あわいを往く者

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黒の黄昏 第四話 這い寄る混沌

  
  
  
    四  獲物
  
  
 夕焼けに染まった道が、赤く揺らめく太陽へと真っ直ぐに伸びている。街道を逸れたシキとリーナは、タヴァーネス家の敷地の前で別れの挨拶を交わした。
「送ってくれてありがと」
「いーえ。どうせ往診のついでだからね」
 リーナがそう笑ってから、はっと何かを思い出したような表情を作った。
「そうだ、シキ。一つ訊きたいことがあったんだっけ」
 ん? と小首をかしげるシキに向かって、リーナの遠慮ない一言が投げかけられた。
「あのさ、最近レイと何かイイコトあったんじゃない?」
 予想もしていなかった問いにシキの思考が停止する。その一方で、冷や汗ってこういう時にも出るんだ、などと暢気な感想だけが彼女の頭をよぎった。
「な、ななななんで?」
「最近のシキって、なんだかちょっと前よりも色っぽかったりするんだもん」
「ええええ!? 色っぽい? 私が? そんなの生まれて初めて聞いたよ!」
 喜ぶよりも何よりも、心底驚くシキに向かって、リーナが訳知り顔で首を横に振った。
「いやいや、このリーナ様の目は誤魔化せないよ。シキ、あんた遂に『女』になったね!」
 その台詞を聞いて、先ほどまで動揺していたシキの眉間に皺が寄った。
「いや……私は昔っから女だけど……?」
「そういう意味じゃなくて……!」
 拳を振り上げ力説しかけたものの、ほどなくリーナはがっくりと全身の力を抜いた。そうして両手でポンポンとシキの肩を叩く。
「あのね、あんたらどう見ても相思相愛でしょ。そんな若い男女が一つ屋根の下にいるんだからさ。こんなに美味しい状況って、なかなかないんだからさ。……何と言うかな、こう……、えいやってさ、あんなこととか、こんなこととか、色々あるでしょ?」
 あんなこととか、こんなこと。そう聞いたシキの顔がかあっと熱くなった。
 ――そうか、「女」になるって……。
「おやぁ? ちょっとそれ、珍しい反応じゃない? まさか、やっぱり……」
「ないないない! まだ全然何もないから……!」
 大慌てで両手を振るシキに、にやにやとリーナが迫り寄ってくる。
「ほぉーお、『まだ』ねぇ?」
「そうだよ、まだだよ」
 シキの表情が微かに翳ったのを、目ざとくも見とめたのだろう、リーナがついと身を引いた。大きな動作で両手を腰に当て、やれやれ、と肩を落とす。
「そうだねぇ。あんたらの環境じゃ、なかなか突き進むにも突き進めないもんねぇ。て言うか、二人で落ち着いて話とかできてる?」
「何か忙しいみたいで、このところずっとすれ違いっ放しだよ」
 ますます表情が暗くなるシキに、リーナは優しい瞳を向けた。
「家を出たら? 二人で」
「え?」
「実際のところ、レイと所帯を持つってことになったら、いつまでも先生ん家にいるわけにもいかんでしょ」
「ええ?」
 目をしばたたかせるシキを尻目に、リーナは腕を組むと滔々と語り続ける。
「あんたはいいかもしれないけど、レイは無理だわ、絶対。あれ、自分が家長じゃなきゃ我慢できない性質と見た。なんて言うか、仕切り屋? ううん、違うなあ、どちらかといえば、自分の思うようにしたいってだけかなあ。要するに、まだまだお子様、ってことよ、うん。
 それに、先生もなあ……。結構大人げないとこあるしね、あの人。大体、新婚夫婦に身のまわりのお世話してもらう、って、状況は嫌がりそうだしなあ、なんとなく。だから……」
 延々と続く演説に聞き惚れていたシキだったが、ようやく我に返って、真っ赤な顔で親友に食ってかかった。
「ちょっと、リーナ、話が先に進み過ぎ!」
「でも、どうせそのうち独立するんだったら、適当なところで家を出たほうがいいと思うのよ」
 動じたふうもなく、リーナはきっぱりと言いきった。
「でも、まだ全然先生に恩返しできてないのに、家を出るも何も……」
「あ、そっか。そのあたり、あんたらはちょっとややこしいかもねー。親子だったら、そういうものだ、の一言で済むけど、篤志家と弟子っつう関係は、一体どうすればいいのかねえ」
 リーナは渋い顔で首をかしげながら、ふう、と深く嘆息した。
「まぁ、当面の問題はレイだよ。あんまり生殺しにしとくと、あのテのタイプはキレて手がつけられなくなるから、そうなる前にさっさとくっついちゃいなよ!」
 豪快な言動とは似ても似つかぬ柔らかい瞳で、リーナがシキに笑いかけた。この温かい笑顔に、一体どれだけの人が救われているのだろう。この歳で既に「治療院のオカン」などと影で囁かれている頼もしき友人は、いつだってその優しい眼差しでシキを勇気づけてくれるのだ。
「……心配してくれて、ありがとう」
「うむ。あまり真面目に考え過ぎずにね。魔術師だって、弟子だって、恋愛する自由はあるんだからさ」
 沈みゆく太陽のように頬を染め、シキは小さく頷いた。リーナはもう一度にっこりと笑うと、大きく両手を振って今度こそ小道をくだっていった。
  
 夕闇の中に溶けていく友の背中を見送りながら、シキはまだ上気している頬を両手でそっと押さえた。
 ――相思相愛。
 そうか。そうだよ。そうなんだ。シキは何度も噛み締めるように胸の内で繰り返し、それから大きく息を吐いた。全身の血が沸き立ったかのように、身体のあちこちがどくどくと脈打っている。
 ――ついこの間まで、そんなこと考えたこともなかったのに。
 いや、考えないようにしていた、というのが正しいかもしれない。
 ああ見えて、レイは意外と人気者だ。口が悪くて、お調子者で、乱暴で、学校でも事あるごとに教官室に呼び出されてはお説教を喰らっていたレイだったが、彼のことを悪く言う者はほとんどいなかった。羽目を外すことは数あれど、他人が本気で嫌がるようなことだけは決して行わなかったからだろう。
 思い起こせば、剣術の時間にレイとサンが手合わせをする時など、授業中にもかかわらず学友達が大勢それを見学にやって来たものだった。そして、サンほどではないにしても、レイを応援する黄色い声が少なからず飛び交っていたのを、シキも良く憶えている。
 幼馴染みじゃなかったら、同じ先生の弟子同士じゃなかったら。そう口の中で呟いて、シキは拳を握り締めた。そうだったら、果たして、彼は自分なんかを相手にしただろうか、と。そもそも、男子に混じって魔術の授業を受けていた時点で、女と認識されたかどうか、かなり疑わしい。
 そういえば、と昔を思い出してシキはがっくりとうなだれた。シキが落とした教本を、上級生がわざと土足で踏みつけたことがあったのだ。女の癖に魔術かよ、とあざ笑う彼奴に、レイはこう食ってかかった。「小猿苛めて喜ぶなよ、馬鹿猿」と。
 庇おうとしてくれたのはありがたいけど、小猿はないだろう。しかもその言い回しがよほど気に入ったのか、レイはその一件以来シキのことを小猿呼ばわりし続けたのだ。もはや女扱いがどうこうなどというような話ではない。
 溜め息を幾つも吐き出しながら、とぼとぼとシキは玄関へと向かった。扉に手をかけたところで、ふとある考えが思い浮かんで青ざめる。
 ――まさか、レイ、女だったら小猿でも良い、とか……!
 もしくは、手近なところで我慢しよう、ってことだったらどうしよう、そう考えてシキは愕然と立ち尽くした。口の中が一気に乾いて、喉の奥が心なしかひりひりと痛み始める。
 嫌な考えを振り払うべく、シキは勢い良く頭を振った。それから、力一杯口を引き結んだ。
 ――いいや、カレンさんのことがあるじゃない。彼女は美人で凄く色っぽいし、全然手近じゃないし。それでも彼は私がいいって言ってくれたじゃない!
 ふと、空を見上げれば、茜色の残照が木々の梢の向こうへと静かに遠ざかっていく。小さい頃、レイと二人で空を見上げて、競うように一番星を探したことが、まるで昨日のことのようにシキの胸に思い出された。
 物心ついた時から一緒だった。友人であり、ライバルであり、家族。そして…………
 その先をシキは真っ赤な顔で呑み込んだ。そうなれたらいいな、と、そっと小声でつけ足してみる。
 決意を瞳に込め、シキは玄関の扉を開けた。もう逃げちゃいけない、これからのことを考えなければ、と。弟子としての領分さえ見失わねば、修行が疎かになりさえしなければ、きっと――
  
 ――そう、きっと、先生は私達のことを許してくれるはずだ。
  
  
  
 その日の夕食は、皆、一様に何か様子がおかしかった。
 シキは、ぼんやりと物思いに耽りながら、時折レイとロイの顔を盗み見ては赤い顔で溜め息をつく。
 レイは、食卓に肘を突いて、食事を口に運びながら難しい顔で何かを考え込んでいる。
 そしてロイは、一見普段と変わりがないようだったが、弟子達のそんな有様に一向に気がついていない様子だった。
  
「ごちそうさま」
 食事を終えたレイが立ち上がり、食器を流しへと運んでいく。シキも慌てて、ごちそうさま、とそのあとを追った。
「ね、レイ、話があるんだけど……」
「レイ」
 シキの言葉を遮るようにして、ロイが静かに、だが有無を言わさぬ口調でレイの名前を呼んだ。その一瞬、レイは電撃に打たれたかのように背筋を震わし、それからぎこちない動きでゆっくりと師匠を振り返った。
「何ですか」
「……悪いが、少し使いに行ってくれないか」
 ほっ、と大きな溜め息をついてから、レイは改めて師のほうへ向き直った。
「使い? 今から?」
「これを薬草屋に届けてほしい」
 ロイはそう静かに言うと、一通の書状を懐から出した。
 怪訝そうにレイが眉を上げるのとほぼ同時に、二人の前にシキが割り込んできた。
「それだったら私が行きます。レイは後片付けがあるし」
「あ、いや、しかし……」
 酷く狼狽した様子でロイが何か言いかけるよりも早く、レイが呆れたとばかりに声を上げた。
「お前なあ、いま何時だと思ってんだよ。女子供の出歩く時間じゃねーぞ」
 そう言いながらレイは、自分の食器をシキの持つ食器の上に重ねて乗せた。落ちそうになる皿へと、シキの注意が逸れる。
「たまには、素直に守られてろ」
 レイの囁きを耳にして彼女が顔を上げた時には、既に彼はロイの傍で書状を手にしていた。
「じゃ、シキ、後片付け頼むぜ。先生、これを薬草屋に届けるんだな」
「ああ。間違いなく手渡しで頼むぞ」
 椅子の背にひっかけていた上着を羽織り、早足でレイが部屋を出ていく。その背中を二組の瞳が静かに見送った。
 心配そうな瞳が、そして満足そうな瞳が。
  
  
 夕食の後片付けを終えたシキは、鎧戸を閉めようと食堂の窓を明けた。
 灌木の向こう、月明かりに照らされて薄ぼんやりと光る街道が、静かに東へと延びている。町の中心へ、カレンの店へ。
 艶めかしい彼女の姿態が脳裏に浮かび上がってきて、シキは大きな溜め息をついた。満面の笑みを浮かべるカレンにいざなわれるがまま、レイの後ろ姿がドアの向こうへと消えていく。その時、レイはどんな表情をしているのだろうか……。
 ――やっぱり無理にでも私が行けば良かった。いくら女に夜道が危険だといっても。
「どうせ小猿だし」
 わざと自嘲気味に呟いてみたものの、余計に自分がみじめになってしまった気がして、シキは力無く肩を落とした。
 カレンの華やかな金髪、柔らかそうな唇、豊かな胸、綺麗な脚、女らしい仕草……、同性であるシキから見ても、その魅力は相当なものだった。世の男性諸氏にとっては、言わずもがなだろう。
 それに、確かに彼女は奔放な女性だという評判だが、不思議と悪い噂などは聞いたことがない。
 ――もしも……もしもカレンさんがレイのことを本気で好きだったのだとしたら。それにレイだって、彼女のことが嫌いだったら、関係を持つことなんてないはずだし……。
 そこまで考えて、シキは更に深く落ち込んだ。おのれに対する劣等感を、レイへの不信感にすり替えようとしていることに気がついたのだ。
 自分がこんなに弱い人間だったなんて、とシキは拳を握り締めた。こんなことじゃ駄目だ。自分を、レイを信じないと。
「……シキ」
 突然の呼びかけに、シキは驚いて背後を振り返った。
 ぽっかりとあいた扉の前、暗い廊下を背景にしてロイが静かに佇んでいた。
「は、はい。なんですか?」
 何時からそこにいたのだろう、シキはどぎまぎしながら、師匠の言葉を待った。
「片付けは終わったかい?」
「あ、はい」
「それなら、居間で一服しないか? 一緒に」
 その申し出を聞いて、昨日の楽しかった団らんがシキの脳裏に甦る。
「はい。じゃあ何か飲み物を持って行きましょうか?」
「ああ、頼むよ。……アルコールは無しで」
 ロイが冗談めかしてつけ足した一言に、シキは思わず笑みを浮かべた。
「了解。丁度リーナに桂皮を貰ったんです。肉桂茶にしますね」
  
 シキが窓から身を乗り出して、鎧戸を下ろす。
 夜風に騒ぐ木の葉擦れの中、タヴァーネス邸が闇に沈んだ。
  
  
  
「手渡しってったって、あの女が寝てたらどうすんだよ」
 ひとけの無い街道を歩きながら、レイは不機嫌そうに独りごちた。シキの手前勢いで引き受けたものの、良く考えたらそんな緊急の用事が薬草屋にあるものなのか? 明日の朝ではダメなのか? 疑問ばかりが、次々と彼の胸に湧き上がってくる。
 とはいえ、あのままもたもたしていたら、自分の代わりにシキがお使いに行ってしまったことだろう。「それだったら私が」と師の前に進み出たシキの表情を思い出して、彼は溜め息をついた。
 ――信用ないのか、俺。
 ……あるわけないか。レイは口のを少し上げながら、自嘲した。
  
 薬草屋の未亡人カレンは、確かレイよりも八つほど年上だという話だった。十年前の戦争で、連れ添ったばかりの夫を亡くし、以来ずっと決まった相手を作ることなく独りで店をきりもりしている。
「気に入った相手となら、誰とだって寝るらしいぞ」そう上級生から聞いた噂どおり、彼女はレイに声をかけるなり、その場で閨まで誘ってきたのだ。
 匂い立つような色気に、未熟なレイが抗えるはずがない。呑み込まれ、流され、何度も逢瀬を重ねたが、やがて主導権を握ろうとする彼女にレイは辟易するようになった。
 最初のうちはそれでも構わなかった。溜まり猛る性を解放することさえできれば、それで満足だったのだ。だが、レイが経験を積んでくるにつれ、相性の悪さが露呈することになる。カレンに呼び出されるたびに、レイの心は身体とは裏腹に彼女からどんどん遠ざかっていった。
 最初の逢瀬から一年半が経ったある日、レイはカレンに別れを切り出した。もう、呼び出さないでくれ、と。これ以上この関係を続けることが、レイにはつらくなってきたのだ。
 まだ想いを伝えていないとはいえ、これはシキに対する裏切り行為なのではないだろうか。今更ながらレイはそう思い当たったのだ。もしも自分がシキの立場なら、絶対にいい気はしないだろう。それに、誘われるがままに心のない情交を重ねるというのも、カレンに対して失礼というものだろう、とも。
 だが、一番の理由は、実は別にあった。
 カレンの手ほどきで数多くのわざを知ってしまった今、それに触発されるようにしてシキに対する欲望が、より具体的に、より過激に、自分の中で膨れ上がってしまっていることに気づいたのだ。
 場所を問わず、状況を問わず、レイは妄想の中でシキを抱いた。そこにあるのは、愛という言葉を隠れ蓑にして、ただひたすら欲望を吐き出すだけの、おのれのための行為でしかない……。
  
『別れよう』
 レイが言ったその言葉を、カレンは何度もはぐらかした。
 自分がフるのはいいが、フられるのは我慢ならないとでもいうのだろうか。別れ話の時の、カレンの不穏な目の光を思い出して、レイはぞくりと背筋を震わせた。
 ――しっかりしろ、レイ。彼女を守ると決めたんだろ。
 レイの瞼に、子供の頃のシキの笑顔が浮かび上がる。
 同じように天涯孤独の身となったレイを気遣って、自分の両親の訃報にも必死で泣くのをこらえていたシキ。彼女がレイに涙を見せたことは一度もなかった。シキの布団からは毎晩のように嗚咽が聞こえてきたが、朝になれば、彼女は泣きはらした目を誤魔化すようにこすりながら、おはよう、と満面の笑顔でレイを起こしてくれた……。
 ――これからは、俺がシキを守ってやる。
 あの時の決意を改めて噛み締めて、レイは夜道を急いだ。
  
  
 薬草屋はまだ煌々とした明かりを往来に投げかけていた。
 入り口の段にレイが足をかけたその時、目の前のドアがカランと開き、閉店の札を持ったカレンが顔を覗かせた。
「あら」
「手紙。先生から」
 書簡を受け取ったカレンは、懐から折りたたみナイフを出すと封を切った。便箋にさっと目を走らせ、それからレイの顔をじっと見つめる。
「返事とか、必要ないんだったら、もう帰るけど」
「……そうね、とにかく中に入って頂戴」
 彼女は店の扉を大きく開くと、さっさと店に引っ込んでいった。仕方なくレイもカレンのあとに従う。
「いつもこんなに遅くまでやってんのか?」
「いいえ。今日はちょっと……ね。お昼休みが長かったから……」
 意味ありげな目つきでレイのほうを一瞥してから、カレンは戸締まりを始めた。
 彼女が鎧戸を全部閉め終わるまでの間、レイは手持ち無沙汰に店内をゆっくりと見まわしていた。正面には陳列棚を兼ねたカウンター、窓辺に並ぶ植木鉢、吊るされ干されている葉や実、調合を待つための木の長椅子……。
 ここは、二年前にレイが初めて女を知った場所だ。
 ――まあ……悪い経験じゃ、なかった……よな。
 過去を思い出した勢いで、うっかり気持ちが高揚してしまい、レイは慌てて頭を振った。こんな状態でシキのいる家に帰った日には、理性の糸がぶち切れてしまうに違いない。どうやって落ち着かせようか、と必死に頭を巡らせるレイの背中に、柔らかいものが押しつけられた。
 それが何であるか、レイが思い当たるのと同時に、細い腕が背後からレイの身体を抱きしめる。カレンは官能的な指遣いでレイの身体を撫でながら、豊かな胸をなおも彼の背に押しつけてきた。
 ごくり、とレイの喉が鳴った。
 おのれの下腹部に熱が集まっていくのを自覚しつつ、レイはカレンの細い手首を掴むと、静かに身体から引き剥がした。そして、ゆっくりと彼女のほうに向き直る。
「どういうつもりだ」
「こういうつもりよ」
 そう言うなり、カレンがレイの頭を両手で引き寄せて、唇を重ねてきた。いつぞやシキが目撃した時と同じように、半ば強引に口づけを貪る。またしても不意を突かれたレイだったが、今度ばかりは力を込めてカレンを押し退けた。
「……用がないんだったら、帰るぞ」
「どうしたの? 楽しみましょうよ」
「別れようって言っただろ」
 吐き捨てるかのごときレイの口調に、カレンの表情から微笑が消えた。見たこともないような冷ややかな目つきで、じっとレイの目を見つめ、そして静かに口を開く。
「いやよ」
「じゃあな」
 あっさりと踵を返すレイの目の前に、カレンが息せき切って回り込んできた。それから、扉に鍵をかける。
「帰さないわ」
「帰る」
 背中でドアノブを隠すカレンを、レイは容赦なく引き剥がそうとする。その手に、必死の声が取り縋った。
「ねぇ、好きにしていいのよ。あの子にできない事もなんだってしてあげる」
 振り乱された金の髪が、レイの手に、腕に絡まる。
「胸でも、口でも、どこだって、何でも言うこと聞いてあげる。何なら、私のこと、シキって呼んでくれてもいいわ!」
  
 その瞬間、レイの動きが止まった。
 カレンを退けようとしていた手から力が抜け、踏ん張っていた足もそっと揃えられる。レイが抵抗をやめたことを知り、カレンは勝利を確信して顔を上げた。
 顔を上げた先、レイが黙って佇んでいた。静かに息をつき、とても寂しそうな瞳で、彼はカレンを見つめていた。
「……お願いだ、カレン。俺にあんたを嫌いにならせないでくれ」
 まるで心の底から絞り出されたかのようなレイの声音に、カレンは目を見開いた。
 みるみるうちに彼女の両目から涙が溢れ出し、はらはらと頬を伝い落ちていく。
 嗚咽は次第に泣き声に変わり、そして最後には号泣と化した。