あわいを往く者

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相対する積木 花火

  
  
  
   花火
  
  
  
 夜空に大輪の花が咲く。
 花火大会の最初を飾る一発に、展望台のあちこちから歓声が上がった。
 少し遅れて夜風をぬってきた重低音が、腹の底を震わせる。
「三キロ、てところか」
「三キロぐらいですね」
 朗の囁きに、傍らの志紀が即座に応答してくれた。満ち足りた心地で志紀を見やった朗の耳に、背後からとんでもない声が飛び込んでくる。
「今の音、何? 打ち上げ失敗?」
「どんっ、っていったよね。事故だったらヤバいんじゃない?」
 思わず眉間に皺を寄せる朗に、志紀が苦笑を向けた。その滑らかな頬が、二発目の花火に鮮やかに照らされる。
 続いて、三発目、四発目。こうなると、打ち上げの音は全く気にならなくなり、暴発だの大惨事だの騒いでいた後ろのカップルも、キャッキャキャッキャと無邪気にはしゃいでいる。
「光と音の速度については、義務教育期間に習うはずだろう」
 憮然と呟く朗の横で、志紀がくすりと笑った。
「雷が光ってから三秒以内に音が聞こえたら、すぐに家に入れ、って、子供の頃に親によく言われました」
「一キロ以内、か。賢明な親御さんだな」
 志紀の口元が柔らかくほころぶのを見て、朗は静かに息を呑んだ。口の中に溢れてきた唾を、音がせぬようそっと嚥下する。
  
 結局、行きの車の中では、二人はまともな会話を交わすことができなかった。
 確かに、他の女と見間違えられては、さしもの志紀とて傷つくだろう。逆に、彼女が他の男と朗を見間違えたら、と考えると、志紀の怒りは朗にも充分に理解できた。
 もしもそんなことが起きようものなら……、二度と間違えたりしないよう、しっかり彼女に思い知らせてやらねばならないだろう。花火も夕食もあとまわしにして、どこか邪魔の入らないところで、僅かな指の動きにすら朗の存在を感じられるように、じっくりと、身体の隅々にまで教え込むのだ。
  
 ごくりと喉を鳴らしてから、朗はちらりと右を窺った。
 カリウムだろうか、紫色の光が、志紀の白い頬を淡く浮かび上がらせている。次はナトリウムか。つい炎色反応に意識を向けようとしてしまうのは、湧き上がる欲望を誤魔化そうとしての措置だろう、と、朗は自己分析した。
 黒い浴衣からすうっと伸びるうなじ。結い上げられた髪の先が、まるで朗を誘うかのように、白い肌を背景にゆらゆらと揺れている。後れ毛も艶めかしい襟足に唇を這わせれば、一体どんな声が漏れるのか。そのまま耳へと攻め込み、身八ツ口から手を差し入れ、柔い双丘を思う存分に弄べば、彼女はどんな声で啼くだろうか。
『放してください!』
 車中での志紀の声が耳元に甦り、朗は思わずこぶしを握り締めた。
 ――銅、カルシウム。ストロンチウム……いや、リチウム、か。
 花火を凝視してゆっくりと深呼吸を繰り返すものの、ひとところに集まった熱は、なかなか散ってくれそうにない。
 と、誰かに押されでもしたのか、志紀が朗のほうへ倒れこんできた。
 咄嗟に受け止めれば、志紀を背後からホールドするような体勢になった。なってしまった。
「すみません」
「人が増えてきたからな。仕方がない」
 仕方がない。おのれに言い聞かせるように、朗は口の中で繰り返す。
「あ、あの、もう大丈夫ですから」
「そうか」
「えと、だから、その、手を……」
「このほうが、余分な場所を取らなくてすむ。公共の利益に適っている」
 志紀は、何か言いたそうに朗を見上げていたが、辺りがまた明るくなったのを見て、再び花火会場を振り返った。
「ホウ素か」
「……バリウムじゃないですか?」
 打てば響くような受け答え。
 朗はそっと口角を上げた。
 暗闇をいいことに、慎重に両腕に力を込め、じわりじわりと志紀を引き寄せる。そのまま艶やかな髪に口づけを落とそうとした、まさにその瞬間、険を含んだ囁き声が、朗の耳を貫いた。
「こんなところで、変なことしないでくださいよ?」
 苦渋の唸り声一つ、朗は身を起こした。
 ここは、大人しく引き下がっておいたほうがいいだろう。ホテルに連れ込むことさえできれば、あとは朗のターンだ。三面六臂もかくやのわざで、またたく間に彼女をベッドに組み敷いてみせよう。
 ――問題は、志紀がそこへ行くことを承諾してくれるか、だ。
 朗は、半ば絶望的な心地で空を仰いだ。
 ナトリウムの黄色い光が、漆黒のキャンバスに花びらを散らした。
  
  
  
〈 了 〉