あわいを往く者

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天穹に詩う

  
  
  
 それから毎日のように、彼は治療院に姿を見せるようになった。
 彼は、名をヒューといった。遥か東方から幾つもの国境くにざかいを越え、魔術の修行をしにルドスへとやってきたとのことだった。
 ルドスは、その名のとおり、かつてこの大陸を統べたルドス王国の都だったと謂われている。古代ルドス魔術の発祥の地でもあり、城内に建つ魔術院の書庫には、呪文書の原本が保管されているとの噂だ。
 そんな聖地ともいえる街で本場の魔術を修業したい、そう考える者は決して少なくなく、ルドスの魔術学校には、単元別に細分化された短期講座が幾つも用意されていた。彼らは、自らの技能と懐具合に見合った講座を選んでは、路銀が尽きるまでここで修行に没頭するのだ。
 土地の者ですら充分な仕事が見つからぬ昨今、ヒューは相当慎ましい生活を送っているようだった。教会に出入りするようになったのも、治療代の代わりに労働力を提供するためだったらしい。
 畑仕事の合間などにマニの姿を見かける都度、ヒューは屈託なく声をかけてきた。少し離れた場所から大きな声で手を振ってくるヒューに、マニは慣れないながらも見よう見まねで挨拶を返すようになった。
「あんだけ元気じゃ、あいつ、また助祭様に追加で仕事ふっかけられるよ、きっと」
 同僚の癒やし手が、珍しくも楽しそうに笑いながらマニに話しかけてきた。「……ほーら、来た。見てな、『なんだ、まだまだ働き足らないようだな』」
 彼女の声真似と、助祭の声とがぴったりと重なって、マニは思わずふき出してしまった。
 それを見て、同僚がマニの背中をぽん、と叩く。
「さ、私らも、仕事、仕事」
「……あ、はい!」
 とても自然に言葉を交し合えたことに、マニは胸の奥が温かくなるのを感じた。
  
  
  
 その日は、朝から街中が大騒ぎだった。街の西側、山岳地帯で大きな崩落があり、巻き込まれた農夫や牧童の救出が、自警団によって行われていたのだ。
 治療院の癒やし手達も、総出で怪我人の救護に向かっていた。そんな中、マニは自ら留守番を買って出た。一刻を争う現場において、自分の存在は足手まといにしかならないということを、充分に自覚していたからだ。
 同僚達を見送るマニの胸中は、不思議なほどに穏やかだった。今は留守を守るのが私の仕事なのだ。そう素直に思うことができた。
  
 昼を過ぎた頃、ヒューが治療院にやってきた。職員の大半が出払っていることを聞きつけ、授業がひけるや否や駆けつけてくれたのだ。
「癒やしの術は使えないけれど、雑用ぐらいはできるからね」
 何を手伝ってもらおうか、とマニが思案していると、詰所の外から、子供の激しい泣き声が聞こえてきた。
 尋常ならざる様子で泣きじゃくる声に、マニは驚いて、戸口に向かった。と、彼女の目の前で扉が勢いよく開き、血相を変えた助祭が部屋に飛び込んできた。
 助祭は、七、八歳ぐらいの子供を抱きかかえていた。服を朱に染め、狂ったように泣き叫ぶ男の子を。
「助祭様!?」
「とにかく、止血だ」
 言うが早いか、助祭は傍らの長椅子に子供を横たえた。
 恐慌をきたしているのだろう、自由になった手足をばたつかせて、子供は泣き続ける。その動きに合わせて、鮮やかな赤が辺りに点々と飛び散った。
「これは、一体」
「この馬鹿が、そこの物見櫓で遊んでいたのだ。子供が勝手にのぼるなと、あれほど言っておったのに。案の定上から落ちかけよってな、なんとか柱にしがみつき辛うじて落下せずにすんだが、建材に腕を挟んでこのとおりだ」
 そう言っている間も、子供は一向に泣き止もうとしない。押さえ込もうとする助祭の手を振り払っては、泣き喚き続ける。
「ヒュー、手を貸せ。足を押さえつけろ。マニはいつもの籠を」
 慌てて戸棚に向かうマニの背後、ヒューが子供をなだめる声が聞こえる。
「ほら、いい子だ、もう大丈夫だよ、落ち着いて、落ち着いて。……って、全然聞こえてないですね……」
「とにかく、こいつを大人しくさせなければ止血もできん。マニ、おぬしはまだ『昏睡』を使えないのだったな?」
 応急手当用具一式が入った籠を手に戻ってきたマニは、下唇をきつく噛みながら、「はい」と一言を絞り出した。
 助祭の手元、痛い痛いと喚きながら、子供が何度も身をよじる。
「ある程度血が止まらんことには、『治癒』も効かんし……。そうだ、ヒュー、おぬし魔術師だったな。『睡眠』の術だ」
 その一瞬、ヒューの身体が強張ったのが見てとれた。彼は、滅多に見せない難しい顔で何事か考え込む。
「まさか……、『睡眠』は初級中の初級の術と聞いたが」
「いえ、勿論使えますよ」
 ふう、と大きな溜め息を吐き出したヒューは、泣き喚く子供の顔を覗き込んだ。
「この子の名は?」
「ガーランという」
「手を、離してやってください」
 助祭は一瞬不安そうな表情を浮かべたものの、静かに頷いてヒューの言葉に従った。
 戒めがなくなった途端、子供が再び四肢をばたつかせて暴れだした。
 マニは、思わず息を呑んだ。一体ヒューはどういうつもりで、助祭に手を離せなどと言ったのだろうか。このままでは、どんどん処置が遅れてしまうではないか。
 心配するマニをよそに、ヒューは至極落ち着いた様子で子供のほうへ身を乗り出した。
 そして、正面から彼を抱き締めた。そっと、優しく、そしてしっかりと。
「いい子だ、ガーラン。もう大丈夫だから」
 耳元に口を寄せ、ヒューは囁くように語りかける。頬に頬をすり寄せ、抱きかかえた頭を撫でながら、大丈夫、大丈夫、と繰り返す。
 ほんの僅か、子供の泣き声が小さくなった。
 辛抱強くヒューが頭を撫で続けるうち、やがて、泣き声にしゃくりあげる音が混じりだした。手足の動きも、少しずつ収まり始めている。
 息を詰めていたマニの口から、安堵の溜め息が漏れた。
「だが、このままでは治療を始めるとまた暴れだすぞ……」
 助祭の声に軽く頷き返してから、ヒューは子供を抱き締めたまま、なにやら両手の指を複雑に動かし始めた。穏やかな旋律が辺りにたゆとうたかと思えば、やがて子供は、コトンと眠ってしまった。
「よくやった」
 間髪を入れず、助祭が動く。子供の左腕、ぱっくりと開いた傷口を閉じさせるようにしてガーゼを当て、その上から腕を握り締め、止血を行う。
 助祭に場を譲り身を起こしたヒューの服には、あちこちに血がついてしまっていた。
「どうしましょう、服が……」
「もともと襤褸みたいなものだったし、気にしないで」
 にっこりと微笑むヒューの眼差しがとても優しくて、マニは息が詰まりそうになった。辛うじて「ありがとうございました」と絞り出し、深々と頭を下げる。
「時に、おぬし、どうしてすぐに術を使わなんだ?」
 ならば、服を汚さずにすんだだろうに。そうつけ加えて、助祭が怪訝そうに首をひねった。
 確かにそのとおり、とばかりにマニも大きく頷いてみせる。
「魔術師の術って、癒やしの術と違ってやたら攻撃的なんですよ。同じ眠らせるにしても、『昏睡』は、こう、すうっと眠りに落ちる感じだけど、『睡眠』ってのはかなり乱暴で、力任せにガツンと意識に蓋をさせる。だから、被術者が興奮状態にあると、術の衝撃がかなり大きくなってしまうんです」
「それで、術の前にこいつをまず落ち着かせようとしたのか」
 なるほどなるほどと頷いたのち、助祭が悪戯っぽく口の端を引き上げた。「ヘッポコのくせに、よく知っているな」
「色々条件を変えては自分でも試してみたんで」
 ヒューは少し照れたような表情で、だが誇らしげに胸を張った。
「そこまでせずとも良かろうに。そんなことをしているから、いつまでたっても位が上がらないんだろう? 収穫祭までもう日が無いぞ」
 呆れたように、助祭が肩を落とす。
 ふと引っかかるものを感じて、マニはおずおずと口を開いた。
「収穫祭に何かあるんですか?」
 マニの言葉を聞いた瞬間、ヒューの瞳が僅かに揺れた。それから彼は、顔を窓の外へ向けた。まるでマニの視線を避けるかのように。
「そろそろ、手持ちが尽きるんでね。冬が来る前に故郷くにに帰ろうかと思って」
 そう言って口をつぐむヒューの横顔を、マニはただ黙って見つめ続けた。