あわいを往く者

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黒の黄昏 第十話 死が二人を別つまで

  
  
  
    四  再会
  
  
「……どうします?」
「……どうもこうもないだろう?」
 エセルとガーランが警備隊本部の会議室の窓辺に立って、ほの明るい東の空を眺めている。
 今日という日に備えるために、結局彼らは本部で夜を明かすことになったのだった。
「冗談はやめてくださいよ」
「私のせい、だと言うのか」
「昨日、隊長がガラにもないこと言うから……」
「お前が不吉なことを言うからだろう」
 ガーランは大きく紫煙を吐き出した。
「……真冬ならまだしも、まだ十月っスよ」
 呆れたような表情のガーランが、空を仰ぐ。「いくらなんでも、こりゃないでしょうに」
 彼ら二人の逆光の後ろ姿の向こう、窓の外には、ちらちらと粉雪が舞い飛んでいた……。
  
  
  
 ――雪だ……。
 寝台から身を起こしたシキは、天蓋の隙間から窓を見て驚いた。
 生まれ故郷とは違い、標高のあるルドスは比較的夏も冷涼だった。冬はさぞかし厳しく、深い雪に長期間閉ざされることなのだろう……、シキはそう考えた。だから、同僚達が笑いながらそれを否定した時は、彼女はにわかには信じられなかった。
『ルドスに初雪が降ると、学校も仕事も休みになるんだぜ』
 冬、この地方には高山からの冷たい西風が吹き降ろす。氷の刃のような風は、川を凍らせ、畑を凍らせ、家畜達を凍えさせる。そう、確かにルドスの冬は長く厳しいのだ。
 だが、雪はほとんど降らない。
 山脈の向こう側で雪を降らせた西風は、雲を置き去りに山を越え、すっかり乾いた風となってルドスを吹き抜けていくのだ。
 風は冷たいが、日差しは意外と強い。たとえ雪が気まぐれに降ったとしても、それが地面に残るのは長くてせいぜい二日。むしろ、ルドスよりも雪の日が多いイの町のほうが、大地が雪に覆われる期間は長いようだった。
 そんなわけで、雪に慣れていないルドスの民は、初雪が降ると大騒ぎするのだそうだ。時期的に新年祭の前後となることが多く、街は余計にお祭り気分に満たされるらしい。
 しかし、今はまだ十月。
 冷気に身を震わせ、寝巻きの襟元をかきいだきながら、シキは静かに窓の傍まで歩み寄った。
 東の空が穏やかに朱に染まっている。ところが、視線を天頂へと巡らせるにつれ、藍色は鉛色へと置き換えられていった。立ち込める暗雲に何か象徴的なものを感じて、シキは深く溜め息をついた。
 ここはルドス領主の屋敷、自分には身分不相応な客室。鈴蘭の柄で統一された煌びやかな調度品も、硝子の雫があしらわれた燭台も、毛の深い絨毯も、全てがシキにとっては異世界であった。
 本当ならば、使用人達と同じ棟で一夜を明かすはずだった。そのほうが、ずっと心安らかに眠れただろうに。少しばかり寝不足の目元を擦りながら、シキはもう一度深い溜め息をつくのだった。
  
  
「貴女はこちらへ」
 昨夜、ロイに従ってこの屋敷に降り立ったシキは、ホールで従僕に引き止められた。
 執事に先導されていたロイがそれに気づき、足を止める。
「何所へ?」
「はっ。使用人の棟はこちらでございます故に」
 若い従僕は滑稽なほどかしこまって、ロイに向かって最敬礼をした。
「彼女は使用人などではない」
 予想外の事態に軽く恐慌をきたしたのか、青年は大きく息を吐くとそのままの姿勢で動かなくなってしまった。
 年老いた執事が、見兼ねたように助け舟を出す。
「おそれながら申し上げます。我があるじから、宮廷魔術師長様は……侍女、をお連れだと聞き及んでおりますが……」
「侍女などではない。弟子……いや、助手と言うべきか」
「助手、でございますか?」
 彼らの遣り取りを聞きながら、シキは密かに嘆息する。
 侍女でも弟子でも助手でも小間使いでも何でも良い。はっきり解っていることは、「ここ」は、東の辺境出身の名も無い魔術師の娘がいる場所ではない、ということだ。ここに招かれたのはあくまでも先生であって、自分は単なるおまけ、付属物に過ぎないのだから。
「そうだ。彼女は使用人でも奉公人でもない。それに――」
 もう一度溜め息をつこうとしたシキの耳に、とんでもない言葉が飛び込んできた。
「――それに、彼女は近々私の妻となる。それに相応しい扱いをお願いしたいものだ」
 驚きのあまり身動きもできないシキの代わりに、執事が素っ頓狂な声を上げた。
「は。そ、そうでございましたか。それは大変失礼をいたしました。……そうしましたらば……いかがいたしましょう。ご一緒のお部屋が宜しゅうございましょうか?」
「近々、と申したはずだが。不必要な醜聞は望むところではないのでね」
「はっ、重ね重ね、失礼いたしました」
 執事が何事か従僕に囁きかける。青年は軽く一礼すると、慌てて廊下を駆け出していった。
「では、宮廷魔術師長様、奥方様、こちらへどうぞ」
  
 二人は、控えの間に通された。当初の予定と違う事態に、おそらくあるじの意向を確認しに行くのだろう、二人を部屋に案内した老執事もまた、「しばらくお待ちを」と一言を残して姿を消した。
 シキは、ただひたすら動転していた。
 妻。
 ――確かに先生はそう言った。でも、そんな、まさか。
 年齢も、能力も、社会的立場も、全てにおいて、シキとロイとではあまりに差があり過ぎた。何より、先ほどからのほんの短い時間ですら、シキはこの場所は自分がいるべき処ではない、と強く感じていたというのに。
「どうしたね?」
「えっ? ……い、いえ……」
 視線が合ってしまうのが怖くて、シキは顔を上げることができなかった。その様子にロイは軽く苦笑すると、シキの頭を軽く撫でた。
「驚いたのかい?」
「……はい」
 ふう、と大きな溜め息がシキの髪を揺らす。
「なんだ。意外と信用されていなかったんだな。私は、戯れで女性に愛を囁いたりなどしないよ」
 驚愕、動揺、混乱のあまり、シキの中で、言葉が、思考が、完全に途切れてしまっている。
「帝都に着いたら結婚しよう、シキ。これからもずっと、私の傍にいてはくれないか」
  
  
 ナイトテーブルの上には、光沢のある生地で仕立てられた華やかな衣服が用意されている。宮廷魔術師長様からで御座います、そう執事は言っていた。
 結局、あのあと、シキが返事をする前に執事が姿を現し、うやむやのままに二人は別々の客間へといざなわれたのだった。
 この服に袖を通せば、先生の求婚を受け入れたということになるのだろう。
 それは、これまでの世界からの決別を意味する。およそ考えたこともなかった、いわゆる上流階級としての生活が待っているのだ。
 シキは、長椅子の上に畳んで置いた、自分の衣服に手を伸ばした。
 国の最高権力者にまみえるため、一張羅を選んではいたが、とても比べるべくもない。第一、礼装とは言っても、彼女のそれはドレスではなく男性用のパンツスタイルだ。
 ――何を躊躇うことがあるのか。先生についていく、と決めたはずではなかったか。
 シキはそっと、簡素なシャツから手を放した。
  
  
  
「初雪の日は自主休業、か。なかなか気が利いた風習じゃないか?」
 街の南門近くの広場。耳当てつきの帽子をかぶったウルスはベンチに座り、大喜びで走り回っている子供達の様子を眺めながら呟いた。
 晩秋の空気のもとでは積もることはないだろうが、視界一面にはらはらと降りしきる白い氷の結晶は、人々の気持ちをすっかり浮かれさせている。
「流石に警備隊の奴らは休日出勤でしょうね」
 大袈裟に落胆してみせるサンに、ウルスが苦笑する。
「そこまで多くを求めてはいけないだろうな。ともかくも、これで同志達は心おきなく仕事を休んで加勢にまわることができるというわけだ」
「街でも一つ、騒ぎを起こしたほうが良いのではないですか?」
「シシルが既に手配済みだ」
  
 広場の反対側では、旅装束に身を固めた初老の男と、帽子の耳当てを下ろした青年が、乗合馬車を待つ風情で立っている。
 初雪の恩恵を充二分に享受しようとして、朝から酒場の扉をくぐる親爺達を目で追いながら、レイは傍らのザラシュにおそるおそる問いかけた。
「……あれは、何という術なのですか」
「解らぬか?」
「解りません。こんな広い範囲に雪を降らせる術など、見たことも、聞いたこともない……」
「そうだな。古代ルドス魔術の呪文書には、ないな。だが不可能ではない。そう、お主の師匠ならば……幾つかの術を分解、構築し直して雪を降らせることもできるだろう」
「では、老師も……?」
「以前の私ならば、同じようにしただろうな」
 怪訝そうな視線を投げかけるレイに、ザラシュは少しだけ頬を緩ませた。
「今日の仕事が無事終わったらば、教えよう。この十五年で私が知り得た一つの真実を」
  
  
  
 別れを惜しむ銅鑼のが鳴り響く。いつになく湿った空気に、重く、鈍く。
 雪の中、街を南北に貫く大通りを隊列が進み始めた。セルヴァント家の紋章が入った四輪箱形馬車を中心に、騎士が騎乗した八頭の馬、大きな荷台に幌をかけた荷馬車が二台、簡素な二輪の箱形馬車が三台。それに加わること、ルドス警備隊の騎馬が総勢二十、行列の前後を固めている。
 そもそも、今回のアスラ兄帝のルドス訪問は、収穫祭の来賓であるセルヴァント男爵に便乗してのお忍びの旅だったのだ。それ故、同勢は貴族の末席である男爵の位に相応しい規模でしかない。
 それでも、その行軍は勇壮で、沿道の人々は歓声をもって彼らを見送っていた。
  
  
「最悪だ」
 一行を先導するような位置につきながら、エセルは馬上で毒づいた。
 ルドス警備隊に課せられた護衛は、街の南門を出て三里先にある「鴉の嘴」と呼ばれる大岩を越えるまで。そこから先、イシュトゥの港まではひたすら見通しの良い荒れ地が広がり、いかな身のほど知らずの狼藉者といえども、この規模の一団を襲撃するのは難しいと思われる。しかも、一行には腕の立つ魔術師が二人、いや三人も存在するのだ。
 実のところ、警備隊による警護はあくまでも儀礼的なものに過ぎぬ。とはいえ、エセルには自分の仕事をなおざりにするつもりはなかった。基本隊列と、有事の際の陣形、呼び子での合図の型など、入念な打ち合わせを行い、万全の態勢で今日という日を迎えた。
 ところが、今朝、出発の直前になって、それまで本部に顔を出すことすらしなかった「騎士団組」が姿を現したのだ。領主からの命令書を持って。
『皇帝陛下の警護は騎乗する者に任せよ』
「馬車を徒歩かちで護衛するのは無理があるだろう?」
 そう彼らは嘲笑い、専任隊員達は隊列から外された。副隊長の指揮のもと、市中の警備に当たれ、と。
 この状況で街中で起こる騒ぎなど、陽動以外のなにものでもない。優秀な人員をそんな馬鹿な仕事にまわすなど、愚の骨頂だ。それに、打ち合わせも満足に行えていない連中を、一体どうやって指揮すれば良いというのか。
 エセルは絶望的な気持ちで、雪の舞う空を見上げた。
  
  
 ――どうして、私はこんな所に座っているのだろう。
 無表情の奥で、シキはひたすら困惑していた。
 四輪馬車の豪奢な座席は柔らかく、ゆったりとした車内はとても快適だ。
 ロイの左側に座らされたシキの向かい側には、見事な恰幅のセルヴァント男爵が座り、好色そうな視線をチラチラと彼女に投げかけてくる。そして、その向かって右。ロイの向かい側には、今を時めくマクダレン帝国の皇帝が、気だるそうな表情を窓に向けて優雅に座していた。
 先刻、領主の屋敷の客間にて、黒を基調とした男性用の礼装で御前にひれ伏すシキに、アスラは優しい眼差しで、「勇ましいお嬢さん」と語りかけてきた。「道中、お嬢さんには、タヴァーネスのことを色々と教えてもらおうかな」とにっこり微笑みさえした皇帝陛下だったが、いざ馬車に乗り込むと、彼はぼんやりと窓の外を眺めるばかりで、その代わりに何とか男爵とやらが、ねちっこい目つきで、宮廷魔術師長様も隅に置けませぬなあ、などと下品な話題を振ってくるのだ。
 ――あの服……。先生は少し落胆しておられたようだけど、自分の服を選んで良かった。もしもあの服を着ていたら、きっと、この何とか男爵の視線はもっといやらしくなっていたに違いない。
「気に入らなかったのかい?」
「いいえ、そういうわけじゃなくて……あんな動きにくい服では、旅なんて無理です」
「……動き回るような旅じゃないよ?」
「でも、勿体なくって……」
「……仕方ない。解ったよ。じゃあ、帝都に着いたら、着てみてくれるかい?」
 シキが小さく頷けば、ロイの顔がぱあっと綻んだ。その、まるで子供のような表情を思い出し、シキは思わず頬を緩ませる。
 と、物思いに耽るシキの意識を、突然の怒号が現実に引き戻した。
  
  
「敵襲!」
 馬の手綱を引いて、エセルは叫んだ。右手が振り下ろした剣は、飛来した矢を真っ二つに叩き切っている。
 早速乱れた隊列に舌打ちして、エセルは辺りを見まわす。右手の岩場に隠れている弓手はせいぜい二、三人。
「本隊がいるはずだ! 気をつけろ、特に後ろ!」
 張り上げた声は、喧騒に紛れてしまってしんがりにはおそらく届かない。それを気にする間もなく、潅木の陰から長鎗を構えた覆面の男達が飛び出してきた。
 エセルは馬から飛び降りて、その臀部を柄で叩く。驚き暴れる馬が暴漢達の列を少しだけ乱した。その隙にエセルは幌馬車の陰に矢の死角をとる。
「馬を捨てろ! 狙われるぞ!」
 いちいちこんなことまで指示せねばならないのか。エセルは深く嘆息した。そう言っている間にも、一頭の馬が胴に槍を突き立てられて、どう、と地面に倒れた。落馬した隊員に襲撃者が群がる。そして、断末魔の絶叫。
 眼前にいる敵は七人。おそらく列の背後にも同じぐらいはいるはずだ。
 相手にとって不足はない。不敵な笑みを浮かべて剣を構えたエセルは、突如襲いかかった悪寒に、思わず息を呑んだ。
 ――何の、気配だ?
 次の瞬間、まるで地面が沸騰したかのように泡立った。馬をも含む全ての者の足が、馬車の車輪が、ずぶずぶと白茶色の泥の中に沈んでいく。足首まで埋もれたところで、地面は再び元の堅固さを取り戻した。
「魔術か!」
 両足は、がっちりと地に縫いつけられてしまっている。だが、このまま死を待つわけにはいかない。絶望の呻きを必死で嚥下しながら、エセルは腰の狼煙杖を天に掲げた。
  
  
「『泥縛』か」
 そう呟いてロイは静かに立ち上がった。「一度にこれだけの範囲に、とは流石ですね」
 反乱団に前宮廷魔術師長が加わっているというのは、帝国の上層部でもほんの一部の人間しか知らない最高機密だ。おそらく外は大混乱に違いない。
「読みが外れたな」
「……彼が、こんなに無駄の多い手段をとるとは……意外です」
「ロイ、任せるぞ」
 アスラの声に、シキも腰を浮かせた。
「先生、私も出ます」
「君はここに居たまえ。男爵をお守りするのだ」
 ロイは馬車の扉を開けると、地面に降り立った。先ほど、「泥縛」の呪文が発動した後方を向いて、右手をひねらせる。
 ロイが呪文を詠唱しようとしたまさにその時。ロイの背後、列の進行方向から、先ほどとは比べようもないほどの強大な魔術の気配が炸裂した。
 間違いなく今度こそ、ロイがかつて師と仰いだの人物の気配。ならば先ほどの術は。反乱団に二人も術者が存在するのか?
(……まさか、レイ!)
 思わず発したその叫びは、声にはならなかった。前宮廷魔術師長、ザラシュ・ライアンが紡ぎ出した術は、辺りを完全なる静寂の世界に閉じ込めてしまっていた。
  
  
 無音の世界。
 まるで夢の中のようだ、とエセルは思った。聴覚のみならず五感全て、更に現実感までもが奪われてしまったようだ、と。彼は為すすべもなく、静かに傍らを走り抜けていく襲撃者をただ見送っていた。
 二輪馬車からおそるおそる顔を出す使用人達には目もくれず、馬上の騎士を打ち倒し、彼らは確実に列中央の四輪馬車を目指している。一足遅れて駆け抜けていった鉄錆色の髪のお尋ね者が、ふ、と自分を見て嗤ったようだった。
 援軍は。「狼煙」は確かに上がったはず。エセルは思わず手のひらに爪を立てた。
  
  
 突然の異常事態に恐慌をきたしたのか、たるんだ顔の肉を恐怖に引きつらせながら、セルヴァントが馬車から飛び出していった。制止すべくそのあとを追って地に降り立ったシキの目の前、男爵の太った身体が地面に崩れ落ちる。
 その向こうに歓喜の表情を浮かべて立つ、黒っぽい長髪を風になびかせた男。血塗られたつるぎを天に掲げ、犬歯を剥き出して声も無く咆哮するその姿は、まるで獣のようだった。
 シキは思わず一歩あとずさった。と、馬車の反対側で数人が入り乱れる気配を感じ取る。
(そうだ、先生!)
 慌ててシキは馬車の後ろへ回り込んだ。
  
 護身用の短剣で応戦するロイの前には、剣を構えたサンの姿があった。二人は、お互い隙を見つけられずに、微動だにせず対峙している。
(サン! やめて!)
 シキは絶叫した。だが、その声は声にならない。
 術者個人にかける「沈黙」ならば、この稀代の大魔術師が後れをとることなどありえないはずだった。だが、恐るべきこの未知の術は、辺り一帯の音という音を完全に消し去ってしまっている。
 呪文を詠唱できないこの状況では、魔術師はあまりにも無力だ。シキは意を決して、懐から短剣を取り出した。
 ――先生を守らなければ。
 お母さんも、お父さんも、レイも、いなくなってしまった。それに、顔も知らないまま、存在も知らないままに亡くしたお祖父さんとお祖母さん。
 もう、一人で取り残されるのは嫌だ!
  
 ロイに加勢しようとした彼女の背後に迫る、更なる人の気配。シキは振り向きざま、咄嗟に剣をふるった。
 短剣は虚空を切り、伸びきったシキの腕が誰かに掴み取られる。
 帽子を目深にかぶったその手の主は、静かに唇を動かした。
  
 し・き。
  
 そして、レイはゆっくりと顔を上げた。
  
  
(そんな……!?)
 死霊か、幽鬼か。
 シキは息をすることも忘れて、ただただレイを凝視した。半年間、何度も夢に見たその顔を。どうしても忘れられなかった、そして必死で忘れようとしたその顔を。
(本当に、レイなの?)
 神の雷とも称される「天隕」の術。あの恐るべき破壊力から逃れることなどできるわけがない。
 だが、彼は今シキの目の前で静かに微笑んでいる。幻などではなく。
 レイの唇が再び何かを紡ぎ出す。しかし、その声はシキの耳には届かない。
(何? 何て? 何て言ってるの!?)
 シキはレイの手を握ると、思わず叫んでいた。その手が強く握り返され、レイも何かをシキに語りかける。
(聞こえないよ! レイ!)
 ふいに、視界が暗くなった。
 唇にそっと触れる、柔らかい感触。
 全ての音が遮蔽された中での、ほんのまばたきほどの短い口づけ。シキの鼓動が一気に跳ね上がった。
  
  
 北の方角で眩い光が弾けて、消えた。反乱団の面々は、一様に動きを止める。
 ルドスから警備隊の増援が来た、という合図だ。
 サンは、剣を構えたままじりじりと間合いを広げようとした。ロイはそれを許すまいと、静かに距離を詰めようとする。
 突然馬車の扉が開き、黒い塊がまろび出てきた。
 ロイが息を呑んだその隙をついて、サンは地面で呻くウルスを助け起こす。彼は左肩を負傷しているようだった。険しい表情で歯軋りするウルスをなだめるかのように、サンは軽く頭を振ると、煙幕を張る。
 ロイはアスラの無事を目の端で確認してから、改めて辺りを見まわした。既に、サンとウルスの姿は完全に煙に紛れてしまっている。
 舌打ちしながらぐるりと振り返って、ロイはシキに気がついた。
 そして、その先に立つレイに。
 同時に、二人もロイに気がついたようだった。
  
 ロイのこぶしが握り締められる。
 シキの瞳が揺れる。
  
 ロイとシキ、二人を隔てるのは、ほんの僅かな距離だった。だが、ロイはどうしても一歩を踏み出すことができなかった。まるで両足を地に縫いつけられてしまったかのように、身動き一つとることができない……。
 ロイの顔が、苦渋に歪んだ。胃の辺りが、何かにねじ上げられているみたいだった。苦い唾があとからあとから彼の口の中に湧き出してくる。
 ――勝ち目など、最初からなかったのだ。
 本当は、そんなことはずっと解っていた。
  
  
 レイが、静かにシキに右手を差し出す。
 シキはしっかりとレイの手を握った。それから、少し申し訳なさそうにロイを振り返ると、軽く一礼した。
  
 レイが、生きていた。
 自分の手を包み込む、彼の手のひらの温もり。シキは熱の籠もった瞳で、自分を先導するレイの広い背中を見つめ続けた。
 物心ついた時から一緒だった。友人であり、ライバルであり、家族。そして…………愛しい恋人。
 シキの頬を伝い落ちた涙が、雪と混ざる。
  
  
  
 重苦しい沈黙の中、煙幕が晴れていく。
 いつの間にか雪はすっかりやんで、悲しいまでに澄んだ空がロイの頭上に広がっていた……。
  
  
  
<第二部 完>