あわいを往く者

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自由への扉

  
 とりあえず交番に行こう、との彼の言葉に、ヒカリも静かに頷いた。このまま彼に任せて立ち去るという選択肢もあるにはあったが、乗りかかった舟だと思ったからだ。それに、彼は猫を抱えて両手が塞がっている。猫が逃げる心配をしなくてよくなるまでは、誰かが彼の傍で補助したほうがいいだろう。
 彼の案内で、二人は最寄りの交番へとやってきた。偶然にも、ヒカリが帰りに買い物に立ち寄るつもりだったスーパーマーケットの向かいだった。
 ヒカリにとってこれまでまったく縁のなかった場所だけに、少しばかり緊張して男の後ろから建物前のスペースに足を踏み入れる。ややあって、彼が「あー」と困惑の声を漏らすのが聞こえた。
 大きなガラスが上下に嵌め込まれたドアに、A3サイズの案内が掲示されている。そこには、『ただいまパトロール中です。ご用の方は交番内の電話で連絡して下さい。』と記されていた。
「とにかく、中に入ろう」
 彼に促され、ヒカリがドアを押しあける。予告どおり無人の室内が二人(と一匹)を出迎えた。
 入ってすぐ目の前、カウンターデスクの入り口に向いた面には、防犯を呼び掛けるポスターが幾つも貼られている。その向こうには事務机が一つ。どちらも天板の上はきれいに整頓されていた。
「あれが、例の電話か?」
 カウンターの端にあったのは、事務所等にあるような固定電話だった。
「『ご用のときは、この電話の受話器をあげ、事件・事故などでお急ぎのときは110番に、その他のときは……』って、この場合、どっちにかけたらいいんだ?」
 眉間に皺を寄せて、案内板を読み上げる彼に、ヒカリもまたしかめっ面で首をかしげた。
「今のところ事件でも事故でもないから……下のほうの番号かなあ……」
「悪い。俺は両手が塞がってるから、君が電話してくれないか」
 ヒカリもそれは当然の要請だと思ったし、覚悟をしていたことではあった、が、それでもいざ電話をかけるとなるとやはり躊躇うものがあった。どういうふうに話を切り出せばいいのか、交番名がこの案内板に記されているということは最初にそれを言うべきで、それから猫を保護した経緯を説明して、いや結論から先に話すなら経緯はあとにして、まずは保護した事実と付着している血液のことを、いやいや素人がこれを血液と断定してもいいのだろうか……。
 そんなふうに電話の横にある案内板としばしにらめっこしていると、突然その電話が鳴り始めた。
 トゥルルルル、トゥルルルル、と、静かな室内にやけに大きく呼び出し音が響き渡る。
 ヒカリと男は揃って当惑を顔に浮かべた。
「これ、俺らが出ればいいってことか……?」
「え? 一般人が勝手に出てしまっていいわけ?」
「警官用の電話というなら、留守の時は留守番電話にしたりしないか?」
「いやでも、交番の電話なわけだし」
 おろおろする二人を煽り立てるだけ煽り立てた呼び出し音は、始まった時と同じく唐突にぷっつりと止まってしまった。
 再び訪れた静寂の中、ヒカリ達は再度顔を見合わせる。
「……諦め、た……?」と、ヒカリが零せば、「出なくて正解だった、ってことか?」と彼も眉をひそめる。
 もう一度二人で問題の電話を見下ろした、その時、またも呼び出し音が鳴り始めた。
「ああもう、出ればいいんだろ!」
 なるようになれ、とヒカリが威勢よく受話器を取る。
 彼女が何か言うよりも先に、受話器から年配の男性の声が『何かご用ですか』と、電話をかけてきた人間にあるまじき言葉を投げかけてきた。
 ヒカリは驚きのあまり一瞬言葉を詰まらせた。その間に、電話の向こうが警察署の名を告げる。
 ――なるほど、何かのセンサーか防犯カメラかで、交番に来訪者がいることを知ったんだな。
 交番にやってきたにもかかわらず電話の前でもじもじするばかりの不慣れな来訪者の、手助けをしようと警察署のほうから電話をかけてくれたに違いない。
 ヒカリは静かに深呼吸をした。丁寧な口調を意識して「あの、」と口を開いて――、背後にドアの開く音を聞き、反射的に身を翻す。
「お待たせしてすみません! 何かご用ですか!」
 振り返った先には制服姿の警察官が一人、肩で息をしながら立っていた。
『もしもし?』と電話の声に問いかけられ、ヒカリはなんとか我に返る。
「ええと、それが、今、こちらに交番の人が戻ってこられて……」
 制服警官に「代わります」と言われ、ヒカリはこれ幸いと受話器を彼に手渡した。
「臼田です。巡回からただいま戻りまして……、はい、はい。……はい。了解いたしました」
 電話相手に軽く一礼、受話器をおろした警察官の臼田は、ヒカリ達を見やるとあらためて「どうしましたか」と問いかけてきた。
 ええと、と息を継ぐヒカリを、茶トラを抱いた腕が押しとどめる。「ここからは任せとけ」と言わんばかりの顔が、臼田のほうに向き直った。
「さきほど、あそこの府道でこの猫を保護したんですが……」
 彼の話を終いまで聞かずに、臼田は「茶々じゃないか!」と一気に顔をほころばせた。
「この猫をご存じなんですか?」
「よく知ってますよ! 近所の人の飼い猫ですよ」
 相好を崩して「よしよしよし」と猫の耳の後ろを掻く様子は、相当の手練れだ。保護して以来ずっと大人しく静かだった茶トラが、覿面にゴロゴロと喉を鳴らし始めている。
「この近くに住んでる方で、もともとこの前をよく通られるのでお話することが多かったんですが、巡回連絡の時に私も猫を飼っているってことを話したら、それからは獣医さんに行く途中にここに立ち寄って、茶々の顔を見せてくれるようになりましてねえ。丁度先月も、ワクチンを受けに行くって言っていて、茶々ってば相変わらずキャリーバッグの中でガクガクって凄く震えてて……」
 猫が可愛くてたまらない、という顔で話し続けていた臼田が、そこで唐突に表情を引き締めた。
「ていうか、ええと、茶々があっちの府道に?」
 眉間を寄せて首をかしげる臼田に、茶々を抱えたままの男が少し食い気味で身を乗り出した。
「何かおかしな点が?」
「いえね、その方、茶々が脱走しないようかなり気をつけておられましてね。前の猫がそれで交通事故で死んだから、この子は絶対に家から出さないんだ、って言ってて」
「そうは言っても、うっかり逃がしてしまうことって、あるじゃないですか」
 そのとおりだ、と男の横でヒカリも大きく頷いた。SNSでも、『愛猫を探しています』という飼い主の悲痛な投稿がよく流れてくる。来客の横をすり抜けて玄関を出たとか、雷に驚いて網戸を破ったとか、そのたびに「生き物を飼うのは大変なんだな」と思ったものだ。
「それはそうなんですが、実は過去にも二度ほど茶々が外に出てしまったことがあったらしくて、でも茶々はものすごく怖がりで、ドアから一メートルも離れていない所でコンクリの床にへばりついて震えてたそうなんですよ」
「ああー、あの、姿勢を低くしてぺったんこになる感じで?」
「そうそう、周囲を警戒しすぎてにっぎもさっちもいかなくなってしまった感じの」
 猫飼い経験者同士の会話が、次第にマニアックになってきた。
「猛ダッシュするタイプのパニックじゃなくてよかったですね」
「キャリーに入ってても、キャリー自体が震えるぐらいにガクガクブルブルしてますからね。子猫の頃からずっと家の中しか知らないから、外が怖いんでしょうねえ」
 臼田のその言葉を聞いた瞬間、ヒカリは思わず男の顔を見た。先刻の歩道橋で、この猫が外に慣れていないことを看破した彼を。
 ヒカリの視線に気づいた男が、得意そうに口角を上げる。
 しかしすぐに彼は真顔になって、真剣な眼差しを臼田に向けた。「これを見ていただけますか」と器用に茶々を抱え直して、問題の前肢を前にせり出させる。
「これ、血じゃないでしょうか」
 臼田が小さく息を呑んだ。
「……そのようですね」
「でも、こいつは怪我なんてしていないんですよ」
 途端に臼田は、弾かれたように背筋を伸ばした。ほんの一呼吸の間、何事かを思案したかと思えば、入ってきた時に裏返した『ただいまパトロール中です』の案内板を表に向け、「ちょっと、ここで待っていてもらえますか?」と外へと勢い良く飛び出していった。
  
 抱っこに飽きたらしい茶々を時折床におろしては、余計な所に入り込もうとするのを阻止してまた抱きかかえ、しばらく経って「おろせ」とまたぐにょぐにょ動き始めた茶々を、顎の下だの耳の後ろだのをわしゃわしゃマッサージして気を逸らせ、……を男が何度も繰り返していると、遠くからサイレンが聞こえてきた。
 サイレンはぐんぐん大きくなり、ほどなく救急車が目の前の道を通り過ぎていった。非常事態を象徴するかのような音は、間を置かずその向きを変え、交番のすぐ裏手でピタリと止まった。
 窓の外では、通行人や向かいのスーパーマーケットから出てきた人達が、救急車が停まったと思しき方向を物見高い様子で見つめている。
 十分も経たないうちに再び高々と鳴り始めたサイレンは、交番の裏手をまっすぐ西の方角に向かって遠ざかっていった。
  
 しばしのち、臼田が交番へと帰ってきた。年季の入ったペット用キャリーバッグを手に持って。
「いやはや、あなたがたのお蔭で、茶々の飼い主さんを助けることができました」
「まさか」と漏らしたヒカリの呟きを、男が「いまさっきの救急車ですね」と引き取っていく。
「ええ。万が一を考えて飼い主さんの部屋に行ってみたんですが、インターフォンに応答がなくて、でも、茶々の血のことがありましたし、幸いにも廊下に面した台所の窓があいていたので中を覗いてみたんですよ。そしたら、明らかに不自然な位置に横たわっている足が、窓格子の隙間から辛うじて見えましてね」
 ヒカリは知らず息を呑んだ。最初にあの歩道橋で彼が「救急車」と言った時から、ただならぬ事が起きている可能性を頭の片隅に置いてはいたが、それでもまさか本当に警察沙汰に行き着くとは、思ってもいなかったからだ。
「大家さんに鍵を開けてもらったら、どうやらその方、天井の蛍光灯を取り換えようとして、足場にしていた椅子ごと転倒したみたいで……」
「すると、茶々の肢の血は……?」
 男の問いに、臼田は一瞬だけ躊躇ったものの、まあいいか、と頭を掻いた。
「卓袱台の角に頭をぶつけたそうです。傷から出血して床に流れていたので、茶々はどうやらそれを踏んだみたいですね」
「『ぶつけた』? 飼い主さん、意識があったんですね」
 相変わらず食いつきのいい男に、臼田は「本当なら、あまりこういうことは部外者に話してはいけないんですがね」と大きな溜め息をついた。
「まぁ、今回に関しては、完全な部外者というわけでもないですから、特別ですよ、特別に、当たり障りのないことだけ」
 抱えた茶々を盾にして「ありがとうございます!」と笑顔を浮かべるあたり、この男はかなりちゃっかりした性格をしているようだ。
 ゴホンッと咳払いを一つ、臼田は訥々と口を開いた。
「発見時は気を失っておられたんですが、呼びかけを続けていたら意識が戻りまして。頭をぶつけて立てなくなった、だんだん意識が朦朧としてきたから、ベランダの窓まで必死に這って茶々を逃がした、ということでした。事件性はないということで、私の出番はもう終わりです」
「そのキャリーは、飼い主さんのですか?」
「ええ。飼い主さんが病院から戻るまで、私が個人的に茶々を預かることになりました」
 そう言うと、臼田はキャリーをカウンターデスクの上に置いて入り口をあけた。
「長時間、茶々を保護してくださりありがとうございました。リードも何もなかったから大変だったでしょう」
「いえいえ、久々に猫を思いっきり構えて楽しかったですよ」
 キャリーの前に茶々をそっとおろした途端、茶々はものすごい勢いで中へと飛び込んでいった。なるほど、本当に外が怖いんだな、とヒカリが感心している横で、男が「お前、そんなスピードで動けたんだな……」と呟いている。
 臼田が「偉いねえ」とまさしく猫撫で声を発しながら、そっとキャリーの口を閉めた。
「本当に偉いねえ。飼い主さんが大変だ、って私達に知らせてくれたんだねえ。よく頑張ったねえ」と、そこで声のトーンを普通に戻して、「飼い主さんも見事な機転でしたよね。茶々がそれに応えて外に出なければ、そしてあなたがたが茶々を見つけなければ、飼い主さんは誰にも気づかれないまま亡くなってしまっていたかもしれません。本当にありがとうございました」