あわいを往く者

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薄紅まといて 試し読み

  
  
  
   一  春まだき
  
  
  
 冷たい風が、どこか抜けたような声を上げて、ホノカの耳元を吹き抜けていく。
 鄙びた神社の古びた神楽殿の舞台に腰かけて、ホノカは幾度目とも知らぬ溜め息を風に散らした。
 まだ夕刻までは間があるものの、鬱蒼と枝を重ねる針葉樹のせいで、山の中のお社は黄昏時のごとく薄暗い。そんな幽玄な境内の中で唯一木々が途切れているのが、この神楽殿の建つ一角だった。眩い早春の青空が、くすんだ常盤色ときわいろの葉陰を切り取るようにして顔を覗かせている。その見晴らしの良さから、近在の人々はこの場所のことを「階段山の展望台」と称していた。
 ホノカは、ここからの眺めがとても好きだった。石造りの玉垣を支えに下界を臨めば、コナラやクヌギの枝々が、折り重なるようにして眼下の住宅街へとなだれ込んでいる。遠くに見える私鉄の高架も、川沿いの公園も、坂をくだってすぐのホノカ達が通う高校も、まるで模型のセットのようだ。
 そっと目を閉じると、遥か虚空から吹き降りた風が、りん、と頬を撫でていく。そんな時、いつだってホノカは鳥になった。澄みきった空気の中を、大きく翼を広げ、風を切って、家々の屋根を掠めてはまた舞い上がるのだ。何度も、何度も。
「卒業式まであと四日かー……」
 溜め息を連発するホノカの右側で、クラスメイトのユイがぼそりと呟いて伸びをした。少し癖のあるショートカットが実に軽やかに風に揺れる。同じような髪型なのに、どうして自分のは野暮ったく見えてしまうんだろう、とホノカはおのれの髪質を胸のうちで嘆いた。大学生になったら絶対にパーマをかけるんだ、そう心に誓うのはもう何度目だろうか。
 だが、ようやく目前に迫った「自由」は、それまで想像もしなかった不安や寂しさをホノカの内部に引き起こしていた。
 二月末、大学入試の前期日程が終わった次の日。第二志望とはいえ後期日程がまだ残っているホノカは、それまでと同じように学校で自習をするために登校した。家にいたら、休憩と称しておやつを食べてしまったり、本棚やテレビに手を伸ばしてしまったり、と、どうしても気が散ってしまうからだ。
 センター試験以来、三年生は自由登校となっているが、ホノカと同じことを考える人間は少なくなく、図書室の机はいつ行っても満員で、ホノカは友人達と自分の教室を使うことにしていた。お弁当持参で朝から夕方までみっちり勉強して、そのあと、ちょっとした息抜きに部活に顔を出す。あまり長居しないように気をつけて、仲の良い友達と待ち合わせて帰途につく。実に規則正しい毎日だ。
 ただ、今日は、第一志望の受験が終わった解放感も手伝って、ホノカと友人三人は、帰りに学校の裏山の中腹にある通称「階段神社」に寄り道することにしたのだった。受験勉強ですっかりなまった身体に鞭打ちながら、ほうほうのていで長い階段をなんとか登りきり、そして今こうして一息ついているところである。
「……別れがつらいよなー」
 思わぬ一言に、ホノカは慌ててユイを振り返った。
「え? ユイ、志望どこだったっけ?」
「あー、私ゃ地元だよ? そうじゃなくって、内山のことだよー」
 にやり、と口角を上げる友とは対照的に、ホノカの表情はますます翳るばかりだ。はあ、と再々度肩を落としたホノカに、左端に座っていたミドリが同情の眼差しを注ぐ。
「内山君、関東の大学に推薦決まったんだって?」
「大学なんて、こっちにもいっぱいあるのにさー、どういうつもりなんだろ」
 ホノカ達が通う楢坂高校は、校区一番の進学校だ。となれば、よりレベルの高い大学を狙って上京する者も多くなりそうなものだが、そこは郷土愛の強いお国柄、「別にわざわざに行かなくても」と、近隣の大学に進学するパターンがほとんどだ。
「教わりたい先生がいるんだって」
 少し唇を尖らせながらそれだけを言うと、「カレ」の「カノジョ」はまた嘆息した。
「おーおー、流石は内山だ。真面目君だねー」
「ホノカはそれでいいの?」
「いいのも何も、私にどうしろと」
 そう、どうしようもないのだ。
 付き合い始めて半年。内山ヒタカがどういう人間であるか、ホノカもそれなりに理解している。「日本じゃ、そこしか専門の研究室が無いんだ」と静かに語る彼を、誰がどうやって止められようか。普段口数が少ないだけに、一度口にのぼせた言葉は彼にとっては最終決定事項に他ならないのだから。
 ――遠距離恋愛、かぁ。
 はぁ、とホノカの肩が落ちる。
 片道五百キロはあまりにも遠過ぎる。この距離を埋めるために、一体どれぐらいの時間やお金を費やさねばならないのか。そうなれば、週末はおろか、ちょっとした連休程度では到底会うことなど叶わないだろう。
 ホノカの口から、またも大きな息が漏れる。
 合格した、とヒタカからメールを貰った時、ホノカは心から吉報を喜んだ。彼がどんなに努力を重ねて、目標に向かって邁進していたか知っていたからだ。
 だが、その喜びは別れの日が近づくにつれ、次第に苦々しい色を帯びていった。
 卒業してしまえば、会えなくなってしまう。こうやって他愛のない話をしたり、一緒に帰ったり、そんなことができなくなってしまう……。
 いっそ不合格だったら良かったのに。ある日、そう考えている自分に気づいて、ホノカは心底おのれの浅ましさを呪った。だが、彼女も限界だったのだ。入学手続きや下宿探しの話を淡々と語る彼に、にっこり笑って相槌を打つことが苦痛で仕方なくなってきていたのだ。
 ――可愛く「行かないでー」って言えば良かったのかな。でもそれ全然キャラ違うし。
 刻一刻、ホノカのストレスは溜まっていく。行かないでほしい。でも、聞き分けのない女だとは思われたくない。けど、離れ離れになりたくない。それでも……。だけど……。
 やっと半年、ようやく彼のことが分かってきたところだった。彼の隣の居心地の良さに、気づき始めたところだった。不意に鼻の奥がツンとなって、ホノカは必死で目元に力を込めた。
 ――大体、内山君ってば、あっさりし過ぎ! 付き合い始めて半年も経つってのに、まだ手も繋いだことがないってどうよ!
 やりきれない思いを誤魔化すべく、独り胸の中で八つ当たりしたホノカは……今度こそ本当に泣きそうになった。必要以上にべたべたしてこないって、もしや後腐れがないようにってことなのかなぁ、と。
「そっかー。それで久々に、ここに来よう、ってわけなのね」
 シャギーの毛先を指で弄りながら、ミドリが微笑んだ。「ホノカが落ち込んだ時の定番だもんね」
 それを皮切りに、皆は口々にホノカの武勇伝を語り始めた。
「二年の体育祭で派手に転んだ時も」
「数学赤点取った時も」
「私と喧嘩したあの時も、だってね?」
「もぉ! いいかげん忘れてよ!」
 真っ赤な顔で叫ぶホノカの肩を、大きな動作でユイが抱く。
「まー、気にしない、気にしない。ホノって、あんまり愚痴らないから、これぐらい解りやすいほうがいいんだって」
「そうそう。気が済むまで黄昏たらいいから。とことん付き合ってあげるよ」
 ――ああ、もう、みんな大好き!
 皆にもみくちゃにされながら、ホノカは心の中で叫んでいた。やっぱり、持つべきものは友達だよね、と。……彼氏なんかじゃなくて。
 そううそぶいてから……ホノカはまた大きな溜め息をついた。
  
  
  
薄紅まといて 表紙
「薄紅まといて」は、以下の配信サイトでダウンロードできます。
・\300+税
・発行:パブリッシングリンク
・表紙:篁ふみ