The one who treads through the void

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KOKIAKE no KOROMO

きものの日企画(閉鎖)参加作品
  
  
  
 初恋の人は、和服の似合う、三歳年上のひとだった。
 あでやかな茜の振袖を身にまとい、ぴん、と背筋を伸ばして、ゆく先を真っ直ぐに見つめていた。
  
  
「聞いてんの? マサキ」
 名を呼ばれて、私は慌てて顔を上げた。どうやら、つい、意識を過去に飛ばしてしまっていたらしい。
 それほどまでに彼女の名前は、私には、重い。
「ごめん。途中から聞いてなかった。ユウカさんがどうしたって?」
 座卓の向こう側に座っていたハルカが、目を輝かせながら身を乗り出してきた。
「だからね、姉ちゃんが、っていうか、姉ちゃんの旦那さんになる人が、着物をくれるんだって。ほら、タカアキさんって、呉服屋さんだから」
「振袖を? 貰っておけば?」
 これ見よがしに投げやりに返答すれば、ハルカの頬がみるみる膨らんだ。惚気るようだが、これがまた、なんとも可愛らしい。
 ユウカさんとハルカとあと弟がもう一人、この三兄弟は皆揃って、小さい頃からお人形さんのようだ、と言われていた。笑顔は勿論、泣き顔からふくれっ面まで絵になるとは、羨ましい限りだ。
「それに、マサキの分もあるん……」
「嫌だね」
 考えるよりも先に口が出た自分の反射神経に、我ながら少し惚れ惚れした。
 ハルカは、今度はあきれ顔で、後ろの本棚に背をもたれかけさせる。
「すっごい話の腰の折りっぷりだね」
「貰っても、着ないし。流石に売るわけにもいかないし」
「売ーるーなー」
 だいたい、この狭いアパートの部屋の、一体どこにそんな仰々しいものを置けというのか。実家にしても既に物が溢れていて、日々母が、断捨離がどうとか念仏のように唱え続けているというのに。
「確かに、親兄弟でもないのに贈り物に着物なんて、重すぎるかもだけど、姉ちゃん自身が『マサキにもあげる』ってうるさいんだよ。だいたい、マサキと付き合ってるのがバレた時だって、『あれはイイ子よー、逃がしちゃだめよー』って、自分のことみたいに喜んでたし。それだけマサキのこと、お気に入りなんだから」
 その一瞬、ハルカの顔にユウカさんの顔が重なって見え、胸の奥がズキンと痛んだ。
  
 ハルカは、実家の三軒隣に住んでいる、いわゆる「幼馴染み」だ。歳も同じ、学年も同じ。幼稚園から中学校までずっと同じ公立に通っていた。
 しかし、可憐な容姿とは裏腹に、少々……いや、大いにやんちゃなハルカとは、あまり一緒につるむこともなく、その姉や弟ともほとんど関わりを持つことはなかった。ただ、母親同士は仲が良かったようで、見目麗しい三兄弟のことは、しょっちゅう母に聞かされていた。もっとも、興味のなかった私は、母の話を右から左へと受け流してしまっていたわけだが。
 その距離感に変化が訪れたのは、私が小学五年生の時だった。
 荷物持ちが必要だという母に付き合わされて、私はユウカさんのお琴の発表会を見に行った。
 会場には、小学生から大人までの、和服を着た沢山の人がいた。
 その中において、誰よりも光り輝いて見えたのが、ユウカさんだった。
 鮮やかな茜色の布地に、枝垂桜が優雅に風になびいている。袂には、春を言祝ことほ黄金こがねの扇。舞い散る花弁が、ユウカさんの動きに合わせて辺りの空気を幾度も揺らした。
 そして、華やかな衣装にも負けない、凛とした気品。
 壇上で琴を爪弾く姿もだが、何よりも舞台に臨む姿が美しかった。彼女の緊張が伝わってきて、見ているこちらも胃が痛くなってしまいそうなほどだったが、それでも彼女は、怯むことなく、気迫を込めた眼差しで静かに出番を待っていた……。
  
 それ以来私は、回覧板をまわしに行くなど、ちょっとしたお使いを買って出ては、ユウカさんの家を訪ねるようになった。
「いつもお母さんのお手伝い、偉いねえ。ウチのハルカに爪の垢を煎じて飲ませたいわ」
 小母さんのそんな台詞を聞き飽きる頃には、ユウカさんとも屈託なく言葉を交わせるようになっていた。時には偶然を装って、部活帰りのユウカさんと立ち話をすることもあった。
「マサキってば、可愛い! ハルカと交換したい!」
 そう言われた時ばかりは、喜んでいいのかちょっと分かりかねたけれども。
  
 あの、「可愛い!」発言を思い出し、私はつい溜め息をついた。良くも悪くも、ユウカさんはどこまでも「お姉さん」なのだ。それは、私やハルカがとうに二十歳を超えた今でも。
「着せ替えして遊ぶのなら、『姫』一人で充分だろうに」
 ああ、八つ当たりしている。そう自覚しながらも、ちくちくと棘のある言葉をハルカに投げかけてしまう。
 ちなみに「姫」というのは、小学生時代のハルカのあだ名だ。
「その呼び名はやめてってば。じゃあ、マサキは『熊』って呼ばれていいわけ?」
 そして「熊」が、私の小学生時代のあだ名である。
「どうぞ」
 ぐぐぐぐ、なんて声に出してハルカが悔しがっている。おもしろい。
 小学三年生の時、クラスで一番背が高かった私は、クリスマス会の劇で熊の役をやらされたのだ。それから卒業まで、見事にずっと熊呼ばわりだった。子供って残酷だな、と、今でも思う。
「それはともかく、着物の話に戻るけど、正確に言えば、義兄さんが反物をくれて、姉ちゃんが仕立てるんだって」
「まさか、ユウカさんが和裁習ってたのって、こういうわけ?」
「いや、それは単に姉ちゃんが母さんから受け継いだ懐古趣味」
 なるほど、確かに彼女達は、積極的に流行を追うタイプではない。見た目にしても、小母さんは勿論、ユウカさんも、ずっと髪を染めることなく緑の黒髪を誇っている。
 そういえば、ハルカも外見の割に古風なところがあるかもしれない。今時、パジャマを寝巻き、キッチンを台所、と呼ぶ若者ってあまりいないと思う。小さい頃こそ暴れん坊だったけれど、小学校高学年あたりからは幾分落ち着いてきていたし。まあ、これはユウカさんの「教育」の賜物のような気もするが。
 そう、ユウカさんは怒らせると怖いのだ……。
「とにかく、姉ちゃんが張り切ってるんだよ。『ハルカはついでだから! マサキに着物着せるの!』って。すらっとしてるから映えるわよー、とかなんとか、物凄く盛り上がってるんだから」
『マサキ』
 そっと目を閉じれば、ユウカさんの声が耳に甦る。
『誰にも言わないで』
 夕闇が満ちる中、木枯らしに髪を乱されるがまま、はらはらと涙を流すその姿に、心が鷲掴みにされた。
 彼女の力になりたい、と強く願った。どうすればいいのか、全然分からなかったけれど。
 ただ黙って、彼女をぎゅっと抱き締めればよかったんだ、と、あとになって思った。
「だからさぁ。マサキぃ。頼むから、見に行くだけでも付き合ってよ」
「ああ、わかったわかった」
 じわりとこみ上げてきた苦い思いを、私は無理矢理呑み込んだ。
  
  
  
 タカアキさん、とやらのお店は、鹿ヶ谷にあった。
 落ち着いた町並みの中に建つ総二階の京町屋は、いかにも京都らしくって、今も二人組の観光客が、店の前でカメラを構えている。確かに、軒下を走る犬矢来も、入口にかかる藍染の日よけ幕も、絵になることこの上もない。
 これだけ本格的な雰囲気を醸し出しておれば、さぞかし一見さんは店に入りづらかろう。そうこぼせば、ハルカがまるで自分のことのように得意げに胸を張った。この歴史を感じさせる佇まいに呼び寄せられて、観光客が名所を訪れるついでに店を覗きに来てくれるらしい。その結果、人が人を呼び、観光客以外も暖簾をくぐりやすくなっているのだ、と。
 店の中に足を踏み入れれば、ハルカの言うとおり、数人の外国人観光客の姿があった。「ファンタスティック」と感嘆の声を上げながら、入り口近くのワゴンに並べられた和雑貨を楽しそうに選んでいる。
 私達は、お店の人の出迎えを受け、そのまま奥まった部屋へと通された。
「マサキ、久しぶり!」
 五年ぶりに見る優しい笑顔に、胸の奥がざわめいた。
  
「もー。いくら大学が忙しいんだとしても、お盆やお正月ぐらいは帰ってきなさいよ」
 なんとなく後ろめたさを感じて、私は思わず視線を足元に落とした。
「小母さんだって、ぼやいてたわよ。マサキが全っ然帰ってこないって。だいたい、片道一時間半だったら、家から通えるんじゃないの?」
「……実験が無ければ、可能なんですけどね。それに、盆と正月にはちゃんと帰ってます」
 なんとか弁解したものの、ユウカさんの悲しそうな眼差しに、一瞬息が止まりそうになった。
「帰省に何時間もかかる所に住んでいるわけじゃないのに、一年に二回しか帰ってこないなんて、小母さん達も寂しいよ。勿論、私だって」
 心の臓が、一際高く跳ね上がる。
 両頬が熱を帯びていくのを自覚しながらも、どうすることもできずにいると、ユウカさんが悪戯っぽく微笑んだ。
「まぁ、ハルカとは、しょっちゅう会ってるみたいだけど!」
 姉の嫌味に対して、ハルカが即座に反撃する。
「『逃がしちゃだめよ』って姉ちゃんの遺言を守っているだけだよ」
「ちょっと、勝手に殺さないでよ」
  
 この店の若旦那ことタカアキさんに引き合わされたのち、私達は再び売り場へと戻ってきた。
 店の入口に向かう通路の片側は、他よりも一段高い畳敷きのスペースになっていて、奥の壁一面に棚が備えつけられていた。格子状に仕切られたそこには、巻芯の端をこちらに向けて、沢山の反物が並んでいる。カラフルな生地の色が黒い棚板に映えて、とても美しい。
「幾つかお出ししておきましたから、その中からお好きな生地を選んでいただけますか? ああ、勿論、どれもユウカさんのお見立てですよ」
 物腰柔らかに、タカアキさんが微笑んだ。
 ここにあるものは全て紛れもなく「商品」なのだから、どれでも好きなものを、といかないのは当然のことだろう。さっきチラリと横目で見た、着物の形に整えられて飾られていた布(ユウカさん曰く「仮絵羽」というらしい)の値段を思い出して、私は思わず身を震わせた。
 靴を脱いで畳に上がった私達の前に、幾つもの布地が並べられた。大半が、一面に細かい模様が描かれた生地だった。幾何学模様が並んでいるものもあれば、鮮やかな蝶が舞っているものもあった。
「こういう種類のを『小紋』っていうのよ」と、ユウカさんが解説を入れてくれた。「大雑把に言うと、繰り返し模様のプリント生地、みたいな感じ」
 とても解り易い説明だが、なんだか一気にありがたみがなくなってしまったような気がする。
「この辺りのが、カジュアルに着られていいんじゃないかな、って思って。どう? 気に入った色とかある?」
「もっと華やかなのは無いわけ? あそこのやつみたいに、ばばーんっと花が描かれているのとか」
 ハルカが指差したのは、さっき通りすがりに見た仮絵羽だ。厚かましいにもほどがある。
「あるにはあるけど……、差額はハルカの貯金から貰うからね」
「えー! 酷いわお姉様!」
  
 最終的にハルカが選んだのは、亜麻色に白で花菱という模様が描かれた生地だった。
 私は、紺地に笹の葉の模様。私もハルカも、帯や小物はユウカさんに一任することにした。どれがどれに合うとか合わないとか、素人にはさっぱり解らないからだ。
 それから採寸。肩からくるぶしまでの身丈、背中の中心から袖口のゆき。最後にズボンの上から腰回りを測って、全てのプロセスが終了した。
  
 再び奥の部屋へ戻った私達は、お茶をご馳走になった。
 小さな柿の形をした煉り切りが、上品な七宝の小皿に乗せられて配られる。
 煎茶の香りに誘われながら、ひとかけ口に含めば、ほんのりと甘い餡が舌の上でとろけていった。
「マサキさんは、着物は初めてですか?」
 タカアキさんの声に、私はぎくしゃくと頷いた。現代の一般的な日本の家庭では、着物なんて成人式に着るか着ないかといったところだろう。そして私は、成人式も大学の卒業式も、ついでに院の入学式も、全部同じスーツで済ませていた。
「それでしたら、一度着てみませんか?」
「ええっ?」
「うちにある古着で良ければ、ですけれどね。せっかくおいでになったんですから、是非」
 思わず絶句する私の横で、ハルカが鼻息荒く身を乗り出してきた。
「そうだよ、着てみなよ! ていうか、着ろ、着るんだ、ジョー!」
 ジョーって誰よ。
「そうよ! 一人だと気後れするだろうし、ハルカも一緒に、ね?」
 満面の笑みに逃げ道を塞がれ、ほどなく私は観念した。
  
  
 やっぱり、ユウカさんは笑った顔のほうがいい。
 店の人に着付けを手伝ってもらいながら、私はそんなことを考えていた。
  
 私と入れ違いに、ユウカさんは中学を卒業した。
 サッカー部に入った私は、部活に忙殺される毎日だった。そんなある日、帰宅途中に、河原で一人佇むユウカさんを見つけた。
 山の陰に夕日が吸い込まれるように消えていって、辺りはみるみるうちに薄暗くなってくる。私は、躊躇いつつも、おそるおそるユウカさんに声をかけた。
 街灯がまたたきながら点灯し、ユウカさんの頬に涙の筋を浮かび上がらせた。
「なんでもないの」
 そう言って、ユウカさんは顔を伏せた。
「友達、……と、ちょっと喧嘩しただけ」
 拒絶されるのが怖くて、私はそれ以上何も訊くことができなかった。泣いていたことを誰にも言わないで、と掠れた声を漏らすユウカさんに、ただ静かに頷き返すことしかできなかった。
 でも本当は、彼女の悲しみを共有したかった。
 彼女の秘密を。
 そして、同時に嫉妬した。ユウカさんにこんな顔をさせることができるほど、彼女と強く結びついている誰かに対して。
 その時だ。これは恋なのではないか、と思ったのは。
  
 着付けを終えてさっきの部屋に戻ると、着物を着たハルカが、飛びつかんばかりの勢いで出迎えてくれた。
 ハルカも私も、紫紺の小紋だった。私が白の縞、ハルカがかち色の格子。別にわざわざお揃いっぽく選んだわけじゃないですよ、とタカアキさんは言っていたが、ユウカさんの笑みを見る限り、その言葉は限りなく疑わしいと思った。
 ハルカの着物姿は、完璧だった。深みのある紫色の生地と白い肌とのコントラストが、やけに艶めかしい。油断するとすぐに襟元に視線が吸い寄せられてしまい、そのたびに私は、慌てて目を逸らせなければならなかった。
 そんな私の苦労など知る由もないのだろう、ハルカもユウカさんもタカアキさんも、すっかり上機嫌だった。まあ、こんなに喜んでくれるのなら、着替えた甲斐があったと考えるべきだろう。私も大人になったものだ、などと、自己満足に浸ってみる。
  
 大学生になったユウカさんは、驚くほど大人びて見えた。
 レポートが、バイトが、と楽しげに話す彼女の姿があまりにも眩しすぎて、なんだか知らない人を見ているような気がして、直視することができなくなった。
 そうして、私はユウカさんを避けるようになった。流石に、道で会えば挨拶ぐらいはしたが、以前のように足を止めて話し込むようなことはしなくなった。
 拗ねた子供だったんだ。今ならはっきりとそう思える。
  
 視界を影が何度も横切って、私は我に返った。
 ハルカが「おーい」と言いながら、目の前で手を振っていた。
「なに、ボーっとしてんの? あ、さては、ミーのファンタスティックなキモノスタイルに、見惚れていたな?」
 ここで「違う」と言ってしまうほど私は愚かではない。曖昧に首を縦に振れば、ハルカの顔がぱあっと綻んだ。
「マサキも、すっごく似合ってるよ!」
 その後ろでユウカさんが得意げに胸を張る。
「で、しょー? 絶対、マサキって着物が似合うと思ったのよ。ユウカお姉様の目に狂いはなくてよ」
 ユウカさんの悪ノリを止めるでなく、タカアキさんまでもが芝居がかった調子で顎をさすった。
「これは、ハルカくんも惚れ直したんじゃないかな」
「惚れ直すだなんて、もうずっと惚れてるんだから直しようがないです」
「はははは、君も言うねえ」
 ……だめだ、この一家、恥ずかしすぎる。
  
  
「せっかくだから、しばらくお貸ししますよ。どうぞそのまま着て帰ってください」
「そうそう。タカアキさんもこう言っていることだし、伝統文化の普及活動に貢献すると思って」
「マサキの分も一緒に、姉ちゃんに返却しといてもらうからさ」
 必死で固辞したものの、全方位から集中攻撃を喰らって、あえなく私は撃沈した……。
  
「真如堂寄ってったら? 今日、お十夜でしょ」とのユウカさんの言葉があったが、私は断固として真っ直ぐ帰宅した。
 人目を引くのが恥ずかしい、というのもあったが、何より、ひらひらする裾が心許なくてたまらなかったからだ。何の遠慮もなく大股で歩けることのありがたさを噛み締めながら、私はアパートのドアをあけた。
「もうちょっと、そこらへんをぶらぶらしたかったな」
 ハルカの呟きに、少しばかりの罪悪感を覚えながら、あえてぶっきらぼうに返答する。
「借り物だから、汚したりしたら大変だし」
「それは確かにそのとおりなんだけど、でもなー」
 ぷう、と頬を膨らませて、それからハルカは、言うに事欠いて「マサキの着物姿、見せびらかしたかったのに」なんてぬかしやがった。小学生か。
「却下」
「えー、なんで?」
「恥ずかしい」
「えー、似合ってるのにー」
 そういうハルカのほうこそ、着物姿が見事なまでにさまになっていた。道行く人がハルカを振り返るたびに、私までどこか浮ついた気分になった。そういう意味では、見せびらかしたい、というハルカの言い分も解らなくはない。
 でも……、どちらかというならば、私は、宝物は秘匿しておきたくなる性格なのだ……。
 我ながら乙女のような発想をするなあ、と、少し照れ恥ずかしくなって、一人さっさと部屋の奥へ向かう。
 キッチンスペースを抜けたところで、後ろからやけに甘い声が追いすがってきた。
「ああ、でも、真っ直ぐ帰ってきて正解かもね……」
 どきり、として振り返れば、ハルカと正面から目が合った。
 ハルカは、熱に浮かされたかのような潤んだ瞳で、静かに私を見つめてくる。
 心臓がぎゅっと締めつけられたかと思えば、次いで全身の血潮がざわめき始めた。
 ハルカが、悪戯っぽく笑う。あでやかに。
 私のスイッチを入れるのは、いつでもハルカなのだ。そして、そのことを本人も自覚しているに違いない。全てお見通し、と言わんばかりの眼差しが、あっという間に私を絡め取る。
 襟の中へすうっと潜り込む滑らかな首筋が、陰からちらりと覗く鎖骨が、動悸に拍車をかけた。
  
 大学生になってすぐのこと、新歓コンパがお開きになったあとに、些細なことで先輩に絡まれ、トラブルになりかけたことがあった。
「お巡りさん、こっちです!」
 お定まりな台詞が裏道に響き渡り、先輩達は脱兎のごとく逃げ去っていった。それと入れ違いに現れたのが、ハルカだった。
「もしや、って思ったけど、やっぱりマサキだった。大丈夫?」
 ちっちゃくて可愛かった「姫」は、すらりと背が伸び、すっかり大人になっていた。中学では、男子は男子同士、女子は女子同士で固まっていたし、高校は別々になったから、ハルカとまともに口をきいたのは本当に久しぶりだった。
「マサキは、変わんないね」
 そう屈託なく笑うハルカに、心の底からムッとした。
 変わりたかったのに。
 変われたと思ったのに。
 ああ、でも、少しは私も成長したのかもしれない。以前だったら、きっとハルカを無視してさっさと帰ってしまっただろうから。少なくとも、メアドを交換しようなんて申し出に、首を縦には振らなかったはずだ。
  
 それから、ハルカから頻繁に連絡がくるようになった。
 どうやって化けたのか、自分勝手でマイペースな「姫」は、それなりに物腰の落ち着いた、話し上手となっていた。なぜ私を構ってくれるのだろう、と怪訝に思っていたのがどうでもよくなるぐらいに、ハルカと交わす会話は楽しかった。
 サッカーの試合を見に行こう、と、誘われたのが、再会してから半年後のことだった。「マサキ、サッカー部だったよね」と言われた時、どうして自分は中学時代にハルカを見ていなかったんだろう、と、少し後悔した。
 試合はとてもエキサイティングだった。応援していたチームの九番がゴールを決めた瞬間、ハルカが私の手を握ってきた。ドキッとする間もなく、手を掴まれたまま「やったー!」と腕を振り回され、全てがどうでもよくなった。試合終了のホイッスルが鳴った時には、大歓声の中、二人で肩を組んで勝ちどきの声を上げていた。
  
 ハルカと初めて結ばれたのは、それから更に二年が経過した秋の終わりだった。
 二人ともそれが初めての経験だったから、もう無我夢中で、何が何だかわからなかった。
 恥ずかしさのあまりハルカの顔を見ていられず、思わず視線を外したその先、大きく開いた胸元にくっきりと陰影を刻む鎖骨が――白い肌に穿たれた滑らかな溝が、今でも瞼の裏に残っている。
  
 長い長い口づけが終わり、あの時と同じ鎖骨が、視界に飛び込んできた。
 思わずそっと指でなぞれば、ぎゅう、とハルカに抱き締められた。
 ハルカの体温が、全身から伝わってくる。帯が邪魔だな、そんなことを考えた刹那、脳裏にユウカさんの笑顔が浮かび上がってきた。
 私は、思わず息を詰めた。
 そうだ、今日私は、事あるごとにユウカさんのことばかり考えていた。そればかりか、今もまた、ハルカに触れながら、彼女のことを思い出している……。
 自分の身勝手さに絶望するあまり、ハルカから身を離そうとした次の瞬間、再び唇が塞がれた。
 目の奥に火花が散り、ユウカさんの残像が霧散する。
 瞼を開けば、恍惚としたハルカの顔。着物越しに感じられる、ハルカの鼓動。小鳥が餌を啄むように、幾度も口づけては、身体全体で私を求めてくる。
 こんな私でも、ハルカは受け入れてくれるというのだろうか。
 自分の唇を噛む代わりに、私はより深くキスを貪った。
  
  
  
 私を抱く時、彼の雰囲気は少し変化する。
 いつもマイペースで、自分がしたいことしかしない、なんてうそぶいている彼だけど、なんだかんだ言って女性に対してはとても紳士的だ。それが、ほんの少しだけ荒っぽくなる。たぶん、これが彼の「」なのだろう。
 優しかったキスは、いつしか、呼吸をするのも覚束ないほど激しいものとなり、私は必死で彼の動きに応え続けた。
 唇の中で柔らかいものが絡まり合う感触は、このあとに続く行為よりも、ずっと非現実的なもののような気がする。水音を立てて、何度も何度も、彼が私の中を動き回る。
 そっと唇が離され、私は喘ぐように息を吸った。
「くそ、帯が邪魔だな」
 短く鋭く吐き出された声に、ぞくりと背筋が震えた。今彼が身にまとっている着物と同じく非日常的な――いつもとは異なるやや乱暴な言葉遣いが、私をますます煽り立てる。
 普段彼を抑制しているものが何か、私は知らない。もしも私のことを気遣ってくれているのだというのなら、無理はしないでほしい、と思う。私なんかいつだって自分優先で、彼に対しても全然遠慮することなく好き勝手にふるまってしまっているというのに。
 と、ある一つの考えが湧き上がってきて、私はつい苦笑した。本当に、なんて影響力の強いひとなんだろう、と。
 呉服屋を辞する時、婚約者の横で朗らかに笑って手を振っていた、かの人の姿が瞼の裏に浮かび上がってきた。
 ――姉ちゃんには敵わない。
 本当に、敵わない。
 そもそも、比べようということ自体が、愚かしいのだと思う。同じ女性として、彼女と私とではあまりにも違いが大きすぎる。
  
 彼女のように、なりたかった。堂々と背筋を伸ばし、どんな困難にもまなじりを決して立ち向かい、でも優しく私や弟といった年少者を包み込む、そんな素敵なひとになりたかった。
  
 無理だったけれど。
 でも、そんな私を、彼は選んでくれた。
 選んでくれた、のだと思う。
 少なくとも、私とこうやって二人きりで過ごす時、彼は素顔を見せてくれるわけなのだから。
  
 はらり、と帯が床の上に落とされた。きつく締められていた胸元が、一気に楽になる。
 大きく息を吸えば、再び口づけ。
「余計なこと、考えんな」
 ああまた、そうやって私を乱そうとする。悔しいので、私も彼の帯をほどいてやった。腰紐もほどいて、長着の前をはだけさせる。
 長襦袢の一ヶ所がこれ見よがしに膨らんでいるのを見てしまい、思わず私の手が止まった。
 その様子に気づいたのだろう、彼が喉の奥でくくっと笑う。
 そうして、また、キス。濡れた感触が軽く唇をなぞってから、顎から首筋へと這い進んでいく。
 くすぐったさに、鼻にかかったような声が漏れた。とても自分の声とは思えない、媚びたような響きに、全身が更に熱くなる。
 彼が、得意げに目を細めるのが見えた。
 いつの間に腰紐までほどいていたのだろう、肩を脱がされたと思った時には、長着がばさりと床に落ちていた。
「ああ、そうだ」
 悪戯っぽく微笑んだかと思えば、彼が私の左肩を引いた。そのままくるんと後ろを向かされ、彼の胸に背中を預ける体勢になる。一体何を、と不思議に思う間もなく、彼の手が脇の下に潜り込んできた。
 そういえば、着物って、脇に隙間があったっけ。そのことに思い当たるのと、彼の手がそこに入り込んでくるのとが、同時だった。
 彼の指は、長襦袢、肌襦袢、と、布の端を繰って確実に素肌の上を這い進んでくる。布地を押し上げながら、もぞもぞと蠢くさまに、身体の奥底がずくんと疼いた。
「ちょっと、そんな無茶を……」
 これまでになく高鳴る心臓の音を聞き咎められたくなくて、私はつい非難めいた口調になる。
 そんなことはお見通しだ、と言わんばかりに、彼が鼻を鳴らした。
「ここ、身八つ口、っていってね。着付けをしやすくするためだとか、色々理由はあるみたいだけど、こうやって女のひとにいけないことをするためにあるんだ、って言う人もいるんだって」
 耳たぶを甘く噛まれて、知らず身体が波打った。ふふ、と笑う声が耳の奥で何度もこだまする。
 胸を包み込んだ彼の指が、やわやわと蠢き始めた。
 普段では考えられない、洋服ではとうてい不可能な行為に、頭の中まで炙られる。溢れ出す熱を持て余して身じろげば、また彼が小さく笑った。
 彼の中にスイッチがあるようだ、と思った。いつものあの優しい彼から、少し意地悪な彼へと切り替える、素敵な、スイッチ。
 そして、私の中にも、スイッチがある。こうやって彼に入れられるスイッチが。普段、滑稽なほど虚勢を張って、強がって、時に道化の仮面すらかぶる私を、一人のおんなに変えてしまうスイッチだ。
 彼のスイッチは、どうやって入るのだろうか。
 何が、スイッチを入れるのだろうか……。
「いつもより、感じてない?」
 彼の囁き声が、脳髄を貫く。
 やむことのない胸への愛撫と相まって、全身から力が抜けていく。もはや立ってなどいられない。
「でも、俺もちょっと、抑え、きかないかも」
 一言一言絞り出すように吐き出された声の、どこか切羽詰った様子を聞き、口の中に唾が溢れてくる。
 私を操るどれだけのスイッチを、彼は手にしているのだろうか。
 手を引かれた、と思った時には、私はベッドの上にいた。
 マットが軽く波打ち、彼が覆いかぶさってくる。
 そっと腰を持ち上げられ、しゅるりと腰紐が抜かれた。導かれるがままに肩や腰を浮かせれば、あっという間に長襦袢も脱がされてしまった。続いて、肌襦袢、裾除け、と、みるみる素肌が晒されていく。
「借り物だから。皺にするわけにいかないもんな」
 見れば、彼も長襦袢一枚になっていた。腰紐こそまだしっかり結ばれているが、乱れた裾がやけに艶めかしい。合わせから覗く広い胸板の色っぽさといったら、言葉なんかでは言い表せないほどだ。
 ぼうっと見惚れている間もなく、彼が身体の上にのしかかってきた。
 私は、もう声を抑えるだけで精一杯で、ただひたすら身をよじりながら喘ぎ悶える。
 遂に最後の一枚がはぎ取られた。
 彼は、私の弱点を知り尽くした動きで、着実に私を追い立てていく。
 ずっとおあずけをくらっていた箇所を指がかすめ、身体の奥を痺れが走り抜けた。もっと、と言いたくて、でも言えなくて、私はただ悩ましく身をよじるばかりだ。
 額に何か――たぶん彼の唇――が触れたかと思えば、とうとう私の望みは叶えられた。最も敏感なところをもみくちゃにされ、たちまち私の身体は波に乗る。
 押し寄せるうねりに流されまいと伸ばした手が、彼の襦袢の襟を掴んだ。そうだ着物だったんだ、と、意識が逸れた一瞬、不意打ちのように一際大きな波が襲いかかってくる。
 身体が限界まで反りかえり、目の前が真っ白になった。
 高みへと打ち上げられた私を、彼の逞しい腕が抱きとめる。仄かな樟脳の香りに包まれながら、私は力無くシーツの海へ沈み込んだ。
  
 衣ずれの音が聞こえて、私は目をあけた。すっかり力の抜けてしまった身体に鞭打ちながら、なんとか上体を起こすと、避妊具を装着し終わった彼が、丸めた長襦袢を投げ捨てるところだった。
 ほどよく鍛え上げられ、引き締まった身体は、いつ見ても惚れ惚れする。部活を辞めてからも、寝る前の腕立て伏せと腹筋は日課だって言っていた。普段はどちらかといえば線の細い印象が強いだけに、彼の裸体を見るたびに、私はいつも心臓を射抜かれるのだ。いい加減慣れてしまわないものかな、と自分でもあきれているのだけど。
 足のほうのマットレスが、一際深く沈み込む。膝の裏に彼の手がかかり、私の胸は限界まで高鳴った。
 圧迫感とともに、彼、が、入ってくる。
 そうして、そのまま、キス。
 媚薬のような口づけにひたすら溺れていると、彼が動き始めた。まるで焦らすかのように、そろり、そろりと。
 もどかしさに耐え切れず、つい身をよじれば、彼が得意そうに笑った。そうして、一転して息もつかせぬ勢いで律動を始めた。
 たまらず溢れ出た喘ぎ声を、彼の唇が封印する。
 大きく揺り動かされたかと思えば、小刻みに揺さぶられ、私の身体はどんどん追い詰められていった。彼が強く突き上げるたびに唇の封は外れ、ねだるようないやらしい声が、ベッドの軋む音と混ざり合う。
 彼の動きが、更に激しさを増した。
 私は無我夢中で彼の首にしがみついた。
 彼も、私を抱く腕に力を込める。
「好きだ」
 熱の籠もった囁きを口移しに呑み込まされ、一瞬にして酔いがまわった。
 いつもなら、照れ臭さが勝ってしまって、せいぜい「私も」と同意することぐらいしかできないけれど……、今なら、言える。
 のぼりつめるその瞬間、私は必死で彼の耳元に口を寄せた。
「私も、好きだよ、……」
  
  
  
 あの秋の夕べ、涙を流す優香ゆうかさんを前に、私は何もできずに立ち尽くしていた。
 ただ黙って、彼女をぎゅっと抱き締めればよかったんだ、と、あとになって思った。
 それを気づかせてくれたのは、はるかだった。
  
  
 凪ぎが訪れたベッドの上、遼の胸の中にすっぽりと包まれながら、私はぼんやりと天井を眺めていた。
  
 あれは、本当に初恋だったのだろうか。
 もやもやとした想いを持て余した挙げ句、拗ねて、正面から向き合うことを避け続けた五年間だった。その間に、すっかり錆びついて固まってしまっていた歯車が、今ようやく軋みながら動こうとしている。
  
 遼のことは、心から愛しいと思う。こんな私のどこを評価してくれているのか、さっぱり解らないが、彼が私を好きでいてくれる奇跡を、この世の全てのものに感謝したいと思っている。
 ええと、話が逸れた。
 つまり、現在の私は、異性愛者ということだ。
 ならば、優香さんへの想いは、一体どういうことだったのか。
 時間とともに、嗜好に変化がおきた、ということなのだろうか。それとも、いわゆる両刀使い、というやつなのだろうか。
 だが、そもそも私は、今まで優香さん以外の女性に心惹かれたことはない。
  
 そこまで考えて、私は目を見開いた。既に自分がその答を見つけていたことに気がついて。
  
 そうだ、私は、彼女のようになりたかったのだ。堂々と背筋を伸ばし、どんな困難にもまなじりを決して立ち向かい、でも優しく私や遼といった年少者を包み込む、そんな素敵なひとになりたかった。
 それは、恋ではなく、憧れというべきものだったのだろう。それも、どちらかといえば、妬みに近い負の感情の顕現。あの、きらきらと眩い笑顔を見るたびに、ぎゅっと胸が締めつけられるのは、彼女のようになれなかった自分に対する悔しさの表れに違いない。
 憧れ、羨み、そして同時に、自分の理想でもある彼女に認められたかった。そうして、それが叶わないとみるや、恋破れたふりをして、全てから逃げたのだ。
 失恋ならば、仕方がない、そう自らに言い訳して。
  
 なんてことだ。私はずっと――
  
「ねえ、真咲まさき
 耳に息を吹きかけられ、驚いて私は遼の顔を見た。
「真咲さあ、姉ちゃんのこと好きだったでしょ」
 私は、小さく息を呑んだ。
 昨日までの、いいや、ついさっきまでの自分なら、図星を指されたと思ったに違いない。
 溜め息をつくことしかできずにいると、遼がにっこりと笑いかけてきた。
「見れば分かるもんね。姉ちゃんを見る目がキラキラしてたから。なんつーか、ご主人様を見る仔犬の目? 一生ついて行きます、みたいなあんな目されちゃ、もう全然勝てる気がしなかったもんな。俺、女に負けるの? って、どんなに凹んでたか」
  
 あの時、ひとけの無い河原で泣いている優香さんの姿に、心を打たれた。
 ただひたすら、彼女の力になりたい、と思った。
  
 憑き物が落ちる、とは、こういうことを言うのだろうか。
 呆然と遼を見つめていると、彼がニカッと口角を上げた。
「俺を選んでくれてありがとな」
 目頭が熱くなったかと思えば、憎らしいぐらいに可愛らしい笑みが、不意に滲む。
 慌てて私は遼に抱きつくと、その唇を塞いだ。
  
  
  
〈 完 〉
きものの日企画 参加作品
※ 深緋《こきあけ》:茜の下染めに紫根を上掛けした、日本の伝統色