あわいを往く者

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無音の響き

【オンライン文化祭-2010―】参加作品 創作小説電子同人誌企画「でんしょでしょ!」参加作品
  
  
  
   無音の響き
  
  
  
「ヒーカーリー! たーすけてー!」
 初夏のキャンパスに、素っ頓狂な声が響き渡る。
 名を呼ばれた雛方ひながたひかりは、渋々といった様子で足を止めた。大きな溜め息一つ、胸元にかかる髪をばさりと揺らして、声の主を振り返る。
「助けて、ヒカリ! 壊しちゃった! サトル兄ちゃんのっ、姉ちゃんがっ、姉ちゃんでっ、おこっ、おこここ、怒られるー!」
 勢いよく駆け寄ってきたのは、ヒカリの友人の松山茉莉まりだった。さらさらのショートヘアを振り乱しながら、半べそをかいて、助けてくれと繰り返す。
 ヒカリはもう一度大きく息を吐き出してから、やれやれ、と両手を腰に当てた。
 いわゆる女性らしい体形をしていることや、美容師さんに「天然のゆるふわウェーブ、ズルいわぁ」と羨ましがられる髪型のお陰で、見た目で性別を間違われることはないものの、飾り気のないパンツスタイルが常態のヒカリは、ガーリーな茉莉の横に立つとまるで女形か男役といった風情だ。剣道部の紅一点を三年間経験すれば、誰だってこうなる、というのがヒカリの持論だが、誰だって、の部分に異議を唱える者は少なくない。
「ちょっと落ち着け。誰が何をどうしたって?」
「だから、壊してしまったの! どうしよう、ヒカリ、直せる? 直せないよね? 同じの、どこかで売ってないか知らない? ああ、どうしよう、姉ちゃんに殴られるー!」
 パニックを起こして頭を抱える茉莉を、ヒカリは黙って見守り続けた。この茉莉という人間は、下手になだめたり慰めたりすると、余計に焦って更なるドツボに嵌まりゆく傾向があった。そのことを、ヒカリは三年間の高校生活を通して、骨の髄まで思い知っていたのだ。
 ひとしきり百面相を繰り広げたのち、茉莉はようやく落ち着きを取り戻した。その間にヒカリが知りえた情報は、たったの一点だけ。茉莉の家の近所に、彼女の姉の同級生であるサトル兄ちゃんとやらが住んでいる、ということのみである。
「落ち着いたか。なら、順を追って話せ」
「うん。だから、オルゴールなのよ。どうしよう? どうしたらいい?」
「順番に、だ。いいか? 頭から順番に」
「う、うん。だからね、今日、姉ちゃんの誕生日でね。朝にサトル兄ちゃんが、プレゼント持ってやってきて、生憎姉ちゃんは演奏会前の合宿で留守で、とりあえずプレゼントを預かったんだけど……」
 大学生協前の木陰のベンチに、並んで腰をおろすや否や、茉莉はまたも興奮した面持ちでヒカリに迫ってきた。
「それがね、壊しちゃったみたいなのよ!」
 ヒカリは、馴れたものとばかりに冷静に先を促した。
「オルゴールを? 落としてしまったとか?」
「ううん、落としてもぶつけてもないよ」
「それなら、なんで壊れたってわかるんだ?」
「…………」
 ヒカリの問いを聞いた途端、茉莉の目がいきなり泳ぎ始めた。
「待て。もしかして……」
 刺々しいヒカリの声音に、茉莉はあたふたと両手を振りまわした。
「だって、あのサトル兄が姉ちゃんに何渡すんだろ、って、気になって……」
「……他人へのプレゼントを開封したのか……」
 がっくりとヒカリが肩を落とす。
「開封ってったって、箱剥き出しで、この紙袋にぞんざいに突っ込んであるだけだったし……、しかも箱の蓋、封されてなかったし。って言うか半開きだったし!」
 冷ややかなヒカリの眼差しに負けじと、茉莉が両手を固く握り締めた。
「だってだって、お互い気にしてるのバレバレの状態で、もう十年だよ? 今更何をプレゼントするんだろ、って気にならない?」
「つまり、お互い意識し合っている男女の、その男のほうが一念発起して贈ったプレゼントを、贈られた本人のいないところで、その妹が勝手に開封して、壊してしまった、と」
 ヒカリはそこで小さく溜め息をつき、それからナイフのごとき一瞥を茉莉に突き刺した。
「最悪だな」
「反省してマス」
 身体を小さく縮ませた茉莉が、神妙な声で頭を垂れた。
「正直に話して、怒られな」
「そうだね……。やっぱりその場凌ぎはだめだよね。マジ殴りされるかもだけど、きちんと謝るよ」
 弱々しくうなだれる茉莉が、微かに身を震わせているのを見て、ヒカリは思わず首をかしげた。
「殴られる、って、茉莉の姉ちゃんって、そんなキャラだっけ? 優雅にピアノ弾いているところしか知らないんだけど」
「それは思いっきり騙されてるって。怒ると、それはそれは凶暴なんだから」
「へー、意外だ」
 佳人の思わぬ一面に感心する一方で、ヒカリは眉間にそっと皺を寄せた。
 ヒカリと茉莉は、高一で同じクラスになって以来の腐れ縁だ。長い付き合いのお陰で、お互いの長所も短所もそれなりに把握し合えている。
 そう、ヒカリの知っている茉莉は、確かにおっちょこちょいの調子乗りであるが、礼儀知らずではない。姉妹同士ということで対応が多少ルーズになったのだとしても、彼女が他人への贈り物をぞんざいに扱うとは、ヒカリにはどうしても思えなかった。
「ちょっと、それ見せてみ」
「あ、うん」
 茉莉が弾かれたように背筋を伸ばして、紙袋の中へと手を突っ込んだ。滑稽なほど急いた様子で、小さな箱を引っ張り出す。ヒカリと違って茉莉は自宅生だ。隣県にある家から大学までバスや電車を乗り継いで一時間半、彼女が必死の思いでこの紙袋を抱えてきたことを思うと、なんとかしてやりたいという気持ちがヒカリの中に湧き起こる。
 箱の蓋が開いた瞬間、眩い反射光がヒカリの目を射た。
 箱から出てきたのは、一辺が五センチほどの透明な立方体だった。何の飾りもついていないアクリルの正六面体の中、真鍮色のムーブメントが、まるで宝物のように鎮座している。箱の横に突き出した小さなハンドルが、シリンダの動力源なのだろう。よく見ると側面の下部に小さなかみ合わせがあり、どうやら底面が外れるようになっているらしい。
 ヒカリは、木陰の映り込みを避けるようにして、箱の内側へと目を凝らした。それから、大きな溜め息をついた。
「これは、直せんなあ」
 ゼンマイ式ではなかったが、その構造は普通のオルゴールに同じ。回転するシリンダに植えられた小さなピンが、すぐ横に設置された金属製の櫛の歯を弾いて音を出す。その、幅僅か一ミリほどの歯の一本が、途中で折れて、短くなってしまっていた。
「瞬着(瞬間接着剤)で……とか、無理かな?」
「この狭い断面じゃ接着できないだろうし、仮に着いたとしても強度がもたない。そもそも外見を取り繕ったところで、元どおりの音が出るわけがない。つうか、このカケラはどこ?」
「それが……、見あたらないのよ」
「じゃあ、何を接着するつもりだったんだ?」
 あきれ返るヒカリの視線を避けるように、茉莉は小さく身をすくめた。
「何か……カケラの代わりになるものが無いかなあ、って……」
「あると思う?」
「ああ、やっぱりぃいー?」
 茉莉が悲劇のヒロインさながらの身振りでその場に突っ伏した、その時、ベンチに何かの影が差した。
「最初っから折れてた、ってことはないのか?」
 驚いて振り返った二人の目の前、一人の男子学生が立っていた。
「あ、原田さん、こんにちは」
「妖怪退散」
 原田と呼ばれた男は、ヒカリの声をあっさりと聞き流して、「よう」と軽く右手を上げた。
 原田れいは、ヒカリと同じ工学部機械工学科の、二年上の先輩だ。男子にしては少し長めの髪をゆるく首の後ろで括り、ダメージジーンズを嫌味なく着こなしている姿はそこそこ絵になっていて、一回生女子の間で一時「カッコイイ上回生がいる」と噂になった人物だ。
 だが、学科の新歓コンパでの顔合わせ以来、ヒカリは原田のことを天敵だと公言して憚らない。一応、については、後日「すまなかった」との謝罪を受けてとりあえず手打ちにしているが、とにかく彼は、調子がよすぎる、調子に乗りすぎる、とても年長者とは思えない。こんな人間相手に丁寧語なんて使っていられるか、と雑に対応すればするほどヒカリに対する彼の口調は馴れ馴れしくなり、そのことが余計に彼女の神経を逆撫でする、という見事な悪循環である。
 そもそも一般教養を中心に履修する一回生と、専門の授業が大半を占める三回生とでは、広いキャンパス内で顔を合わせる機会などあまりないはずだった。だが、どういうわけかヒカリと原田は同じタイミングで同じ場所に居合わせることが多く、そのたびにヒカリの眉間の皺は深さを増し、挙げ句の果てに、学部の違う茉莉までもが原田と顔見知りになってしまっている、という有様だった。
 原田の登場を受けあからさまに嫌そうな表情を見せるヒカリに対し、彼は至極愉快そうな笑みを返したかと思えば、一転して真面目な表情で茉莉のほうに向き直った。
「確かに、自分宛じゃないものを勝手に開けるのは問題だけど、でも、松山さんは他人のものを粗末にするような人じゃないだろ?」
 その言葉に、茉莉の表情が、ぱあっと明るくなる。
 心の中のもやもやを、第三者に、特にこの男に炙り出されてしまったことに、ヒカリは思いきり顔をしかめた。
「盗み聞きとは、よいご趣味で」
「一方的に聞かせておいて、随分な言いぐさだな」
 原田が憮然と二人の背後を指差した。
 綺麗に刈り込まれた植え込みの向こう側にもベンチがあったことを、二人はすぐに思い出した。
「内緒の話ならもっと場所を選べよな」
「すみません」
 素直に頭を下げる茉莉に向かって、原田は少し慌てて両手を振った。
「いや、松山さんが謝ることじゃないから。毒舌家を気取る短絡馬鹿に反論しただけだからさ」
 彼はそうニヤリと笑うと、歯軋りせんばかりのヒカリを華麗に無視して、涼しい顔で茉莉の手元を指差した。
「それよりも、そのオルゴール、俺にもちょっと見せてくれないか?」
「いいですよ」
 手渡されたオルゴールに真剣な眼差しを向ける原田を、ヒカリは意趣返しも露骨に、盛大に鼻でわらう。
「最初から折れてた、って、どこの世界に、好きな相手に不良品をプレゼントする阿呆がいる?」
「なら、破片が無いのをどう説明するんだ?」
「それは……」
 茉莉が失くしたから、と続けようとして、さしものヒカリも躊躇った。先刻この男が言ったように、茉莉は他人のものをいい加減に扱うような人間ではないのだ。
 ヒカリが、ぐ、と言葉を呑み込んださまを見て、原田が微かに笑う。
 腹立たしい、とヒカリは思った。口論相手を言い負かしたのだから、もっと根性悪い顔で喜べばいいものを、何だその上から見下ろさんばかりの尊大な微笑みは、と。
「察するに、箱を開けて、中身がオルゴールだと知って、何の曲だろう、ってハンドルを回したら音が飛んでいて、慌てて箱や袋の中を確認したけど、破片は既にどこにも無かった、ってところじゃないの?」
「凄い! 一字一句そのとおりです! 原田さんってば、シャーロック・ホームズみたい!」
 いやいやそれほどでも、と調子のよい返事を茉莉に投げてから、再び原田はヒカリのほうを向いた。
「さっき雛方自身が言っただろ。送り主が不良品を用意するはずがない、って。だが、現にオルゴールは壊れている。ならば、自分が壊したのかもしれない、って、ありがちな思考の流れじゃねーか? 松山さんがそう考えたのは無理もないし、雛方もそれで悩んでいたんだろ?」
 返す言葉が見つからずむっとするヒカリをよそに、原田はオルゴールのハンドルを回し始めた。
 シリンダの回転とともに、懐かしい旋律が小箱を震わせる。メロディに合わせて、原田が小さな声で歌いだした。
「うさぎ美味しい……」
「うさぎ追いし」
 咄嗟にそう訂正をかけてから、ヒカリは「しまった」と歯軋りをした。原田の満足げな表情を見る限り、どうやら今のはツッコミ待ちのボケであったらしい。
 二人の水面下の戦いに気づかない茉莉が、にっこりと曲名を補足した。
「『ふるさと』って歌ですよね」
「そうそう、平和なタイトルのわりに、ウサギ狩ったりコブナ釣ったり、サバイバルな歌詞のやつだ」
 そう上機嫌でオルゴールを回していた原田が、突然その手を止めた。やにわに難しい顔でじっとオルゴールを見つめる。
 やがて、原田はゆっくりと顔を上げた。
「二人とも、少し時間はあるか?」
「無い」
 ヒカリは自己ベストを更新する勢いで即答を返す。その脇腹を、茉莉があきれ顔で突っついた。
「無いことないでしょ。今日は四コマ目まで空いてる、って言ってたのに。……で、原田さん、どうしたんですか?」
「ちょっとおかしなことに気がついたんだけど、一緒に来てくれないか」
「あ、はい」
 真剣な顔で頷いた茉莉を尻目に、ヒカリは「じゃ」と挨拶を放って回れ右をした。そのまま一人さっさとこの場から立ち去ろうとするが、間髪を入れず繰り出された茉莉のタックルに阻まれる。
「ちょ、ちょっと、ヒカリ! ヒカリも一緒に行こうよ!」
「アレに付き合うぐらいなら、オオアリクイと戯れるほうがマシだ」
「オオアリクイでもコアリクイでも何でもいいけど、ヒカリの先輩でしょ。ヒカリがいないと気まずいよー」
 茉莉がひそひそと懇願するも、ヒカリには考えを曲げる気などさらさら無い。
「知らん」
 と、頑なな背中に、心底愉快そうな原田の笑い声が投げかけられた。
「自分が気づけなかった事実に、俺が気づいたということが面白くないんだろ。まったく、ケツの穴の小せぇ奴だ」
「他人に向かってケツとか言うなヘンタイ!」
 ヒカリの怒鳴り声が辺りに響き渡る。
 うっかり振り返ってしまったヒカリの視線の先で、原田が得意げに口の端を上げた。
注)文部省唱歌「ふるさと」はパブリックドメイン作品です。