殺人シーンが含まれます。苦手な方はご注意ください。
血濡れた手形
煤の混じった粘つく海霧に、バターナイフのように汽笛が深々と沈み込む。
いざや解纜 みちをあけろ、とばかりにもう一度鳴り響く汽笛のその陰で、アイスピックのごとき一刺しが灰色の帳 を突き抜け虚空へと走った。一発限りの銃声。気づく者は恐らく誰もいない。
ひとけの無い明け方の港、倉庫街の裏路地。拳銃の指紋を丁寧に拭っているのは長身の男だ。黒い髪に黒い瞳、立襟のシャツも真っ直ぐなズボンも全てが黒い。西の空に僅かに残る夜の闇を掻き集めて固めたかのような、その男の名はディーといった。
ディーは身を屈めると、石畳の上に投げ出されていた手に拳銃を握らせた。
自殺に偽装できるとは、ディーも端 から考えてはいなかった。大切なのは、こ こ に い た も う 一 人 の情報を極力この場に残さないことだ。銃を構えた者であろうと易々と返り討ちにしてしまう、腕の立つ人間の痕跡を。
一連の作業を終えたディーは、死体を見下ろして鼻を鳴らした。彼が仕 事 で銃を使うことはほとんど無い。音はうるさい臭いもきつい、そして何より――
次の瞬間ディーは身を翻した。足音一つ立てず飛ぶように路地の奥へと疾 く走り、建物の陰に逃げ込もうとする人影の首に背後から腕を回して締め上げる。
「もう一人いたのか」
「な、何故、効 か な い んだ……」
苦しそうな息とともに、二人目の刺客がディーに問う。
ディーは軽く眉を上げた。
「ああ、精神系の魔術か。流血を嫌う似非平和主義者か、それとも他の術が使えない雑魚か……」
足掻く男の耳元に口を寄せ、それからディーは小さく嗤った。
「悪かったな。俺は出 来 損 な い だから、そういうのは効かないんだ。炎でも氷でもぶちかませば、また違っただろうにな」
「なん……だと……?」
「誰の差し金だ」
ディーが訊いた途端、男は唇を堅く引き結んだ。
仕方がないな、と口の中で呟いてからディーは男の首に回した腕を少し緩めた。下膊 が喉仏の前に来たところで、再度腕に力を込める。先刻よりもずっと強く、男の喉を締めつける。
軟骨がひしゃげる感触が伝わってきて、ディーの口角が吊り上がった。そうだ、これでこそだ、と。銃などでは到底味わえない生命 の手触り。ヒトはこんなにも簡単に生ぬるい肉の塊に還ってしまう。物乞いだろうと国王だろうと、たとえ出来損ないだろうと、平等に。
か細い喘鳴もやがて途切れ、辺りに静寂が訪れた。
ディーは躯 をその場に転がすと、軽やかな足取りで裏路地をあとにした。
〈 完 〉