あわいを往く者

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黒の黄昏 番外編 喧嘩のそば杖

この番外編には、本編の致命的なネタバレが含まれています。
本編を読了した方のみご覧ください。
  
  
  
   喧嘩のそば杖
  
  
  
「ちょ、ちょっと休憩……」
 搾り出すようにそう言って、よろよろとレイが地面にへたり込んだ。地面に突いた木刀を杖のようにして、大きく肩を上下させている。
「なっさけないなー、レイ。まだあと一本残ってるぞー」
 意地の悪い笑顔が、遥か頭上から降ってくる。両手を腰に当てて殊更に呆れてみせるサンの、顎をつたう汗に気がついて、レイは奥歯に力を込めた。押し殺しているのだろうが、耳を澄ませば荒い息遣いも聞こえてくる。自分だってそれなりにバテてきているくせに、そんなに偉そうに威張るなよ、……なんて言ってしまったら本当に負け犬だよな、と思い返して、レイは必死で立ち上がった。
「るさい。俺は、一撃必殺型なんだ。こんな長時間、集中力がもたねえよ」
「なら、さっさと負けちまえば?」
 楽しそうに返してくるサンを黙って睨み、それからレイは木刀を構えた。
「ほらよ、残り一本」
「そうこなくっちゃ」
 対するサンの瞳にも光が入る。
 気合も充分に、レイはサンの懐目がけて大地を蹴った。
  
  
  
 十二月も下旬。必然と偶然とが編み上げたベールを身に纏い、なんとか秘密裏にナナラ山脈を越えることができたシキ達は、無事帝都入りを果たしていた。
 今が盛りのマクダレン帝国、その皇帝のお膝元で、流石に表立った反乱活動のできるはずもなく、都に住むカラント縁の者達はひたすら息を潜めて雌伏し、時の満つるのを待ち続けていた。今、彼らが匿われている屋敷の主も、そういった支援者の一人ということだった。
「問題は集中力とか体力とかじゃなくてさ、動きに無駄が多過ぎるんだよ」
 調練が中断し再び静けさの戻ってきた中庭に、サンの声が響く。
「例えば、こう、お前が突いてくるじゃん、俺がこんなふうにそれをはらったとして、お前、体勢立て直すのも大げさだし、予備動作も大き過ぎるし」
「待てよ。いくらなんでも、そこまで間抜けな動きはしてないだろ、俺」
 派手な身振りで講義を続けるサンをよそに、レイが庭石から腰を上げた。まだ治まりきらない息を深呼吸で誤魔化し、傍らの木刀を握る。
「何? もう一本?」
「お前の説明が解りにくいから、俺も付き合ってやるってんだよ。まず、俺がお前をこう突く、と」
 レイがゆっくりと切っ先をサンに突き出すと、意図を理解したサンが、同じくスローモーションで木刀で払い落とす。
 おのれの足元近くまで押さえ込まれた剣を撥ね上げ、レイはサンの攻撃を受けるべく……
「だーかーら、なんでそこで右足を引くんだよ!」
「え、だって、お前の攻撃受けねーと」
「そんな見え見えな受けをとったら、身体の左側がガラ空きになるだろ!」
 そう言いながら、サンはやにわにレイの左足を狙って木刀を振り下ろす。咄嗟にレイは左手に持ち替えた木刀を、逆手のままに地面に突き立てた。
 鈍い音が辺りの空気を重く震わせる。
「……とにかく、受けりゃ、いいんだろ」
「そりゃまあ、そうだけどさ」
 サンの一撃は、ぎりぎりのところでレイの木刀に阻まれていた。およそ剣術ではありえない彼の体勢に、サンの口から大きな溜め息が漏れる。
 だが次の瞬間、サンは僅かに身体を引くと、目にも留まらぬ速さで今度はレイの右わき腹を狙って突きを繰り出した!
 サンの木刀がレイの身体を抉った、と思いきや、まさしく紙一重の間合いでレイは大きく一歩を飛びずさっていた。木刀を地面から引き抜く反動を利用して、サンの攻撃を避けたのだ。
 サンはしばしの間、宙を切ったおのが切っ先を呆然と見つめていた。やがてその場にがっくりとくずおれて、搾り出すようにして一言、
「……な、なんて無茶苦茶な」
「なんだよ。よけたんだからいいじゃんかよ」
 よろよろと立ち上がったサンは、疲れきった表情をレイに向けた。
「だからさ、お前な、その才能の無駄遣いをどうにかしろっての」
「は?」
「さっきの手合わせでもそうだ。ダンスじゃないんだから、もっと、こう、無駄な動きを取っ払ってだな、相手に攻撃を読ませないようにしないと、すぐに勝負が……」
 そこまで一気にまくしたてて、サンは大きく肩を落とした。
「そうなんだよなー。すぐに勝負がつくはずなんだよな。お前みたいなやり方で玄人を相手にしたら、普通は瞬殺なんだよ。一呼吸もあれば充分だ。なのに、お前、ひょいひょい器用に体勢立て直しては、俺とそれなりに打ち合ってたわけだろ……」
 なんか自信無くすよな、と口の中で呟いてから、サンは顔を上げた。その瞳に昏い炎が灯るのを見て、レイの背筋を怖気が走る。
「……つまり、まだまだ鍛える余地がある、ってことか」
「ゑ?」
「『きたるべき日』まであと十日。じっくり仕上げさせてもらうとするか」
「ちょ、ま……」
 ほどなく、レイの悲鳴が辺りに響き渡った……。
  
  
  
「レイ、頑張ってるみたいですね」
「頑張ってもらわないことには話が始まらないからな」
 中庭から廊下を隔てた客間の一室では、シキとウルスが難しい顔で机を挟んで立っていた。広い天板の上に展開した紙の上には、文字やら矢印やらが乱舞している。
「あの宮城の造りは攻め込むには不利だが、直接打って出るにも向いていない。橋のこちら側に二十人も立てば、充分な揺さぶりはかけられるだろう」
「警備隊との挟撃の可能性は?」
「ランデからの増援を、門前広場に散らしておく。当日広場に並ぶであろう沢山の出店も障害物になるさ。連中を分散させてしまえば、すぐには挟み撃ちされる心配はない。なに、取り次がれるまでの寸刻、時間を稼ぐことができればそれで良いのだ。彼奴の性格なら、俺を招き入れずにはおられないだろう」
『門』と書かれた文字から伸びる二本の矢印の一方をペンで辿りながら、ウルスは口角を吊り上げる。「……だが、謁見が叶わなかった場合、取次ぎに時間がかかり過ぎた場合は……」
 シキが、真剣な表情で頷いた。
一時いつとき後ですね。どこまで役目を果たせるか解りませんが、できる限りやってみます」
 ウルスは大きく伸びをしてから、傍らの肘掛け椅子に腰を下ろした。前方へ大きく投げ出した両足をゆったりと組み、鷹揚な態度でシキを見上げる。
「そうなれば、あいつには、しっかりとサンの代わりを務めてもらわなければならん。この程度で根を上げてもらっては困る」
 辛辣な台詞を口にしながらも、ウルスの瞳は穏やかに微笑んでいた。レイの腕前について、とりあえずは及第点だ、ということなのだろう。
「午後からは、ここの連中も模擬を手伝ってくれることになっている。想定される全ての条件を洗い出して万全の計画となそう」
「解りました」
 窓ガラスを揺らす風の音に混ざって、またもレイの叫び声が微かに聞こえてきた。
  
  
  
「くっそー。サン、お前、本気で俺を殺す気だったろ」
 ざらついた寒風が、二の腕の擦過傷を容赦なく舐め上げていく。中庭を巡る回廊の段差に腰かけたレイは、痛みに顔をしかめながら抗議の声を上げた。
 その隣では、サンがにやにや笑いを隠そうともせずに、すっかり寛いだ風情で座っている。
「手加減してちゃ、稽古にならないだろー?」
「それにしても、最後のアレは、よけ損なったら俺マジで死んでたって」
 身体に籠もっていた熱が、外気によって急速に冷やされる。ぶるり、と身震いをしてから、レイは拗ねたような表情のままに、傍らを振り返った。
「お前ならよけてくれる、そう思ってさ」
 サンが真顔で爽やかに台詞を決める。
 レイが胡散臭いものを見る目をする。
「付き合い悪いな、レイ。ここは感動的な場面なんだから、潤んだ瞳で見つめるぐらいしてくれないと」
「勝手に潤んどけ。それよか、午後の稽古は何時からなんだ?」
 身体の端々に疲労感を漂わせながら、レイがのっそりと立ち上がる。友のつれない仕打ちに苦笑を浮かべていたサンも、うん、と伸びをして腰を上げた。
「午後から何人か応援に来てくれるらしいから、立ちきり稽古でも、って思ってたんだけど、作戦会議のほうに人が欲しいってウルスさんが言ってたし……。もう今日はこれで終わりにしようかな」
「ふうん」
 気のない返事に、サンは少し意外そうに片眉を上げた。
「何だよ、貴重な半日休みだぞ。もっと喜べよー」
「休みってったって、どこにも行けないし、取り立ててすることもないし」
 あっちじゃどうせ邪魔者扱いだし、と、頬をふくらませるレイを見て、サンはにやり、と口角を上げた。大きな動作でレイの肩を抱くと、耳元に口を寄せる。
「頭脳戦は向こうにまかせて、さ。…………」
 ひそひそ、ひそひそ、と耳打ちされた内容に、思わずレイは大声を上げていた。
「って、屋敷から出るな、って言われてるだろ!」
「だから、最後まで人の話をきちんと聞けって」
 ぐい、とレイの首に引っかけた腕に力を込めて、サンはなおも密談を続行する。
「ハスロさんがさ、信用できる妓女に屋敷まで来てくれるように声をかけてくれるってさ。ほら、『きたるべき日』に万全の調子で臨まなくちゃいけないだろ? 適当にスッキリしないとな、って。懐が広いばかりか、すっごく話の分かる人だよな」
 ハスロというのは、この屋敷の主人の名前だ。
「実は、今日の夜にでも、って、昨日のうちにお願いしてたんだけど、ちょっと時間を早められないか訊いてみてもいいよな。ついでにレイの分も頼んでこようか?」
 いつになく早口で、サンはまくしたて続ける。
「まてよ。それか、向こうが承知するなら二人一緒にお相手してもらう、ってどうだ? ちょっと刺激的じゃね?」
 熱に浮かされたようにそううそぶくサンの腕を、レイは静かにほどいた。
「いや、俺は要らん」
「なんだよ、付き合い悪いな。大体お前、ルドスで『事が終わるまではいちゃいちゃ禁止!』ってシキに言われて泣いてたじゃないか」
「泣いてねえ。つうか、なんでお前がそれを知って……」
「もうひと月も放っておかれて、いい加減苛ついてるんじゃねーの、お前? 彼女、あっちの仕事にすっかりかかりっきりだし、わざわざ告げ口するような無粋な奴もいないと思うし、一度や二度のお遊びぐらい、バレないって」
 そう言って調子良く笑うサンに、レイは真っ向から険しい視線を投げつけた。
「……お前、いい加減にしろよ」
「何が?」
 無邪気に問い返すサンとは対照的に、レイは苦渋のおもてでしばし言いよどむ。
「なんつーか、その……、無理すんな」
 辛うじて搾り出したその一言を、サンは肩をすくめて軽く受け流した。
「無理? なんだそれ。俺はいつでもこんな調子だぜ? ……そういや、前もお前とこんな会話したっけな」
「いいや、あの時のお前と今のお前とじゃ、全然違うぞ」
 大きく溜め息をついてレイは両手を腰に当てた。真正面からサンを見据え、もう一度息を吐く。
「お前、昔っから、ちょっと悪ぶるって言うか、大人ぶるって言うか、そんな態度で俺をいじって遊んでただろ」
「おや、バレてましたか」
 おどけたようにかしこまるサンから視線を外し、レイは足元の影をじっと見つめた。
「ルドスの時もそうだった。俺が話にノれば、付き合いの良いお前のことだから、本当に遊郭に行くってことになったかもしれないけど、実際のところはそこまで考えてなかったろ? だけど今は、お前からはそんな余裕が感じられねえ。なんつーか、必死に……」
 サンが突然笑い出したことに驚いて、レイは顔を上げた。
 強張った表情で友を見守るレイをよそに、やけに空ろな笑い声が真冬の空気を震わせる。ひとしきり笑ったところで、サンは大げさに目頭を擦りながら、レイの頭を鷲掴みにした。
「レイ、お前、カワイイなー。よしよし、おにーさんがイイコイイコしてやろう」
「サン!」
 手を払いのける乾いた音が、中庭中に響き渡った。
「……格好つけたり、俺とか他人を適当にあしらったりするのはいいんだよ。けど、自分の気持ちまで誤魔化すなよ。無理すればするだけ、穴に嵌まるだけだ。ろくなことにならねえ」
「確かに、穴に嵌まるよりかは、嵌めるほうが好きだけど」
 どこまでもふざけてみせるサンの瞳が、頑迷なまでに全てを拒絶している。レイはきつく下唇を噛むと、両手を力いっぱい握り締めた。勢い良く地面を蹴り、ぐるりとサンに背中を見せる。
「……勝手にしやがれ!」
 レイは、辛うじてその一言を吐き捨てた。ぎりぎりと奥歯に力を込め、この場から立ち去るべく回廊へと向かう。
「……仕方ないだろ」
 ぼそり、と漏らされた言葉に、レイの足が止まった。
「俺と彼女とじゃ、進む道が違い過ぎるんだよ」
 ゆっくりと振り返ったレイの視線の先、サンが大きな動作で顔を上げるところだった。
「もうあれから一ヶ月だ。彼女のお望み通りに別れの言葉も告げたことだし、きっと今頃はあのお貴族様と……」
 わざとらしいほど大きく伸びをして、サンはそう呟いた。
 その組み合わせのほうが、お互いの進む道が違い過ぎるのではないだろうか、とのツッコミを飲み込みながら、レイは静かにサンに向き合った。
「……諦めんのか」
「諦めたさ」
「嘘つけ。諦めたってわりには、なんだよその荒れっぷりは。暇さえあれば女ひっかけて、ちょっとやり過ぎだろ? 帝都に着いて外出禁止で、やっと落ち着くかと思ったら、今度は女を配達してもらうだと? 色ボケるのもたいがいにしろ」
「……いいじゃん。ヘマ打つようなことしてないし、お互い合意してのことなんだし。楽しければ」
 さらりと言ってのけるサンの態度に、レイの瞳に力が入る。だが、彼が何か言おうとするよりも早くサンが言葉を継いだ。
「レイだってさ、シキが相手しない、って宣言してんだから、気楽にすればいいのに」
「そういう問題じゃないだろ」
「そういう問題さ。男と女が付き合う付き合わない、って、謂わば契約みたいなものだろ? それが切れた以上は、何をしようと俺の自由だ」
 小気味良いぐらいにきっぱり言いきって、サンは胸を張った。
 木枯らしが砂を舞い上げながら、二人の間を吹き抜けていった。
 凍えそうな指先とは裏腹に、レイの内部は燃えるようだった。腹立たしさとも違う、苛立たしさとも違う、言葉に言い表せないもどかしさが、真っ赤に焼けた石のごとく胸の奥に詰まっている。
 ゆるりと息を吐いて、レイはサンの目を真っ向から見つめた。
「今、はっきり解ったよ。お前、リーナのことを全然諦めきれてないくせに、諦めたフリして悪ぶってるから、そんなに痛々しいんだ」
 その刹那、サンの表情が微かに強張った。
「諦めたくない、って思っているのは、間違いなくお前自身なんだぜ? なら、もう少し根性出せよ……」静かにそう言ってから、レイが視線を僅か逸らせた。「……俺だって、半年間、つらかったさ……」
 レイの、独白にも似た呟きは、これ見よがしの大きな溜め息に吹き飛ばされてしまった。肩をすくめながら、サンが挑戦的な瞳をレイに返す。
「別に、女断ちしたからって、彼女が戻ってくるわけじゃなし。それに、お前の場合は、彼女と切れていない、と思っていたから頑張れたんだ。そうだろ?」
 つい、とサンの目が細められた。同時に彼の口元が歪む。
「お前が死んだ、とシキは思っていたんだろ? な、どうだったんだ? 教えてくれよ。品行方正なシキちゃんは、さぞかしシッカリと貞操を守っていたんだろうな?」
 サンの栗色の瞳に、大きく振りかぶるレイの姿が大写しになった。