The one who treads through the void

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PARADISE GOT

Risky Twenty 2参加作品
  
  
  
 タカウの家に白羽の矢が立ったのは、小粟の実がこうべを垂れ始めたころだった。
 タカウには三人の娘がいたが、に刻まれていたのは、真ん中の娘、ソオのしるしであった。草の葉よりも軽く、青銅よりも硬い、神が造りたもうた矢を手に、タカウはソオを手招きすると、厳かな声で語りかけた。
「お前も中つ国に住まう女なれば、これがどんなに誉れ高きことか解っているだろう?」
「はい、父さま」
 ソオは、神妙な顔で頷いた。
 嫁取りによって神の縁者となった家は、永きに亘って栄えると謂われている。そして神の恩恵がもたらされるのは、当の一家ばかりではなかった。例えば花嫁の父が日照りの夏に天に救いを求めたとして、恵みの雨は広く里全体に潤いを与えてくれることになるのだから。
 ここ、コオリの里からは、もう随分と長い間、嫁取りが行われていなかった。もしや神はコオリを見放したのだろうか、そんな嘆きがあちこちで囁かれるほどだった。それゆえ、このたびソオが神に見初められたことで、里じゅうが喜びに沸いていた。
 そんな中、二つ上の姉を差し置いて自分が神に選ばれたことが、ソオは不思議でならなかった。何しろ、機を織るのも、藁を編むのも、魚を捌くのも、姉のほうがずっと上手だったからだ。そればかりか、一つ下のカヤと比べても、ソオが秀でているものは、殆ど、無い。
 困惑の表情を浮かべるソオを見て、タカウはついと眉を寄せると、少しばかり声を落とした。
「お前は、クヤノと仲が良かったから、もしかしたら心残りがあるかもしれないが……」
 誤解を解くべく、ソオはゆるりと首を横に振った。
「いいえ。神の矢がくだされたのです。何を躊躇うことがあるでしょう」
「ならば、何故浮かない顔をしているのだ」
 ソオの口から、深い溜め息が漏れた。
「神は、本当にこの私で構わないと仰っているのでしょうか。私などよりも、トヨ姉さまやカヤのほうが……」
「何を馬鹿なことを言うのだ」
 タカウが大きく眉を跳ね上げて、声を荒らげた。
「神は、全てをご覧になって、そうしてお前を妻にと望んでおられるのだ。その御心を疑ってはならぬ」
 遠慮がちに頷くソオに向かって、タカウはにっこりと笑みを浮かべた。
「確かに、トヨはお前達の中では一番のしっかり者だ。カヤは女にしておくのが勿体ないぐらいに賢い。だが、私はお前がとても優しくて素直な心を持っていることを知っている。私にとっては、お前もトヨもカヤも、皆等しく愛しい娘なのだよ。それは、おそらく神にとっても同じことだろうね」
  
  
「箆のしるしは、本当にお前のものだったのか?」
 御使みつかいを迎える準備で里が大わらわな中、川べりにソオを呼び出したクヤノは、歯ぎしりとともに言葉を吐き出した。
「数字を見間違えたってことはないのか?」
「いいえ」
 祝いの言葉が聞けるものとばかり思っていたソオは、怪訝そうに眉をひそめると、そっと首を横に振った。「間違いなく、私のしるしでした」
 なんてこった、と、クヤノが地面を蹴った。固く握りしめられた両のこぶしが、小刻みに震えている。
「お前の家に白羽の矢が立ったって聞いて、俺はてっきり、トヨさんだとばかり……」
 クヤノの言葉に、ソオは静かに息を吐いた。はっきり口にしないだけで、里の皆もクヤノのように考えているのだろうということは、ソオには痛いほど分かっていた。もしも召されるのがトヨだったらば、皆も心の底から納得したに違いない。
 しかし、それでも、神はソオを選んでくださったのだ。ソオは地面を見つめたまま静かに口を開いた。
「私も、姉さまのほうがずっと相応しい、と思います。でも……」
「そういう意味で言ったんじゃない!」
 悲鳴にも似た叫びとともに、クヤノがソオの両肩を掴んだ。
「俺は、お前が……」
「そこで何をしている」
 冷徹な声が、道のほうから投げかけられた。
 クヤノが弾かれたようにソオから手を離す。
おささま」
「ソオ、お母上がお探しだったぞ。嫁入りの衣装を縫っていたのだろう?」
「あ、はい」
 二人のそばへとやってきた里長さとおさは、ソオに柔らかく微笑んでから、一転して厳しい眼差しをクヤノに向けた。
「クヤノ。これまでの君の振る舞いを、神は高く評価してくださっていることだろう。だからこそ、最後の最後で道を踏み外すな」
 クヤノの唇が痙攣するように震えて、それから彼は顔を伏せた。血の気が失われるほどこぶしを握りしめ、無言のまま走り去っていく。
「気にすることはない、ソオ。全ては神の御心のままに」
 里長の言葉に、ソオは頷くことしかできなかった。
  
  
  
 とうとうソオの輿入れの日がやってきた。
 夕刻を迎え、里のぐるりにしつらえられた篝に火が入れられる。
 掟に従い、里人さとびとは日が暮れるとともに全員が家に閉じ籠もり、戸という戸を固く閉ざして、息を潜めて御使いのお出ましを待っていた。
 タカウの家でも、ソオを含めた家族全員が、真っ暗な家の中に籠もり、静かに別れを惜しんでいた。
「ソオ、本当に綺麗。まるで夜明けを待つ白鷺のよう」
 窓の隙間からか細く射し込む月の光を受け、婚礼衣装が輝いて見える。トヨがうっとりと囁く横で、カヤが好奇の眼差しで布地を撫でた。
「柔らかくて、軽くて、雪のように白い。このような布を、長さまはどうやってお作りになられたのだろう……」
「神から託されたに決まっておろう」
「カヤ、そうみだりに触っては折角の衣装が乱れてしまうわ」
 父母にたしなめられたカヤが唇を尖らせるのを見て、ソオは頬を緩ませた。と同時に、もうこの生意気な妹に言い負かされることもないのだと思い当たり、寂しげな笑みを浮かべる。
 ふと、板葺の屋根の向こう、空の遠くから大きな獣の咆えるような声が近づいてきた。
 腹の底をびりびりと震わせる咆哮は、ほどなく、ごうごうと逆巻く風の音に呑み込まれていく。
 やがて、再び静寂が訪れると同時に、表の戸が軽く叩かれた。
「ソオ。御使いがお着きになられたよ」
 里長の声を聞くや、タカウが息を詰まらせた。思わず漏れた声にならない声を一息に呑みくだして、そうして右手で目元を押さえる。母も涙を流しながら、ソオの手を優しくとった。
「ああ、私の愛しい娘。どうか天が原で幸せに暮らすのですよ」
「母さま……」
 そっと顔をそむけ手を離す母と入れ替わるようにして、姉と妹が別れの言葉を手向ける。
「幸せに、ね」
「ソオ姉さま、お元気で」
 後ろ髪を引かれながら、ソオは戸を開いた。
 月明かり降り注ぐ里道に、純白の儀式装束に身を包んだ里長が、一人佇んでいた。
「別れの挨拶はすんだかね」
「はい」
「しからば、嫁取りの儀とまいろう」
 背後の戸がゆっくりと閉じられる。ソオは小さく頷いた。
  
  
 月が雲に隠れ、漆黒の闇が辺りに押し寄せてくる。風にそよぐ葉擦れの音を聞きながら、点々と揺らめく篝火を頼りに里の外れまで来れば、茅場の中央に、黒々とした大きな影が身を横たえているのが、微かに見て取れた。
「あれが、神の御使いである大鳥だ」
 里長に従い茅場まで降りたソオは、知らず息を呑んだ。里で一番大きな長のお屋敷よりも、御使いのほうが大きかったからだ。茅場を取り囲むように灯されている篝火の光も、翼を広げた大鳥の巨体の前にはあまりにも頼りなく、その全身像を浮かび上がらせるには至っていない。
 言葉もなく立ち尽くすソオの傍らで、里長が杖を天に掲げた。そうして、朗々とした声で祝詞を詠み始める。
 ソオの名前としるしが詠み上げられた次の瞬間、目も眩むばかりの光が、御使いの胸元に現れた。
 それは、まるでお日さまの御子が産み落とされたかのようだった。大きさこそ大鳥の頭ほどしかないが、満月の光をも凌ぐまばゆい輝きが、辺りの闇をより一層深くさせる。
 その光の中に、人影……のようなものが浮かび上がった。
「おお! 神よ! まさか、御自ら……!」
 里長がひざまずこうとするのを、影はゆったりとした動作で押しとどめた。
『そのままでよい』
 柔らかな声は、里長の手元から聞こえた。
 里長が杖を両手で握りしめたまま、慌てて身を起こす。なんと恐れ多い、と何度も呟きながら。
『地上に降りる機会など、そうそうあるものではないからな。驚かせてすまない』
「滅相もございません!」
『ソオ』
 息を詰めてそのやりとりを見守っていたソオは、急に名を呼ばれて、思わず背筋を伸ばした。
 みるみるうちに、光から地上へと階段が伸びてくる。カツン、カツン、と硬い音をたてながら、影がゆっくりと段を降り始めた。
 それは、熊のようなずんぐりとした形をしていた。だが、その輪郭は滑らかで、背後の光を受けて神々しく輝いている。思ってもいなかった異形に、ソオは驚くあまり身動き一つできなかった。
『美しき花嫁よ。どうか我が許へ』
 逆光を背負った影が、ソオの目の前に立った。丸い頭部、逞しい身体。顔のあるべきところには、ぽっかりと闇夜が口をあけている。だが、不思議と嫌悪感は感じなかった。
 ごつごつとした手が、ソオに向かって伸びてくる。
 吸い寄せられるように、ソオは右手を差し出した。
 指と指とが触れ合った瞬間、暗闇に火花が散った。と、同時に、ソオの指先から全身へと鋭い痛みが走り抜ける。
 夜空がソオの視界一杯に広がったかと思えば、そのまま彼女は意識を失って崩れ落ちた。
  
  
  
 眩しさに目を細めながら、ソオは目を覚ました。
 薄曇りの空のように、ぼんやりと輝く天井が見えた。ここはどこだろう、と、起き上がろうとして力を入れた手が、ふわりと沈む。打ちたての綿もかくや、驚くほど柔らかい敷物の上に、ソオは横たわっていたようだった。
 と、虫の羽音のような音がどこからともなく微かに聞こえてきて、ソオの背中が優しく後ろから押された。
 寝台だと思っていたものが、みるみるうちに椅子のような形になってしまった。ふかふかの背もたれが、まるで母の腕のように、ソオの背中をすっぽりと包み込んでくれている。
 ソオは恐る恐る辺りを見回した。
 左手には、白い壁があった。木でも石でもない、何でできているのかさっぱり分からないが、滑らかで継ぎ目の無い壁だった。
 右側を向けば、ソオが座っているのと同じ椅子が三つ、背もたれを平たく倒した寝台の形で並んでいる。一列に四つ、それが五列。その全てに、ソオと同じぐらいの年かさの娘が、穏やかな表情で横たわっていた。
 長さまは何処なのだろう。嫁取りの儀はどうなったのか。咄嗟に立ち上がろうとしたソオは、自分の身体が黒い帯によって腰のところで椅子に固定されていることを知った。
 ソオの背筋を、冷たいものがつたい落ちた。恐怖のあまり叫びだしそうになるのを必死で耐え、胸を押さえて荒い息を繰り返していると、どこかで聞いたことのある声が部屋の中に響き渡った。
『お目覚めかね、ソオ』
 息を詰め、声の主を探すソオの前方、壁の中央にぽっかりと通路が口をあける。
『こちらへ来るがよい』
 ソオの身体を拘束していた帯の留め具が、カチャリと音を立てて外れた。
  
  
 まるで雲の上を歩いているかのように、ふわふわと身体が軽い。もしかして今私は夢を見ているのだろうか。訝しがりながらも、ソオは薄暗い通路に足を踏み入れる。
 数歩進んだところで目の前の戸が音もなく開き、先ほどの部屋と同じ、白い壁に光る天井がソオを迎えた。
 ガランとした室内の中央には、立派な椅子が二つ並んでおり、その少し奥には、広い机が見える。
「ようやく気がついたか」
 左側の椅子から、若い男が立ち上がった。目もくらむばかりの黄金きんの髪に、ソオは一瞬息を呑んだ。
「ここはどこなのですか?」
「天が原へ向かう船の中だ」
 思ってもみなかった答えに、ソオは目を見開いた。
「船? 船で天へまいるのですか?」
「大鳥が変化へんげした、天駆ける船だ」
「ならば、向こうの部屋にいる方々は、一体……」
「お前と同じ、神の花嫁だ」
 男の言葉を聞くなり、ソオの足から力が抜けた。
「大丈夫か」
「は、はい……」
 ふらつくソオを支えながら、男がどこか愉快そうに口角を上げる。
「一口に神と言うが、天が原の住人は大勢いるからな。老いも若いも、男も女も。なに、お前達と同じで夫一人に妻一人と決まっている。安心しろ」
「……そうなんですか」
 神と人とを同列に語ることなど許されようはずもないが、それでもソオは、自分が二十人の中に埋もれてしまわずにすむと知り、心の底からほっとした。
「皆さんは、眠ってらっしゃるのですか?」
「そうだ。天が原に着くまで、目覚めることはない」
「ならば、私は……?」
 男は、ソオの問いには答えずに、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「本来ならば、嫁取りは、しもべ達に任せることになっている。我々は天が原で、妻となる女達の乗った船を、ただ待っているだけ。だが、それではつまらない、と思わないか?」
 男が「我々」と言うのを聞き、ソオは目をしばたたかせた。と、同時に、茅場での神の言葉が彼女の脳裏に浮かび上がってくる。「地上に降りる機会など、そうそうあるものではないからな」あの時、確かに神はこう言った。
 しかし、目の前の男は、ソオ達人間と何ら変わらないように見える。あの、ずんぐりとした影とは似ても似つかない。
「お前を眠らさなかったのも、つまらない、からだ。天が原を発って以来、話し相手といえば、愛想の悪いしもべばかり。息が詰まる」
「あなたは……一体……」
 恐る恐るの問いかけに、男は微笑みで答えた。
「お前の夫となる者だ」
「え、でも……先ほどとはお姿が……」
「あれは、地上でのかりそめの姿だ。これが、私の真の姿となる」
 ソオは、改めて夫と名乗った男――神を見つめた。
 緩く曲線を描く金の髪は、首の後ろで軽く一つに結わえられている。眼は空のように青く、肌は雲のように白い。すらりとした、しかし力強い手足は、まさしく白い牡鹿のよう。なんて、美しいんだろう、と、ソオは溜め息をついた。
「コオリの里が最後の寄港地だった。おのが花嫁をこの手で迎えるついでに、一度この足で大地を踏みしめてみよう、と思ったはいいが、うっかり、あの姿が帯電しやすいことを失念していた。それまで同様しもべに任せておけば、お前を無用に驚かせることもなかっただろうに、すまなかったな」
 タイデンとは何だろうか。だが、疑問を口にする間もなく神の謝罪の言葉を聞いて、ソオは大慌てで両手を振った。
「そんな、謝られるようなことではありません!」
 ほんの一瞬、彼は薄い笑いを口元に浮かべた。だが、眼差しはすぐに温かみを取り戻し、文字通り神々しい笑みをソオに向ける。
「折角椅子があるんだ、座ろうか」
 遠慮するな、との声に、ソオはおずおずと空いている右の椅子に近寄った。と、左手を強く引かれ、そのままあろうことか彼の膝の上に倒れ込んでしまった。
「す、すみません……!」
 血相を変えて立ち上がろうとしたソオを、逞しい腕が背後から抱きとめる。うなじに熱い息を感じ、ソオは思わず身を震わせた。
「あ、あの、手を離してください」
「こんなに待ったのに、まだ待てと言うのか」
 切なげに吐き出される声に驚いて、ソオは後ろを振り向いた。
 熱の籠もった青の瞳が、正面からソオを見返してくる。
「お前を見初めてから、この嫁取りまで、私がどれほどの月日を待ち続けたか分かるか? その間にお前の周囲の男どもが掟を破ってしまわないか、どんなに狂おしい気持ちで見守っていたか分かるか?」
 しなやかな指が、ソオの顎をすくい上げた。唇と唇が重ねられた瞬間、ソオの身体をえもいわれぬ震えが駆け抜ける。
 初めて味わう口づけは、微かに薄荷の香りがした。
「どうして、私を選んでくださったのですか……」
 上気した頬でソオが問いかければ、再び唇が塞がれた。
「お前はよく、草笛を吹いていただろう」
 水音を立てながらソオの唇を何度もついばみ、神が囁く。
「一日の畑仕事を終えたあと、姉と妹にねだられて吹いていたな。お前自身も疲れていただろうに」
 深さを増す口づけに、ソオの呼吸が上がってくる。そしてソオが喘ぐように息を継ぐたびに、より一層口接は深まっていくのだ。
「あの音色を、直接この耳で聞いてみたい、と思った」
 大きな手のひらが胸のふくらみを包み込み、ソオの喉がごくりと音を立てた。
「お前のために特別な部屋を用意しよう。草を植え、風を起こし、地上そっくりの風景を再現してやろう。そこで、私に草笛を吹いてくれ」
 胸を覆った手が、勿体ぶるようにゆっくりと蠢き始める。
 自分が漏らした声の甘さに驚いたのは、ほんの一瞬だった。ソオの意識はみるみるうちに、彼の愛撫がもたらす官能に侵されていく。
「あ……あの……神様……」
 僅かに残った力を振り絞りながら、ソオは必死の思いで神に呼びかけた。
「ユハニ、だ。私の名は」
「ユハニ様……あの……嫁取りの儀が終わるまでは、私は純潔を守らなければならないと、伺っておりますが……」
 先刻の話では、妻を迎える神々は、本来なら天が原で女達の到着を待つ、とのことだった。ならば、ソオが天が原に到着していない今は、まだ儀式が完了していないということになるのではないだろうか。このまま流されてしまっては、掟を破ることになりはしないのだろうか。
「搭乗の際の検査で既に陰性だと確認されている以上、つがい同士がまぐわうに問題はない」
「トウジョウ? インセイ?」
 ソオの問いかけを舌の上で転がして、ユハニが囁く。
「心配するな。悪いようにはしない」
 深まる、口づけ。激しさを増す、愛撫。ユハニの腕の中でソオの身体が艶めかしく波打ち始めるまで、大して時間はかからなかった。
  
  
 下からの突き上げに、ソオの唇から嬌声がほとばしった。
 ユハニの膝の上、向かい合わせに座らされたソオの、深く繋がった部分から、粘性を持った水音が絶え間なく聞こえてくる。念入りに拓かれ、すっかり感度の上がった身体は、ユハニの動きを余すところなく快感に変えていた。
 もう幾たび高みに導かれただろうか、既にソオは精根尽き果ててしまっていた。それでも、ユハニが腰を押しつけてくるたびに、もっと、もっと、と、更なる刺激を求めて甘い声を上げてしまうのだ。
 ユハニが満足そうに微笑み、ソオの左胸に唇を這わせた。左手を右胸へ、右手は下腹部へ、それぞれソオの弱いところを一斉に攻め立てる。
 怒涛のごとく押し寄せる快感に呑み込まれそうになった、まさにその時、ソオの耳に聞いたことのない男の声が飛び込んできた。
あるじよ』
 突然の出来事に、ソオは反射的に短い悲鳴を上げて、ユハニの身体にしがみついた。
 その背を抱きしめて、ユハニが苦笑を浮かべる。
「恐れることはない。一のしもべ、この船の精霊だ。控えろ、オメガ」
 荒い息もそのままに、ソオはユハニから身を離そうとした。相手が何者だろうが、快楽に溺れるはしたない姿を見られるわけにはいかない、と。
 だが、すかさずユハニがそれを押さえ込む。
「オメガのことは、気にしなくていい。そもそも、姿が見えないだけで、奴はずっとここにいたのだからな」
「え……」
 絶句するソオに、ユハニが悪戯っぽく笑う。
「所詮、奴は船だ。心配することは何も無い。せいぜい見せつけてやろうではないか」
『主よ』
 落ち着いた低い声が、辛抱強く、同じ言葉を繰り返した。
 ユハニが、あからさまに不機嫌な顔で舌打ちをする。
「控えろ、と言った」
『ケースSです』
 その一瞬、ユハニの身体が強張ったのを感じ、ソオはつい悩ましげな声を漏らした。
「放り出せ」
 氷のような声で吐き捨ててから、ユハニが再び腰を動かし始める。
 誰かに見られている、という恥ずかしさが火に油を注ぎ、ソオの身体はますます炎高く燃え盛った。
『いえ、そういうわけにはまいりません』
「どういうことだ」
『私は、人命を最優先にするよう言いつかっております』
 また、ユハニの舌打ちが聞こえた。
「そもそも、何故今まで気がつかなかった?」
『気がつかなかったわけではありませんが、対処できませんでした』
「だから、一体どういうことだ。会話レベルを2に上げろ」
 束の間、静まり返った部屋の中、ソオの喘ぎ声と水音だけが空気を揺らす。
『離陸時に感知いたしましたが、計画の遂行を優先して、再着陸を断念しました』
「それで、現在どういう状況なのだ」
『対象を、脚格納室から医療室へ誘導、先ほど低体温睡眠状態への移行が無事完了いたしました』
「馬鹿な。雑菌の塊を月に持ち込む気か。パニックになるぞ。今すぐ放り出せ」
『対象を含む、船内に持ち込まれたものは全て、皆様と同様にクリーニング処理を行いました』
 もはやソオの耳には、何も届いてはいなかった。きつく目をつむり、ユハニに突かれるがままに身体をくねらせて喘ぐのみ。
 そんなソオの背後で、机の上が光輝いたかと思えば、寝台に横たわる男の姿が空中に浮かび上がった。生成りの麻の服に、竹の皮で作られたくつ、典型的な地上人のいでたちだ。その手元に見える、鮮やかな緑色。
 男の顔を見るなり、ユハニの口元が憎々しげに歪んだ。そうして、より一層激しくソオを揺さぶり始める。
 ソオの嬌声が、ぐんと大きさを増した。
「不穏分子を紛れ込ませるわけにはいかない。人類の未来のためにも、このシステムは維持しなければならないのだ」
『ですが、私は、人命を最優先にするようプログラミングされています』
 最奥を何度も穿たれて、ソオの瞳に忘我の色が差し始める。
「確かに、遺伝子学的には人間だがな、所詮は我々に作られた命に過ぎない」
『マスター、その会話は、レベル1相当です』
「問題ない。理解できるはずがない」
 限界を迎えたソオの身体が、ユハニの胸元に力なく崩れ落ちた。余韻に震える頼りなげな肩を抱きとめながら、ユハニは言い放つ。冷たい声で。
「もう一度言う。そいつを宇宙に放り出せ。これは特権命令だ」
  
  
  
 小さな部屋の中央に、寝台が一つ。白一色の世界の中、鮮やかな緑色がソオの目を引いた。
 それは小さな花束だった。細い茎の先には、小豆大の白い花が一つずつ咲いている。そんな素朴な野の花を根気よく何十本も束ねて作られた花束が、寝台の上にちょこんと置かれていた。
「まあ! これ、私が大好きな花なんです」
 ソオは満面の笑みで、傍らのユハニを振り返った。
「薬にも染め物にも使えない、何の役にも立たない花なんて、って里の皆は笑うんですけど」
 でも、クヤノだけは、真面目な顔で頷いてくれた。ふと幼馴染みのことを思い出し、ソオの胸の奥がじんわりと温かくなる。里を離れてまだ何日も経っていないというのに、まるで遠い昔の出来事のような気がした。
「私からのプレゼントだ」
 甘い声が耳元を震わせる。再び熱を帯び始めた頬を意識しながら、ソオは僅かに柳眉を寄せた。
「どうして、こんなに良くしてくださるんですか?」
「お前達がいなければ、我々は子孫を残すことができない」
 ユハニの囁きは、やがて独白の色を増していく。
「我々は思い上がり過ぎたのだろうな。あのパンデミックを天罰だと、自分達は選ばれたのだと嘯きながら、のうのうと無菌室に引き籠っていた結果が、これだ。既に脅威が去って久しいというのに、未だ母なる大地に拒まれ続け、そして……」
 言葉の意味を問おうとしたソオは、ユハニの苦々しげな表情を見て口をつぐんだ。
 しばしの沈黙ののち、ユハニが小さく息をついた。
「ソオ、世界の秘密を知りたいか?」
「世界の、秘密、ですか?」
 深い眼差しがソオを射抜く。ユハニの声音が一段低くなった。
「そうだ」
 彼の言わんとすることが理解できず、ソオは眉をひそめた。
「私が世界の秘密を知れば、どうなりますか?」
 ユハニの目が微かに揺れ……、それから、そっと細められる。
「そうだな、大いなる叡智と引き換えに楽園を追われ、秘密を漏らした私のことを未来永劫呪い続けるか……」
 ソオは目をつむった。
 芦原を吹き抜けてきた風に、小粟の穂が一斉に波打つ。見渡す限りの青空に、薄く走る雲。鳥の声が高く低く聞こえてくる中、収穫の歌を口ずさみながら畑仕事に精を出す里人達。
 決して楽な暮らしではなかったが、ソオにとってあそこは楽園だったのだ。既に一度失われたものを、また更に失うなど、一体どんな悪夢だろうか。
 それに――
「ユハニ様を呪わなければならなくなるというのならば、そのようなもの、知りたくもありません」
「そうか」
 ユハニが笑った。かすれた声で。それから彼は、大きな動作でソオを抱きしめた。
「ソオ、ようこそ楽園へ」
 温かい腕の中で、ソオは陶然と瞼を閉じた。
  
  
  
〈 完 〉
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