あわいを往く者

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鏡にのぞめば

  
  
  
   鏡にのぞめば
  
  
  
『ナナフシ?』
 ケータイのスピーカーから、怪訝そうな声が漏れてくる。ホノカは笑いながら、違う違う、とかぶりを振った。
「ナナフシじゃなくて、七不思議。昆虫じゃないよ。うちの大学に昔から伝わっているんだって」
『銅像が動くとか、そういうやつか?』
 電話の向こうは、きっと大真面目な顔で眉間に皺寄せているに違いない。いつもいつでも真剣勝負、それが内山ヒタカという人間なのだ。つい笑顔を浮かべそうになったホノカは、慌てて頬を引き締めた。電話片手とはいえ、誰もいない部屋で、壁に向かって身振り手振りでニヤニヤ笑いをしているおのれが、ちょっと恥ずかしくなってしまったからだ。
「そうそう。全部はまだ知らないんだけど、そういうやつ」
『ふうん』
 ホノカとヒタカは、高校三年の時から付き合っている。
 奥手を具象化したようなホノカと、堅物を絵に描いたようなヒタカ。付き合い始めて一年以上経つにもかかわらず、彼らはまともに手を繋いだことが一度もない。
 そんな亀のごとき二人の歩みは、ヒタカが東京の大学に進学したせいで、更にペースダウンしてしまうこととなった。関西と関東、五百キロメートルの距離を越えて電波が運ぶのは、甘さからはほど遠い、他愛もない会話のみ。それでも彼らは――少なくともホノカは、こうやって同じ時間を彼と共有できることがとても嬉しかった。
「とりあえず聞いた限りではね、南門の前にある大きな球状のオブジェが夜中にゴロゴロ転がるとか、構内の池に牛サイズのウシガエルがいるとか、それから、不思議なものを映す大鏡とか」
 受話器越しに、ヒタカの考え込む気配がした。眼鏡の位置を直すあの仕草が、ホノカの脳裏で像を結ぶ。
『そういえば、うちにもそういう話があるな。大鏡の話が』
「へぇー」と、相槌を打ってから、ホノカは一瞬だけ躊躇った。「ヒ……内山君、のとこにもあるんだ、同じようなのが」
『大宮さんのところみたいに、七つ揃っているかは知らないが』
 ――オオミヤさん。
 二人きりの電話の時ぐらい、下の名前で呼んでくれないかなあ。そう肩を落とす一方で、ホノカの口元には苦笑が刻まれていた。そう、自分もできなかったことを相手に要求してどうするんだ、と。
 ためしにもう一度、胸の中で「ヒタカ」と呼んでみて、あまりの気恥ずかしさにホノカは思わず傍らの机の上に突っ伏してしまった。
『大宮さん?』
 心配そうな声がホノカの耳元を撫でる。そっと、優しく。
 名前だの苗字だの、そんなことはもうどうでも良くなって、ホノカはにやけながら、いそいそと身を起こした。
「あ、ごめん、ちょっとぼんやりしてた。ねえ、そっちの鏡は何が映るの?」
『……大宮さんのところのは?』
 まさかのサーブリターンに、ホノカは少しばかり狼狽した。しばし逡巡したのち、用意しておいた答えをなんとか引っ張り出す。
「確か『未来を映す鏡』だったかな」
『怪談の、死に顔が映る鏡、の亜流か』
「いやまあ、確かにそれも『未来』だけど」
 包含関係が逆だよ、とホノカが突っ込むと、ヒタカが小さく笑う。
『やっぱり、決まった時間に何かが映る、ってパターンなのか?』
「うん。夜中の零時ジャストに一瞬だけ、だって。やっぱり日本標準時なのかな」
『グリニッジだったりしてな』
 ヒタカの、いつになく冗談めいた口調に、ホノカはつい笑い声を上げた。
「日本、真っ昼間じゃん。ギャラリー鈴なりで検証されまくってしまうよ」
『確かに』
 自分が言ったジョークを真顔で〆るのは、ヒタカの得意技だ。
 本当に内山君はどこで切っても内山君だなあ、と心の中で呟いて、それからホノカはそっと息を吸った。
「でさ、……見に行ってみようかなー、って思って」
『え?』
「実は、大学祭の準備で、明日遅くなりそうなの。で、もういっそ学校に泊り込んじゃおうか、って友達と言ってて。なら、ついでにその鏡を見に行ってみようかなーって」
 受話器の向こうに静寂が降りる。
 物好きな、とか何とか言われるかな、とホノカが身構えた時、ヒタカが口を開いた。
『どこにあるんだ、その鏡。危なくないのか?』
 ――心配してくれてありがとう。
 ホノカはそっと目を伏せた。
「学食の入り口のところ。すぐ隣が皆のいる学生会館だし、大丈夫だよー」
『そうか』
「もしも何か見えたら、報告するし!」
『気をつけてな』
  
  
 次の日、深夜十一時五十分。ホノカは文学部一号館の入り口にいた。
 実験等で昼夜問わず学生が出入りする理系学部と違って、文学部の建屋は夜間施錠されていることが多い。だが、今夜は目前に迫った大学祭に備えて、会場となる校舎は全て夜通し開け放たれていた。
 どこか上のほうの階から、祭の準備に勤しむ賑やかな声が聞こえてくる。蛍光灯の光に煌々と照らされる廊下を、ホノカは黙々と進んでいった。目指すは、一番奥まった所にある吹き抜けの階段だ。
 実は、ホノカが耳にした七不思議に、鏡ネタは二種類あったのだ。
 一つは、学食のロビーにかかる大鏡。昨夜の電話でホノカがヒタカに語ったのは、こちらである。夜中の零時に鏡面が一瞬だけ未来と繋がる、というふれこみだ。
 そしてもう一つが、ここ文学部の中央階段の踊り場にある大鏡。こちらが夜中に映すのは……
「今一番会いたい人、か……」
 そんなこと、あまりにも恥ずかし過ぎてヒタカに言えるわけがない。廊下を歩きながら、ホノカは上気する頬を両手で押さえた。
 勿論ホノカだって、鏡がおのずから何かを映し出すなんて非科学的なことを、頭から信じているわけではない。
 それでもホノカは見たかったのだ。たとえそれが見間違いでも、幻でも。彼女は自分の気持ちを、自分が本当にヒタカを想っているということを、確かめたかったのだ。
 毎日会える、いつでも会える、そんな気安い日々から一転しての遠距離恋愛。日常に追われて日々を過ごすうち、ヒタカのいない生活が当たり前になっていく……。
 なんだか急に心細くなって、ホノカは慌てて頭を振りたくった。大きく息を吐き、ぎゅ、と口を引き結び、そうして彼女は目の前の階段を静かに見上げた。