あわいを往く者

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黒の黄昏 第十二話 逆巻く神颪

  
  
  
    第十二話   逆巻く神颪
  
  
  
    一  出立
  
  
「ところで、お前、毎晩どこ行ってんだ?」
 古着屋の扉から出たところで、突然、レイが事も無げにサンに問いかけてきた。
 シンガツェへ出立の前日、最後の買い出しに出かけたレイとサンの二人組は、大通りの雑踏の中にいた。偽装の指輪で髪の色を変えたレイと、農夫のいでたちに身を包んだサン。彼らは、シキの一張羅を一番高く買ってくれる店を探しているところだった。
 レイの口調は、さりげなさを装おうとはしていたが、残念ながらその眼はそう語ってはいなかった。サンは口のを上げると、殊更に軽く返答する。
「良い店見つけたんだ。今晩レイも一緒に行く?」
「いや、いい。遠慮しとく」
 その即答ぶりが、サンの神経を逆撫でる。更に追い討ちをかけるように、レイが一言をつけ加えた。「にしても、ほどほどにしとけよ」
 それは、俺の台詞だ。サンは苛立たしさを顔に出さないように、溜め息で誤魔化す。
「隣の誰かさんの部屋が五月蝿くて、寝られないんだよ」
 サンのその台詞に、さしものレイも「しまった」という表情を浮かべた。
「…………悪ぃ」
 そして沈黙。
 お、いつになく神妙じゃん、とサンは眉を上げた。
 ――でも、これからも控える気はないんだろうなあ、この助平野郎め。
 もっとも、立場が変われば自分だって同じことをするだろう。そう思い直して、サンは笑顔を作った。
「冗談だよ。何も聞こえてねぇって」
「……本当か?」
「あったり前だろ。そんな、他人の幸せを妬んで、憂さ晴らしに酒場通いするような、軟弱な男に俺が見えるか?」
「見える。……って、店って、酒場?」
 ここぞとばかりに、サンはレイの頭を小突いた。
「何、想像してたんだよ、この色ボケ野郎」
「るさい、放っとけ」
「良い店見つけたって言ったろ。そこの女主人がさ、結構気の効いた姉さんでね。それに常連の兄さんが面白い人なんだ。大胆且つ繊細って言うか、熱血且つ冷静って言うか、とにかく話してて飽きないし。……俺が女なら惚れるな、絶対」
「気色悪いことを言うな」
 レイがあからさまに嫌そうな表情になる。サンは密かにほくそ笑んだ。
 サン自身は、男色の性癖を持ち合わせてなどいない。むしろ、近衛兵時代に男が男に欲望を向けるさまを何度か目の当たりにして、激しい嫌悪感を抱いた口だ。
 だからこそ、このネタがレイに効果的に痛手を与えることを知っている。数日前、レイの寝台で彼に覆いかぶさった時の、滑稽なまでに動揺した彼の様子を思い出し、サンは口元を緩ませた。
 ――これぐらいは、苛めさせろよな。
 お前は毎晩良い思いをしてるんだから。サンはそう心の中で拗ねつつ、言葉を継いだ。
「俺は『女なら』って言ったろ。それでも気になるってことは、お前、もしかしてそういう趣味があるんじゃねーの?」
「ばっ、ばばばば馬鹿言うな! 俺はそんな趣味はない!」
「いやいや、レイ自身が気づいてないだけで、実は本心では……」
 半狂乱になって顔を横に振りたくるレイを見るうちに、流石にサンも彼のことが少しだけ可哀想に思えてきた。
「なーんてね。ま、とにかく、イイ男、ってのは、男から見てもイイ男ってもんだ。そうだろ?」
 レイが肩で息をしながら、まだ今一つ信用しきれない様子で、そっと目を細めた。
「まあ、それは、そうだろうけどさ。何かお前、油断ならねーんだよなあ……」
「そうか?」
「ああ。大体普段からお前、ウルスの言うこと、いつもハイハイって尻尾振って従ってるだろ?」
「尻尾なんて生えてねーよ。見せようか?」
「見せんでいい」
 冗談を本気で打ち落とすレイに、サンの機嫌はますます上向きになる。
「ともかく、あんなに横柄な奴の言うことを健気に聞いてるのを見ると、もしかしてその気があるんじゃないかって構えたくもなるだろーが」
「尊敬する人間の役に立ちたいと思うのは、当然だろ?」
 爽やかに台詞を決め、これでレイを煙にまけたな、とサンが満足そうに笑みを浮かべたその時、突然レイが晴れ晴れとした表情を作った。
「あ、そうか。お前、昔っから姉ちゃんに頭上がらなかったもんなあ。下僕体質というか、下っ端根性ってやつだな」
 サンが我に返った時には、既に遅かった。ムッとした顔を見られてしまったのだろう、レイが上機嫌でにやにや笑いを口元に浮かべている。
「さてと、さっさと用事を済ませようぜ。次、あそこの店に行ってみるか」
 すっかり元気を取り戻して先を急ぐ友人の背中を、サンは溜め息を道連れに追いかけた。
  
  
  
 無事買い出しを終えた二人は、疲れきった足を引きずり引きずり場末の安宿の二階へと戻ってきた。
 廊下の一番奥の一人部屋がシキの、その隣の二人部屋がレイとサンの部屋だ。部屋の扉を閉めるなり、二人は荷物を放り出して各々の寝台に倒れ込んだ。
「買い物って、疲れるよな」
「年寄り臭いぞ、レイ」
「その格好でそんなこと言っても、説得力ないぜ」
 ともに寝台に寝そべった姿をお互いに笑い合っていると、扉にノックの音が響いた。
「二人とも、帰ったの?」
「ああ。入って来いよ」
「ゴメンね、準備色々任せっきりで」
 扉の開く音とともに、軽い靴音が部屋に入ってくる。
「いいよ、いいよ。気にしない。俺らの中ではシキが一等、面が割れてるわけだから……」
 調子よく起き上がってからサンは、硬直したように動きを止めた。
「…………ぁあ?」
 そして、調子外れな声がサンの口から漏れる。何事かと身を起こしたレイが、シキの姿を見て素っ頓狂な声を上げた。
「シキ……。お前、その髪……」
「切った」
「切った。って、お前……」
 子供の頃からずっと、シキの髪が肩口よりも短くなることはなかった。なのに今、彼らの前にすまし顔で立つシキの髪は、サンのそれよりも短くなってしまっている。
「これなら、ちょっと見たぐらいじゃ、私だって判らないんじゃないかな?」
 確かに、そのとおりかもしれない。眉にかかる程度の前髪に、耳朶が少し覗く側頭部。後ろは完全に襟足が見えている。悪戯っぽく目を光らせるその表情も相まって、そこに立つのは幼さの抜けきれない、まるで少年の姿だった。
 これならば、かつてのシキの同僚である警備隊員も、ぱっと見ただけではシキだとは気がつかないだろう。
「………………うわー、思いきったね……」
 複雑な表情でサンは呟いた。
 彼は、長い髪が好きだった。髪をかき上げる何気ない仕草を見るのも、触れ合う際に手慰みに指に絡ませた時のあの感触も、大好きだった。自分なら、恋人が勝手に髪を短くしたらば、失望の色を隠せないだろう。ほんの刹那、サンは視線をどこか遠くへと彷徨わせ……ややあって、ふと我を取り戻し口を引き結ぶ。
 ――いや、俺のことなんかどうでもいいんだ。問題は……。
 おのれの身勝手な感想は棚に上げておいて、サンは少し心配そうに隣のレイを見やった。おそらくはまだ完全に修復しきっていない二人の関係に、奴は自分で水をさすようなことを言いはしないだろうか、と。
「似合うじゃん」
 寝台の縁に腰をかけたレイが、大真面目な顔でそう言った。
 サンの口から、つい安堵の溜め息が漏れる。
 シキが心なしか嬉しそうな表情で、それでも少し意外そうに眉を寄せた。
「……本当?」
「似合う、似合う。もう、どこから見ても、小猿」
 レイのこの台詞に、サンは呆れるあまり言葉を失ってしまった。あんぐりと口を開いて、ただ目をしばたたかせるのみ。
「小猿」の呼び名は、学校時代に散々レイの口から聞かされてはいたが、事ここに至って、しかもこの場でそれを口にした友の蛮勇に、サンはひたすら恐れ入った。
 もっとも、ある意味耳慣れた言葉だったせいだろうか、幸いにもシキは傷ついた表情を見せることなく、苦笑しながら腰に両手を当てて唇を尖らせている。
「ガキだのボウズだの言われるかな、とは思ったけど……そう来たか」
「予想通りはつまらないだろ?」
「そういう問題かなあ」
 ――なんだ、随分良い雰囲気じゃないか。
 心配をして損をした、と肩を落としたサンの目の前、レイが動いた。素早い動作で。
 彼は少し腰を上げてシキの手を掴むと、ぐい、と引っ張った。それからもう一度寝台に腰かけて、倒れ込んで来たシキを抱きとめる。
 あまりの手際の良さに、サンはただただ感嘆するばかりだ。
「でもさ、俺、小猿も好きだぜ?」
 レイがシキの耳元で囁くや否や、シキの頬が真っ赤に染まった。
 このまま放っておいたら、こいつらは俺の目の前で、どこまでいくんだろうか。そんなことをちらりと考えつつも、サンはわざとらしく、ごほんげふん、と咳払いをした。
「盛り上がるのは結構なんだけどさ、ちょっとは遠慮してもらえないかな、お二人さん」
「さ、サン、ごめん」
 シキが慌てて起き上がる。謝るべきなのはお前だろ、と言わんばかりの視線をレイに投げつけてから、サンは冷たく言い放った。
「明日は早いんだから、今日は余計なことは考えずに、皆早く寝る。オッケー?」
「了解」
「……解ったよ」
 不承不承了承するレイは無視して、サンはシキに向き直った。
「これ、シキの分。自分で荷造りしたほうがいいだろ? 部屋に運ぶよ」
「あ、俺が運ぶって」
 慌てて立ち上がろうとするレイに、サンは冷ややかな一瞥を投げた。
「お前が隣に行くと、そのまま帰ってこなくなるだろ」
 ぐ、と言葉に詰まるレイと、再び頬を紅く染めるシキ。
「さっさと下に夕飯食いに行って、荷作りして、寝る。予定通りお願いしますよ、レイ殿」
  
 ――ちょっと、露骨だったかな?
 シキを追い立てて部屋を出ながら、サンは独りごちた。とはいえ、親友をやっかむ権利が今の自分には充二分にある、そう確信している彼でもあった。
  
  
  
 見事な快晴の空の下、荷を積んだ二頭の馬を牽く三つの人影が、街道を逸れて山道へと分け入る。
「……暑いぞ」
 帽子の耳当てを下ろしているレイは、不機嫌そうに呟いた。
 朝晩の冷え込みはかなりのものだが、日が高くなるにつれ、太陽の光は刺すような熱を帯び始める。レイの額には玉のような汗が幾つも生まれてきていた。
「なあ、シキ、帽子と指輪、交換してくれよ」
「やだ」
「ただでさえ、髪が長くて暑いってのに……」
「小猿に帽子は必要ないもんね」
「指輪だって同じことだろうが」
 前を歩くサンは、苛々しながら二人の会話を聞いていた。
 ――何時の間に、俺はこんなに心が狭くなってしまったのだろう。
 自分が彼ら二人を羨むのは、まあ、無理もないことだ。そうサンは胸の中で頷いた。だが、一体この腹立たしさはどうしたことか。自分は一体、何に対して苛ついているんだろうか。
 ――答えは解りきっている。
 決断をくだしたのは、自分なのだ。決して悔やみはしない、と、そう心に決めて選んだ道だ。それなのに、自分は今、激しい後悔の念にかられている。その事実そのものが、おのれを苛立たせているに違いない……。
 そうやって思考を空回りさせていたせいだろうか、背後の二人が足を止めて初めて、サンは異変に気がついた。慌てて振り返り、レイとシキが無言で注視する方角へと視線を向ける。
「やあ、こんにちは」
 二丈ほど後方、ひとけの無い山道に人影がもう一つ佇んでいた。
  
「レイ……あいつはいつから……?」
「ああ。気配を感じなかった」
 小声で言葉を交わしながら、サンとレイは用心深い視線をその人物に絡ませる。
 サンは反射的に腰に手をやり、そして小さく舌打ちした。山間やまあいの村人を偽装するために、彼の剣は馬の背の荷物の中だ。
 こちらに向かって悠然と歩みを進めるのは、若い男だった。自分達と同年代か、少し上ぐらい。外套のフードの陰から覗く、線の細い上品そうな顔立ちに、優しい蒼い瞳。
「なんだよ、随分優男じゃねぇか」
「油断するな、レイ」
 彼はいかにも人の良さそうな雰囲気を纏っていた。だが、サンは気がついていた。彼の外套の下、腰に一振りの長剣が下げられていることに。
 護身用の短剣を携えることは、旅人にとって何も珍しいことではない。しかし、それが長剣ともなると話は別だ。
 そもそも、「使える」長剣は庶民が趣味で買い求めることができるほど安価な品物ではない。お飾り紛いの代物をわざわざ腰にぶら下げて旅をするような馬鹿はいないだろう。それに、それなりの剣ならばその重さも無視することはできない。つまり、懐に余裕があってなお、腕前に自信がない限り、旅路に長剣を携帯する利はないのだ。
 男はすぐ傍までやってくると、フードを下ろして三人に会釈した。金の髪がさらさらと風になびき、端正な顔に彩りを添えた。
「もしや、あなた方はシンガツェへ?」
「はい」
 男の雰囲気に呑まれたのか、シキが素直に返事をするのを聞いて、サンは密かに頭を抱えた。
 腰の剣。剣士か、騎士か、……どこかの町の警備隊員という可能性もある。もしも彼が官吏に繋がる人物ならば、自分達の人相書きを見ている可能性は高い。
 いや、そもそも彼の目的は自分達なのではないだろうか。シキはともかく、レイやこの自分がこれだけ接近されるまで気がつくことができなかったのだ。そう、狩猟者が気配を殺すのは、獲物に対峙する時、と限られている……。
 だが、サンがつらつらと思考をめぐらせている間に、事態は予想外の方向へと走り出してしまっていた。優男が人懐っこい笑顔を浮かべて、とんでもないことを言い出したのだ。
「丁度良かった。私もシンガツェに向かうところなんですよ。ご一緒しませんか」
「え? おい、サン」
 レイが慌ててサンを振り返る。
「いいですよ」
 我に返ったサンが声を上げるのよりも早く、シキはにっこりと笑うと、そう返答した。
  
  
 男は、自らをルーと名乗った。
「人を探しているんです」
 そう言ったっきり、彼は自らをそれ以上語らなかった。天候のことやら、道中のことやら、他愛もない世間話のみに花が咲く。
 人探しならば、どういった風体の、どういった人物を探しているのか、その人物をどこかで見かけたことはなかったか、自分達にもまず訊いてくるはずだ。それを一切することなく、人を探していると言われても、一体誰が信じるというのだろうか。
 ――いや、一人いた。
 先ほどからシキは、一頭の馬の手綱を牽きながら朗らかにルーと語らっている。その二人の少し後ろを、憮然とした表情でレイとサンは歩いていた。
「どういうつもりだろう」
「まったく、本当に一体どういうつもりなんだよ」
「いや、シキのことじゃなくて」
 サンは、ふう、と溜め息をついてから小声で話し続けた。
「人探しってのは、たぶん嘘っぱちだ。あいつは普通の旅人じゃない」
「いや、探してるのかもしれないぜ。『赤い風』の頭領を、さ」
 一番考えたくない可能性を指摘されて、サンはもう一度溜め息をついた。
「……だけど、それにしては、一人っきりってのが腑に落ちない。……何か感じるか? レイ」
「いいや。ま、さっきの例があるけどな、たぶん今度は間違いないと思うぜ。……この辺りには、誰も、いない」
「距離をおいて、何かの合図で……というのなら、ここらの地形は不向き過ぎる」
「本当に一人っきりなのか、馬鹿な作戦しか立てられない間抜け集団なのか、どちらにしても、もう少し様子を見ることはできるんじゃねえか?」
「……そうだな」
 眉間に深い皺を刻みながら、サンが軽く頷く。その横でレイが大きく息を吐き、勢い良く背筋を伸ばした。
「よし。それなら、少しでも何か奴から聞き出せないか、やってみるとするか」
 言うが早いがレイは駆け出した。そして、半ば強引にシキとルーの間に割り込んでいく。
「……お前の悩みは簡単で良いよな」
 がっくりと肩を落として、サンはとぼとぼと三人のあとを追った。
 まるで彼をねぎらうかのように、サンが牽く馬が「ぶひん」と鼻を鳴らした。
  
  
  
 その町は、小さな尾根伝いに点々と広がっていた。
 全体的に小ぶりな家々が肩を寄せ合うようにして軒を並べている、そういった幾つもの集落の合間に、階段状の耕地や牧草地が散らばっていた。
「あれが、シンガツェですか」
 ルーは息を呑んで、それから三人を振り返ってそう問うた。
「あ、ああ」
 シンガツェですかと訊かれても、三人とも初めて来る場所だから答えようがない。辛うじて曖昧に頷いてはみたが、彼らもルーと同様にその幻想的な風景に度肝を抜かれてしまっていた。
 大きく開けた視界、眼下には靄に沈む小さな谷。
 その谷を挟んで臨むシンガツェの町は、まるで浮島のようだった。靄は黄昏色に染まり、ところどころで夕日を反射して黄玉のように煌めいている。
「なんて、美しい……」
 感嘆したように呟く男の眉が次第にひそめられていくことに、誰も気がつかなかった。