あわいを往く者

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残滓

  
  
  
   残滓
  
  
  
『何も、喋るな』
「は?」
 ケータイの通話ボタンを押すなり受話器から聞こえてきた朗の言葉に、志紀は間髪を入れず声を漏らした。
『間投詞や感動詞は構わないから、意味のある言葉を発せずに私の話を聞いてくれ』
 ここは、逢阪駅から少し離れた場所に建つ百貨店。ちょっと小洒落た生活雑貨や文房具を扱う、いわゆる「若者に人気の店」である。その地下にある小ぢんまりとした映画館のロビーに、志紀はいた。場内に流れる映画の宣伝音楽に負けじと、志紀はケータイの無いほうの耳を指で塞ぎながら、何か聞き間違えたかと耳を澄ませた。
『とにかく、緊急事態だ。私は、今日はそこには行けない』
「ええ? じゃあ、このチケット……」
 志紀が思わず漏らした言葉を、即座に遮る、酷く狼狽した声。
『ああ、それ以上何も言わないでくれ。頼むから。理由はすぐに解るだろう。映画が終わった頃に、また連絡するから』
 通話が切れたケータイを、志紀は呆然と見つめた。
「言葉を発するな」だの「緊急事態だ」だの、まるでサスペンス小説の冒頭のような台詞回しに、志紀の眉間に皺が寄る。これで「君は監視されている」なんて続けられたら、完璧スパイ小説だ。大体、理由がすぐに解る、って、一体どういうことなんだろう。思わず首をかしげたところで、聞き覚えのある声が志紀の名を呼んだ。
 その声が誰のものか思い当たるより早く、志紀は反射的に振り返っていた。
 視覚情報が脳に到達すると同時に、先ほどの朗の電話の意味が、腑に落ちる。ああ、確かに、これはまさしく緊急事態だ、と。
 目の前には、朗らかな笑みを浮かべた柏木陸が立っていた。
  
 朗と志紀、教師と教え子という、世間的に一応問題のない間柄になったとはいえ、今はまだ、志紀が高校を卒業して僅か二か月足らず。痛くもないどころか古傷満載の腹を探られないためにも、あまり二人きりでいるところを知り合いには見られたくない、というのが正直なところだ。ましてや、その「知り合い」が、あの柏木陸とあっては、言わずもがな、だ。
 かつて志紀が化学部の部長に選ばれた時、兼部員でありながら副部長に任命されたのが陸だった。文武両道に秀でた、学年きっての優等生。加えて容姿端麗で多才という限りなくパーフェクトな彼が、何故志紀を気に入ったのか、未だ志紀本人にもさっぱり解らない。
 そう、志紀は去年の秋、陸に告白されたことがあったのだ。それもちょっと……いや、かなり、強引に。朗の助けもあって、なんとかお断りすることができたものの、それ以来彼の笑顔を素直に受け取れない志紀である。
「誰かと待ち合わせ?」
 過去のいざこざさえなければ、うっかり彼に見惚れてしまったかもしれない。笑顔も完璧なら、服装も完璧だった。オリーブドラブの薄手のジャケットに、織り目の荒い生成りのリネンシャツ。チャコールグレイのカーゴパンツが、普段の彼からは想像もつかないほどの野性味を醸し出している。まるで雑誌の切り抜きから抜け出したかのような陸の姿に、ロビーのそこかしこから女性の熱い眼差しが注がれていた。
 志紀は、ごくりと唾を呑み込んだ。自分が今対峙している人物が、只者ではない、ということを改めて思い知って、手のひらに一斉に汗が噴き出してくる。手から滑り落ちそうになったケータイを、慌てて鞄に仕舞いながら、志紀はもう一度生唾を嚥下した。
「と、友達と……」上ずりそうになる声を必死で落ち着かせながら、志紀は慎重に言葉を継ぐ。「……友達と待ち合わせてたんだけど、急な用事ができたから来られなくなった、って」
 志紀の背中を冷や汗がつたっていく。
 この秀才相手に、下手な嘘をついてはいけない。すぐに矛盾点を洗い出されて、容赦なく追及されてしまうだろうから。志紀のような凡人にできることといえば、パラメータを一つ入れ替えることぐらいだ。頭の中で「朗」を「女友達」に置換して、今の状況に地道に当てはめていく。
「チケット、って言ってたけど、もしかして、有馬さんも試写会に? 奇遇だね」
 その一瞬、志紀は、チェックメイト、という声が聞こえたような気がした。
  
 半年前、志紀とひと悶着あったあの日以降も、陸の態度はそれまでと何も変わらなかった。ひとけの無い鍵のかかった放送室で、押しの一手で志紀に迫った時ですら紳士の仮面を外さなかった陸のことだ、本当に何事も無かったかのように、彼は志紀に対しても朗に対しても以前と同じ態度で接し続けていた。
 保身のための戦略でもあったのだろう。だが、それより何より彼のプライドが、あの顛末を許さなかったに違いない。彼は全力で過去を書き換えた。あの日の出来事を無かったことにしようとしたのだ。
 その是非はともかく、志紀には陸の気持ちが少し解るような気がした。ならばこの先、彼が再び自分に手出しをすることはないだろう。あの時何も起こらなかった代わりに、これからも何も起こらない。これは暗黙の取引なのだ。
 発端を考えれば、多少理不尽な気がしないでもないが、これで八方丸く収まるのならば構わない、そう志紀は考えていた。ただ……二度目は、無い、と。次に同じようなことがあれば、その時は全力で報復する、とも。
 そんな志紀に対して、朗はきっぱり「甘いな」と切り返した。
「君が考えているほど彼はシンプルではない。油断すればまた狙われるぞ」
「でも、それは、彼が私に執着していれば、ですよね。私はそうは思いません。たぶん、彼は『私と関わった一連の出来事』には執着していても、『私自身』に対しては、もうどうでもいいと思っていると思うんです」
「それが切り分けられるほど、人間というものは単純にはできていない」
 この私が良い例だ。そう吐き捨ててから、朗は真っ向から志紀の目を覗き込んだ。
「とにかく、柏木には気をつけろ」
  
 たぶん朗は、待ち合わせ場所の近くまで来ていたのだろう。陸を見かけて、ぎりぎりで彼と鉢合わせるのを回避した、というところだろうか。
 確かに、陸と学外でこうやって対面するなんてことは、志紀にとって全くの想定外だった。気をつけろ、気をつけろ、頭の中で朗の台詞を何度も反芻しながら、志紀はそっと口を開く。
「『も』ってことは、柏木君も試写会に?」
「そうだよ。姉さんが申し込んだんだけど、一名様用の懸賞だったみたいで、結局使わないからって僕にチケットをくれてね。普通に公開されたら観に行くつもりだったんだけど、まさか一足早く、それもタダで観られることになるなんて、思ってもみなかったなあ」
 いつもの陸らしからぬ、少し子供っぽい満面の笑みが、その端正な顔に浮かび上がる。
 あ、そうか、と志紀は納得した。そういえば、陸は以前から宇宙開発関係に進みたいと言っていたな、と。
 そう、今から行われる試写会は、アメリカ発の、宇宙ネタの科学ドキュメンタリー映画のものだったのだ。NASAお蔵出しの映像も多数使われているとの触れ込みで、かく言う志紀自身も、朗を誘うためというよりも自分が観たいから試写会に応募した、というのが正直なところだった。
「そういや、有馬さんも、こういうの好きだったよね」
「あ、うん」
 残念ながら、この状況で、陸に不自然に思われることなくこの場を立ち去る方法が思いつかない。それよりも、朗とのことを悟られないようにすることが最優先だ、と、志紀は頭を切り替えることにした。
  
 連れと思われたか、窓口のお姉さんが志紀に差し出した座席指定券は、陸の隣の番号だった。この状況でわざわざ席を離そうとするのも、あまりに自意識過剰のような気がして、とりあえず志紀はなりゆきに身を任せることにした。
 柔らかな照明に照らされた通路を進み、会場となるホールへと入る。お互い微妙な距離を保ったまま、二人は指定された席に向かった。
 上映までまだ二十分ほど間があるにもかかわらず、既に座席の半分が埋まっていた。そわそわと浮ついた空気が靄のように辺りに充満している。期待に満ちた、それでいてどこか取り澄ましたような、そんな雰囲気が少しこそばゆくて、志紀も知らずよそ行き顔で座席に腰を下ろした。
 陸がケータイをいじり始めるのを見て、志紀も気兼ねなく鞄から文庫本を取り出す。
 やがて、スピーカーが女性の声で歓迎と開始の挨拶を囁き始めた。
 うしおのようにざわめきが引いていき、場のフェイズが切り替わる。志紀は本を鞄に仕舞うと、心持ち姿勢を正して視線を前方のスクリーンに向けた。
  
  
 エンドテロップが始まると、いつも、長い旅を終えたような気持ちになる。
 完全に映画の世界に没頭していた志紀は、三十八万キロメートルの彼方からやっとの思いで魂を引き剥がし、大きく息を吐いた。
 ぼつぼつと、会場のあちらこちらで人々が立ち上がり始める。だが志紀は、スタッフロールも映画の一部なのに、と、半ば意地になってスクリーンを見つめ続けた。
 場内の灯りが戻り、日常が辺りに降りてくる。
 始まりと同じ女性のアナウンスに促されるようにして、志紀は席を立った。うん、と背筋を伸ばし、腰を伸ばし……、
「このあと、何か予定ある?」
 すっかり失念していた隣の席から声がかかった。驚いて振り向いた視線の先で、陸が涼しげに微笑んでいる。
「え?」
「無いんだったら、お茶でも奢るよ」
「いや、その、もう帰ろうかな、って……、買い物もしたいし」
 思いっきり矛盾した答えを返していることに気づかないまま、志紀はじりじりと後退していく。対する陸は、志紀の不審な態度に頓着する様子もみせず悠然と立ち上がった。
「急ぐ買い物?」
 大きく頷こうとした志紀の動きが止まった。陸の次の言葉を聞いて。
「ちょっと話がしたいんだけど。君が好きな人について」