あわいを往く者

  [?]

邂逅

  
  
  
 全ての境界が曖昧な闇の中、黒々とした影が静かに起き上がった。
 夜目が利くのだろうか、その影は迷いなく部屋の扉を目指すと、蝶番をほんの僅か軋ませて姿を消す。その刹那に吹き込んだ風が、籠もった部屋の空気を一瞬だけ揺らした。
 まるで何事も無かったかのように、室内は再び穏やかな時を刻み始めた。規則正しい呼吸音が微かに部屋の隅から聞こえてくる。
 ややあって、寝息とは反対側の壁際に二つ目の影がむくりと立ち上がった。ゆっくりと辺りを見渡して、それから、慎重な足取りで一人目のあとを追うように扉へと向かう。
 扉が開く。そしてまた閉まる。
 朗の姿が廊下へと消えると同時に、部屋は完全なる静寂に包まれた。
  
 夜が来ても、「夢」は一向に終わりを迎える様子がなかった。朝晩は冷えるから、とレイが貸してくれた寝袋を受け取りながら、朗は憮然とした表情を必死で押し殺し続けた。
「三人で寝るには狭いかもしれないけど、一応この部屋が一番広いから……」
 文句を言いかけたレイを一瞥で黙らせて、シキが男女別に部屋を割った。
 この村には宿屋が無いんでね、とレイは自らに言い聞かせるように語り始めた。彼曰く、それなりに名が通っている自分達を村人は歓待してくれたのだが、「実地調査」とやらが昼夜を問わない性質のため彼らの招きに応じるわけにはいかなかった、と。是非我が家に、という幾つもの声を惜しみつつも辞退し、二人は村の物置兼農作業用小屋を借りたのだという。
 土の香と草の香が染みついた床に三人仲良く寝床を並べ、ランプの火が消された。
 露天は焚き火での食事といい、これは一体何のキャンプなのか。何度目か知らぬ自問を抱えて、朗は寝袋に潜り込んだ。少し肌寒さを感じて、シャツの第一ボタンをとめる。
 そういえば、このシャツを見て彼らは随分驚いていたようだった。さらさらの生地に精密な縫製、しかもこのボタンは貝じゃないのか? 一体どこの名家の人間なんだ、と大騒ぎする三人を見て、ふと、彼らにスラックスのファスナーを見せたらどういう反応が返ってくるのだろう、と朗は考えた。これ以上事態をややこしくしても仕方がないと思って、実行するには至らなかったけれども。
「でもさ、この辺りにそんな名士がいたっけな? ここらの領主はアカデイアさんだったろ?」大鍋を使って豪快に焼き上げられた巨大なパンのかけらを頬張りながら、サンが朗を見やる。「それにその黒髪は、みこ……」
 半ばで途切れた言葉を不審に思い朗が顔を上げると、焚き火の炎の向こう、レイとシキの二人がとってつけたような笑みを浮かべていた。右側を向けば、これまたわざとらしい笑顔で「ん?」とそらとぼけるサンの顔。
 夢の主というものは、夢の全てを把握しているのではなかったろうか。これまでに見た夢では、夢の中の自分はそれがどんなに奇抜な設定でも、違和感なく受け入れ、納得していたように思う。いや、それとも、たまたまそういう夢ばかりが記憶に残っているだけなのだろうか。
 余計なことなど考えずにさっさと眠ってしまえば、夢から醒めることができるのかもしれない。そうは思っても、朗の目はますます冴えていくばかりだった。真っ暗闇の中、朗はまんじりともせずにじっと寝具にくるまっていた。
  
 レイが部屋を出ていったのは、ようやく朗がうつらうつらし始めた時だった。朗のほうへ大きく身を乗り出して、彼が眠っていることを確かめようとした動作が、皮肉にも朗の目を覚まさせたのだ。
 朗が息を殺していると、レイは小さく安堵の息を漏らした。そうして、そっと音もなく部屋をあとにする。
 しばしののち、朗は身を起こした。どういうつもりなのか自分でも良く解らないままに、彼はレイのあとを追って部屋を出た。
  
  
 一寸先も見通せない闇の中、前方の床に一筋のか細い光が見える。朗は壁に手をつきながら、物音を立てないようにゆっくりとその光目指して歩みを進めた。
「…………ばか!」
 微かに聞こえてきたのは、棘だらけの罵倒の声。
「何を考えてるのよ、って、ちょっと!」
 ヒートアップした声はすぐにトーンを落とし、押し殺したひそひそ声に席を譲る。「サン達がいるんだから……」
 もう一歩を進んで、朗は足を止めた。
「二人ともぐっすり眠ってたぜ」
「そういう問題じゃないでしょ……って、や、やめて」
 艶めかしい声を耳にして、朗の体液が一気に沸き立った。
 夜這いだと!? ふざけるのもたいがいにしろ! 告白もできないヘタレのくせに、人の女に手を出そうというのか!
 怒鳴り込んでやる、と拳を固めたものの、朗の足は一向に前へ動こうとはしなかった。これは夢だ、という意識が枷になっているのだろうか、怒り狂う自分とは別に、どこか冷静な自分がおのれにブレーキをかけている。
「最後の夜なんだから、いいだろ。どうせネイトンに帰れば、あいつらに邪魔される毎日なんだから」
 トンビに油揚げをかっさらわれた奴が、夢の中で意趣返し……となれば、一体これは誰の夢なのか。
「あいつら、って、レイ、あの子達がいなくて、寂しがってたじゃない……」
「それとこれとは話が別だって。貴重な二人きりの夜だってのに、あの野郎のせいで二日も短くなっちまったじゃねーか」
「だからって、こんな……」
「それか、夜だけリーナの奴に引き続き預かってもらうとか」
「そんな……」
「なら、いいだろ」
「……だめだってば」
 朗の喉が、何度も大きく上下する。
「だめだって言うわりに……」
「もう……っ」
 媚びるような声を聞き、ぐにゃり、と視界が歪んだ気がした。
 これは、何だ?
 彼女は、誰だ?
  
 ここはどこで、私は一体何をしているのだ?
  
 その刹那、ぽん、と肩を叩かれて、朗は悲鳴を上げそうになった。
「便所?」
 囁き声は、サンのものだった。「俺もなんだけど、真っ暗で出口が良く解らなくてさ。こっちだっけ?」
 軽い口調とは裏腹に、その声音は酷く冷たく感じられた。暗闇で顔が見えないことに心の底から安堵しながら、朗は辛うじて一言を返す。
「いや、私もはっきりとは……」
「……たぶん、こっちじゃないかな?」
 サンが先導するようにゆっくりと背を向けたのが、気配で分かった。底のない泥沼から足を引き抜いて、朗は無言のままにその場をあとにした。どす黒い澱を滴らせながら。
  
  
  
「つーか、さ。大丈夫なわけ? 俺は魔術とか解んねーから、口出すつもりはないけれど」
「まあな」
 剣で潅木の枝を払いながら、レイとサンが道を切り開いていく。目指すはトランヴォール山の麓にある「赤岩」。一週間の任務を締めくくる最後の調査地、古代ルドス時代の遺跡である。
「ノロマ野郎」の汚名を返上すべく、二人は心持ち早足で荒れ野を進んでいた。振り返れば、二十メートルほど後方に、えっちらおっちら岩を乗り越える朗とシキの姿が見える。
「奴が一連の災厄の原因って可能性はないわけ? 連れて来て大丈夫なのかよ」
 今日中にネイトンに帰投できるよう、これを食ったらすぐに調査に出る。朝食の席でそう告げてから、レイは朗に小屋で自分達を待つように言った。調べが終わったら荷物を取りに戻ってくるから、それまでサンとゆっくりしていてくれ、と。
 それに対して、朗は頑として首を縦に振らなかった。色々見て回ったほうが、何か思い出すかもしれない。そう言われてしまえば、彼らに返す言葉はなかった。足手まといだ、という台詞をなんとか飲み込んで、レイは朗の同行を承知したのだった。
「あれは、ろくに制御もできないくせに無理矢理神の真名を使おうとする馬鹿どもが元凶なんだよ。それに、ロウからは全く魔術の気配が感じられない。あのザマ見ても、どう考えても一般人、ってか、むしろ苦労知らずのお坊ちゃま、ってとこだろ?」
 本人に聞こえないと思って、かなり好き勝手なことを言っている。
「そうは言うけどな、レイ。あの容姿だぞ。しかも黒髪。考えたくないけどさ、の者が復活した、なんてことはないのか?」
 十年前のあの大騒動を思い出したのか、サンが小さく身震いをした。それを見たレイの眉間に皺が寄る。
「黒髪ってったって、ロウのは俺らのとはちょっと違う感じがするんだよな。単に光の具合かもしれないが……」
「確かに、いわれてみれば少し色味が違うかも」
「だろ? ま、一応、熊……副長殿に相談してみるつもりだけど……、たぶん、の者とは無関係だろうと思う」
 二人は再び意識を前方へと向けた。地図が正しいならば、目的地まであと一時間といったところであろうか。よし、と気合を入れ直して、下草に隠れた石くれを避けつつ前へと進む。
「そもそも、の者が『死』の神だ、といわれていることが俺にはしっくり来ないんだよ。この十年、あちこちまわって色々見聞きして、余計にそう思う。大体、暗黒魔術って言われてる術は全部が全部の者の気配だらけなわけだけど、他人の魔力を奪い取る、なんて、ぶっちゃけ『死』とは直接関係ないだろ?」
 頭の周りに疑問符を飛び交わせながら、サンがぎくしゃくと頷く。
「何と言うか……、個人の『枠組み』って言ったらいいのかな。ヒトがヒトであるための皮というか、そういったものを崩しているんじゃないかな、って思うわけなんだ。それで、力を盗ったり命を盗ったり……。解るか?」
「全然解らん」
「もしかしたらさ、奴が司っていたのは、そういった枠組みそのものなんじゃないかな、って……おい! 人がせっかく熱弁ふるってンだから、真面目に聞けよ!」
 考えることを放棄してこれ見よがしに欠伸を放つサンに、レイが吼えた。対するサンはどこ吹く風で、ううん、と大きく背筋を伸ばす。
「ムズカシイ事は術士の皆様にお任せするからさ。今晩あたり副長殿と心行くまで熱く語らってくれよ」
 まだ何か言いたさげなレイを無視して、もう一度サンは伸びをした。指の先からつま先まで気を込めると、深く大きく息を吐く。ゆっくりと深呼吸を繰り返そうとしたところで、サンは唐突にその動きを止めた。
「……おい、レイ。シキは?」
 問われたレイも、慌てて背後を振り返る。
 山の裾野に広がる荒涼たる大地、動くものと言えば、風に揺れる木々と草の葉のみ。
 ついて来ているはずのシキと……朗の姿はどこにも無かった。