あわいを往く者

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自由への扉

  
  
  
   自由への扉
  
  
  
 ああ、すっかり春だなあ。
 道路脇のバス停のベンチで、雛方ひながたひかりは大きく息を吸った。大学の入学式まであと一週間。契約した学生マンションへと引っ越して来た彼女は、ざわざわと落ち着かない気持ちを持て余しながら、買い物と称して散歩に出ていた。
 背後の自販機で買ったブラックコーヒーを喉に流し込みながら、もう一度ヒカリは深呼吸をした。これからのことに思いをはせて目を閉じれば、……ワンルームの床を埋め尽くす段ボール箱の山が瞼の裏に浮かび上がってくる。早いところ小さな棚か何かを買わなければ、いつまで経っても部屋の中が片付かない。あと、机と、椅子と……。
 やっぱり誰かに応援を頼んだほうがよかったか、と幾つかの顔を思い浮かべ、ヒカリは派手な溜め息をついた。誰の手伝いもいらない、と大見得を切った以上、自分でなんとかするしかないのだ。
 手伝ってあげるよ、と差し出された姉の手を押し戻したのは、紛れもなく自分なのだから。数日前の出来事を思い出し、ヒカリはそっと眉間に皺を寄せた。
  
    * * *
  
「どうしても一人暮らしをするの?」
 引っ越しの荷造りをするヒカリに、姉が心配そうに語りかけてくる。六歳上の姉は大学卒業後に家を出ており、今日はわざわざヒカリの様子を見に帰省してきてくれたのだ。
「家から通えない距離じゃないでしょ? 三回生になって実験が始まったら、さすがに一時間半もかけて通学してらんなくなると思うけど、それまでは実家で楽しておけばいいのに。大変だよ……」
「一人暮らしぐらいできるよ」
 姉の気遣いが嬉しくて、ヒカリは敢えて素っ気なく言葉を返す。彼女がヒカリの生活力を不安視しているわけではないことなど、ヒカリには重々わかっていた。思慮深いからこそ心配性な彼女は、ヒカリの健康や安全について気にしてくれているのだろう。
 そしてそんなヒカリの胸中などお見通しとばかりに、姉は悪戯っぽい表情で「一人暮らし『ぐらい』だとか、言いきったなー」と微笑んだ。
 と、そこに、
「だめよ、いつまでもお姉ちゃん風を吹かして、ヒカちゃんを困らせないで。ヒカちゃんなら大丈夫に決まってるじゃない」
 的外れとしか言いようのない、無粋な言葉が背後から投げかけられた。
「やだな、母さん。私は別にヒカリの生活能力を疑ってはいないわよ。私なんかよりもずっとしっかりしてるもん。でも一人だと病気になった時とか大変だし、事件や事故に巻き込まれることだってあるかもだし」
「相変わらず、お姉ちゃんは余計な心配ばっかりね……」
 ふう、とこれ見よがしな溜め息に、さしもの姉もムッとした表情を隠せず、声の調子を一段低くした。
「それに、よりによってこんなややこしい時に一人暮らしさせるなんて……。これじゃあまるで――」
「だって、ヒカちゃんが下宿をしたい、って言うから、仕方ないじゃない。きっとヒカちゃんだって、一人で落ち着いて色々考えたいのよ。ねえ、そうでしょ、ヒカちゃん?」
 自らを「理解のある母親」と信じて疑わない、無邪気な、それでいて独善的な笑顔が、正面からヒカリに向けられる。
 大声で反論したくなる衝動を必死に抑え込んで、ヒカリは静かに目を伏せた、
  
    * * *
  
『そうでしょ、ヒカちゃん?』
 あの声が耳元に甦り、ヒカリは思わず激しく頭を振った。大きく息をついて、乱れた髪を慌てて手櫛で直したのち、缶コーヒーを一気に飲み干す。不愉快なことはさっさと忘れてしまうに限る、と自分に言い聞かせながら。
 ――だって仕方ないじゃない、か……。全部、私のせいってことか。
 そう胸の内で呟いてから、またしてもヒカリは頭を振った。いかんいかん、楽しいこと、楽しいことを考えるんだ、と。
〈心配性〉な姉からは、あれからちょくちょくSNSのダイレクトメッセージで、防犯情報や健康ニュースが送られてくる。比較的身体が丈夫な兄弟の中で、姉だけは季節の変わり目によく風邪をひいていた。就職と同時に始めた一人暮らしは、きっと苦労も多かったに違いない。「余計な心配ばっかり」なんて言うあの人は、そんなことにも気づいていないのだろう……。
「いや、だから、頭を切り替えろって」
 声に出して自分で自分にツッコミを入れて、ヒカリは意識を過去から引き剥がした。散らかったままの部屋についてはとりあえず脇においておいて、待ちに待った新生活、大学生活だ。どんな授業があって、どんな先生が教えてくれるのか、新しい友達はできるのか。
 やるべきことを確認しようと、ヒカリは頭の中の予定表をめくった。明後日には大学生協主催の新生活説明会がある。事前に購入したノートパソコンや教科書の受け取りも始まるし、工学部主催のオリエンテーリングは五日後だ。合格通知書に同封されていたチラシを見た時はオリエンテーションの誤植かと思ったものだが、なんと本当にオリエンテーリングで間違いなく、学科ごとに指定された日時に集合してキャンパス内のチェックポイントをまわるらしい。受験会場となった校舎と生協の建物しかまだ知らないヒカリには、とても有難いイベントだ。
 なんとか気持ちを切り替えることに成功したヒカリは、よし、と気合いを入れ直して立ち上がった。自販機横の空き缶入れに缶を捨て、大きく伸びをする。
 中央分離帯を有する片側二車線の大きな道路の両脇には、広い駐車場を備えた飲食店や小売店などの商業施設が並んでいる。車通りの割に周囲に歩行者の姿がほとんど見受けられないのは、今が平日の昼間だからであろうか。
 スマホをポケットから取り出し、地図アプリを立ち上げる。線路の北側にあるホームセンターにも買い物に行きたいが、それは買い物リストを作成してからのほうがいいだろう。今日の散策は、途中で見かけたスーパーマーケットで晩御飯だのなんだのを買って終わりにしよう、と一人頷く。
 道を渡ろうにも横断歩道まで少し距離があることから、ヒカリは、すぐ傍にある歩道橋を使うことにした。たまには運動しないとな、と、はなうた交じりで階段をのぼりきり、そこでヒカリは思わず「うわっ」と声を上げた。
 歩道橋のど真ん中で、一人の男が、手すりを乗り越えようとしていたのだ。
 ヒカリの背中に、一瞬にして冷や汗がふき出してきた。崖っぷちギリギリの人間を、今の声で変に刺激してしまってやいないだろうか。ここは警察か、消防か、しかるべき機関に連絡をして、それから……。
「自殺じゃねーよ」
 憮然とした声を投げつけて、その男は歩道橋から姿を消した。
 ヒカリは、大慌てで手すりへと駆け寄った。救急車を呼ぼうとポケットのスマホに手を伸ばした、まさにその時、橋から落ちたと思った男が、ひょい、と手すりの向こうに立ち上がった。
「うわあ!」
 驚きの叫びが、ヒカリの口をついて出る。知らず一歩をあとずさったところで、ヒカリは、男が通路の外側にある鋼材の出っ張りに立っていることに気がついた。
 ヒカリがまばたきすることも忘れて立ち尽くしていると、男が悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「猫、抱けるか?」
 見れば、彼は、左手で歩道橋の連子れんじをしっかりと掴む一方で、右手で何やらもこもこした塊を抱えていた。
「だ、抱いたことない、けど……」
 仕方ねーな、と溜め息を吐き出してから、男はヒカリを手招き……いや、手の代わりに顎を引いたから、顎招きとでも言えばいいのだろうか、とにかく近くに来てくれと身振りで訴えかけてきた。
「数秒でいいんで、受け取ってくれ。抱くのが無理だったら、両脇掴んでブラーン、ってしておいてくれたらいいから」
 ヒカリは男の手からおそるおそる茶色の毛玉を持ち上げた。猫は、ブラーンとなるどころかカチンコチンに固まったまま、歩道橋の欄干を通り越す。
 男は左手が自由になるなり、いとも軽々と手すりを乗り越えて歩道橋の上へ戻ってきた。
「自殺じゃねーって言ったろ」
「……あ、いや、その、失礼しました、すみません」
 ヒカリに脇を支えられた茶色のトラ猫は、ただひたすらガタガタと小刻みに震えている。真ん丸に見開かれた目がまるでビー玉のようだ。
「そこんところで、にっちもさっちもいかなくなってぶるぶる震えてたんだよ」
 どんくせー猫だよな、と男が笑って猫の頭を撫でる。その笑顔に既視感を覚えて、思わずヒカリは二、三度まばたきをした。
 彼は、ヒカリよりも少し年上のようだった。ヒカリと同じぐらいの長さの、肩にかかる程度の髪を、首の後ろで軽く結わえている。通った鼻筋に薄い唇。人目を引く派手さこそないが、それなりの人数にそこそこカッコイイと評されるであろう顔立ちだ。
「何? 俺の顔に何かついてる?」
「いや、……どこかで会ったことがある、ような気がして……」
 つい目を細めるヒカリに対して、男は少し大袈裟に眉を跳ね上げてみせた。
「うわ、もしかして逆ナン?」
「まさか!」
 即座にヒカリは首を横に振りまくった。だが、あまり必死に否定しても失礼かもとも思い当たって、けれどこういう軽口にどのように対応すればいいのかわからずに、猫を保持したまま、ただ棒のように突っ立つことしかできない。
 男はというと、ヒカリの態度にまったく頓着する様子もなく、楽しそうに笑いながら彼女の手から猫を引き上げた。馴れた手つきで茶トラを抱え込み、ふさふさの頬や耳の後ろ辺りを荒っぽく撫でまわす。
「まだ震えてんのかよ。お前、一体どこの箱入り娘だ?」
「あなたの猫じゃなかったのか」
「おう」
 そう言って、男は満面の笑みを浮かべた。「前に家で飼っていた猫とよく似てるけどな」
 怖がりなところなんか特にさ、と付け加える男の眉が、次の瞬間、ふ、とひそめられた。
「……血、だ」
「え?」
 思わず身を乗り出したヒカリの視線の先、猫の右前肢の裏に、深みのある赤が付着していた。肉球の周囲の毛も、僅かだが同じ赤色で染まっている。乾ききっていない、まだ新しい血液だ。
 男は、猫をそっと歩道橋の路面におろして、全身をくまなくチェックし始めた。猫が逃げ出さないようにだろう、左手の小指を首輪に引っかけた状態で器用に猫の身体をひっくり返したり転がしたりしているが、猫は依然として目を真ん丸に見開いたまま、男のされるがままになっている。
「……どうやら怪我はしていないようだな」
「喧嘩でもしたのかな?」
「喧嘩相手が血を出したというなら、こいつの爪なんかにも痕跡がありそうなんだがな」
 男が前肢の爪を迫り出させてヒカリに見せた。半透明な三日月の爪に、汚れは一切見あたらない。
「この傷一つ無い足の裏を見る限り、こいつは家飼いの猫に違いない。何よりこの怯えようだ。外に慣れていないんだろう。そんな猫に喧嘩は無理だ」
「そういうものかな」
「ああ。毛並みも綺麗だし、フケも浮いていない。毛も汚れていないから、家を出てからそんなに時間も経っていないと思うんだよな……」
 男の真剣な表情につられて、ヒカリも彼同様に首をひねった。
「じゃあ、それが血だという前提条件が間違っている、とか」
「端のほう、乾きかけている部分の色とか見てみろ。これが生き物の血じゃなかったら、俺は素っ裸でそこの池に飛び込んでもいい」
 これはツッコミ待ちの冗談なのか、それとも彼のセンスが独特すぎるのか。どう反応すればいいのかわからなくて、ヒカリはとりあえず曖昧に頷く。
「残る可能性としては、血を流している他者に触ったか、流れ出た血を踏んだか……」
 そう呟いて、男はそっと立ち上がった。腕に抱えた猫を安心させるように、丸い背中を優しく撫でる一方で、視線だけは厳しくさせ、ぐるりと周囲を見まわしている。
「君、視力は?」
「よいよ」
「どこかに車に轢かれた猫とか転がってないか、一緒に探してくれないか?」
 とんでもない内容の協力要請だったが、ヒカリは素直にそれに従った。ちょうど彼女も、交通事故の可能性を考えていたからだ。
 だが、幸いと言うべきか、見渡す限りそのような哀しい気配はどこにも見当たらない。
「……無いね」
「そうだな、無いな」
 と、大きな溜め息をついた男の肩が、突然ぴくりと震えた。ゆるりと顔を上げ、一段低い声で呟く。
「……救急車も来てないしな」
 考えもしなかった言葉を聞き、ヒカリは目を見開いた。
「まさか!」
「血を流すのは、猫だけじゃない」
 そうして、男はまるで自分に言い聞かせるかのように、もう一度ゆっくりと繰り返した。
「そうだ、猫だけじゃない。そして、現場が外とも限らない」