あわいを往く者

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炒り豆をめぐる冒険

  
  
 耳たぶを引っ張られながら、カイが扉の向こうに姿を消した。廊下に反響した悲鳴が、ゆっくりと遠ざかっていく。
 苦笑を浮かべつつ、サンは静かに立ち上がった。ようやく訪れた二人きりの時間である。彼は今まで座っていた椅子を脇へよけ、ベッドの縁に腰をかけた。そうして、ぽんぽん、と優しくリーナの頭を叩く。
「まったく。無茶にもほどがある」
 言いたいことは山ほどあったが、それを全部彼女にぶつけるわけにはいかないだろう。そこまで考えて、サンはようやっと重要な事実に気がついた。今回の騒動において、リーナは被害者の立場にあるのだ、ということに。
 そういえば、彼女はさっきからずっと俯いたままだ。あのリーナが、ただ黙ったまま、しょぼくれているなんて。恐ろしい目に遭ったはずの彼女に、ねぎらいや慰めの言葉をかけることなく、あろうことか彼女の非を責めてすらいた自分に気がついて、サンはほんの刹那瞼を固く閉じた。
「怖かったろ。もう大丈夫だから」
 可能な限りの優しい声でそう囁きながら、静かにリーナを胸に抱き寄せる。彼女がそのまま自分に身を預けてきたことに、彼は心底ほっとした。
「……仕方がなかったのよ……」
 ぽつり、とこぼしてから、リーナが顔を上げた。
 潤んだ大きな瞳がやけに艶めかしく思え、サンは小さく息を呑んだ。慌ててわずかに視線を外し、軽く咳払いをする。
「……ん。あー、どうした? 顔が赤いけど」
「ああ、どうしよう。やっぱり?」
「やっぱり、って?」
 サンの問いに、リーナがもじもじと身じろぎした。何事か言いよどんでから、彼女は再び下を向く。桜色のうなじが、サンの目を射た。
 久しぶりに会うせいだろうか、なんだか今日の彼女はとても色っぽく思える。知らずサンは彼女を抱く腕に力を込めた。ついうっかり弾みそうになる声を抑えつつ、当たり障りのない会話を続けようとする。なんとかすぐにでもここを出て、一刻も早く宿屋にしけ込めないだろうか、と、そのことだけを考え続けながら。
 今朝早くルドスに到着したサンは、既に待ち合わせの宿に部屋をとって、荷物もそこに置いてきているのだ。あとは、リーナを連れてその部屋に直行するのみ。しまり屋の宿の親父相手に、宿泊条件の押し問答を長々と繰り広げる必要もない。
「……あのね、やばいのよ」
 会話の流れとしてありえない単語が、突然リーナの口から飛び出てきたことで、サンの夢想は強制的に中断させられた。眉間に皺を寄せながら、リーナの顔をそうっと覗き込む。
「何が?」
「飲まされたの」
「何を?」
「なんて言ってたっけ……、究極の媚薬、とかいうやつ」
「び……!?」
 絶句、そして硬直。
 動きを止めて固まったサンを、濡れた瞳が切なそうに見上げてくる。
「宝石のありかを教えろ、って。知らないって言っても、全然聞いてくれなくて。あ、やだ、なんか……」
 更に頬を上気させ、リーナが目を伏せた。微かに身体をうねらせる様子に、サンの喉がごくりと鳴った。
「…………で?」
「でね、白状させてやる、って言って、そのぉ……、薬を無理矢理飲まされて……」
 リーナがそこで一旦息を継いだ。サンはといえば、固唾を呑んで、話の続きを待つばかり。
「抵抗しようにも、両手縛られてたら呪文も唱えられないでしょ? 無理矢理、口をこじ開けられて……、仕方がないから、素直に飲み込んだわけ」
 息切れがするのか、またもリーナが大きく息を吐く。
「私が飲んだのが判って、連中は手をほどいてくれたから、とりあえず自分に『昏睡』かけて。そうやったら、薬も効きようがないでしょ?」
 ……いや、違う。息切れなどではない。高まってきた気分を逃がすために、彼女は深呼吸をしているのだ。
 そのことに思い当たってしまったサンの口の中に、再び唾が溢れてくる。
 ――まずい。
 おのれの身体の変化を自覚して、サンの背中を冷たいものが走った。ここは、神聖なるアシアスを祀る教会の、その敷地内にある治療院なのだ。更に言えば、自分は休暇中とはいえ、帝国の要を守る選ばれし近衛兵。こんなところでこんなものをおっ勃てている場合ではない。
 そんな彼の葛藤を知る由もなく、リーナがまたしても顔を上げた。そしてサンを真っ向から見つめる。……熱の籠もった目で。
「店の人は、悪い人じゃなさそうだったから……そのうちに治療院に運んでいってくれるだろう、って思ったし。その頃には、薬の効果も切れているかな、って思っていたんだけど……」
 確かに、それは良い考えだったかもしれない。サンがこんなに早く助けに来なければ。
 だらだらと冷や汗を流しながらも、どろどろとした熱い塊が身体の中で蠢き始めることを、サンは感じ取っていた。
「あ……、だめ、やっぱり、まだ……」
 甘い吐息とともに、リーナが身をくねらせる。こう見えて彼女は結構スタイルが良い。柔らかい双丘が胸に押しつけられる感触に、サンの身体を衝撃が走った。
 ――ヤっちまえよ。あの癒やし手は当分戻っては来ないだろうし、残りの癒やし手も、こちらが呼ばない限りは奥には来ないだろう。
「……まだ?」
 ――いやいや、やはりそれはまずいだろう。もしも他人に見られでもしたら、末代までのいい語り草だ。
「やっぱり、まだ、薬が……」
「……効いているんだ?」
 こくりと小さく頷くリーナのあまりのいじらしさに、サンは思わず彼女の耳元に口を寄せていた。途端に、腕の中の身体が、びくん、と跳ねる。
 誰もいない部屋、そして恐らくは、当分誰も来ないであろう部屋。
 サンは生唾を飲み込んで、大きく息を吐いた。
 ――治療院の奥の部屋。そうだ、これって、俺が何度もおかずにしている設定じゃないか? これで彼女がいつものあの白いエプロンをつけていれば、もう完璧に。
 いや、しかし! ここで踏みとどまってこそ、あとの楽しみが増すというものだ!
 そう必死でおのれに言い聞かせるサンの決意を、リーナは容赦なく揺り動かす。
「…………ごめん、サン……」
「何が?」
「……お願い、少し、離れて……。耳が……」
「耳がどうかした?」
「くすぐったい……の」
 逆効果、とはまさしくこういうことを言うのだろう。艶めかしいリーナの声に、サンの鼻息は更に荒くなった。
 おのれの呼吸に合わせて腕の中で小刻みに震える肩が、たまらない。
 一年間も待ったんだ。メインディッシュはもう少しおあずけだとしても、これぐらいは許されるだろう? 言い訳じみた思いを胸に、唇が触れるか触れないかという距離で、サンは囁き続ける。
「耳、触ってないけど?」
「でも、息が……っ、ほら、また……」
「え? 何だって?」
「や……、もう、バカっ、意地悪っ、サンなんか……っ」
 溢れんばかりの雫をたたえた瞳が、真っ直ぐサンに向けられる。切なげに震える彼女の唇に、サンの喉がごくりと大きく上下した。手のひらが一気に汗ばむのを感じながら、彼は静かに問いかける。
「俺なんか?」
 輝石の煌きが、リーナの頬をつたってサンの膝に落ちた。たった一滴の熱が、サンの身体から一瞬にして自由を奪い取る。
 言葉を失い、身動き一つできないサンの胸元、縋るようにしてリーナがしがみついてきた。
「…………だい、す、き……」
  
 熱い吐息が、サンの呪縛を解き放つ。彼はリーナの身体を強く引き寄せると、空いている手で彼女の顎をすくい上げ、唇を重ねた。
 この、何ものにも代え難い瞬間を、一年もの間彼は渇望していたのだ。
 肉体の乾きは、やろうと思えば幾らでも潤せる。例えばおのれ自身で、また例えば色町で。だが、お互いの心と心を溶かし合うこの行為だけは、彼女が相手でなければ叶わないのだ。
 そっと瞼を開けば、恍惚とした表情のリーナがサンの視界を満たす。少しだけ眉間に皺を寄せて、眠るように目を閉じ、頬を紅色に染めたリーナの顔。こんな頼りなげな表情をしていながら、今まさに彼女は激しく貪欲に自分を求めてきているのだ。
 サンの頭の奥底、一番深い部分で、ぷつん、と何かが切れた。
  
  
  
「ただいま」
「あ、お帰りなさい。どうでした?」
「丁度、警備隊に被害者が詰めていたから、すぐに手渡せたわ。盗まれた宝石も全部揃っていたみたい」
 治療院の玄関脇、職員詰所。リーナに解呪を施した癒やし手が、話しかけてきた同僚にそう答えていた。脱いだ外套を壁にかけ、背中越しに今度は逆さに問いかける。
「で、例の彼女の様子は?」
「いえ、特に問題ないみたいですよ? って、ちょっと前に来た怪我の子供に皆でかかりっきりだったから、一度も見に行ってないんですけど」
「まあ、彼氏がついているから、何かあったら言いにくるでしょうけど。ちょっと見て来ようかしら」
「本当に、どうしてまた、自分で自分に術なんてかけちゃったんでしょうねえ」
 同僚の声に軽く肩をすくめてから、癒やし手は奥へと向かった。日の光が差し込む明るい廊下を、ゆっくりと歩いていく。
  
 リーナのいる病室の前に立ち、ドアノブに手をかけた癒やし手は、何かの気配を感じ取って一歩下がった。
 ほぼ同時に、ばたん、と大きな音をたてて扉が内側から開かれる。戸を蹴破らんかの勢いで、リーナを抱えたサンが彼女の目の前に飛び出してきた。
「すみません! 治療代は明日に、必ず! 払いに来ますから!」
 酷く切羽詰まった様子で、サンが叫ぶようにそう宣言した。彼の腕の中では、上気した頬のリーナがぼんやりと彼に身を預けている。
「え、ええ。いいけど……?」
「じゃ、そういうことで!」
 癒やし手の返答を聞くや否や、サンは物凄い勢いで廊下を走り去っていく。外へ向かって。
「…………お大事にー」
 呆然としながらも、癒やし手は二人の背中に向かってひらひらと手を振った。
  
  
  
* * *
  
  
  
 明けて翌日、市の最終日。
 買い物客でごったがえす人ごみの中を、小さな人影が悠然と歩いている。鳥打ち帽を目深にかぶり、あちらこちらにさりげなく視線を巡らせて歩くのは、誰あろう、カイだ。
 助祭様のお説教などどこ吹く風といった調子で、カイは鋭い視線を前方から歩いてくる中年の紳士に絡ませる。
 そっと深呼吸して、いざ獲物に近づかんと歩調を速める彼の足が、唐突に止まった。
「身体のあちこちが痛いー」
 聞き覚えのある声に、カイは慌てて傍らの屋台の陰に隠れた。声のしたほうをこっそりと覗けば、予想通りの顔が二つ、こちらに向かって歩いてくる。
「酷いよー、一体ナニをしたのよー」
「憶えてないわけ?」
「憶えていたら、訊かないよー。大体、私、治療院にいたはずなのに、なんで気がついたら宿屋なわけ?」
「それは、まあ、色々とあって」
 昨日とは打って変わって、サンの表情はやたら晴れ晴れしく、そしてスッキリとしている。随分な変わりようじゃんか、とカイは思わず一人心の中で呟いていた。
「ああ、もう、痛いったら……」
「そんな、無理をしたつもりはないんだけど。おっかしいなあ」
 見つからないように屋台の隙間に身を縮ませるカイの目の前を、二人は横切っていく。
「絶対変なことした。そうじゃなきゃ、なんでこんなところが筋肉痛になるのよ」
「まあまあ、お詫びに何でも好きなもの買ってあげるからさ」
 その台詞に、リーナがぴょん、と跳びはねる。「本当!? じゃあね、昨日見つけたんだけど……」
 そこで、彼女はしばし動きを止めて、眉根を寄せた。
「あれ? 今、お詫び、って言ったよね? やっぱり悪いことした自覚があるんだ!」
「そりゃないだろ……」
  
 二人が完全に通り過ぎていったところで、カイはそっと物陰を脱した。人波に埋もれていく背中を見送ってから、ふう、と息をつく。
 ――なんだか知らないけど、色々大人も大変なんだな。
 大きく伸びをしてから、カイは再び鋭い瞳で人々の海へと飛び込んでいった。
  
  
  
〈 完 〉
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