あわいを往く者

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Logical Valentine

  
  
  
   Logical Valentine
  
  
  
「さて」
 ふう、と大きく息を吐いて、彼女は袖まくりをした。ステンレスの流し台の上に展開する諸々をゆっくりと眺めてから、勢い良く振り返り、カウンターの上の小冊子を覗き込む。
 ――ええと、なになに? まずはチョコを包丁で小さく刻む、と。
 自宅通学の大学生、お菓子作りはおろか料理も一人ではまともにこなしたことがない状態で、いきなり高度な目標を掲げるのは無謀だと自認している。
 ――溶かして固めるだけ、でも一応手作りってことになるのかなあ?
 市販のチョコレートにも「原材料、チョコ」と書かれているものもあるじゃないか。最初は誰しもこんなものだ、と彼女は自分で納得することにした。
 よし、刻むぞ、と彼女は包丁を取り出した。一応母の手伝いは日常的に行っている。それなりに慣れた手つきで包丁を動かせば、ペレット状のチョコレートがガキガキと砕けていく。当然の結果として、かけらが幾つか辺りに飛び散った。
 彼女は慌てて手を止めると、今度は慎重に刃を動かし始めた。そうっと、そうっと、ペレットを少しずつそぐような手つきで、チョコを小さく刻む。確かに破片は飛び散らなくなったが、作業を終えた時には、彼女の肩はすっかり凝り固まってしまっていた。
 ――お菓子作りって、体力が要るんだなあ……。
 とんとん、と肩を叩いて、次の手順へ。刻んだチョコをボウルに入れ、湯せんにかける。湯の温度は五十度で、チョコの温度は四十五度まで。
 ――気温が十八度でしょ。熱傾斜がこれだけあったら、これ、チョコが溶ける間に、絶対湯温が四十五度切ってしまうよ……。
 だが、お湯を五十度で保温しておく手段がない。
 ――IHヒーターじゃなかったら、なんとかなりそうなのになあ。
 アルコールランプあたりを熱源にして、距離を離せば湯温を保つことが可能かもしれない。だが、手が塞がっていてはチョコをかきまわすことができない。温度計でモニタする必要もある。
 ――化学室にあったようなユニットスタンドが欲しいなあ……。平台スタンド二つ、いや、一つだけでもいいや。クランプで鍋を支えて、温度計ホルダつけて……。
 そんなことを考えている間に、お湯が沸いてきてしまった。しまった、と温度計を差し入れると、目盛は八十度。
 彼女は、深い溜め息をついて、作業用の椅子に腰かけた。
  
 よし、五十五度まで下がってきた。ボウルに熱を奪われることを考えたら、これぐらいでいいよね。
 湯せん開始。
 おお、溶けてきた溶けてきた。ヘラで混ぜながら溶かすのね。
「チョコの温度が四十五度になったら湯せんから外し」って、混ぜながら温度計どうやって見たらいいの?
 いや、それより、お湯の温度、今何度だろう。って、うわあ、温度計にチョコがー! お湯の温度測れない!
 やっぱりそれよりもチョコの温度! 四十三度、四十四度、よし、湯せんから上げて……
 次は水のボウル……、二十五度になるまで、ゆっくり混ぜ……混ぜ……、何かあっという間に粘性が高くなってきたんだけど。混ざらないんだけど!
 ああああ、もう二十五度だ! 何だか上手く混ぜられなかったけどいいのかなあ。
 で、今度は混ぜずに再び湯せんで三十度? 何この手順、どういう意味があるの?
 ああ、三十度になっちゃった。ヘラで良く混ぜてつやを出す、って、こんなに手応えがあっていいの? これ混ざるの?
 型にチョコレート液を流し入れ……って、流れない。液じゃない。これペーストだよ、ええええ、何が起こってるのー!?
  
  
「はい、これ」
 仕事帰りの彼と待ち合わせた、ショッピングモールの屋上庭園。幻想的なライティングに照らされた木々の陰の、小洒落たベンチにて、彼女は小さな包みを手渡した。
「ありがとう」
 眼鏡の奥の彼の瞳が、ほんの一瞬だがとても優しく微笑んだ。それだけで彼女は、天にも昇る心地になる。
「これからもよろしくお願いします」
 本当は、もう少し軽く「食べてね」とか「美味しいよ」とか笑って渡すつもりだったのに。つい予定外のことを口走ってしまって、彼女は一人わたわたと狼狽した。重い女だと思われてしまったらどうしよう、と。
「ああ、こちらこそ、これからも頼むよ」
 柔らかい声が、そっと囁いた。
 自分の顔が一気に熱くなるのが、彼女には分かった。赤いライトのせいだと思ってくれないかな、なんて余計なことを考えている間に、彼がチョコの包みをがさがさと開け始めたため、彼女は血相を変えてその手に飛びついた。
「あ、あの、これ、家に帰ってから、開けてください!」
 怪訝そうな表情で、彼が手を止める。
「何故?」
「え、えっと、そう、お家で珈琲とかと一緒に、ゆっくり味わってほしいから!」
 恥ずかしいから、なんて言った日には、何がどう恥ずかしいのか説明させられるに決まっている。彼女は、必死の形相で彼の手を押さえ続けた。
「……味わって、ねえ。まあ、そうだな、デザートはデザートとしてあとでじっくり楽しむことにしようか」
 ほっとして手を引いた彼女の肩が、そっと抱かれた。
「今はメインディッシュをいただくとするかな」
 ぐい、と力強い腕が、彼女を引き寄せる。
 幻燈のように闇に仄かに浮かび上がる木の葉を背景に、二つの影が一つに重なった。
  
  
 帰宅した彼が真っ先にしたのは、電子レンジの上で埃をかぶっていた珈琲サーバを洗うことだった。
 戸棚の奥からミルを取り出し、買ってきた豆を挽き始める。
 テーブルの上には、ラッピングをほどかれた個性的な形状の一口チョコ。添えられたカードには、見慣れた文字で、『小惑星型チョコです。イトカワもあるよ』
 ――あの場でこれを開けなくて良かった。
 そう胸の奥で呟きながら、彼は心置きなく口元を緩ませた。
  
  
  
* * *
  
  
  
「あのさ、チョコレートのテンパリングって、知ってる?」
 いつもの喫茶店に落ち着くや否や、そう彼女が問いかけてきた。
 学部最後の試験期間が終了した翌日、珍しく彼女のほうからデートのお誘いがあった。時期が時期だから、と期待していたら、この台詞である。確かにチョコの話題には違いないが、女が自分の恋人に振る内容としてはどうなんだろう。相変わらず規格外な彼女の言動に驚いたものの、彼はすぐにいつもの調子を取り戻して、にやりと笑った。
「知ってるさ」
 敵わないな、と肩を落とす彼女に、彼は更に追い討ちをかけた。「昔、バレンタインに作ったことあるからね」
「へえ、流石だね」
 あっさりと返されて、彼は少しだけ拍子抜けした。しかし、すぐにこれが当然の反応であることに気づき、気を取り直す。
 男がバレンタインチョコを作るということぐらいで、固定観念フリーな彼女がびっくりするとは思えない。それに、過去に誰かチョコを贈る人がいたのかと訊く以前に、彼女は彼のかつての悪行を既に幾つか知っている。
 でも、もう少し可愛げのある反応をしてくれてもいいのに、と心の中でだけ拗ねながら、彼は彼女の話に付き合うことにした。
「あれ、面倒だよな。少量のチョコじゃ温度管理が上手くいかないから、沢山作らなきゃいけないし」
「ああ、そうか!」
 彼女がぽん、と両手を打った。その拍子に癖のない長髪が、思わず指を絡ませたくなるほど気持ち良さそうに揺れる。
「なるほどね。あっという間にチョコの温度が下がっていくから、これは世間の人は大変だろうな、と思ってたんだ」
 完全に他人事のような口ぶりに、彼は不思議そうな顔を作った。
「世間の人?」
「ああ、私は酒燗器使ったから。30度から60度まで無段階で温度調節できるやつ」
 日本酒とチョコレートという取り合わせに、つい眉を寄せてしまった彼だが、ほどなく我を取り戻して小さく咳払いした。どうにも彼女には色々と引っ掻きまわされる。これだから天然モノはタチが悪い。
 まあ、だからこそ、ベッドで報復する楽しみが増すというものだが。
「カカオバターの結晶構造は、四種類あるからね」
 彼女を試すようにそう言ってみると、果たして、事も無げな頷きが返ってきた。
「そうそう。一番不安定な結晶が、一番融点が低いからややこしいんだよなあ。途中まで急冷してまた加熱して、って面倒過ぎる」
 そう言う彼女が、本当にげんなりした表情をしていることに、彼は少しだけ嬉しくなった。面倒だとぼやきつつも、この自分のために彼女はそれだけの手間をおしてくれたのだ。
「まあ、それぞれの融点に五度以上開きがあるから、まだましじゃないか?」
「まあね。正確で反応の良いセンサーがあれば、もっと楽だったんだけど」
 手作りチョコを渡す前口上としては、甚だ風情のないノリであるが、彼女らしいと言えば彼女らしいかもしれない。彼は、半分菩薩の境地で彼女との会話を楽しむことにした。
「プロは、チョコの見た目だけで反応が分かるらしいよ。実際、僕が作った時も、何となく温度計を見るタイミングが読めたし」
「へぇ!」物凄く感心した眼差しで、彼女が見つめてくる。「私は全然分からなかったよ。何度、諦めようと思ったことか」
 相槌を打つに打てず、彼はとりあえず片眉を上げた。
「でも、結晶構造の違いって、どこまで味に影響するんだろうね。混ぜ物した場合とか、特に」
 何だか話の行く先が不穏になってきたように思える。知らず彼の喉がごくりと鳴った。
「……混ぜ物?」
「リキュールとか、ナッツとか」
「あ、ああ、そうか。うん、確かに、それらが入るとまた変わってくるかな。そもそも味覚自体が曖昧なものではあるから……」
 なんとなく落ち着かない気分で彼がそう返すと、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて「だよね!」と身を乗り出してきた。それから、横の椅子に置いた紙袋に手を突っ込んで、がさごそと何かを探っている。
 ジャーン、なんて効果音まで口にしながら、彼女が取り出したものは、可愛いリボンで口を閉じた透明の小袋だった。見れば、中にはチョコと思しきものが二つ入っている。それが、なんと十数個も、次々と姿を現したのだ。
「これが、正しくテンパリングしたベータ型結晶のチョコ。それから、これが、ガンマ型結晶中心に再結晶したチョコ。これが、アルファ型。これがベータプライム型……じゃなくて、それはこっちだ。これは、ベータ型のアーモンド粉末入り。これが、同じくベータ型のブランデー入り。これが生クリーム入りで、ええと、アルファ型。それからこれが……」
  
 耐えきれなくなって、とうとう彼は盛大にふき出してしまった。
 どうやってこのお礼をしてやろうか、と、このあとの計画を練りながら、彼は目尻に涙を浮かべて肩を震わせ続けた。
  
  
  
* * *
  
  
  
 郵送、は変だよね。
 手渡し、は無理だし。
 今度会った時に、は……ちょっとあんまりかな。
  
 時刻は夜十時。ケータイを握り締めながら、彼女は大きく嘆息した。ちら、と見やった机の上には、綺麗にラッピングされたチョコレートの包みがある。二月に入ってすぐにデパ地下で買っておいたものだ。
 彼とは、殆ど毎晩電話かメールをしている。なのに、買ってからもう十日を過ぎるのに、彼女はチョコのことを言い出せずにいた。
 ――手渡しできれば、いいんだけどなあ。
 自分も彼も、丁度後期の試験が終わる頃である。息抜きがてらデート、なんて考えただけでも心が弾む。……ただし、二人を隔てる五百キロの距離がなければ、だ。
 いくら時間に融通の効く大学生と言えども、この距離はいかんともしがたい。貧乏暇なし、とはよく言ったものだが、この場合「対偶」は必ずしも「真」ではないのだ。
 ――自分が行けないのに、来いなんて言えないもんね……。
 ふう、と何度目か知らぬ溜め息を吐き出したとき、ケータイが震えだした。彼女は慌ててケータイを開いた。
『もしもし』
 いつもの名乗りのあとに、低い優しい声が彼女の鼓膜を震わせる。
「試験終わった?」
『あと語学が一つ残ってる』
「ドイツ語?」
『英語』
「じゃあ、楽勝じゃん。私はもう終わったよー。でも、レポートがあと一つだけ」
『何の?』
「ドイツ語」
『楽勝……だったらいいな』
「そこは、嘘でも楽勝って断言してよ」
 電話の向こうが、微かに笑う気配がする。
 声だけでもこうやって繋がっていられるということの、なんとありがたいことか。春休みには会えるんだから、これ以上贅沢を言ってはいけないな、と彼女はそっと目を閉じた。今年はチョコを渡すのは諦めよう、と。
『レポート提出はいつ?』
「明々後日」
『二月十四日か』
 にがつ、じゅうよっか。
 せっかく落ち着きはじめた心が、また揺り動かされる。
 どうしてそこでわざわざ日付で復唱するのよ。八つ当たりめいた気分で、彼女は思わず呟いてしまった。
「そ、二月十四日。バレンタイン・ディ」
 あれだけ話題に出すのを悩んでいたのに、いざ言ってしまうとそれはやけにあっけないものだった。こんな些細なことに、自分はあんなに悩んでいたのか、とますます悲しくなる。もういいや、と開き直りつつ、彼女は投げやりに言葉を継いだ。
「どうしよう? チョコ、送ろうか?」
『いや、送らなくていい』
 容赦のない言葉が、彼女の耳に飛び込んできた。
 それは、予想もしていなかった拒絶の言葉。彼女は大きく息を呑むと、言葉もなく立ち尽くした。
 自分の好意は必要ではない、と、その好意を受け取ることはできない、と、今、彼はそう言っ……
『チョコは、今度会う時でいい。それよりも、こうやって今、話せることが嬉しい』
「……え?」
『それに、宅配便の人から貰うよりも、君から貰うほうが良い』
 たぶん、電話の向こうはいつもどおりに大真面目な顔で、こっちが青くなったり赤くなったりしているなんて思ってもいないんだろう。
 彼女はすっかり嬉しくなって、ケータイ片手に傍らのベッドに勢い良くダイブした。
  
  
  
* * *
  
  
  
「あれ? このチョコ、どうしたの?」
「何だよ姉ちゃん、わざわざ家捜しに来たわけ?」
「そんな所に出しておいて、見るなってほうが無理よ。内緒なんだったら、隠しなさいよ」
「まさか、急に姉ちゃんが朝早くから押しかけてくるなんて、思ってなかったし」
「ゴメンねー。だってこのアパート、丁度空港からの帰り道にあるでしょ? お土産置いて行くのに丁度良いかなー、って思って。要らなかった?」
「あ、まあ、その件についてはとてもありがたく思ってマス」
「で、誰にあげるの? このチョコ」
「誰にもあげないよ。自分で食うの」
「ええええ? でも、綺麗にラッピングしてるじゃない」
「そんなの、勝手に店がラッピングしてくれただけだよ」
「あ、まあ、そうか……」
「なんだよ、そのあからさまなガッカリ顔は」
「いや、だって、我がカワイイ妹君にも、とうとう春が来たのかと……」
「来ねえよ」
「でも、少ーしぐらいは気になる人が……」
「いねえよ」
「ああ、喜んで損した……」
「いいじゃん、免疫力がアップしたんじゃないの? それよか、姉ちゃんも一緒にチョコ食べる?」
「ああっ、そんな、せっかくのラッピング破って……!」
「要らないんだったら……」
「食べる食べる。白いほうのトリュフ一個ちょうだい」
 なんだかんだ言いつつ幸せそうにチョコを頬張る姉を見つめて、それから彼女は窓の外を見やった。
 ふう、と一つ小さく溜め息をついて、それからにやりと笑みを浮かべると、自分もチョコの箱に手を伸ばした。
  
  
  
〈 おしまい 〉