あわいを往く者

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九十九の黎明 第五章 旅立ち

  
  
「あんな大騒ぎ、聞くなって言われても聞こえるでしょ」
 夜のしじまに、人を小馬鹿にしたようなモウルの声が吸い込まれていく。昼間は賑やかだった大通りも大半の商店が鎧戸を閉め、食堂つきの宿屋や酒場といった店だけが、ぽつりぽつりと街路に灯りを落としているのみだ。
「そんなに騒いだつもりはなかったんだけど」
「王都に来たばかりなはずの『おチビ先生』に、夜になって血相を変えた男が押しかけてくる、ってだけで、君が騒ごうが騒ぐまいが『大騒ぎ』になるんだよ」
 ああー、と溜め息をつきながら、ウネンは角を西に曲がった。カンテラが投げかける狭い視界の中に、昼間に通った職人街への路地が浮かび上がってくる。
「そんなわけでさ、このところ色々あってちょっと鬱憤が溜まってたから、丁度いい気分転換だな、って思ってね」
「気分転換」
「気分転換」
 ウネンとオーリが相次いで非難がましく復唱するのを聞いて、モウルが「ああもう」と息を吐いた。
「別に、僕はこの状況を面白がっているわけじゃないからね。行方不明の少年のことはとても痛ましく思っているし、彼を捜すのに協力は惜しまないつもりだ」
 珍しくも真顔でそう宣言してから、モウルはがくりと肩を落とした。そうして、「なんだよ、二人して僕一人仲間外れにしてさ」と、これ見よがしに嘆息した。
  
 まだ月の出ていない真っ暗な空に、幾つもの煙突を生やした屋根が黒々とそびえ立っている。くだんの集合住宅の前で、ウネンとオーリは同時に唸り声を漏らした。
「コニャがいたのは、あの一番端の煙突の上側だったんだけど」
「俺達に声をかけるためにあそこまで移動した可能性がある」
 コニャがどの部屋の仕事を受けていたのか見当すらつけられないことに、二人はあらためて気がついたのだ。
「掃除用具とかさ、そういうものが置かれていた場所とか、見てなかったわけ?」
「見える範囲には何もなかったよ」
「ってことは、棟を挟んだ屋根の向こう側の煙突だった、ってことか……」
「屋根のこちら側でも、煙突の陰にあれば見えないだろう」
「オーリ、君さ、『見えないだろう』って偉そうに言うだけじゃなくて、もう少し何か前向きな情報をだね……」
「片っ端から部屋を訪ねて訊いていけばいい」
 きっぱりと言い切ったウネンを、オーリとモウルが意外そうな表情で見やった。
「オーリやモウルがいたら、相手が必要以上に構えてしまいそうだから、二人は少し離れたところで待ってて。ぼくが訊いてまわるから」
 聞き込み先を少しでも絞り込めたら、とは思ったが、無理ならば仕方がない。ウネンは腹を括って唇を引き結んだ。持っていたカンテラをモウルに手渡し、あらためて建物を仰ぎ見る。
 この集合住宅は、背割り長屋といわれる形式のものだった。狭いながらも二つの階を有する住居が、路地に面して六軒、背中合わせに奥に六軒、互いに壁を共有するかたちで寄り集まっている。
 ウネンは大きく深呼吸をすると、一番手前の家の呼び鈴に手をかけた。
  
  
「変だ」
 集合住宅の脇、共用の洗い場の前までやってきたところで、ウネンは溜めていた言葉を吐き出した。
「ああ、変だな」
 すぐ後に続くオーリの声も、心なしかこわばっている。
 モウルが溜め息とともにカンテラの覆いを外し、三人の姿が闇の中に浮かび上がった。
「『抜け』があったんじゃないの? 留守の家は? 聞き間違いの可能性は?」
「十二軒全てに人がいたし、全員がはっきりと答えてくれたよ。『煙突掃除屋なんて頼んでいない』って」
 あらためての報告ののち、ウネンは奥歯を噛み締めた。
「その少年がここのどこかの煙突を掃除していたのは、間違いないんだよね」
 モウルの問いに、ウネンもオーリも声を揃えて、是、と答える。
「ってことは、煙突掃除屋を頼んだ人間は、その事実を隠したく思ってる、ってわけだ」
「つまり、コニャの行方が分からなくなったことに、その人が関わっているってこと?」
「何か知っている可能性は、非常に高いと思うね」
 静かな声でモウルが言い切った。その横で、オーリが盛大に舌打ちをする。
「まさか、ここで嘘をつかれるなんて思っていなかったから、相手の表情とか、そこまで注意して見てなかったよ……」
 おのれの不甲斐なさに、ウネンは唇を噛んだ。何か、何か手掛かりはないだろうか、と、必死で記憶を掘り返す。
 と、脳裏を走り抜けた一筋の閃光が、二日前のコニャの笑顔を浮かび上がらせた。
「煙突画だ」
 ウネンとオーリの口から、同時に同じ言葉が飛び出した。
「は? エントツガ?」
「あの時コニャは、後片付けをしているところだって言っていた。きっと、もう煙突画をいたあとだったんじゃないかな」
「もしもそうなら、立派な手がかりになるな」
「今朝まで雨が降っていたし、言い訳のしようがないよね」
「だから、なんなの、その煙突画って」
 不機嫌そうに眉をひそめるモウルに、ウネンは、コニャが煙突掃除のあとに煤で絵をく趣味があるということを説明した。もしもコニャが今回も煙突画を残していれば、彼が掃除した煙突を特定することができるだろう、とも。
 ひととおり話を聞き終えたモウルは、「なるほどね」と頷いた。それから、懐に手を突っ込んでごそごそと何かを探したのち、オーリの手にその小さな何かを握らせた。
「灯火の呪符だと点けたり消したりができないし、勿体無いからね」
「俺が行くのか」
「だって、僕、屋根になんてのぼれないし」
 はあ、と大きな溜め息を吐き出して、オーリが腰の長剣を剣帯ごと外した。潔く靴も脱ぎ皮足袋かわたびのみになると、腰にさげていた縄の束を手に取り、片方の先にかぎを結わえる。
 共用の洗い場や便所に面した建物の側面には、窓や扉といった開口部は一つも無かった。建物の正面や裏側と同じく、一階部分の壁はレンガを積んで造られており、二階部分は漆喰で固めた半木骨造もっこつぞうの壁となっている。
「音消しを頼む」
「了解」
 モウルがカンテラの火を消した。再び訪れた闇の中、オーリは鉤のついた縄を勢いをつけて屋根の上へと投げつけた。
 ウネンの耳が〈囁き〉を捉える。モウルが何か魔術を使ったのだ。
 一切の物音を立てることなく、縄が屋根の上に固定された。
 オーリは、指の動きを確かめるかのように両手を数度握りしめては開き、そうして屋根から垂れ下がる縄をしっかりと掴んだ。鋭く短く息を吐き出して、縄を頼りに壁面をのぼっていく。
 オーリの姿が屋根の上に消えるや、ウネンは建物の正面側へと飛び出した。
 星空を切りとる屋根の影を見上げれば、一番左側の煙突のふちが、そして煙突を覗き込むオーリの顔が、ぼんやりと淡く光っているのが見えた。
 ウネンが息を詰めて見守る中、光はほどなく消え、幽かな人影が屋根伝いに隣の煙突へと向かう。
 再び、煙突の中に光が灯った。
 暗い夜空を背景に、仄かな橙色の光が揺らぐ。この色味は、前にウネンが見た魔術の灯火とは違う。蝋燭や松明と同じ、有機物が燃焼している炎の色。
 まばたきする間すら惜しんで、ウネンは光を凝視した。
 灯りはしばらくしてまたスッと消え、三軒目の煙突でまた灯る。
 火打ち石の音が一切聞こえてこないのは、音消しの術とやらのせいかもしれなかった。だが、あんな足場が不安定な場所で、しかも一瞬の間に、オーリは何にどうやって火を起こしているというのだろうか。
 三度みたび炎が消え、影は今度は来た道を帰り始めた。
 ウネンは慌てて先刻の洗い場の前へと戻った。モウルと合流したところで、オーリが縄をつたってするすると地面におりてくる。
「表側の、三つ目の家だ。煙突の内側に、鳥の絵があった」
 淡々とした口調とは裏腹に、燃えるような瞳でオーリが剣を手に取った。
  
 回収した鉤縄と火の消えたカンテラとを洗い場の前に置いておき、三人は建物の角から、表側を窺った。
「この暑いのに、ご丁寧にも鎧戸の内側に板を貼っているみたいだね……」
 風を使おうと試みたのだろう、〈囁き〉を振り撒くとともにモウルが舌打ちをする。
「閉め切られてしまうと、色々と面倒臭いんだよなあ……」
 煙突からならいけるかな、とつぶやいたのち、モウルがそっと目を閉じた。
 いつになく躊躇いがちな〈囁き〉が、ウネンの胸を震わせた。まるで朔月の森を歩くように。身体の前に手を伸ばし、足先で地面を探りながら、慎重に、慎重に進みゆくように……。
「『お前が余計なモノを見つけるから悪いんだぜ』」
 目をつむったままのモウルの口から、彼らしからぬ台詞が飛び出した。
「二階だ。足音が二人分。いや、もう一人。……『諦めろ坊主』……『お友達も帰っちまったことだし』ああもう、うろうろ動きまわるなよ落ち着きのない。声が拾えないじゃないか」
 コニャがいたのか、彼は無事なのか。質問しようとしたウネンの肩を、オーリがそっと後ろに引いた。そうして彼は、人差し指を自分の唇に当てる。
 ウネンはすんでのところで声を呑み込んだ。
「唸り声。たぶん子供の唸り声。『これだけ元気なら、そこそこ高く売れ』あっ、こら、待て……!」
 聞くに堪えない罵倒語を小声で連発しながら、モウルが目をあけた。
 間髪を入れず、オーリが「子供は無事か」と問う。
「あいつら、『隙間風がうるさい』とか言って、暖炉か窓の隙間かを更に何かで塞ぎやがった」
「で、子供は無事なのか?」
「ああ、生きている。猿轡か何か噛まされているみたいだけど」
「行くか」
 剣のつかに手をやって、オーリが建物の表に出ようとする。
 モウルが慌ててその行く手を塞いだ。
「最後まで人の話を聞けよ。いいか、敵は三人。現状、全員が少年と同じ二階にいる。君が突撃をかける前に彼らの注意を階下に引きつけなければ、少年は今以上の危険に晒されることになる」
「お前がなんとかするんだろう?」
 この世の真理を口にするような調子で、オーリがモウルに語りかける。
 モウルはほんの一瞬目を見開いて、それから小さく肩をすくめた。
「もともとこの形式の住宅は風通しが悪いんだ。三方が壁に囲まれているからね。その貴重な開口部を閉め切られてしまうと、あんな狭い空間では僕の術は充分にちからを発揮できない。奇襲は無理だ」
「扉をあけさせればいいんだな」
 合点した、と頷くオーリを、モウルがまたも慌てて押しとどめた。
「だから最後まで聞けって。悪事を行っている真っ最中の奴が、剣を携えた体格のいい厳つい顔の男の訪問を受けたら、これ以上は無いというぐらいに警戒するに決まってるだろ」
「だが、扉はあくぞ」
「魔術は万能じゃないんだってば。少年の位置が正確に分からない状態だと、大した術は使えない」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
 オーリの眉間の皺が、一際深くなる。
 ウネンは、胸一杯に息を吸い込んだ。
「そこで、ぼくの出番なんでしょ」
 オーリが驚きの表情でウネンを振り返る。
 モウルが、満足そうに目を細めた。
  
  
 紐を引けば、呼び鈴が鳴る音が扉の向こうから幽かに聞こえてくる。
 ウネンは、耳をそばだてた。
 中の人間が玄関先へと近づいてくる気配は感じられない。
 もう一度呼び鈴を鳴らす代わりに、ウネンは扉をノックした。オーリやモウルが普通に叩くだけでは望めない、軽い音、低い位置。更に「あのー、すみませーん」と子供っぽい口調の呼び声もつけて。
 ややあって、かったるそうな重い足音が、階段を下りてくるのが聞こえてきた。
「なんだ、またお前か。煙突掃除屋なんて知らねえって言っただろ」
 扉が細くひらき、先刻の聞き込みでも応対してくれた背の低い男が燭台を手に顔を出した。
 獣脂の焼ける臭いがウネンの顔面を舐める。
 さあ、ここからが正念場だ。三人の敵のうち、可能ならば全員、少なくとも二人を一階まで引きずりおろさねばならない。ウネンは大きく息を吸い込むと、少し大げさに頬を膨らませてみせた。
「たまたまおっちゃんが知らないだけで、おっちゃんの留守中に誰か家族の人が頼んだんじゃないの? だって、雑巾が引っかかってるの、あれ、この家の煙突でしょ?」
 今にも扉を閉めようとしていた男が、覿面てきめんに動きを止めた。
「雑巾?」
「よく見たら、この家の煙突の横っちょに、雑巾が引っかかってるんだよ」
「嘘つけ」
「嘘だと思うなら見てみてよ」
 屋根の上を指差すウネンの動きにつられるようにして、男が扉の隙間から上半身を乗り出してきた。
「そんなもん、見えねえぞ」
「そこから煙突が見えるわけないじゃん。道のあっち側までいかなきゃ」
 むう、と男が唸り声を漏らした時、部屋の中、上のほうから「一体何の騒ぎだ」との声が降ってきた。
「さっきのガキが、煙突に雑巾が引っかかってるとか言うんだよ……」
「なんだって?」
 ここぞとばかりに、ウネンは声を張り上げた。奥の男にも聞こえるように。
「絶対、あれ、雑巾だってば! それもコニャが使ってたやつ! やっぱり掃除しにここに来たんだよ!」
「分かったから、静かにしやがれ。ぶっとばすぞ」
 そうウネンに凄んでみせて、それから男は少しだけ遠慮がちに奥に向かって声をかけた。
「なあ兄貴、ちょっと俺、見てくるわ」
「仕方ねえな」
 重い足音が階段を下りてくる。ほどなく、忌々しそうに口元を歪めた顎髭の男が、蝋燭の灯りの中に姿を現した。
 ウネンの応対をしていた男が、髭の男に燭台を手渡した。髭の男は手渡された灯りを少し後ろの棚の上に置くと、最初の男を押し出すようにして戸口に立つ。ようやく外へ出てきた男は、面倒臭ぇと悪態をつきながら、そのまま小走りで路地の向かい側へ向かった。
 ウネンは、視線を家のほうへと戻した。
 髭の男が、扉の隙間を塞ぐようにして立っていた。油断のならない目つきで、ウネンを、そして家の周囲を、くまなく警戒している。
 ウネンは奥歯を噛み締めた。まだだ、まだもう一押し必要だ、と。
「何も見えねえぞ。気のせいだ、気のせい」
 道を渡った男が、肩をすくめながら戻ってきた。
「嘘だぁ! おっちゃん、目ぇ悪いんじゃないの? 絶対にあるってば!」
「勝手に言っとけ。さあ、帰った帰った」
 家の中へ入ろうとする男の前に、ウネンは「それならさ」と立ち塞がった。
「今から兄ちゃんを呼んでくるから、屋根にのぼらせてもらってもいい? 雑巾があるのか無いのか、ちょろっと確かめてもらうことにするよ」
「兄ちゃん?」
「うん。ぼくんちの隣に住んでる、自警団の……」
 自警団、という言葉を聞くなり、髭の男がウネンの腕を掴んだ。そのまま物凄い力で、ウネンを家の中へと引っ張り込む。
「仕方ねえ。ガキ一匹、追加だ!」
 おうよ、と、もう一人が、見事な連携で玄関の扉を閉めた。
 だが、ウネンが密かに石を噛ませた扉は、きっちりと閉まりきることができずに、与えられた力を弾き返す。
 次の瞬間、塊となって吹き込んできた風が、握りを持つ男ごと扉を跳ねあけた。
 扉によって壁に叩きつけられた男が、苦悶の声を漏らしてその場に崩れ落ちる。
 声ならぬ〈囁き〉が乱舞する中、ウネンは一瞬の隙を突いて髭男の手を振り払った。そしてそのまま、思いっきり低く身を沈める。
「な、なんだ、このクソガキ、何を――」
 言葉半ばにして、髭男が突風に吹き飛ばされた。前方の階段脇の壁へ、派手な音とともにぶち当たる。
 しかし髭男は、憤怒の表情を浮かべると即座に身を起こした。ウネンが体勢を立て直すよりも早く彼女の襟元を捕まえ、「てめえの仕業か!」とこぶしを固める。
 蝋燭の灯りに銀色が閃いたかと思えば、ウネンは自由を取り戻した。
 髭男が、呻き声をあげて床にうずくまった。押さえた左腕からしたたる鮮やかな赤が、薄汚れた床の上に幾つもの花を咲かせてゆく。
 その前に立つは、剣を手に、凄まじいまでの殺気を身に纏った、オーリ。
「おい、ガキ相手に何を騒いでんだよ」
 三人目が、苛立たしげな声とともに階段を下りてきた。「んなもん、二、三発殴りゃあ、すぐにおとなしくなるだろうが」
 すかさずオーリが、大股で段を駆け上がる。
 ほどなく上のほうから、なんとも情けない悲鳴が聞こえてきた。
 ウネンは、暗い階段を慎重にのぼっていった。最後の段で一旦足を止め、おそるおそる二階を覗き込む。
 ランプの灯りに照らされた部屋の反対側、血濡れた切っ先を前に、土下座をして命乞いをする男が一人。
 そして狭い部屋の中央では、両手両足を縄で縛られ猿轡を噛まされたコニャが、水揚げされたばかりの魚のようにじたばたと床の上で跳ねていた。