あわいを往く者

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九十九の黎明 第十章 怪物

  
  
 モウルが官吏にことづけた書状は、ウネンの名で記されていた。父に会わせてほしい、父を返してほしい、との切々たる訴えに、いかに苦労して故郷の町からここまで旅をしてきたのかを書き連ねた、ウネンに言わせれば少々叙情的過ぎる内容の書状だった。
 そして、内容以外にも気になる点がもう一つ。ウネンと道行きをともにすることになった旅の剣士と魔術師として、オーリとモウルではなく、国境の町リッテンで知り合ったテオとマルセルの名前が記載されていたのだ。
「どうして本名を書かないの?」
 事前に宿で書状を見せられたウネンは、モウルに問わずにはいられなかった。「あと、こんなふうに情に訴えかけても、たぶんマンガスは鼻であしらうだけだと思うんだけど」
「まさに、鼻であしらってもらうために、こう書いたのさ」
 モウルは悪戯っぽく口角を上げて、説明し始めた。
「君がヘレーさんに色んな知識を教わったってことを、マンガスは既に聞き出しているかもしれないからね。これで少しでも警戒をいてもらえないかなと思ってさ。どうよ、この、問題解決に全く寄与しない感情論の羅列とか、論旨の散乱っぷりとか。ものすごく頭悪そうに見えるでしょ」
 何だか素直に頷く気がおきず、ウネンはとりあえず唸り声を漏らす。
「僕とオーリが偽名を使うのも、似たような理由さ。君の連れがノーツオルスだということがばれたら、彼はおそらく邪魔者である僕らを力ずくで排除しにかかるだろうからね」
「ばれたら、って……、あ、そうか、ヘレーさんがいるから」
 二人の子供の頃の姿しか知らないヘレーでも、流石にオーリとモウルという名前を聞けば、彼らが誰であるかは分かるだろう。なるほどと両手を打つウネンに、モウルは「そう」と頷いた。
「とにかく彼には、僕らのことを御し易いぼんくらだと侮ってもらわなければ」
  
  
 王城の門の前で待つことしばし、ウネン達は門の脇の詰所に通された。取り次ぎがなされるまで、風を避けられるこちらでお待ちください、との門番の配慮だった。
 何人もの門番や官吏達がせわしなく出入りする部屋の隅で、ウネンは何度目か知らぬ溜め息をついた。マンガスとまみえることに対する緊張と不安に加えて、先刻からモウルの様子が少しおかしいような気がして仕方がなかったのだ。
 どうやらまだ、取り次ぎを頼んだ官吏が戻ってくる気配はない。ウネンは大きく深呼吸をすると、モウルに「どうしたの?」と問いかけた。
「え? 何が?」
 一瞬にしてモウルの表情が、いつもの飄々としたものに戻った。
「さっきから、なんだか難しい顔をしてるように見えたから。何か不都合でも出てきた?」
「あ、いや、別に」
 モウルは、「なんでもないよ」とばかりに肩をすくめてみせる。
 ウネンはつい眉を寄せた。絶対に「なんでもない」ことはない、と思ったからだ。
 ウネンの表情を誤解したのか、はたまたわざととぼけているのか、モウルがにっこりとウネンに微笑みかける。
「大丈夫さ。僕が奴の術を破ってみせるから、何も心配することはないよ」
 その、見事なまでのよそゆきの笑顔に、ウネンは内心で肩を落とした。間違いなく彼は今、わざと話を逸らしにかかっているのだ。
 こうなると、モウルはオーリ以上に頑なだ。ウネンは小さな溜め息を一つ吐き出してから、仕方なくモウルに話を合わせた。
「術を破る、って、どうやって?」
「それについては、仕上げをごろうじろ、って言ったでしょ。とにかく君は、打ち合わせどおりに君の役目をきっちりと果たしてくれれば、それでいいから」
 相変わらず肝心なことを勿体ぶるモウルに、もはやウネンは溜め息すら出ない。
「それ以前に、マンガスが面会を拒否したらどうするの?」
 この際だ、と、一番の心配事を口にしたウネンに、モウルは「その点も問題ないと思うよ」と笑みを浮かべた。
「なにしろ彼はヘレーさんを二週間も持て余していたわけだからね。揺さぶりをかけてようやく施せたりんの術だ。いつまたけてしまうか分からない。その時のために、君の身柄を確保しておきたいに決まっている」
 正面からモウルに指差され、ウネンがたじろぐ。
 モウルが、ふ、と口のを上げた。
「あと、面会の場には、きっと一緒にヘレーさんもやってくると思うよ。君の連れを言いくるめるために」
「言いくるめる?」
「自分は自由意志でマンガスに仕えることにした、とか、ウネンは夢でも見ていたんじゃないのか、とか、もしも今僕が言ったのと同じことをヘレーさんが言い出したら、僕を崇め奉ってくれていいよ」
  
 更に待つこと小一時間、詰所の外が騒がしくなったと思うや否や、官吏が息せき切って飛び込んできた。
「魔術師様! お待たせいたしました。どうぞこちらへ!」
 お連れ様も、との手招きに応じてオーリが出入り口へと向かう。ウネンもそれに続こうとした刹那、モウルの独白が耳に飛び込んできた。
「どちらにせよ、するべきことは変わらない」
 モウルの声は、はがねのように硬かった。
 一抹の不安を無理矢理呑みくだして、ウネンはモウルの背中を追いかけた。
  
  
 詰所を出る前に、オーリは剣を預けさせられた。
 ウネンの杖がお目こぼしを受けたのは、小さな子供が持つ杖に誰も脅威を感じなかった、ということなのだろう。もしかしたら、緊張したウネンが杖に取りすがるようにしてぎくしゃくと歩いていたのを気の毒に思われたからかもしれない。
 官吏の先導で、三人は城の主館キープへと案内された。建物の四隅に天く尖塔を備えた、巨大な影が三人を迎える。
 ふと、主館の左手奥に立つ、尖塔よりも更に高さのある櫓の塔が、ウネンの視界に飛び込んできた。自分が、そしてヘレーが閉じ込められていた塔だと気がつき、ウネンは知らず唇を噛む。
「どうぞこちらへ」
 重い両開きの扉が開かれ、一行は主館の中へと踏み込んだ。
 チェルナの王城に比べて窓が小さいせいだろう、館内はとても暗かった。静まり返った広い廊下を、一人と三人は真っ直ぐ奥へと進んでゆく。
「こちらです」
 見るからに豪奢な飾りを施された扉を、官吏は指し示した。「この部屋は?」とのモウルの問いに、官吏が「謁見の大広間でございます」と答える。
「謁見の間を使うとは、まさか王まで立ち会わせるつもりか? どちらにせよ好き放題だな」
 モウルの囁きは、ウネン達だけに聞こえた。
 官吏は、畏まった面持ちで扉をノックすると、「お客様がおいでになりました」と扉をあけた。
 ほんの一瞬、ウネンは息苦しさに襲われた。次いで、僅かに耳の奥がゆらりと揺らぐ感覚。
 ウネン達に道を譲って、官吏が深々と礼をして退出していく。
 ウネンは、奥歯に力を込めて、部屋に足を踏み入れた。
 広々とした謁見の間の中央にはマンガスの姿があった。その左右に、二人の屈強な兵士が控えている。そしてマンガスの少し手前には、誰あろう、ヘレーが立っていた。
 ヘレーから目を離さないまま、ウネンはゆっくりと前に進んだ。すぐ後ろにオーリが続き、最後にモウルが部屋の扉を閉める。
 扉が閉まりきる直前、ウネンは辺りに〈囁き〉が舞い立つのを感じた。りんの音にまとわりつくものとは異なる涼やかな気配が、ふわりと辺りに浮かび上がり、またたきのにパァンと弾けて消える。
 一体何が起こったのか。驚きのままにウネンはきょろきょろと周囲を見まわした。
 そこへ、場にそぐわぬ暢気な声が投げかけられる。
「勝手にいなくなるから心配したよ、ウネン」
 ウネンは勢いよく部屋の奥へ顔を戻した。
 ヘレーが、懐かしい微笑みとともにウネンを見つめていた。
「宿に荷物を取りに行くのなら、マンガス様に馬車を出していただいたのに」
 まるで三年の月日を一息に遡ったかのような、何気ない口調でヘレーは話し続ける。
 ウネンは息を詰めてヘレーの様子を凝視した。
「君達は、ウネンと一緒に私を捜してくれていたんだって? お礼を言わなければと思っていたんだ。ウネンが世話をかけたね。ありがとう」
 穏やかな笑顔は、オーリとモウルにも向けられる。三年前と何も変わらぬ、優しい眼差し。
「ヘレーさん……」
 しばしの沈黙ののち、ようやくウネンは一言だけ絞り出すことができた。
「なんだい?」
 だが、ウネンの口からはそれ以上言葉が出てこない。
 自分の認識と世界とが、今まさに、軋みながらずれてゆくようだった。盤石だと思っていた足元の地面が揺れているような気がして、物凄く気持ちが悪い。この場にただ突っ立っているだけだというのに、頭の芯がくらくらする。
 ヘレーは、微笑みを頬に貼りつけたまま、ウネンのほうへと歩み寄ってきた。
「今、取りかかっている仕事が終わり次第、一緒にイェゼロの町に帰ろう。ミロシュ達も心配しているだろうしね。でも、それまではマンガス様が、城に私達の部屋を用意してくださるそうだよ。こんな大きなお城に住めるなんて、まるで夢みたいだろう?」
 屈託のない笑顔を浮かべて、ヘレーが両手を振り広げる。
 思わず一歩あとずさったウネンの背が、モウルの胸に行き当たった。
「なんだか、君が言っていたのと随分話が違うみたいなんだけど?」
 モウルのこの発言は、隙を見てマンガスの術を破るための芝居のはずだ。だが、言い知れぬ不安がウネンの喉元に込み上げてくる。同時にウネン自身も、もしかしたら自分は何かとんでもない勘違いをしていたんじゃないか、という気持ちになってくる。
 ぐらり、とまた地面が揺れた。
 いいや違う、とウネンは奥歯を噛み締めた。勘違いなんかじゃない。まさに今、自分もマンガスの術に囚われようとしているのだ、と。櫓塔に閉じ込められていたあの時も、今も、ウネンを襲うこの眩暈。
 ウネンは大きく息を呑んだ。この眩暈こそがマンガスの術のかなめなのでは、と思い至って。マンガスが口にした「下地を作る」などという言葉について、塔で鳴り響いていたりんの音のことかと思っていたが、もっと別のものが、更に深い場所に、楔を打ち込んでいるのではないだろうか、と。
 冷や汗を流しながら、ウネンはオーリを振り返った。
 オーリもいつになく精彩を欠いた面持ちで茫と突っ立っている。「ヘレーの奴をぶん殴る」とうそぶいていた様子など影もない。
 ウネンは喘ぐように呼吸を繰り返した。足首に、冷たい息がかかったような気がした。絶望という名のそいつは、ひんやりと湿った手のひらでウネンの足にしがみつくと、肌の上をぞろりと這い上がってくる。
 マンガスの唇が、満足そうに弧をえがく――。
  
 重苦しい静寂が破られたのは、その時だった。
 木が軋む音とともに、ウネン達の前方、玉座に近い扉がひらいた。
 マンガスが勢いよく振り返った、その向こう、あいた扉に寄りかかるようにして、豪奢な上着を着た中年の偉丈夫が立っていた。
「陛下、何故ここに……」
 マンガスの喉から、掠れた声が漏れ出でた。
 陛下と呼ばれた男は、左手で頭を押さえながら、覚束ない足取りで部屋の中へと入ってくる。
「頭の中で……声がするのだ……これは、お前の声だな……謁見の間に近づくことあたわずなどと……王たる私に……お前が命じるというのか……」
 マンガスが舌打ちをした、その瞬間、モウルの声が大広間中に響き渡った。
「隙を得たり!」
 間髪を入れず、モウルを中心に強風が渦を巻いた。風は、室内の空気を思うさまかき回すと、窓という窓から部屋の外へと吹き抜けてゆく。
 マンガスのマントが一際大きくはためき、何か小さなものが床に落ちた。カシャンと音を立てて砕けるガラスの小瓶から、透明な液体が飛び散って床を濡らす。
「フェネチラミン系の幻覚剤かな。かなり希釈してるみたいだけど、霧のように細かい水滴を絶えず吸い込ませれば、思考を鈍らせるには充分だ。水を動かしたり凍らせたりする以外にも、こういう術の使い方があるんだな。勉強になるよ」
 と、そこまで語ったところで、モウルがふらりとよろめいた。
 ウネンは咄嗟にモウルの肩を支えようとした。甲斐無くそのまま一緒に倒れそうになるが、すんでのところでモウルが床に膝をつく。
「城塞全体を大掃除したあとだからね。流石にこたえるわ」
 疲労の色濃いモウルの声を聞き、ウネンの脳裏に甦る記憶。この部屋の扉を閉める直前の、あの――
「あの時の〈囁き〉!」
「本当は、門で取り次ぎを待っている間にでも、とっとと城の皆から薬を抜きたかったんだけどさ、それだとすぐにあいつにバレて対処されてしまうだろうからね。ギリギリを狙わざるを得なかった」
 のこのこと部屋に入ってきたウネン達に、マンガスが注意を向けた僅かな隙に、モウルは王城を満たす毒の霧を風で吹き飛ばしたのだ。「僕が奴の術を破るから」と言っていたのはこのことだったのか。ウネンは思わず感嘆の溜め息を漏らす。
 モウルが、ウネンの手を借りて、ふらつきながらも再び立ち上がった。
「まさかこんなタイミングで、しかも国王陛下が直々に来てくださるとは思ってなかったけど。流石は一国一城のあるじ、素晴らしい精神力ですね」
 何が起こっているのか理解できていないのだろう、唖然と立ち尽くすルドルフ王に、モウルがにっこりと笑いかける。
 マンガスが荒い呼吸とともにモウルを振り返った。
「お前は……、何者だ」
りんを使う術とか、気になることは山ほどあるんだけど、とりあえず、あなたの目的から聞こうか」
 モウルはそこで一旦口をつぐんだ。今一度マンガスを見据え、口重に言葉を継ぐ。
「――エレグ兄さん」