あわいを往く者

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黒の黄昏 第八話 絡み合う糸

  
  
  
    二  兄帝
  
  
 ――帰って来なかった。
 部屋に差し込む暁の光に目を細めながら、ロイは身を起こした。
 依然として、階段の上り口に仕掛けた「張糸」の術が破られた気配はない。つまり、シキは帰宅しなかったということだ。
 収穫祭のパレードで何か騒動が持ち上がったらしい、ということは彼も聞いていた。なんでも、帝都の貴族が暴漢に襲われたらしい。いや、襲われたのは領主様だ、お忍びの皇帝陛下だ、と、どこまで本当か解らない尾ひれまでつけて、昨夜ジジ夫人はロイに熱弁を振るってくれていた。
 なんにせよ、警備隊がその事件を片付けるために駆り出されているのには違いない。そのような理由でシキが外泊するのは、決して珍しいことではなかった。だが……、
 ――なんだ、この胸騒ぎは。
 ロイは眉間に深く皺を刻み込んだ。
  
 昨日の朝、ロイが目を覚ました時には、既にシキは家を出たあとだった。「半身」の術に予想以上の力を吸い上げられてしまっていたのだろう。折角の計画を自ら台無しにしてしまい、彼は激しく落ち込んだ。
 そう、ロイは警備隊顧問という立場を利用して、今日一日彼女を休ませるつもりだったのだ。そして、彼女を抱きしめ、その耳元で囁くつもりだった。自分がレイの術を解いたということを。どれだけの情熱をかけて、どれだけの苦労をして、術を解いたのかということを。そうして、この燃え盛る想いを彼女に伝えるつもりだったのだ。
 こんなことなら、彼女を部屋に戻すべきではなかったか。ロイは心の底からおのれの失策を悔いながら、仕方なくシキの帰りを待つことにした。
  
 あれだけの力を注ぎ、入念な準備をしていたにもかかわらず、術の上書きが為されなかったことに、ロイは内心穏やかではなかった。ロイがかけた術はレイのそれと真っ向からぶつかり、その結果、双方ともに弾け飛ばされてしまったようだった。
 ――この術に限っていえば、拮抗していたということなのか。このロイ・タヴァーネスと、名も無き弟子のちからとが。
 悔しさに思いっきり奥歯を噛み締めながら、ロイは独りごちた。
 ――だが、もう良い。レイはここにはいないのだ。今、シキの傍にいるのはこの私。術のことも、魔術に頼るな、というアシアスの思し召しなのだろう。そういうことならば、姑息な手を使わずにものにしてみせよう、彼女を。
 そう思って気持ちを昂らせて待っていたのだが、シキは帰って来なかった。
 ロイは大きな溜め息をつくと、寝台から起き上がった。
  
  
「お客様ですよー、先生ー!」
 朝食を終え、居間で寛いでいたロイに階下から声がかかった。
 ロイ達がルドスに居ることを、更にはこの家に住んでいることを知る者は限られている。幾つかの可能性を思考にのぼしつつ階段を下りると、案の定、玄関広間に、外套を纏った警備隊隊長の姿があった。
「おはようございます。朝早くからすみません」
「……おはよう。何やら昨日は大変だったようだね」
「ええ。その件については、またのちほど報告書を持って来させます」
 ロイは隊の顧問ではあったが、それはあくまでもルドス領主に頼まれての非公式な立場に過ぎない。表向きは、ロイよりもこの十も若いエセルのほうが、社会的地位は上なのだ。だが、エセルは決してロイに対して慇懃な態度を崩さなかった。
 元・帝国宮廷魔術師長、という肩書きがものをいっているのだろう。ならば、とロイもかつての自分の立場にふさわしい態度でそれに臨むことにしていた。この処世術に長けた若者が心中でどのようなことを思っているにしても。
 一階に下り立ったロイは、不思議そうな顔でエセルを見た。
「君がわざわざ自分でここに出向くとは、一体何の用なのかね」
「他の者には任せておけない、大切な用件を承りまして……」
 そこまで言って、エセルは靴の踵を鳴らして直立不動の体勢をとった。
「タヴァーネス宮廷魔術師長様、アスラ皇帝陛下が領主の屋敷でお待ちです」
  
  
  
「随分、嫌われたものだ」
 古めかしい城を嫌って利便性の高い町なかに新しく建てられた、ルドス領主の屋敷。その謁見の間。
 いつもは領主が座っている椅子に深く腰をかけ、肘掛に右肘をつきながら、今を時めくマクダレン帝国皇帝は静かに口を開いた。一段下がった所で黙って跪くロイをねめつけて、更に続ける。
「ルドスまで来ていながら、どうして帝都に帰ってこないのだ? 今日来るか、明日来るか、と待っているうちに、もう半年だ」
「……失礼いたしました」
 やっとの思いで、ロイはそれだけを絞り出した。
 十年前、ロイは得体の知れぬ「何か」に衝き動かされるようにして、戦勝に沸く帝都を去った。言葉にできない衝動をどう説明したものか考えつかなかったロイは、役人や同僚達には勿論、あるじであるアスラに対しても、顔を合わせることなく書き置きでのみ別れを告げて宮城を出たのだ。
 その「何か」が、他でもないアスラの視線であったことに気がついたのが、半年前だった。教え子達の雑談によって脳裏に引き出された記憶の中で、主君は禍々しい視線をロイの身体に打ち込んできたのだ。
 そして、あの台詞だ。「黒髪の巫子」と、あからさまな嘲笑に彩られたあの言葉は、ロイの心の奥底に、今も楔のように深く食い込んでいる……。
 イの町を引き払い、ルドスに来た時、ロイはまだレイが生きているという事実を知らなかった。それでも自分の存在を表立たせなかったのは、山脈の向こう側にある帝都の存在が今までよりもずっと近かったからだ。幼少期からの半生を過ごしたあの街が、懐かしくないと言ったら嘘になる。だが、自分の行く末について、ロイはまだ心を決めかねていたのだ。そんなあやふやな状態で、あの視線に捕捉されるわけにはいかない。
 だが、それらは全て、児戯にも等しい悪あがきに過ぎなかった。ロイがルドスに居ることを、兄帝は既に知っていたのだ。そして、半年の猶予ののち、彼はロイを迎えにわざわざこの街までお出ましになったのだ。
 皇帝自ら、かつての家臣のもとへ、直々に。その意味が分からないロイではない。彼は額を床に擦りつけんばかりに身を低くして、畏まった。
 身じろぎ一つしないロイを、アスラの冷たい目が見据える。
 壁際には、皇帝の随行者達と、ルドス領主と、エセルを含むルドスの将官が何人も控えている。だが、まるで深夜の墓場のように、部屋中が静まりかえっていた。
  
 衣擦れの音がして、皆の視線が玉座に集まる。
 アスラが悠然と立ち上がるところだった。
 人々が固唾を呑んで見守る中、皇帝は静かに赤い絨毯を踏んで壇を下りる。やがて彼はロイのすぐ傍までやってくると、ゆっくりと腰を落とした。
 ロイの前髪に、冷たい息がかかる。
「何を怖がっているのだ。暗黒魔術を使用したということか?」
 囁くような小声は、ロイの耳にだけ届いた。反射的に、ロイは大きく息を呑む。
 アスラは、その反応を確認してからおもむろに立ち上がった。そして、部屋中を見まわして、一言、「席を外せ」と命をくだした。
  
  
 最後の一人が扉の向こうに消え、室内にはアスラとロイの二人だけが残された。
「顔を上げよ」
 再び玉座についたアスラは、先ほどまでと比べて若干砕けた調子でロイに言葉を投げた。
 ロイは命に従って、静かにおもてを上げた。まるで首の関節が錆びついてしまったかのような、ぎこちない動きで。
「『誓約』の苦痛は、耐え難いものではなかったか」
 問いかけるふうでもなく、アスラが呟いた。「一体何が君をしてそこまでさせたのか……」
「何故、私が禁を破ったと」
 覚悟を決めて、ロイは口を開いた。兄帝に下手な小細工が通用しないということを、彼は充分過ぎるほど知っていたからだ。
「解るさ。私は君のことならなんだって解るのだからな」
 軽口を叩いて、アスラは口元を緩ませた。だが、ロイの不安感はいや増すばかり。
「安心しろ。別に暗黒魔術を使ったからといって、咎め立てるつもりはない」
 椅子に深く座り直して、アスラは胸のところで両手の指を組んだ。
「黒の導師というのは、暗黒魔術とは何の関係もないのだから」
 ロイはその言葉に思わず唾を飲み込んだ。
 ――やはり、あの時のあの兄帝の表情は、そういうことだったのだ。
「それでは、何故」
 先ほどまでいだいていた畏れを忘れて、ロイは兄帝へ問いかけていた。対するアスラは、玉座に背もたれたまま気だるそうに目を閉じる。
「あれ以上巷間こうかんを混乱させるわけにはいかなかったからな。暗黒魔術を禁じたところで、とりたてて不利益をこうむることもない。ギルドの連中がそれで満足するのなら、それはそれで良いだろう、そう思ったのだ」
 ――では、あの呟きは? 虚空へと投げかけられた、嘲りの言葉は?
 何ものかに急かされるかのように、ロイは身を乗り出した。
「それでは、黒の導師とは? 黒髪の巫子とは何者なのです」
「……聞いていたのか。あの時だな」
 軽く鼻を鳴らしてから、アスラは瞼をゆっくりと開いた。それから意味ありげにロイを見つめる。
 主君の瞳に、あの時と同じ嘲笑の気色けしきを感じ取り、ロイの胸の奥がざわめいた。
「黒の導師も黒髪の巫子も、その指し示すものは同じようなものだ。そうだな、数多あまた存在する『黒髪の巫子』のうちに『黒の導師』と名乗る者がいる、と言うべきか」
「一体何者なのですか?」
「……邪教の祝福を受け、邪なる神々に仕える者達のことだ」
 アスラの双眸に、暗い炎が入る。
「邪教の神に奉仕し、その代わりに神はその者の生命を守る。 巫子となりし者はその髪を闇の色に染め上げられ、人々と神の橋渡しとなる……。解るか? どれだけそやつらが、アシアス信仰にとって危険な存在か」
 その瞬間、ロイの脳裏を稲妻が走りぬけた。次いでアスラの一言が、何度も脳蓋にこだまする。
『その髪を闇の色に染め上げられ――』
  
 ――夕方になっても、彼ら二人は教会に帰って来なかったという。町の人間は総出で辺りを探し回ったらしい。
 二人は天涯孤独な孤児だったが、彼らの両親の記憶は人々にまだ新しかった。町のために戦いに赴き、命を散らした英雄達の忘れ形見。皆必死に、仕事の手すら休めて、川の底まで浚ったそうだ。
 そして、一夜明けて彼らは町外れの丘の上で発見された。髪を漆黒に染め上げられた姿で――
  
 ロイは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 黒髪の巫子。
 異教の書物に散見されるその名前。
 その者は生まれながらに黒髪なのだと思っていた。
 我々とは違う存在だと、神の領域に属するものだと、そう思い込んでいたのだ。
 だから、シキとレイは「違う」と思っていた。「巫子」の手がかりになるやもしれぬとは思ったが……彼ら自身のことだとはついぞ考えもしなかった!
  
 ロイの喉が、ごくり、と鳴った。
 シキに与えた「偽装」の指輪。自分の存在を兄帝に気取られたくなくて、あくまでもロイ自身の保身のために与えたあの指輪が、このような形で役に立つとは。彼女が黒髪であることをこの方に知られるわけにはいかない。ロイは腹の底に力を込めた。
「……何故、そのことを今まで仰らなかったのですか」
「言っただろう。あの時は不可能だったのだ。皆、聖なる神像を受け取るだけで精一杯であっただろう?
 それに、短絡的に黒髪などという目印を掲げてしまえば、感情的、強迫的な『人狩り』が行われる恐れがあった。それこそ、黒に近い色味の髪をした数多の者の命を無駄に散らせる羽目になったに違いない」
 兄帝の言葉は、ロイが想像もしなかったものだった。思わずまばたきを繰り返したロイに、アスラの苦笑が投げかけられる。
「柄に合わないことを、とでも言いたそうな顔だな、ロイ。民あっての国だ、と、セイジュも申しているだろう。
 そもそも、黒の導師が現世にヒトとして存在するかどうかすら明らかではない以上、不用意なことは言えなかった。実体を持たぬ存在が無辜の者に憑依している可能性だってあろう。それゆえ、私は警告だけで諦めたのだ」
 そう言って、アスラは髪をかき上げた。指の動きに合わせて金糸のような髪が、さらさらと波打つ。
 この十年という歳月は、皇帝の風貌を少しもくすませていなかった。齢にふさわしい風格こそつきはしたが、それすら麗しき飾りとなって、この芸術作品を彩っている。それは双子の弟であるセイジュ帝も同様だろう。
 そして、彼らを飾るのは見目だけではなかった。魔術と武術と、智謀と慈愛と、畏怖と尊敬と。実に対照的な双子の皇帝は、たった二人で人々の羨むもの全てを所有していた。
「……兄帝陛下はどうしてそのようなことをご存知なのですか」
 そう、ロイが十年かかっても知りえなかったことを。いくらアスラが天に二物を与えられた存在だとしても、ロイもまた人々に天才と呼ばれる人間だ。ついついむきになってしまう。
「神の声を……聞いたのだ。知っているだろうに」
 少し呆れたような顔で、アスラは答えた。それから、何か思いついたように少し眉を上げると、ロイの目を正面から見据えた。
「君になら、全てを教えてやってもいい。帝都に帰って来い」
 全て。
 ロイの心が、ぐらりと揺れる。
 だが――
「君のために、この十年、宮廷魔術師長の役は空けてある。再び、我の右手となれ」
 ――だが、ロイの頭の奥底が、警告していた。
 行くな、と。
 、と。
  
 黙り込むロイにアスラは軽く息を吐いてから、話題を変えた。
「確か、この州のイの町だったか」
 そう言って、アスラは陽光の差し込む窓のほうを見やった。
「十年……、よい教師にはなれたのか? タヴァーネス?」
 皮肉なのか、何なのか。アスラの真意を図りかねて、ロイは微かに眉を寄せる。
 だが、アスラの次の言葉に、一瞬にしてロイの心臓は跳ね上がった。
「弟子が二人いるらしいな」
 ロイは思わず目を逸らす。そのあとに続くであろう単語を予測して。そしてその予想は的中した。
「……黒髪だと、聞いたが……」
 シキを守れ、シキのことを知られてはならない。そうロイの中で本能が囁く。
「いました。黒髪なのは一人だけですが……、彼は、半年前に私がこの手で屠りました。暗黒魔術で」
「ふむ」
 アスラが微かに眉根を寄せた。「なるほど、あの時の波動はそれだったのか」
 やむをえぬか、と独白を漏らしてから、アスラはゆっくりとロイを見た。
「そうか。それならさしもの巫子とて、ひとたまりもなかっただろうな。しかしまた、どうして弟子を手にかけることになったのだ?」
「陛下を裏切ろうとしたからです」
 その言葉に、アスラはふっ、と目を細めた。
 ――そうか。
 満足そうな笑みを浮かべるアスラを見つめながら、ロイは一人合点した。レイが生き永らえることができたのは、彼が「黒髪の巫子」であったからに違いない、と胸の内で頷く。
 行方をくらました二人が発見されたのが東の丘。そして、ロイがレイを殺そうとしたのが東の森。おそらく、彼らに祝福を与えたであろう邪神は、あの辺りをテリトリーとしていたのだろう。加護の力も強くなるはずだ。
 ロイには、レイのことを庇うつもりはさらさらなかったが、どうしても真実をアスラに語ることに抵抗があった。それに、全くの嘘というわけではない。現につい三日前まで、自分もレイの死を疑っていなかったのだから。
「もう一人の弟子は黒髪ではないのだな」
「はい。彼女は……」
「彼女? 女が魔術を使うのか?」
 卒然、アスラが眉をひそめた。
 ロイは、今度こそ背中を冷や汗がつたうのを感じた。……とはいえ、こればかりは嘘のつきようがない。
「は、はい……」
「……その娘は、イの町の者か?」
「そうです」
「その親は? どこの出身だ? 姓は?」
 いつもの兄帝らしからぬ、切羽詰まったような声で問い詰めるその様子に、ロイは戸惑いを隠せなかった。
「……は。両親ともに地元の者かと……。さきの戦争で戦死しております。姓はありません」
「……そうか。なら良い」
 アスラは再び普段の顔に戻って、のり出していた上半身を玉座の背に埋めた。
「女魔術師か……腕前はどうなのだ?」
「……それなりに、役に立つかと」
「ふん、君がそう言うということは、かなりの腕だということか。すごいじゃないか」
  
『すごいじゃないか』
  
 突然ロイの脳裏に、幾つもの映像が閃いた。視界がぐらりと揺れ、天地が逆さまになったかのような感覚が彼を襲う。
「いや、それとも君という先生が素晴らしいのかな」
 上機嫌でロイに語りかける、アスラの声。
 まるで頭蓋骨が空洞になってしまったようだった。その声がわんわんとロイの頭の中に反響する。
「私は君をとても気に入っているんだよ」
 アスラがゆっくりと立ち上がった。
  
 ――母が、山賊に牽きたてられていく――
  
「どんな時も、諦めることなく」
 アスラが一歩前に進み出た。
  
 ――山賊の指が、ロイの首を絞める――
  
「知識を、力を求め、より高みを目指して」
 アスラが赤い絨毯を踏みしめ近づいてきた。
  
 ――ロイの右手が埋もれていた魔術杖を探り当てる――
  
「いつだって君は、私の期待に充二分に応えてくれた」
 アスラがロイの前に立った。
  
 ――風の刃が辺りに乱舞する。
 人間の身体の破片が飛び散り、巨石をつたう血。
 血が、地面にどんどん吸い込まれていく――
  
「田舎に引っ込んでしまって少し丸くなったようだが……」
 アスラは軽く膝をつくと、ロイの顔を覗き込むようにして語りかけた。
「私と君は同類だからな」
 何かに絡め取られてしまったかのように、ロイは身動き一つできなかった。眼前に迫るアスラの彫像のような顔から目を逸らすこともできずに、ただ息を呑む。
「明々後日に帝都へ帰る。君も一緒に来い」