The one who treads through the void

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DUSK IN BLACK 第一話 二人の弟子

  
  
  
    第一話   二人の弟子
  
  
  
    一  喧嘩
  
  
「さーて、今日はここまでにしよっか」
 夕焼けに染まる屋根裏部屋、茶色のおさげを揺らしてそう問う親友に、シキは返答の代わりに大きく伸びをした。机の上に広げられていた帳面をぱたりと閉じ、もう一度深く息を吐く。その拍子に、肩のところで切りそろえられた漆黒の髪が、さらり、と揺れた。
「ありがとうね、リーナ。いつもいつも、お世話になっちゃって」
「なーに。教え甲斐のある生徒だもん、いつでも大歓迎よ」
 リーナはシキにとって、初等学校以来の一番の友人だ。小さな田舎町に在りながら、領内一の腕前との誉れも高い「癒やし手」である彼女に、「癒やしの術」を習うために、シキは週に一度、ここ、教会併設の治療院に通っている。
「でも、本当にシキは筋が良いよ。流石はタヴァーネス大魔術師の一番弟子!」
 調子良く囃し立てるリーナに、シキはそっと形の良い眉をひそめた。
「そんなんじゃないよ」
「いやいや。んじゃ、レイが一番弟子? それ、絶対ありえないから」
 大袈裟に首を振ってから、リーナはふと真顔になって、机越しに大きくシキのほうへ身を乗り出してきた。
「ね、シキ、いい加減アイツに告らないわけ?」
「な、なんで、レイに、そんなこと……」
 さりげなく視線を逸らせるシキを、リーナのにやにや顔が追いかける。
「あーらぁ? ワタクシ、一言もレイのことだなんて言っていませんけどぉ?」
 真っ赤な顔をして硬直するシキに向かって、リーナは大仰に腕組みをしてみせた。
「こういうのは当事者同士がなんとかするものだとは思うんだけど、いつまでたってもあんたら、全然進歩がないんだもん。あ、それか、もしかして、先生に『恋愛禁止』とか何とか言われてるとか……」
 だとしたら由々しき事態ね、と芝居がかった調子で顎をさするリーナに、シキは必死で両手を振った。
「いや、先生はそんなこと言ってないし。って、だから、その、私達、そんなんじゃないから……!」
「またまたー。顔が真っ赤ですわよー」
「もうっ、リーナっ!」
  
  
 ようやく春めいてきた風も日没とともに冷たさを増し、まるで冬を名残惜しんでいるかのように、新芽の膨らみ始めた枝々を容赦なく震わせる。
 治療院の扉を開けたシキは、思わず身震いすると、慌てて外套の前をかき合わせた。この教会は、イの町の一番東の外れに位置し、すぐ横手を川が流れていることもあって、見事なまでに吹きっさらしとなっている。夏は涼しくていいんだけどね、とぼやくリーナに、シキは苦笑で返した。
「それにしても、シキ、あんた頑張るのはいいけど、身体壊さないでよ」
 教会の門のところで足を止めたリーナが、いつになくしみじみと口を開いた。
 昔からリーナは、折に触れシキのことを色々気にかけてくれる。今も、こうやって体調を心配してもらったことが嬉しくて、シキは心の底からの笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ。そう言うリーナだって、治療院の仕事と、お家の手伝いとで、大忙しでしょ? 面倒なこと頼んじゃったかな、って、ちょっと心配してるんだけど」
 心配ご無用! とリーナが胸を張った。
「大体、パン屋はもう弟が跡を継ぐ気満々だからね。『姉ちゃんに手伝われても、邪魔なだけだ』ですって。失礼しちゃうわ」
 ひとしきりカラカラと笑ってから、リーナははっと我に返った様子で小さく咳払いした。
「いや、私のことはどうでもよくって、シキのことだってば。家事全部やって、魔術の勉強やって、最近は魔術師ギルド(協会)の仕事もしてるって聞いたよ? それで更にウチに癒やしの術習いに来るって、ちょっと無理し過ぎのような気が」
「……私には魔術以外取り得がないからね。それに、家のことはレイもしてくれるし」
「魔術以外、って、もうそれだけで充分じゃん……。ってか、そうだ、それよりも、問題はヤツよ、レイよ!」
 リーナは神妙な顔になるなり、少し声を落とした。
「先週、そこの酒場で、レイとダンが騒ぎを起こしたの、知ってる?」
 大きく息を呑んで、シキは目を見開いた。
 ダンといえば、確か二つ年上の、いわゆる「札つきのワル」だ。この町で何か騒動が起きる時は、必ずといっていいほど、彼かその取り巻きが関わっている。とはいえ、所詮は辺境の田舎町、悪事のほどもたかが知れているわけではあるが。
「ヤツはあまりギルドのほうにも顔を出してないでしょ? 仕事もせずに、あんな連中とつるんで、流石にちょっとヤバいんじゃない?」
「何がヤバいって?」
 不意に、やたら粘っこいだみ声が聞こえてきたかと思うと、道の反対側、川べりへくだる土手の陰から、背の高い影がのっそりと現れた。
 朽葉色の前髪の下から、穏やかならぬ光をたたえて煤色の瞳が覗いている。物言いたげに片側の口角を吊り上げ、両手を上着のポケットに突っ込んだ前屈みの姿勢で、そいつはゆっくりと砂利を踏んで近寄ってきた。
「ダン・フリア……」
「俺がどうかしたって?」
 すぐ目の前までやってきた「噂の人」は、下卑た笑みを頬に張りつかせたまま、不躾にもリーナの顎を右手ですくい上げた。
「別に」
 無礼者の手を払いのける容赦ない音が、辺りに響き渡る。
「鳴鶏亭の椅子やらテーブルやらを壊した馬鹿がいるらしい、ってね」
 ほんの一瞬鼻白んで、だがすぐにダンは両の眉を大きく跳ね上げた。
「リフのオヤジも、新しい椅子がタダで手に入って喜んでるさ」
「あっきれた。あなたね、弁償すればいいってものじゃないでしょう? そもそも、それ、自分でお金出したわけ? その歳で親父さんのスネかじって、恥ずかしいと思わないの?」
 鼻息を荒くするリーナから面倒臭そうに視線を逸らせ、ダンは今度はシキのほうを向いた。彼女の眉間に刻まれた険に怯むことなく、彼は平然と彼女をねめまわす。四肢に絡みつくその眼差しは、それだけで何か得体の知れない生き物のようで、シキはおのれの背筋に震えが走るのを必死で押し殺した。
 どういうつもりなのか、何をするつもりなのか。相手が町の鼻つまみ者とはいえ、力の行使者たる魔術師の自分が、明確な理由もなしに先に手を出すことは絶対に許されない。嫌悪感と戦いながら、シキは黙ってダンの出方を待ち続けた。
「ふん、怖い物なんか何もない、って顔していやがる」
 吐き捨てるように呟いて、ダンが顔を背けた。「あいつも苦労するわけだ」
「え……?」
 あいつ、という言葉をシキが聞きとがめる間もなく、ダンの後ろ姿は深みを増した夕闇の向こうへと消えていく。追いかけて言葉の意味を問いただすべきか否か、悩むシキの背後でリーナが盛大に息を吐いた。
「何よ、あの偉っそうな態度!」
 頬をふくらませ、腕組みを決めて、リーナがシキの目の前に進み出る。「あいつ、ってやっぱ、レイのことよね。朱に交わればなんとやら、ってね、『やんちゃなお調子者』程度で済んでたのが、このままじゃ、あの大馬鹿の仲間入りまっしぐらじゃない?」
 そこまで勢いよくまくしたててから、リーナは小さく息を呑んだ。言い過ぎた、と口元を手で押さえて、俯くシキの顔をおずおずと覗き込む。
「……って、盛大に脅しておいてナンだけど、正直なところ、レイならきっと大丈夫だと思うよ」
 怪訝そうに顔を上げたシキに、リーナは屈託ない笑顔を向けた。
「だって、レイにはシキがいるもんね」
「え? どういうこと?」
「決まってるじゃない! シキが愛の力でヤツを更生させるのよ!」
 しばしの間、びっくりまなこで友の顔を見つめ続けていたシキは、やがて静かに目を伏せた。
「……無理だよ」
「なんで?」
「そもそも女扱いされてないし」
「そっかなー? あれは絶対意識し過ぎてるんだと思うけど。考えてみなさいな、年頃の野郎が気になると一つ屋根の下、だよ? そりゃあ、いちいち過剰に反応してたらキリが……」
「リーナ」
 小さく、だが鋭く、シキはリーナの言葉を遮った。そうしてゆっくりと顔を上げる。
「今日はありがと。また来週頼むね」
「……う、うん。お安いご用よ」
 じゃ、またね。そう言葉を交わしてシキは町外れの教会をあとにした。
  
  
 ――無理だよ、絶対に、無理。
 町の中心を東西に走る街道を辿りながら、シキは心の中でその言葉を何度も繰り返した。
 シキとレイは、幼馴染みだ。同じ年に隣同士の家に生まれ、兄弟同然にして育ってきた。二人はともに、十年前の戦争で二親を亡くし、ともに教会の世話になった。同じ先生に引き取られ、同じ学校に通い、同じ魔術師という道を選んだ。
 だが、それだけ、なのだ。
 レイの、シキに対する態度は、十八になった今も、子供の頃から一切変化がなかった。気に食わないことがあれば、容赦なく罵倒してくるし、魔術の修行は勿論、体術の稽古ですら、遠慮の欠片もなくシキを叩きのめしにかかってくる。雨で服が濡れたから、と半裸で家の中をうろつくなんてことも日常茶飯事だ。
 仲間内でふざけ合う様子も含めて、こういう子供っぽい言動はレイの性格の問題かと思いきや、どうやら彼は、家の外では、異性や年長者に対して年相応な行動をとっているようだった。「レイって、最近めっきり落ち着いて、素敵になったよね」と初等学校時代の友人に言われた時の、シキの驚きといったら、思わず「どこが!?」と声を上げてしまったほどだ。
 ――要するに、私は女と認識されていない、ってことよね……。
 そもそも自分は、女だてらに魔術を修めようという極めつけの変わり者。見た目も、性格も、全然女らしくない。スカートなんて一着も持っていないし、化粧の仕方だって知らない。誰が、こんな人間を相手にするだろうか。
 シキは大きく溜め息をついた。ならば、せめてこの生活が変わらなければ良いのに。このゆるい関係のままで、いつまでも過ごしていければ良いのに。
  
 夕闇に沈む牧草地の間を歩きながら、シキは、先刻聞いた、レイがダンと一緒に騒動を起こしたという話を思い返していた。
 最近、彼は時々夜に姿を消すようになった。
 確かに、普段から彼は羽目を外しがちではあった。最低限の言いつけと、最低限の鍛練のみをこなし、あとは暇さえあればどこかへ遊びに出てしまう。そして、あろうことか、先生が家を空けると、その最低限のことすら怪しくなってくるのだ。
 昨年から先生は州都に時々遠出するようになった。峰東州の東の果てから州都のある西部へは、片道だけで十日はかかる。先生が不在の約一ヶ月間、シキはレイと二人だけで留守を預かることになった。保護すべき孤児ではなく、一人前の弟子として認められたような気がして、シキはこの役目を果たせることがとても誇らしかった。
 だが、レイはそう思っていないようだった。
 先生を見送ったあと、彼はいつだって不機嫌になった。何か苛々した様子で家事当番をこなし、当番以外の日はどこかに出ていって帰ってこない。辛うじて、先生に出された課題だけはこなしているようだったが、それすらかなり出来の悪い代物らしく、帰宅した先生にこっ酷く叱られるのが常だった。
 このままでは、いつかそう遠くない未来に、彼はこの家を追い出されるのではないだろうか。シキは自分の抱く不安が、単なる杞憂に過ぎないことを祈らずにはおられなかった。
  
 そして、先月。先生はまた州都に旅立った。二人の弟子に留守を託して。
 先生の信頼を損ねてはならない。シキは日常どおり規律正しく、決められたことを忠実にこなしていく。だが、レイはといえば、相も変わらずふらふらとあちこちほっつき歩いては、徒に時間を浪費するばかり……。
 彼は平気なのだろうか。先生の不興を買うかもしれないということが。この生活――先生と、レイと、シキ、三人での厳しくも楽しい共同生活。それを失うことが。
 きっと、いや、間違いなく、自分は彼にとってそんなに重要な存在ではないのだろう。偶々傍にいるだけの存在。偶々同じ道を歩んできただけの存在。
 シキはその深緑の瞳に、諦めに似た憂いを漂わせて、もう一度溜め息をついた。
  
  
 シキが家に帰り着いた頃には、辺りはすっかり夜の帳に包まれてしまっていた。前方の空に微かに漂う残照を追いかけるようにして、幾つもの星がその姿を現し始める。ふと振り返れば、遥か彼方に小さく瞬く町の灯り。
 急に心細さを感じたシキは、小走りで母屋のほうへと道をくだった。宵闇に目を凝らしながら、砂利の敷かれた前庭を慎重に進む。玄関左手の窓に下ろされた鎧戸の隙間から、微かに明かりが漏れているのを見て、シキはほっと安堵の息をついた。レイが台所で、晩ご飯の用意をしているのだろう。肉を焼く香ばしい匂いがふうわりと辺りに漂っている。
 炊事、洗濯、掃除に始まり、馬の世話、畑作業などなど、するべき家事は山ほどある。魔術の修行はさぼっても、レイがそれらの仕事をないがしろにすることは一度もなかった。
 ――レイならきっと大丈夫。
 リーナの言葉を思い出し、シキは自らに言い聞かせるように大きく頷いた。そう、レイなら大丈夫。たとえ、怪しげな連中と付き合っているのが本当だったとしても、彼ならきっと大丈夫だ。
 重厚な樫の扉を、シキはゆっくりと押し開いた。木の軋む音が真っ暗な空間にこだまする。
 と、正面奥の闇に光の扉が生まれた。食堂から廊下へと溢れる暖かな光の中、影が一人、憮然とした声を吐き出した。
「随分のんびりしたお帰りじゃねーか」
「あ、ゴメン。もしかして、何か手伝うことあった?」
 壁の外套掛けに上着を引っかけてから、シキは影のほうへと駆け寄った。「やっぱり当番制って無理があるよ。前みたいに、二人で仕事を分担したほうが……」
 逆光の口元が微かに歪んだかと思えば、影はシキから顔を背けるようにして、廊下の暗がりへと身を滑らせた。シキの横をすり抜け、無言のままに玄関のほうへと向かっていく。
「レイ?」
「……何だよ」
 黒ずくめの服に、首元で束ねられた黒の長髪。食堂から漏れる光を背に受けてもなお、周囲の闇よりも昏い影は、振り返ることなく不機嫌そうに一言を返した。
「晩ご飯……」
「できてる。俺はもう食った」
 壁にかかった鉛色の長外套を乱暴にひっ掴むレイに、シキは慌てて問いを投げた。
「これから出かけるの? どこへ?」
「どこだって良いだろ」
 そう一言吐き捨てて、レイは玄関の取っ手に手をかける。
「良くないよ。先生に言われた課題、まだ全然終わってないじゃない」
「あー、はいはい。分かった解った」
 白々しいまでに一本調子で返答してから、レイは躊躇いも見せずに扉を開いた。夜気が、さあっと一気に廊下へと吹き込んでくる。
「って、全然解ってないよ! 先送りにしてたら、あとで苦労することに……」
「解ってないのはお前だろ! 一体誰のせいで苦労してると思ってんだよ!」
 突然話の矛先が自分に向いたことに、シキは思わず目を丸くした。
「何それ。課題ができないの、私のせいなわけ?」
 びくり、とレイの肩が震えた。シキに背を向けたまま、硬直したようにしばし動きを止める。
「あ、ああ、そうだよ、いちいち細かいことガミガミと、うざったいんだよ!」
「でも、真面目にしなきゃ、先生だっていい加減……」
「それがうるさい、ってんだよ!」
 怒声とともに、遂にレイがシキを振り返った。若草色の瞳が部屋の明かりを映して黄金色に輝く。何かを言いかけたところでレイは強く口を引き結び、……それから再び踵を返した。
「センセイ、センセイ、ね。そんなにセンセイが好きなら、俺のことなんか放っておけばいいだろ」
「レイ!」
「明日のメシ、いらねーから。当番の日には帰る」
 開け放たれた扉の向こう、影が闇にみるみる溶け込んでいくのを、シキは為すすべもなくただ見送り続けた。