あわいを往く者

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黒の黄昏 第四話 這い寄る混沌

  
  
  
    三  取引
  
  
 甲高い悲鳴が森の中に吸い込まれていく。
 抗う音、交錯する靴音、下卑た男達の声、また悲鳴、悲痛な叫び。それらがゆっくりと木立の中へと遠ざかっていく……。
  
 その時、僕は山道のすぐ脇で、ごつい手のひらに頭を押さえ込まれていた。
「放せよ! 母さんに何するんだよ! やめろよ!」
「子供の見るもんじゃねぇんだよ」
 髭だらけの顔が、目前でにやけた笑いを刻む。
 一瞬の隙を突いて、僕は、自分を捕まえていた腕に噛みついた。
「痛ててて、このガキゃ!」
 蹴り倒され、視界が一瞬暗転する。
 腹部にめり込む堅い靴。右肩と右頬に鈍い痛み。起き上がろうとしたところに、男の拳が飛んで来た。
「よくもやってくれたな! 命だけは助けてやろうかと思ってたのによぉ、こンのクソガキめ」
 木の幹に打ちつけられた背中が激しく痛む。動けない。
 霞む視界に、髭男の姿が大写しになった。その向こう、大きな石の上に三人の男達が群がっているのがちらりと見えた。そして、彼らの隙間から垣間見える白い足……。
 大きな手が、僕の首を掴む。男の指に力が込められる。
  
 ――殺される。僕は殺されるのか。いやだ、誰か。
  
 右手が何か堅いものに当たった。夢中で握り締めると、それはずるりと地中から抜けた。
(そう、最初は木の根か何かだと思っていた)
  
 ――死にたくない。誰か、助けて。
  
 一撃だけでいい。せめて一撃だけでもくらわせてやりたい。死にものぐるいで、全身の力を右手に集中する。薄れかけた意識の下、木の根を握った右手を必死で身体の前まで動かした。そうして、男の腹に突き立てようと、手首を返す。
  
 ――誰か、助けて。誰か、力を……!
  
 その刹那、砂塵が勢いよく舞い上がった。と、同時に風切り音が耳をつんざく。
(今なら分かる。これは「風刃」だ。風の刃の呪文が込められた魔術の杖。打ち捨てられていた古代の遺物……)
 生温かい血の感触が、両手をぬめらせる。僕は、のしかかる髭男の巨躯を無我夢中で押し退けて、荒い息で身を起こした。これまで感じたことのない激しい疲労感が、身体全体を押しつぶすようだった。
  
 ――そうだ、母さんを助けなきゃ!
  
 力の入らない両足を踏ん張れば、霞む視界の中、やけに赤い色彩が目を射た。
 巨石から地面へとつたう幾つもの赤い筋。その上に覆いかぶさる男達も、朱に染まっている。
 僕は呆然とそこへ駆け寄った。
 男達は、互いに折り重なったままぴくりとも動かない。信じられないほど重いそれらの身体を、石の台から転がり落としていくと、一番下にはあった。僕の頭を撫でてくれた優しい手、僕を抱きしめてくれた温かい腕、柔い肩。でも、そこには、あるべきはずの頭部が……。
  
 込み上げる吐き気、絶叫、絶望。
(だが、どうしようもなかったのだ)
 ゆらり、と黒いかげろうが地面から立ちのぼる。
(なんだこれは?)
「すごいじゃないか……」
(誰の声? どこから?)
  
  
 久しぶりに見た、あの夢。ロイは表情一つ変えずに、寝台から起き上がった。
 三十年前、遠出の帰り道、ロイは母とともに山賊どもの待ち伏せを受けたのだ。
 まだ日が高いからと、母子二人きりで山を越えたのがよくなかった。彼らは白昼堂々と姿を現すと、あっという間に二人を虜にし、その荷物を奪い盗った。
 力無き婦人と七歳の子供相手に、すっかり自分達の優位に酔った連中は、祝杯の肴にロイの母を饗しようと考えた。そして、あろうことかその場でそれを実行に移したのだ。
 そのあと、何が起こったのかは夢のとおりだ。ただ一人生き残ったロイは、その場で気を失い、通りすがった旅人に助けられた。そうしてそのまま、いつしか帝都へと流れついたのだ。
 ロイは、大きな溜め息をついた。何度も何度も、心が麻痺するぐらいに繰り返された夢だ。今更何の感慨も湧かない。そこまで考えて、ふとロイは右手を顎に当てた。
「いや、まてよ」
 今回の夢はこれまでとは少し違っていたような気がした。意識を失うその寸前、地面から染み出したかのように揺らめき立った黒いかげろう。あれは一体何だったんだろうか。それにあの声。どこかで聞いたことのある、低い声……。
 ロイは頭を軽く振った。昨夜のアルコールがまだ少し残っているのか、鈍い頭痛がこめかみを差す。ロイは眉間に皺を刻みながら、窓辺に寄って鎧戸を開けた。森の上に顔を出し始めた太陽が、真っ直ぐに彼の目を射る。
 ――そうだ。私の手は汚れきっている。山賊達を殺し、母を殺し、それからも生きるために幾度となく盗みを働いた。魔術師となってからも、ライバルを蹴落とし、師匠を裏切り……、それどころではない。さきの戦争で私は一体何人の人間を殺めたのか。
 清々しい表情でロイは深呼吸をした。
 町の人々や子供達に「先生」と呼ばれる生活。弟子の規範となるべき生活。あまりにも穏やかな日々が、自分というものを勘違いさせていたような気がする。そう独りごちると、そっと口元にいびつな笑みを浮かべた。今更何を躊躇おうというのか、と。
 ――そう、今まで犯してきた罪に比べると、実にささやかなことではないか。女を一人我が物にする、ただそれだけのことなのだから。
  
  
  
 大きな溜め息が、レイの口から漏れた。
 さんさんと春の日差しが降り注ぐ井戸端、レイは摘み取ったばかりの菜っ葉を洗いながら、もう何十回、もしかしたら百回を超えたかもしれない溜め息を繰り返し続けていた。
 あれから昨夜は、夜の更けるまで三人で話し込んでいた。話題は「黒髪の巫子」から「暗黒魔術」へと流れ、禁断の術やら誓約の呪文やら、レイ達が普段なかなか知ることのできない興味深い内容へと変遷していった。師匠はここぞとばかりに知識を披露し、弟子達は目を輝かせてひたすら相槌を打った。
「こういう深い会話のできる相手が存在する、というのは、良いものだな」
 師はそう言うとレイに向かって微笑んだ。「こんな団らんもたまにはいいものだろう? お前も、外をほっつき歩くばかりでなく、もう少し落ち着いたらどうだ」
 本当にそのとおりだ、とレイは思った。十年の歳月を経て、ようやく自分達は先生と同じ場所に立つことができたのだ。これまでのように「お荷物」としてではなく、同志としてともに道を歩んでいける、そういう位置につくことができたのだ。
 しかも先生は、この自分の実力を認めてくれていた。そればかりか、師を超えることを期待しているとまで言ってくれたのだ。
 あの瞬間の自分の気持ちを、一体どう言い表したらいいだろう。一瞬にしてレイの鼓動は高鳴り、熱いものが胸に溢れかえった。どこか誰もいない場所で、思いっきり勝ちどきを上げたくなる、そんな心地だった。
 ――もっと早く言ってくれれば。
 ならば、何も知らないまま、「その時」が来るまで夢を見ていられたかもしれない。だが、レイは気づいてしまったのだ。ロイがその胸の内に抱えるどす黒い欲望に。
  
 あの嵐の日からもうそろそろ二週間が経つ。その間毎日、レイは東の森の「秘密の部屋」に通っていた。鍛冶屋に口裏を合わせてもらって、家事をシキに任せて、彼はあの異教の呪文書を一心不乱に読み続けた。
 師匠の指摘が入らなければ、今日だってレイは朝から東の森に行くつもりだった。しかし、物言いがついた以上、目立った行動は慎んだほうが安全だろう。就寝ぎわの「人助けもいいが、シキの負担も考えてやりなさい」とのロイの言葉に、レイは潔く首を縦に振った。実のところ、二週間みっちり自分の時間を持てたことで、例の呪文書の解読はほぼ完了し、鍵となるであろう一つの呪文も、あらかた理解することができていたからだ。
 菜っ葉の土を落としながら、レイはまたもや大きく息を吐いた。
 呪文書を読み込めば読み込むほど、レイは自分の直感が正しかったことを思い知らされることになった。疑心暗鬼が確信へと変貌する中、レイは黙々と異教の術を読み解き続けた。
 だが、この期に及んで、レイはまだ悩んでいたのだ。師匠の本意を自分は誤解しているのではないか、と。所詮人間は、自分自身を尺度に事象を捉えることしかできないものなのだ。となれば、自分は今、おのれの心の弱さが見せる幻に囚われてしまって、現実が見えていないだけなのかもしれない、と。
 ――俺が、考え過ぎなのかもしれない。全ては杞憂に過ぎず、この呪文書だって、単なる学問上の資料でしかないのかもしれない。
  
 しかし、もしも、仮に、この想像が真実であったならば。
  
 レイの拳が、強く、強く握り締められた。
 シキを奪われるのを、黙って指を咥えて見ているなんてことは、絶対にできない。そうレイは歯を食いしばった。そんなことになってしまったら、俺は、一生自分を許さないだろう……。
 ――どうしてなんだよ、先生……!
 手桶に映ったレイの表情が、悲痛に歪んだ。
  
  
  
 妖艶な微笑みが、みるみる毒を帯びていく。血のように紅い唇がそっと綻んだかと思えば、とろけるように甘い声が静かな室内を震わせた。
「いい話だと思うんだけど?」
 薬草屋の主人は、そう言ってカウンターにしなだれかかった。あいた胸元を強調するように突き出して、上目遣いで客人を見上げる。こうすれば、大抵の男は彼女の言いなりとなった。特に、頭の中が股間と直結しているようなダンみたいな男には、絶大な効果を及ぼすだろう。
 だが、今度ばかりは様子が違った。ダンは、柔らかそうな胸の谷間には目もくれずに、戸口に向かってじりじりと二歩をあとずさった。
「い、嫌だ、俺はもう金輪際あいつらには関わらねぇって決めたんだ」
 カレンの眉が、そっとひそめられる。
「言っとくけどな、俺ぁ、レイの奴なんか全然怖くねぇんだからな! けどよ、親父が言うんだ。ロイ・タヴァーネスに関わるな、ってよ」
 なけなしの虚飾もすっかり剥がれ落ちた様相で、ダンの遠吠えは続く。
「レイの野郎なんか、俺が本気出したら屁でもねぇ! だけどよ、あの大魔術師が出てきてしまったら、もう誰にも、親父にも手は出せないってよ! そんな奴ら相手にするの、俺はごめんだからな!」
 その瞬間ドアベルが可憐な音を立て、ダンはバネ人形のようにその場に飛び上がった。慌てて振り返った先に、他でもない噂の人物が立っているのを見て、彼は上ずった声を上げた。
「わ、俺、その、……じゃあな!」
 辛うじてそれだけを言い捨てて、ダンはロイの傍らをすり抜けて走り去っていった。
  
「失礼するよ」
 騒がしい足音が往来の向こうに消えていくのを黙って見送ってから、ロイは悠然とカレンへ向き直った。
「いらっしゃいませ、先生」
 そっと身を起こしたカレンがとびっきりの笑みを浮かべる。「いつぞやのお薬は良く効いたかしら?」
 その挑発するような口ぶりに、ロイはほんの僅か片眉を上げた。
「……どちらの、かな?」
 そう返すロイの口元が静かに笑いを刻むのを見て、カレンの目が細められる。
「ねぇ先生、こちらでお話ししません?」
 そう言って、カレンは奥の扉を開いた。
  
 薬草屋の居間は調度こそ普通の家と変わりがなかった。ただ一つ、天井から幾種類もの薬草がぶら下げられているという点を除いては。カレンのあとから部屋に足を踏み入れたロイは、辺りに充満する不思議な香りに包まれながら興味深そうに周囲を見まわした。
「そうね、個人的には、風邪薬じゃないほうのお話が聞きたいわ」
 カレンは一人優雅に長椅子に腰かけると、紅を差すように小指で自分の唇をなぞりながら、ロイを見上げてきた。
「自信作なのよ、あれ。どう、存分に楽しめて?」
「……何も無かったさ」
 無表情に言葉を返すロイに、カレンは意外そうに刹那目を見開いた。それから小さな声で「やっぱり、そうだったのね」と肩を落とした。
「崖崩れがあったものね。貴方達を現場で見たもの。でも、彼女、よく正気に返ったわね。薬は効いていたのでしょう?」
「そうだな。見事な効き目だったよ。邪魔さえ入らなければ、な」
 心底残念そうに、ロイが吐き捨てた。
「崖崩れの一報を聞いて、レイが巻き込まれたかもしれない、と考えたのだろう。あっという間に彼女は我を取り戻したよ」
 レイ、の名前を聞いた瞬間、カレンの口元に力が入った。
「あらあら、先生ともあろう方が、弟子に負けてしまわれるなんてね」
「非常事態だからな。彼女だけじゃない。あの時、町中の人間が奴のことを心配した。そう、君だって」
 ロイの囁きから、カレンがそっと顔を背ける。
 その様子を満足そうに見やって、ロイは更に言葉を継いだ。
「……だが、君は皆に誤解されている」
 驚いた表情で顔を上げるカレンに、ロイは静かに言い足した。「勿論、レイにも」
「誤解?」
「そうだ、皆誤解している。片っ端から男に媚を売っては腰を振る、淫乱なだけの女だと、ね。君が、君の中に足りないものを必死で探し続けているということも知らずに」
 それだけを言って言葉を切ったロイの眼前、カレンの顔が不意に歪んだ。
「そのとおりだもの。私はただ楽しい時間を好きなように過ごしたいだけ。別に皆が私のことをどう思おうと構わないわ」
「だが、見つけたのだろう? 本当に傍にいてほしい、と思う相手を」
 桑染めの瞳に見据えられ、カレンは硬直したようにその動きを止める。彼女の表情からはすっかり余裕が消え失せていた。
 狼狽するカレンを冷静に見下ろしながら、ロイは一段低い声で囁きかけた。
「ダン・フリアと、何を話していた」
「……何って、その……」
「怒らないから、言いなさい」
「え、でも……」
「言うんだ」
 有無を言わせぬロイの口調に、震える唇が少しずつ言葉を紡ぐ。
「あの娘が、欲しくはないかと……、欲しいのならば手助けをするわ、と」
「馬鹿なことを」
 蔑みの目を向けるロイをものともせず、カレンは必死にかぶりを振った。膝の上の彼女の拳が、固く握り締められるあまりに血の気を失っている。
「だって、……だって、このままだと、レイがあの娘にとられてしまうもの!」
「何故そう思う」
「レイはあの娘のことが好きなのよ。見てたら解るわ。それにきっと、あの娘だってそう。だったら、多少強引なことでもしなきゃ、二人の間に割り込めないじゃない。だから……」
「シキを辱めるような真似は、私が許さない」
 思い詰めた表情で足元を見つめ続けるカレンを、凄みを増した声が打った。
 だが一呼吸のち、ロイは今度は一転して穏やかな声音でカレンに語りかけてきた。
「その代わり……取引といこうじゃないか」
「取引?」
 おずおずと視線を上げたカレンの瞳に、ロイの顔が映る。彼は妖しい光を銀縁眼鏡の奥に湛えながら、もったいぶるようにゆっくりと口を開いた。
「あの薬を私に売ってくれないか。私がシキを、君がレイを、……それで全てが丸く収まる。そうじゃないか?」
  
  
  
 昼下がり、レイは再び井戸端にいた。
 適当に家事をやっつけて、浮いた時間を自習にあてようと思っていたレイは、すっかり打ちのめされていた。洗濯物を干していれば、籠を引っくり返して洗い直す羽目になり、掃除をしようとすれば、箒を扉に挟んで柄を折り修繕しなければならなくなり、どんどん余計な仕事が増えるばかりだったのだ。他事に気を取られているせいで、注意力が散漫になってしまっているのだろう。このままでは、今日は夜まで何もできなくなってしまう。そう焦る中、一向に進まないジャガイモの皮むきに、レイの苛々は限界に達しつつあった。
 今更献立の変更も面倒臭ければ、皮ごと煮てしまうのもあとの言い訳がややこしい。しかも新たな邪魔までやってくるとなれば、この行き場のない鬱憤をどうすればよいというのか。怒鳴りつけたくなる気持ちを必死に抑え込んで、レイは背後に一言を投げた。
「何か用か?」
 そして、振り返ることなく言葉を継ぐ。これ以上はないというほどに不機嫌な声で。「用があるなら、こそこそすんなよ。俺は忙しいんだ」
「お見事」
 感心したような声とともに、母屋の陰から砂利を踏む音が聞こえてきた。足音の主は、そのまま真っ直ぐ近づいてくると、至近でぐるりとレイの前に回り込んだ。長身を折りたたむようにしてその場にしゃがみ込み、レイと目線を合わそうとする。
 レイは久々に見る旧友の顔を一瞥すると、再びジャガイモと格闘を始めた。
「良く気づいたなあ」
「気配がバレバレなんだよ」
「敵わないなあ」
 そう言って、サンははしばみの瞳を細めた。にっこりと微笑む頬を縁取って、栗色の髪が風にそよぐ。初等学校時代に多くの女生徒の心を鷲掴みにしていた色男っぷりは、三年の都生活を経て更に洗練された様子で、レイは胸中密かにやっかみながら黙々と作業に没頭した。
 そんなレイを、サンはしばらくの間楽しそうに眺めていたが、やがて首をかしげるようにしてレイの顔を覗き込んできた。
「レイ、お前、死にかけたって?」
「誰に聞いたんだよ、リーナの奴か?」
 どうせあの口煩い喋り魔が、久しぶりの帰郷者に頼まれもしないことをペラペラとくっちゃべったのだろう、そう推理して嘆息するレイとは裏腹に、サンは弾かれたように背筋を伸ばした。
「リーナ? え、お前、まさか、いや、なんでそこで、リーナが出てくるんだよ?」
「何、驚いてんだよ?」
「ああ、いやいや、なんでもない、なんでもないさ。それにしても……お前、意外と似合うな、そういうの」
 揶揄する口ぶりでジャガイモを指差すサンを、ちらりと一瞥してから、レイは剥き終わった芋々を籠に入れて立ち上がった。そうして一人さっさと勝手口へと向かっていく。
 慌ててサンがそのあとを追った。
「おいおい、レイ、つれないなあ」
「忙しいつってんだろ! 大体、お前、仕事はどうしたんだよ」
 最終学年である五年生の時、サンはサランでの剣術試合で見事優勝を果たした。彼はその縁で仕官の口を与えられ、今は遠い帝都に出仕しているのだ。町の誉れ、と、盛大に行われた壮行会を思い出し、レイの瞳がそっと緩む。
「ああ、あれ? ……辞めた」
「はああ?」
 これ以上はないというぐらいに素っ頓狂な声で、レイは友を振り返った。だが、サンは何も言わずに、飄々とした表情を崩さないまま。
 しばらくの沈黙のあと、レイは大きな溜め息とともに手にしたジャガイモで裏口を指した。
「入れよ。中で話そう」
  
 レイが憮然とテーブルにカップを二つ並べる。サンがそれをにこにこと受け取った。
「気がきくじゃん……って、水かよ」
「文句を言うなら、返してもらうぞ」
 そう言ってレイが取り上げたカップを、サンは即座に取り返し、中身を一気にあおって息をついた。
「ところで、先生はいる?」
「今日は授業があるから、学校行ってるぞ」
 その言葉に、サンは大袈裟に胸をなでおろした。
「良かったー、俺、あの人苦手なんだよなー。未だに試験の夢でうなされる時があるんだもんなあ」
「お前、いつも居残り組だったもんな」
「レイだって同じようなものだったじゃないか」
 お互い昔の悪行を思い出したのだろう、二人は同時にふき出し、遂には高らかに声を上げて笑い出した。
「大体お前、絶対似合わねえって。何、イモ洗ってんだよ?」
「お前こそ、近衛兵なんてガラじゃねーだろーが」
「ちまちまイモの皮剥いてるの見た時は、どうしようかと思ったぜ。お前本当にレイか?」
「そういうお前は、どうせ上司の女横取りしたとかでクビになったんだろ?」
 ……ひとしきり笑い合ってから、サンがしみじみと口を開いた。
「まさかレイが魔術師とはね。俺と同じで肉体派だと思っていたんだけどな?」
 サンの父親は、町一番の使い手の誉れも高い剣士だった。そして、レイの父と同じくさきの戦に駆り出され、帰らぬ人となった。
 サンはそんな父親の血を色濃く継いでいる。学校でも体術、武術に関しては抜群の成績を残していた。レイだってそこそこ腕前には自信があったものだが、長身のサンから繰り出される変化自在な攻撃には、何度も地面に這い蹲らされたものだった。
「まあな。こう見えて頭脳派だったってことさ」
 よく言うよ、とサンが笑うのを見ながら、レイは少し真面目な顔をした。
「……なんで仕事辞めたんだよ。お袋さん喜んでいたのに」
「話せば長いことながら、ってね。ところでシキは?」
 軽く話題を流されたことにムッとしつつ、レイは諦観の溜め息を漏らした。昔からサンは、自分の領域に他人が入り込むのを極度に嫌う傾向にあったからだ。もっとも、そつのないサンのことだ、相手に気取られずに適度な距離を確保するなどお手のもので、そのことに気づいているのはレイを始めとするほんの二三人の友人達だけであった。
 学校時代を通して親密な付き合いのあったレイとサンだったが、その一点において、レイは自分がサンの「親友」たると断言することができないでいる。涼しい顔で自分を見やるサンに向かって、レイはもう一度小さく息をつくと、渋々といったふうに言葉を返した。
「今日はリーナの所に癒やしの術を習いに行ってる」
「へぇ、相変わらず真面目だねえ」
 サンは感心したように眉を上げて、それからぼそりと独りごちた。
「……シキも捨て難いんだけど、彼女、先生べったりだからなあ」
「は?」
 何のことだよ、と唇を尖らせるレイに思わせぶりな視線だけを返し、サンはまたも独り言めいたものを訥々と吐き出す。
「……となると、やっぱりレイ一択なんだよなあ。でもなあ、お前、ちょっとしたことですぐに暴走するからなあ……」
「おい、何だよ! もったいぶるのもいい加減に……」
 レイが声を荒らげるのと同時に、サンの表情が一変した。これまで滅多に見せたことのない険しい顔で、テーブルに身を乗り出してくる。
「レイ、話がある。重要な話だ」
 そのあまりにも真剣な眼差しに、レイは知らず生唾を飲み込んだ。