あわいを往く者

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黒の黄昏 第三話 小さな秘密

  
  
  
    二  被災
  
  
 雨粒を全身に受けながら、シキは馬を走らせた。速度を出せない町中を避けて、彼女の馬は農地の間をぬうように駆け抜けていく。
 外套のフードを目深にかぶってもなお顔面に襲いかかる雨。何度も水滴が目に入り視界がぼやけるが、シキは手綱を緩めようとはしなかった。使命感と不安感と、それともう一つ、深い自己嫌悪に駆り立てられて。
 ――なんて私は弱いんだろう。
 風にはためく襟の陰で、シキは下唇を噛んだ。
 カレンの店を出てからの記憶が、やけに曖昧だった。燃え立つように熱を帯びる身体に鞭打って、必死の思いで辿り着いた我が家。薬を届けようと先生の部屋の扉を開けたところまでは、なんとか覚えている。先生の声が聞こえたかと思うと、ぐらりと天地がひっくり返り、真っ赤な霧が視界に押し寄せ……。
 玄関を叩く鍛冶屋の声に起こされるまで、どうやら自分は気を失ってしまっていたらしかった。冷たい床から助け起こしてくれていた先生の暖かい腕の感触が、まだ微かに肩に残っている。気遣わしげな先生の目を思い出し、シキの胸は申し訳なさで一杯になった。
 ――病人に心配をかけるなんて。
 奥歯を噛み締めながら、シキは馬の腹を蹴った。忠実なる「疾走」が再び速度を上げる。
 レイのことを考えるたびに、あの夜の記憶が彼女の胸に甦った。甘い口づけ、熱い抱擁。レイの腕の中、今にも燃え上がらんとする身体。だが、先刻カレンの店でシキは改めて思い至ったのだ。カレンもまた一度ならずこの感覚を味わったのだということに。そればかりか、彼女はシキとは違い、レイの全てを既に幾度もその身に受け入れているのだということに。
 妖しげな熱が、シキの身体の奥底でまだ微かにくすぶっている。それを消し去るべく、シキは大きく息を吸った。冷たい風が胸腔を満たす。
 ――なんて、自分は、弱いんだろう。
 レイとの甘美なひととき。嫉妬心が拍車をかけたとはいえ、あの先に待つものを自分がこれほどまでに欲しているとは、思ってもみなかった。彼が傍にいないだけでこんなにも心が乱れてしまうなんて、考えてもいなかった。
「レイ……無事でいて……」
 外套の裾をはためかせながら、シキは一心不乱に町外れを目指し馬を走らせ続けた。
  
  
  
 イの町のすぐ東側を北から南に流れるタジ川の向こうには、小高い丘が広がっている。その頂上を少しくだった向こうは、町の人間が「東の森」と呼ぶ、昼なお暗い深い森だ。
 峰東州を真っ直ぐ東西に貫く街道は、イの町を出た所でタジ川に沿って南へとその向きを変える。それから一里ほど下流で支流に道連れを替え、大きく弧を描くようにして丘と森とを迂回し、再び真東を、サランを目指していくのだ。丘を抜ける川沿いの道は概ね平坦だったが、それゆえ一部丘を切り通す部分があり、そこは十丈ほどに亘って両側を高い崖に囲まれていた。
 シキが切り通しに近づくにつれ、凶事を聞いて現場に駆けつける人々の姿が散見されるようになった。ほどなく、彼女の目に見るも無残な風景が飛び込んできた。
 切り立った崖はその角度を変え、剥き出しになった岩石や木の根があちこちから露出していた。そこから崩れ落ちた多量の土砂は、ほんの少し前まで街道だった所にうず高く積もっている。川原にまで散乱する岩や木が、災害の激しさを如実に物語っていた。
 シキは馬から飛び降りると、手近な潅木に手綱を結わえた。人々の中心で声を張り上げ指図する町長の姿を見つけ、急ぎ駆け寄っていく。
「埋もれている人がいるんですか」
 恰幅の良いリスター町長は、シキの顔を見て一瞬失望の色を浮かべた。その意味するところを理解したシキは、努めて冷静な声で続ける。
「……先生は今、病に臥せっているのです。私で良ければ、微力ながらお手伝いいたします」
 シキの言葉にリスターは取り繕うように咳払いをすると、視線を土砂の山に向けて、言った。
「ああ、よろしく頼むよ。とにかく見てのとおりの有様でな、どれだけの者が被害に遭ったのかまだ良く分かっておらぬのだ。直前にここを通った者によると、行商のキース一家が後ろを歩いていたとか……」
 その言葉が終わりきらないうちに、少し離れた所で怒鳴り声が上がった。
「荷車だ! ぺしゃんこに潰れちまっているぞ!」
「これはキースのだ! 見覚えがある!」
「よーし、その辺りを重点的に掘り返せ!」
 大声で指示を出すリスターから離れて、シキは災禍の場へ向かった。道を塞ぐ倒木や岩を身軽に越えて、荷車が見つかったという辺りに登る。山のごとく堆積する岩石の陰で、数人の男達が必死でシャベルを動かしているのが見えた。
 ふと上を仰げば、北側の崖が全域に亘ってその形を変えていた。思ったよりも広い現場に、シキは少し眉をひそめた。呪文の効力範囲は、それが複雑になればなるほど狭まってしまう。これだけの広さの瓦礫の山から埋もれている者を探すとなれば、かなりの力を費やさねばならないだろう。
 気を取り直すべくシキは頭を振った。それから大きく深呼吸をした。静かに袖をまくって腕を身体の前に差し出し、指で複雑な印をえがく。シキの詠唱を耳にした数人が作業の手を止めて見守る中、生者を探知する呪文が完成し、青白い光の柱が二丈ほど先の地面から微かに立ちのぼった。
「あそこなんだな!?」
「はい。まだ生きています」
 額の雨を拭いながらシキが頷くと、男達は歓声を上げながらその場所に殺到した。土砂を掘り返す音が、先ほどまでよりもずっと力強く辺りに響き渡る。
「今助けてやるぞ!」
「急げ! 急げ!」
 心持ち周囲の雰囲気が明るくなった中、シキは心配そうな視線を街道の先に向けた。
 レイはまだこの向こうを歩いているのだろうか。それとも、まだサランの町で道草を食っているのだろうか。まさかそれとも……と不吉なことを考えかけて、シキはかぶりを振った。いや、そんなことはない、と。ここを歩いていたのなら、キース達を見ていたという人間が、きっと彼の姿も目撃しているに違いない。そんな話が出ていないということは、ここには彼はいなかったということだ。……きっと。
「お疲れー」
 シキが驚いて振り返ると、癒やし手のリーナが岩をよじ登ってくるところだった。悪い足場に何度も躓きながら、シキの近くまでなんとか辿り着いた彼女は、肩で息をしながらにんまりと笑いかけてきた。
「お手柄だね、シキ。流石はタヴァーネス大魔術師の一番弟子!」
 シキが謙遜の意を表す間もなく、リーナは威勢よく腕まくりをした。「さて、私も自分の仕事をするかなー」
「頑張って。私は、まだ誰かが埋もれていないか確かめるから」
「ん」
 リーナが軽く頷いて現場に向かおうとしたその時、金属質な音が大きく響き渡った。石にシャベルが突き当たったのだろうと思いきや、ほんの一瞬青白い光が辺りに閃いた。
 その光を目にするや否や、シキは弾かれたように姿勢を正すと男達のもとに駆け寄った。
 すり鉢状に掘り返された土砂の中央、直径半丈ほどの空間がぽっかりと口を開けている。誰かの足元から転がり落ちた石が、その穴に落ち込んでいき……そして青白い光に妨げられて空中に静止した。
 大きく生唾を飲み込むシキのすぐ背後から、「解呪」の呪文が聞こえた。
 その瞬間、穴の縁がごそっと下へと落ち込み、更に大きな空間が地面の下から姿を現した。と、同時に若い女の声が穴の中から聞こえてきた。
「助かった? 私達助かったのね!」
「子供がいるんだ。早く引き上げてくれ!」
 上ずったようなキースの声に、人垣は一瞬息を呑んだ。
「大丈夫か!? 怪我は!?」
「大丈夫だよ!」
 元気そうな子供の声が響き、皆は歓喜の声を上げた。
 崩れそうな穴の縁から慎重に岩を取り除き、倒木を支えに中へとロープを垂らす。毛布と担架が用意され、気合の入った表情のリーナが、いつでも来い、と治療の術に備える。
 俄然慌ただしくなった、その喧騒の中、シキは身じろぎ一つできずに一人立ち尽くしていた。
「『盾』を全方位に張り巡らしたのか」
「解呪」の名残の両手をゆっくりと下ろしながら、ロイが静かにシキの傍らに歩み出た。
「こんな芸当ができるのは……」
 こめかみを流れる血潮の音か、それとも風の音か、師の言葉を半ばまで聞いたところで、シキを耳鳴りが襲った。耳元でごうごうと鳴り響く音にかき消され、師の声が途切れる。だが、最後まで聞かなくとも、シキにも分かる。一度に六つの「盾」を張るなんて荒業は、第六位以上の技の持ち主でなければ不可能だということは。そして、イの町でそれに該当する魔術師は、たったの三人だけ……。
 ばくばくと暴れる心臓を静めようとして、シキは握り締めた拳で胸を押さえた。息苦しさのあまり、喘ぐようにして何度も大きく息を吸った。
「なにぃ!? レイ君が!?」
 リスターの声で、シキの呪縛が解けた。耳鳴りが治まり、再び周囲の雑音が彼女の耳に押し寄せてくる。慌ててシキは声のした方向を振り向いた。
 人々の輪の中で、助け出されたキースの息子にリーナが毛布をかけてやっているところだった。泥に汚れた身体を小さく震わせながら、だがはっきりと少年はリスターに言った。
「僕達を助けてくれたんだよ」
「そうなんです。しっかりお互いを捕まえていろ、と。目の前が光って、その次にはもう真っ暗で……」
「彼はどこにいたんだね!」
「あたし達の少し後ろを、馬に乗って……」
 その言葉を聞くなり、シキはすぐさまきびすを返した。うず高く積み重なる土砂の向こう、被災地の更に奥へと駆け出そうとする。だが、間髪を入れずに、シキの腕を力強い手が鷲掴みにした。
「向こうはまだ危ない。もう一度崩れるやも知れない」
「だって! レイがまだ……!」
「落ち着きなさい、シキ」
 氷のように冷たい声で、ロイは容赦なく言葉を継いだ。
「良く聞きなさい。崖が崩れ始めて、この道に降り注ぐまで、一体どれぐらいかかると思う?」
 無情な声を振り払おうとするかのごとく、シキは必死で頭を振る。そんなことぐらい、彼女だって知っていた。それでも、きっと、レイなら、なんとかして、どうにかして――
「レイが、そんな短時間に六つの『盾』を起動できたということだけでも、私は驚いているんだよ」
 ――どうにも、ならない。なりようが、ない。
 目の前に突きつけられた現実に、とうとうシキは暴れるのをやめた。周囲を埋め尽くす岩や礫を愕然と見つめながら、ふらりと地に膝をついた。
「とにかく、ここでまた君まで危険に晒すわけにはいかない。解るね、シキ」
 小さな溜め息ののち、師匠が静かに呪文の詠唱を始める。それが生者を目当てとしていないことに気がついたシキは、絶望的な視線を彼に向けた。
 ロイを中心とした二丈四方の土砂から、細い光があちらこちらで立ちのぼった。それを合図に、屈強な男達がシャベルを持って駆け寄ってくる。ロイは彼らに一番太い光の柱を指し示し、静かに言った。
「あれです。……また崖が崩れるかもしれませんから、慎重に」
「……解った」
 沈痛な面持ちで、彼らは倒木を乗り越えていく。先ほどまでとは打って変わって、重苦しい沈黙が辺りに充満していた。地面を掘り返す単調な音が、人々の胸の中に虚ろにこだまする。雨の音に混じって、小さな祈りの声がそこかしこから聞こえてきた。
「大丈夫よ」
 そっと肩に手が置かれ、シキは憔悴しきったおもてを上げた。リーナが、今にも泣き出しそうな表情で笑いかけてきた。
「あの、おバカがこんな簡単にくたばるわけないでしょう?」
 そうだね、と言おうとしたシキだったが、どうしても声が出て来なかった。
「もぅ! しゃきっとしなさいよ、シキ! あんたが奴の無事を信じなくって、一体誰が信じるっていうのよ!」
 目に涙を浮かべながら、それでもリーナは笑ってみせる。シキは、しばしまばたきを忘れて友の顔をじっと見つめた。それから、返事の代わりに彼女の手を強く握り締めた。
  
 作業に当たっていた者達の間から、えも言われぬどよめきが湧き上がった。
「馬だ! 馬が……!」
「どんな様子ですか」
「……ダメだ、死んでいる……」
 ロイは掘り出された馬の傍まで行くと、そこで再び印を結んだ。そうして、先ほどと同じ術の調べを歌うように唱え始めた。おのが弟子への手向けとするかのごとく、厳かに。
 呪文が完成する直前、ふと違う魔術の波動を感じて彼は手を止めた。
 怪訝そうに振り返った視線の先、シキが大きく両手を広げて立っていた。背筋をぴんと伸ばし、迷いのない瞳を真っ直ぐ前に向けて、彼女は今まさしく生者を探す術を起動させるところだった。
 呪文の詠唱が終わると同時に、見えない圧力が彼女を中心に広がっていくのを、ロイは感じた。多大な魔力を注がれた術は、細長く伸びる被災地の隅々まで、余すところなく行き渡っていく。シキの放った術の素晴らしさに、ロイは素直に息を呑んだ。そして、それが徒労に終わるであろうことを思って、小さく嘆息した。
  
 祈りさえも心の中から追い出して、シキはひたすら全神経を前方に張り巡らせた。例え微かな反応だったとしても、絶対に見逃さないように。
 彼女の脳裏に、先刻のリーナの言葉が浮かび上がる。シキはきつく奥歯を噛み締めた。
 ――そう、私が信じなきゃ、レイは本当に死んでしまう……!
  
 崩れた谷の中央部、一際大きな落石の陰。静かに光が立ちのぼった。
  
「まだ生きています!」
 絶叫に似たシキの声に、辺りが一気に沸きかえった。男達が一斉に光を目指して駆け出す。「急げ!」「助けるんだ!」と、口々に喚声を上げて。
 だが。
 シキと、足の速い何人かが落石の傍まで到達したその時、鈍い響きが空気を震わせ始めた。
「いかん!」
 ロイが素早く中空に手をかざす。偉大なる魔術師は、持てる限りの力を振り絞って呪文を紡ぎ出した。瞬時に巨大な光の「盾」が谷底を守るように出現し、降り注ぐ岩や土がそれに弾かれて道の脇に飛び散っていく。
 しかし、その「盾」はレイが埋もれている場所までは届かなかった。途切れた光の先、泥の滝が視界を塞ぐ。岩石のぶつかる音や木のきしむ音が、辺りを席捲する。
 体調さえ、身体の調子さえ完全ならば……! 力を使い果たして膝を折るロイの口から、そう無念の呟きが漏れた。
  
 永遠に続くかと思われた崩落も次第に収まり、辺りにはようやく静寂が戻ってきた。人々はおそるおそる身を起こして、もうもうと舞う水煙の向こうを固唾を呑んでじっと見つめた。
 土砂は全てを飲み込んでしまっただろう。勇敢な救護者達を、助けを待っていた若い魔術師を。
 空高く舞い上げられた泥しぶきが雨に混じり、けぶっていた視界が静かに晴れていく。曇天を背景に、ごっそりと崩れえぐれた崖が、まず皆の目を奪った。あれだけの質量の直撃を受ければ、人間などひとたまりもないだろう。一同は言葉もなくその場に立ち尽くした。
「先生、あれ……」
 リーナに助け起こされたロイが視線を上げる。絶望に彩られた彼の瞳に、不可思議な形で静止する巨大な土塊が飛び込んできた。獲物に襲いかかる龍のあぎとのようなそれは、いざその牙を突き立てようと大口を開け、……そして硬直している。
 その下に、シキが立っていた。傍らでは、男達が必死でシャベルを振るっている。
  
 ――間に合った……。
 激しい疲労から倒れそうになりながら、シキはほっと息を吐いた。
 咄嗟に放った「氷結」の呪文。最後の一片まで力を出しきって、シキは襲いかかる土石流を凍らせたのだ。
 シキがゆっくりと振り向けば、大きな岩の陰、落石と落石の細い隙間からレイが助け出されるところだった。
 無数の細氷がきらきらと辺りに降りしきる中、レイはシキに気がつくと右手を上げた。
「よぉ。遅かったじゃねーか」
 止み始めた雨の中、大きな歓声が谷中に響き渡った。