口を開いた。
「となると、ここで新たな疑問が生じてくる」
「何故、領主の土地から水を得ているにもかかわらず、リボルの畑は水が足りないままだったのか……、ってこと?」
 ウネンの回答に、モウルは満面の笑みを浮かべて頷いた。
 水汲みから戻ってきたオーリも合流し、三人は手掛かりを求めて付近を徹底的に見てまわった。そして、とうとうくだんの三兄弟の土地に入ってすぐの用水路に、泥が不自然にならされている箇所を見つけた。そのすぐ横にひらいた、農地への水の取り入れ口の雑草の葉に、現在の水面よりも高い位置まで水に浸かっていた形跡を確認するや、三人は大急ぎで城にとって返した。領主に全てを報告し、ノルの協力を取りつけ、そうして深夜の待ち伏せと相成ったのだった。