あわいを往く者

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黒の黄昏 第二話 春の嵐

  
  
  
    四  思惑
  
  
 朝が来ても、嵐は一向に弱まる気配がなかった。激しい雨が屋根を打つ音に混じって、時折雷鳴が空気を震わせている。日の出をとうに迎えているにもかかわらず、家の中はまるで夜明け前のように薄暗い。シキは、オーブンから取った火で食卓の上のランプを灯した。
「先生、遅いな。まだ寝てんのか?」
 当番のレイが鍋をかきまわしながら首をかしげた。
「呼んでこようか」
「いや、いい。俺が行く。シキは火を見ててくれ」
 何やら慌てたようにそう言って、レイが食堂を出ていった。シキは言われたとおりにオーブンの前に立つ。天板に置かれた鍋の中では、タマネギのスープがぐつぐつと美味しそうな匂いを辺りにふりまいていた。
 ふとスープをかき混ぜる手を止めて、シキは窓を見やった。空一面を覆い尽くす暗雲に、雷光が遠く閃いている。しばし無言でシキは窓の外を見つめ続けた。
 得体の知れない胸騒ぎが、昨夜から彼女を苛んでいた。何かは解らないが漠然とした不安感が、胸の奥にみつしりと詰まっている……。
 ――こんな鬱陶しい天気では、気分が沈んでしまうのは当たり前だから。
 そう無理矢理自分を納得させようとしたシキを、廊下の向こうから響くレイの声が打った。
「シキ! ちょっと来てくれ! 先生が!」
 彼のただ事ならぬ声の調子に、シキは椅子にぶつかりながら部屋を飛び出した。
  
  
 不機嫌そうな表情で、レイが手水鉢ちょうずばちを運んできた。同じく憮然とした顔で、シキがタオルを絞る。
 彼らの非難めいた視線の先には、寝台に横たわるロイ・タヴァーネスの姿があった。汗にまみれた銀髪を額に貼りつけ、時折咳き込んでは、荒い呼吸を繰り返している。シキが額に濡れタオルを乗せると、彼は少し決まり悪そうな様子で、おのが弟子達に視線を向けた。
「……面目ない」
「バカだ」
「バカです」
 即座に、二人の弟子が口を揃えて同じ言葉を吐き出した。ロイは力無く苦笑する。
「……君達、仮にも師に向かって……」
「バカをバカと言って何が悪い」
「こんな天気の中を無理して帰ってくるからです」
 ごもっとも、という表情で、それでもロイは反論する。
「私だって、雨に打たれる趣味はないさ」
「趣味があろうが無かろうが」
「長旅で疲れている時に雨中行軍なんて」
「自己抑制ができていないぞ」
 絶妙のコンビネーションで言葉を繋げる二人の、声を揃えての最後の台詞が自分の口癖だと気がついて、ロイは大きく溜め息をついた。
「ありがとう、君達の気持ちはしかと受け取らせてもらったよ」
 冗談めかしてそう言ってから、ロイは大儀そうに身を起こした。そのまま立ち上がろうとしたが、案の定ふらりとバランスを崩す。慌てて駆け寄ろうとしたシキを押し退け、レイがロイを支えそっと寝台に座らせた。
「また倒れるぜ、凄い熱なんだから」
「……面目ない……しかし……」
「……一体、何の用があると言うんですか」
 先刻寝台の脇に倒れていたロイを助け起こした時、彼は制止する二人の弟子を振りきって、出かける準備をすると言い張った。サランで人を待たせている、と。もっとも、ロイはまたすぐに平衡を失って床に倒れ込み、現在に至るというわけだが。
 シキの問いには答えず、ロイは冷たいタオルで目元を押さえた。熱のせいだろう頬は燃えるように赤く、肩で息をしながら寝台に座り込むその様子はかなりつらそうだ。
 どんな用事があるというのか、そして何故言い渋るのか。ロイをしてあの嵐の中へと足を踏み出さしめたものとは、一体何なのか。
 レイが心底不思議そうに、おずおずと口を開く。
「……俺が、代わりに行って来ようか?」
 ロイはゆっくり顔を上げると、レイの目を静かに見返した。何かを見定めようとするかのように、おのが弟子をじっと見つめ続ける。
「あ……いや、あの、えっと、俺にできる事ならば、だけど……」
「そうか……。そうだな。レイに頼もうか」
「こんな嵐の中を? 危険過ぎます!」
 抗議の声を上げるシキを軽く左手で制すると、ロイは真っ直ぐレイのほうに向き直った。
「サランの町に行って、ある人物と会ってほしい」
「ある人物? 会って、どうするんだ?」
「探し物を依頼していた古物商だ。頼んでいた品物を受け取りに行ってほしいのだ」
 ロイは大儀そうに大きく息をついた。
「探し物?」
「ここに届けてもらうわけにはいかなかったのですか?」
「こんなことになるのが解っておれば、そうしたがね」と、再度大きな溜め息を吐き出して、「少々注意を要する事柄なのだ。これ以上は察してくれたまえ」
 ロイの州都への出張理由について、二人は何も聞かされていなかった。が、仮にも元宮廷魔術師長を州都まで遠路はるばる呼びつけるのだ、それ相応の権力者がその周辺に存在するのは確かだろう。うやむやにされてしまった感は拭えなかったが、とりあえず彼らは神妙な顔で了解の意を表した。
「では、くれぐれも頼んだぞ、レイ」
 そう言ってロイは静かにレイを見つめた。
  
  
 大粒の雨が外套を打つ。風は少し収まってきていたが、雨脚は一向に衰える気配を見せない。
 帰途のための馬を牽きながら、レイはぬかるむ街道をゆっくりと歩いていた。まだ昼前だというのに、辺りは薄暗い。まるで沼の底を歩いているかのようだ。
 その古物商は多忙な人物ということだった。明日の早朝にはもうサランを出てしまうらしい。ならばイを通過する時に捕まえては、とのシキの提案はあっけなく却下された。くだんの人物が街道を通らない可能性があるから、という師の言葉に、二人は眉間に皺寄せ顔を見合わせた。国土の東端、最果ての地に位置するサランは、北に荒地、東に砂漠、南には樹海、とまさしく袋小路な地形に位置するのだ。この街道を使わずに一体どこへ至るというのか、シキもレイもひたすら首をひねるばかりだった。
 一面の水溜り、深い泥に足を取られながら、レイは黙々と歩みを進めた。半ば好奇心から使いを名乗り出たものの、彼は今激しく後悔していた。
 イからサランまでは、普段ならば馬で半日もかからない。道も比較的平坦だし、途中の森はかつて子供の頃にシキと遊びまわった「我が庭」だ。だが、横殴りの雨の下で見る街道はまるで別物だった。轟く雷鳴を怖がっていななく馬をなだめながら、レイは絶望的な気分でのろのろと街道を進んでいった。
  
 レイがサランの町の門をくぐったのは、もう日付も変わろうかという夜中だった。レイは疲れきった体を引きずるようにして、師匠に教わった宿屋を探して通りを彷徨った。
 サランほどに大きな街ともなれば、深夜であっても表通りには人の行き来が絶えない。一般の商店はとっくに店を閉めている時間だったが、酒場や宿屋は未だ煌々とした灯りを通りに投げかけ、小降りになった雨がそれらの光に眩しく煌めいていた。
 待ち合わせ場所である「六つの靴」亭は、酒場を兼ねた小ぢんまりとした宿屋だった。靴が六足、何故か片方ずつ描かれた看板が軒先で風に揺れている。レイは裏手に回って厩に馬を結わえると、店の扉をゆっくりと押し開けた。
 薄暗い店内は思いのほか広々としていた。余計な装飾が無いことが、そう見せているのかもしれない。愛想のない殺風景な室内にはテーブル席が四つ、すぐ右手とその奥に杯を傾ける客が二人。そして頬に大きな傷のある大男が、カウンターの向こうで居眠りをしていた。
「一部屋、一晩空いているかな」
「ん? ああ、一番安い部屋なら一つ空いているな」
 前金をカウンターの上に置きながら、レイは宿屋の主人に尋ねる。
「でさ、ここに、『月の剣』って人がいるはずなんだけど」
「俺だ」
 レイが静かな声に驚いて首を巡らせば、部屋の隅、カウンターの陰に隠れるようにしてもう一つのテーブルがあった。
 さっき店に入った時には気がつかなかった、三人目の客。声をかけられるまで全く気配が感じられなかったことに内心驚きつつ、レイは慎重にその男のほうへ向かった。
 まくり上げられた袖口から覗く腕は、見事なまでに鍛え上げられており、ランプの光が筋骨隆々とした陰影を刻んでいる。浅黒く見える肌は日焼けのせいか。堂々たる体躯の壮年の男は、手に持っていたグラスをテーブルに置くと、鷹揚な態度でレイのほうへ身体を向けた。
「ロイ・タヴァーネスの使いか?」
 古物商という響きに、干乾びた年寄りを思い描いていたレイは、すぐに返事をすることができなかった。一拍おいて、慌てて懐から託けられた書簡を取り出す。
「ああ。これを先生から預かってきたんだ。あんたが『月の剣』って人?」
 答えの代わりに、男はゆっくりと片方の口角を引き上げた。
「待ちくたびれたぞ」
 ランプの炎を映し込む男の瞳はまるで淵のように深く、知らずレイはごくりと喉を上下させた。
  
  
  
 シキの懸命な看病も甲斐なく、翌朝になってもロイの体調は芳しくなかった。ピークは過ぎたようだがまだまだ熱は高く、喉も痛むようで食事も充分に摂れていない。
 癒やし手かお医者か、とにかく誰かに診てもらいましょう、とシキは何度も言ったが、ロイは断固として首を縦に振らなかった。自分の身体のことは自分が一番解っている、薬を飲んで休めば問題ない、そう言い張る師匠に、シキは深い溜め息を繰り返すのみだった。
 その肝心の薬が、朝にはとうとう底を尽いてしまった。買いに出るべく玄関で外套を羽織りながら、シキは大きく嘆息した。
 ――薬草屋……カレンの店か……。
 よりによっての目的地、気が進まなかったが仕方がない。先生が他人の治療を拒む以上、頼みの綱は薬しかないのだ。幸い、薬草屋の店主は、素行はともかく腕前は確かという評判だった。熱も下がり始めたようだし、薬を飲んで安静にしておれば、きっとなんとかなるだろう。
 玄関を開ければ、大粒の雨が家の中へと吹き込んでくる。夜中には一度止みかけた雨だったが、日の出とともに再び勢いを取り戻しつつあった。
 それでも昨日の豪雨に比べれば、この程度の雨なんて大した問題ではない。レイの安否を気にしながら、シキは雨の中に踏み出した。
  
  
 軽やかなドアベルの音に、店の奥から「いらっしゃいませ」と甘い声が響く。カウンターの向こうに現れた薬草屋の女主人は、蠱惑的な笑顔でシキを出迎えた。
「どんな御用かしら」
 軽く揺れるウェーブした金の髪。鮮やかな口紅、肉感的な胸元。小さく小首をかしげる仕草も完璧だ。これまでシキが感じたことのなかった劣等感に似た感情が、ちくちくと彼女を苛む。
 しかし、今は余計なことを考えている場合ではない。シキは頭から邪念を掃うべく、大きく息を吸った。
「先生が熱を出して……お薬が欲しいんです」
「あらあら大変。熱さましね」
 そっと眉をひそめたカレンがあまりにも色っぽくて、同性にもかかわらずシキはドキリと息を呑んだ。
「あ、あの、それと喉のお薬も無くなってしまって」
「分かったわ。ちょっと待ってて頂戴」
 そう言って奥の棚に向かうカレンの瞳が妖しく光る。エプロンに隠れた彼女の拳が、強く握り締められるあまりに色を失っていることに、シキは気づかなかった。
  
  
  
 ――この娘の、一体どこが良いというのかしらね。
 シキに背を向けたカレンは、そう憎憎しげに胸の奥で呟いた。
 黒い髪は肩までしかなく、化粧っ気もない、襟の詰まった男物の服ばかり着ている変な娘。確か、母親はかなりの美人だった、と記憶している。素材は決して悪くないだろうに、どうしてこんなに自分の性を隠すのだろうか。心の中でカレンは思いっきり首をひねった。
 カレンは、自分が女であることを充分に意識していたし、十分に利用し、また楽しんでもいた。そんな彼女にとって、シキの存在は到底理解できるものではなかった。
 そして、それよりももっと解らない、解りたくないのが、レイが自分ではなくこの変わり者を選んだということだった。
 あの、忌々しいほどに真っ直ぐな視線を思い出し、カレンは人知れず奥歯を噛み締めた。
  
  
「別れよう」
 昨日、お昼休みの時間に店を訪れたレイは、開口一番そう言いきった。
 カレンは数度まばたきを繰り返して、それからとろけるような笑顔を作った。
「嫌だわ、レイったら。まだ三日しか経ってないのに、もう欲しいの?」
 面食らった表情を浮かべるレイに、ダメ押しとばかりにしなだれかかり、細い腕を彼の首に絡ませる。「今度はどこでする? 奥の揺り椅子なんかはどう?」
「はぐらかすなよ」
「はぐらかしてないわよ?」
「これまでだって、何度も言ってるじゃねーか。もう一度言うぞ。別れよう」
「嫌ぁね。はぐらかしてなんかないわ。あなたが……」と、カレンはレイの下腹部へと手を伸ばした。「いつだって最後には私を欲しがるんじゃない」
 艶めかしく蠢く指を、レイは容赦なく払いのけた。それから、少しだけ決まりが悪そうな表情で、顔を背けた。
「確かに、毎回毎回あっさり誤魔化されてしまう俺も悪かったけどさ……。でも、もうこれが最後の最後だ」
 そう口を強く引き結んで、レイは正面からカレンの目を見つめた。
「別れよう。そもそも最初からそういう約束だっただろ?」
 この間までのレイとは明らかに違う、強い決意を窺わせる眼差しに、カレンはそっと柳眉を寄せた。
「そんな約束知らないわ」
「暇つぶしにどう? って声をかけてきたのはあんただろ。遊びだから気軽に、って」
「そうだったかしら」
 それはそのとおりなのだ。いつもカレンはそうやって数多の男を誘っていた。枷となる伴侶も無ければ、新たに決まった相手を作る気もなかった彼女は、精を殺す薬を片手に、これまで様々な快楽を貪ってきたのだ。
 子を成さない、後腐れなく抱ける都合のいい女。家族というものを欲すことなく、ただ肉欲に耽りたいだけの女。男達からそう思われることで、カレンはより簡単に、その時々に望む相手と情交を重ねることができた。穴の開いた器のように決して満たされることのない渇きの中、カレンはひたすら割れがめに水を注ぎ続けていた。
 レイに声をかけたのも、同様の気紛れからだった。十歳年下の、ちょっぴり素直じゃない男の子。少し煽れば簡単に乗ってくる彼は、とても可愛くて遊び甲斐があった。
 粋がっている割にレイはとても初心だった。筆おろしから始めた若者に自分好みの秘戯を仕込んでいくのは、思ったよりも楽しかった。だが、それは決して他の男達から抜きん出るほどのものではなかった、はずだった。――あの夜までは。
 転機が訪れたのは、半年前のことだ。
 妙に物寂しい夕べ、カレンはレイを呼び出した。秋の薬草の処理に追われ寝不足気味であったカレンだったが、どうしても気分が高揚してしまって仕方がなかったのだ。レイを相手に選んだことに、別段深い理由はなかった。
 夜になって、レイは店にやって来た。少し苛々した様子を問えば、彼は全力でそれを否定した。
「最近、口煩い同居人と顔を合わさずに済むからせいせいしているぐらいだ」
 そう強がる台詞からも、彼が欲求不満ではちきれそうになっているのは一目瞭然だった。レイはそれ以上何も言わなかったが、彼がくだんの娘に対して精一杯自制しているということだけは、カレンには痛いほど伝わってきた。
 彼の「飢え」を上手く刺激すれば、いつもよりもずっと楽しめるかもしれない。そんなことを考えながら、カレンは奥の居間の長椅子へとレイを誘った。
 突然の眩暈がカレンを襲ったのは、その時だった。
「大丈夫か!」
 ふらりと床にくずおれたカレンを、レイが抱え起こしてそっと椅子に横たえた。
「大したことないわ」
「でも、顔色が真っ青だ」
 レイの指が、カレンの頬にかかる髪をそっとかき上げた。とても温かい指だった。
「無理すんなよな。今日はもうゆっくり休めよ」
「駄目よ!」
 その瞬間、カレンの胸に押し寄せたのは、途方もない寂寥感だった。
 ――ひとりにしないで。
 その言葉を、カレンはすんでのところで呑み込んだ。それは、決して口にしてはいけない台詞だからだ。それを言ってしまえば、自分の価値は下がってしまう。
「お願い、レイ。私を抱いて……」
 長椅子から身を起こし、カレンはレイに取り縋った。彼の胸元にしがみつくようにして顔を上げれば、心配そうな瞳が静かにカレンを見つめていた。
 唐突に、風に揺れる秋桜の風景が、カレンの脳裏に浮かび上がってきた。
  
 十年前の丁度今頃、剣士だったあの人はサランへと招へいされた。
 秋桜の咲く道を、彼は手を振って去っていった。すぐ帰ってくるよ、と笑いながら。
  
 ――ひとりにしないで。
 その一言を、カレンはどうしても言うことができなかった。言えば、彼は心配するに決まっている、最期の時まで。
 だから、彼女は笑って見送った。薄情な女だと他人に陰口を叩かれようと。
「レイ、私を抱いて。あなたのそれで、むちゃくちゃにして」
「だから、無理すんなって。今日は休んだほうがいいって」
「嫌よ!」
 秋桜が、瞼の裏でさやさやと風にそよいでいる。汲めども汲めども、満たされぬもの。あの時から、自分の中の何かはひび割れたきりだ。
「抱いてほしいの。お願い……」
 ふう、という溜め息とともに、レイが身体を引いた。
「今日は抱かない」と、愕然と目を見開くカレンから視線を逸らせて、「……けど、今晩この椅子貸してくれねーか?」
「え……?」
「せっかく上手いこと逃げてきたのに、今帰ると課題の残りをしなきゃならねーんだよな。な、一晩ここにいてもいいだろ?」
 そう悪戯っぽく笑った彼の、優しい瞳。なんて温かいんだろう。カレンは心の底からそう思った。
 それが――半年の間にすっかり熱を失ってしまったその瞳が――、今、真正面からカレンの目を見つめている。
「もう、会わない。……今までありがとう」
 そうして、レイは踵を返した。
 ドアベルの音とともに扉が開き、そして閉まる。
 閉ざされた扉を、カレンは無言で見つめ続けた。
  
  
 彼の視線が自分のほうを向いていないことなど、最初から分かっていた。分かっていたけれど、解りたくなかった。カレンは心の中でそう呟いて唇を噛んだ。薬草が細かく分類された小引き出しに向かったまま、感情を押し殺した声でシキに声をかける。
「最近、性質の悪い風邪が流行っているものね。貴女は大丈夫なの?」
「私は大丈夫です」
「レイも? 大丈夫?」
 ――彼が私とここでどんなことをしてたか知ったら、貴女はどんな顔をするのかしら。
 禍々しい笑みをひっそりと浮かべるカレンに、無邪気な声が答える。
「あ、え、レイも大丈夫です。……えっと、あの、レイは先生のお使いでサランまで出かけているんです」
「あら……そう。彼、お留守なの」
 その瞬間、カレンの心にどす黒い炎が灯った。
 ――そう、レイ、あなたの愛しい彼女は、今、他の男と二人っきりで家にいるのね。
 それも、あの、ロイ・タヴァーネスと。彼は、カレンの誘いを断った数少ない男の一人でもあった。
 銀縁眼鏡の奥のあの涼しげな瞳に、時折浮かぶ欲望の色を、カレンは見逃さなかった。そして、そのねっとりとした視線の先に、いつもシキがいることを。
 ――本当に、この娘のどこにそんな魅力があるというのかしら。
 カレンは小さく嘆息してから、ちらりと背後を窺った。
「あら、ごめんなさい。材料が足りないわ。裏から取ってくるから、お茶でも飲んで待っててくれるかしら」
 シキに背中を向けたまま、カレンはポットから熱いお茶をカップに注ぐ。そして右手に隠し持った小瓶から数滴、透明な液体をカップに落とし入れた。
「貴女まで風邪をひいたらいけないわ。さ、これを飲んで暖まって頂戴」
 にっこりと振り返って、カレンはカウンターにカップを置いた。甘い香りがふんわりと辺りに広がる。
「ありがとうございます」
 シキがカップに口をつけるのを確認して、カレンは奥の部屋へ向かった。それから扉の陰からこっそりと店内を窺う。シキが間違いなくお茶を飲んでいるのを見て、彼女はくくっと小さく笑った。
 ――残念ね、レイ。可愛い小鳥はあなたのためには鳴かないわよ。
 閃光が部屋の中を射る。雷鳴が轟く。雨の音がまた激しさを増し始めた。