あわいを往く者

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黒の黄昏 第九話 求める者、求められる者

  
  
  
    二  錯綜
  
  
 物心ついた時から、自分と「外」の間には昏い川が流れていた。
  
 サベイジ家のご子息。
 家の外ではそれが自分の名に等しかった。学友は勿論、教師までもが自分をその名で呼んでいた。たとえ彼らの唇は真の名を紡ごうとも、その音の裏に潜む響きをエセルは決して聞き逃さなかった。
 そして、家ではまた別の名前がエセルに与えられていた。
 サベイジ家の「三番目」。
 二歳ずつ歳の離れた、二人の兄。家人の視線はその二人に集まっていた。そう、嫡男と、その「予備」。彼らが齢を重ねるにつれ、「予備」が必要となるリスクは減り続けていく。戦争が終わる頃には「予備」の「予備」の存在価値などないに等しかった。
  
 人々の視線は、常に自分をすり抜けて背後の何かに向けられていた。誰も……親ですら、自分を取り巻く昏い流れに踏み込んでは来なかった。
  
  
 エセルが十七の年に戦争は終わり、生家は帝都からルドスに居を移した。
 身分制度と古い因習に囚われた都からの脱出。新しい土地ならば、自分はこの形のないくびきから逃れることができるかもしれない、エセルはそう期待した。
 だが、ルドスは既に名実ともに帝国領の街であった。結局ここでも自分は自分になりきることができなかった。
 ――家を出るんだ。いつか、きっと。
 父親が望んだ法律学校を蹴り、エセルは剣術の道を選んだ。まだ躊躇いがちだったその決心も、三男の行く末を案じるよりも、自分の命に従わなかったことにのみ怒る父親の態度によって、確固たるものと化した。
 独りでも生きていける力を求めて、彼はがむしゃらに鍛錬を続けた。三年も経つ頃には、エセルの腕前は万人の知るところとなっていた。皇帝陛下から任命状を下され、ルドス警備隊専任の隊員となったのが翌年。その更に翌年には隊長の任についた。
 だが、結局は「流石はサベイジ家のご子息」なのだ。その言葉には多分に棘が含まれている。兄弟子を打ち負かしても、師匠に認められても、帝国最年少で隊長に就任しても、それは全てエセルの力ではない、と。
 心の隙間は人肌で無理矢理埋めることにした。
 元々、エセル自身、情欲の強い性質だったのだろう。それも手伝って、彼のもう一つの武勇伝もほどなく人々の知るところとなる。
 肌を合わせ、官能に酔いしれるその瞬間だけは、相手は心からエセルの真の名を呼んでくれる。遂にエセルは他の誰でもない、エセル自身になることができた。
 本当に、その一瞬だけのことではあったが。
  
  
  
「どうして、こんな言いなりになっているんですか?」
 三階に足を踏み入れた途端、シキがインシャに問いかけてきた。
 先ほど、談話室でインシャに名前を呼ばれた時は、シキはもの言いたげな表情を浮かべただけで、何も聞こうとはしなかった。おそらく、人目を気にしてくれているのだろう。その心遣いが、インシャはとても嬉しかった。
「答えてくれるまで、私はここから動きません」
 真っ直ぐな視線が、インシャを射抜く。
 理不尽な呼び出しを無視することだってできたのに、シキはこうやって真正面からインシャに向き合ってくれている。こんな愚か者のことを、気にかけてくれている。申し訳なさで張り裂けそうな胸を押さえて、インシャは息をついた。唇を引き結び、大きく息を吸い、そうしてシキの目を見つめ返した。
「それは……、彼の命令、だから」
 シキが、目を見開く。
 インシャは、覚悟を決めた。
「彼が私を必要としている限り、私は彼の求めに応じるでしょう」
「え、まさか、でも……」
「そうね。女ならば誰だっていい、女と見れば見境なしの女ったらし。それでも、私は彼に惹かれている……。彼に見捨てられたくない。可笑しいでしょう」
 口にすればするほど、おのれの愚かさが身に突き刺さる。自嘲の笑みを浮かべるインシャに、シキが悲しそうに眉を寄せた。
「それでいいのですか? こんな、使い走りみたいなことさせられるのも、『必要にされている』ってことなんですか?」
 インシャが必死に目を背けていたものを、シキはいとも簡単に目の前に突きつけてくる。返す言葉もなく、ただ立ちすくむインシャの脳裏に、二日前の出来事が甦ってきた。
  
 二日前、宵闇に沈む資料室で、自分を呼ぶ鈴の音を聞いたインシャは、シキを残して三階のあの部屋を訪れた。
 皇帝陛下を襲った下手人がまだ見つかっていない状況で、エセルだけが帰所するとは、一体現場はどういう状況になっているのだろうか。しかも、執務室ではなくあの部屋の呼び鈴を鳴らすとは、一体どういうつもりなのだろうか。疑問に思いつつエセルの前に立ったインシャは、挨拶を口にする間もなく、エセルによって傍らの壁に押しつけられた。
 深い口づけに、条件反射のごとく応えてしまう自分が酷く情けなくなって、インシャは密かに拳を固めた。だがその一方で、胸の奥に熱いものがこみ上げてくる。ああ、今私は、求められているのだ、と。
「ふざけた話だ。何故、お前達が、あのぼんくらどもの責任まで背負わねばならぬのだ」
 口づけの合間に、エセルが吐き捨てた。こらえきれない鬱憤を晴らすかのように、彼の手つきが荒々しいものとなる。
 甘い痺れに全身を侵されそうになりながらも、インシャはなんとかおのれの職務を全うしようとした。
「どうされましたか、隊長」
「班別に仮眠を取らせようとしたら、却下された。使える人間が揃ってこその総員態勢だろう。消耗しきった兵に何の価値がある」
「では、何故、隊長は」
 ここにいるのですか、と続けるつもりが、嬌声を漏らしてしまい、インシャの体温がますます上がる。
 エセルが得意そうに笑う気配がした。
「少し仮眠を取りに、な。班別が駄目なのなら、代わりに騎士団組を叩き起こしてやる」
 また、深いキス。
 全身から力が抜けそうになるのを気力で耐えて、インシャは言葉を絞り出した。
「隊長、仮眠なさるのではなかったのですか?」
「構わん」
「でも、お身体を休めないと」
「このままでは、とても眠れそうにない」
「ですが、隊長」
 荒い息をおして反論を繰り返せば、ねっとりとした声が耳元にすり込まれた。
「……こういう時は名前で呼べと言っただろう」
 ぎり、とインシャは歯を食いしばった。これは、せめてもの抵抗なのだ。心のない情交に対する。そして――
「名前を呼んでくれ、インシャ」
 ――そして、私は、他の女達とは、違う、と……。
「……隊長、仮眠を」
 次の瞬間、舌打ちの音とともに、インシャは解放された。
 崩れ落ちそうな膝に力を込め、肩で息をしながら顔を上げたインシャを、ぎらつく瞳が出迎えた。
「……そうだ。シキをここへ連れてこい」
 思ってもいなかった言葉に、インシャは我が耳を疑った。
「隊長?」
「さっきは、途中で邪魔が入ったからな。続きといこう」
「馬鹿なことはおやめください!」
 語気を荒らげるインシャを見て、エセルが鼻で嗤った。
「妬いているのか?」
 選択肢のない答えを、インシャは静かに吐き出した。
「……いいえ」
「その割には、不満がありそうだな」
「彼女の意向にそぐわないかと思うからです」
 インシャの言葉を聞くや、エセルの頬に朱が入った。口元を歪ませ、尊大に言い放つ。
「命令だ、インシャ。シキをこの部屋へ連れてこい」
  
 あの時の記憶は、二日経ってもなお、インシャの胸をえぐり続けている。
「自分の価値をさげたくなくて、貴方を犠牲にしてしまった。私は本当にどうしようもない人間だわ」
 深く、深く息を吐き出して、インシャはシキを見つめた。
「ごめんなさい、シキ。談話室へ戻ってください。貴方がこれ以上つらい思いをする必要は、ありません」
「いえ、行かせてください」
 シキの言葉に、インシャは思わず息を詰める。
「隊長に話があるんです」
 強い光を宿した瞳が、真っ向からインシャを見返してきた。
  
  
「ご苦労だったな、インシャ」
 鷹揚な声が、インシャを出迎える。声の主は冷たい笑みを取り繕おうともせずに、ゆっくりと戸口のほうへ近づいてきた。
 無言で扉を閉めるインシャの横で、シキが大きく息を吸い込んだ。
「隊長がこんなに酷い人とは思わなかった! 副隊長の気持ちを利用して、こんな……」
 いきなりのシキの告発に、インシャは慌てふためいて彼女を振り返る。
 シキは、先刻見せたあの挑戦的な眼差しで、エセルにくってかかっていた。
「……インシャの気持ち?」
 エセルの顔からは、先ほどまでの皮肉ありげな表情がすっかり消えていた。しばし、真剣な眼差しでインシャを見つめ、それから静かに口を開く。
「どういうことだ?」
 インシャは、唇を噛みしめ横を向いた。
 エセルの瞳に、獰猛な獣のような光が宿る。彼の喉が大きく波打った。
「答えろ、インシャ・アラハン!」
「…………上司の命令に従うのが、部下の務めです」
 顔を背けたまま言葉を絞り出すインシャに、シキが驚きの表情もあらわに声を上げた。
「副隊長!」
「ふん」
 エセルの口元が、再び冷徹な笑いを刻んだ。先ほどまで熱を帯びていた彼の双眸はすっかり冷めて、まるで氷のようだった。
「流石は、優秀なる補佐役だ。命令一つで身体を開くかと思えば、可愛い後輩を人身御供にも差し出す、と」
「隊長!」
 シキが、憤怒の声とともにエセルに向かって、固めた拳を大きく振りかぶる。
 インシャは無我夢中でシキに追いすがった。
  
 意識を失ったシキを、インシャは壁際の長椅子に寝かせた。口の中で「ごめんなさい」と呟きながら、そっとシキの髪を手ですく。
 シキを止めなければ、と焦るあまり、インシャは反射的に呪文を唱えてしまったのだった。被術者を眠らせる「昏睡」の術を。
「このようなことは、私一人で充分でしょう」
 インシャは静かに立ち上がった。そうして、ゆっくりとエセルを振り返った。
「妬いているのか?」
 嘲るような表情を浮かべて、エセルが問う。
 一瞬、ほんの一瞬だけ、インシャは逡巡した。
 ――この人は、私に心など求めていないはずだ。でも……もしも……。もしかしたら……。
  
 いや、「はい」と答えたら……私は私の居場所を失ってしまう。その他大勢の女にだけは、使い捨ての愛人にだけは、なりたくない。
  
 インシャは、顔を上げると、一言「いいえ」と返答した。
「彼女が嫌がっているのに、強要するのはどうか、と申しているのです」
 嫉妬と罪悪感がない交ぜになった胸の内を悟られないように、インシャは抑揚を殺した声で続けた。
「エセル・サベイジは紳士ではなかったのですか?」
 眼差しに力を込めれば、エセルの唇が弧を描いた。捕り物において相手を捕縛した際に偶さか彼が見せる、支配者の笑み。
「紳士……か。つまり、合意の上でなら問題ない、と。そういうことなのだな、インシャ?」
 寝台に腰かけると、エセルは右手を前へ差し出した。手のひらを上へ向け、ゆっくりと獲物を招く。
「インシャ、来い」
「それは命令ですか?」
 半ば儀式のようにインシャが問いかける。
 エセルが口角を吊り上げた。
「そうだ、命令、だ」
  
  
  
 カツ、カツ、と規則正しい靴音が上階から降りてくる。やがて、その足音の主は、二階と三階の間の踊り場に姿を現した。
 袖のカフスをとめながら階段をくだってきたエセルは、二階の廊下に佇むガーランの姿を認めて立ち止まった。
「……いい加減にしろよ、隊長」
「何のことだ?」
 エセルは再び段を降り始める。進路を塞ぐように立つガーランを避けて、彼は二階の床に降り立った。
 平然と階下へ歩みを進めようとするエセルの前に、ガーランは再び立ち塞がる。上背のあるガーランに対して、エセルはその眼光で対抗した。
「俺達は、アンタのことを尊敬している。だから……頼むから、それを裏切らないでくれ」
「何のことか分からんな」
 静かにそう返すと、エセルは進路を変えた。靴音を響かせながら、二階の廊下を執務室のほうへと向かっていく。
「隊長!」
 ガーランの声が、ただ虚しく廊下に反響した……。