The one who treads through the void

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DUSK IN BLACK 第三話 小さな秘密

  
  
  
    第三話   小さな秘密
  
  
  
    一  暗雲
  
  
 ――身体が、熱い。
 濡れた石畳は、一面が水溜りと化している。滑らないように注意を払いながら、シキは帰宅の途を辿っていた。
 この大雨のせいで、町一番の大通りにもかかわらず、往来に人影はほとんど見受けられなかった。家々の煙突から微かにのぼる煙と、すっかり曇った窓ガラスだけが、人の気配を感じさせている。
 外套のフードを目深にかぶっていても、激しい雨は容赦なくシキの顔や襟元を濡らした。まだ冷たい春の雨に、体の熱が奪われていくのが分かる。……なのに、何故だろう。胸の奥の辺りが、焼けつくように熱く感じられるのは。
 シキは喘ぐように息をつきながら、重い足取りで街道を西へと進み続けた。
 やがて周囲の建物はまばらになり、道の脇に農地や牧草地が広がりだした。敷石はいつしか泥に呑み込まれ、ますますシキの歩みを妨げる。大きく溜め息を吐き出してから、シキは雨にけぶる前方を見据えた。
 目指す我が家までもう少し。懐の薬の包みを外套の上から確認しようとしたところで、すっかり水を吸って重たくなった外套の布地が、胸の先端を擦った。
「……んっ!」
 思いもかけないほど強い刺激を感じて、シキは全身を震わせた。驚いて手を懐に差し入れれば、硬くしこった突起に指が触れた。その途端、甘い痺れが彼女の身体中を駆け巡る。
 雨に濡れているにもかかわらず、シキの喉はカラカラだった。唾を飲み込もうにも口の中が乾ききってしまっていて、引きつれるように喉が上下するばかり。
 ――おかしい。変だ……。
 ぬかるみに足をとられながら、シキはただ歩くことだけに集中しようと努力した。だが、深みから溢れる妙な熱は、彼女の身体をどんどん蝕んでいく。
 この感覚は何かに似ている。シキは、いやシキの身体は、この感覚が何かを知っている。そう、つい一昨日の夜までは知りえなかった、この……
 シキの鼓動がますます早まり、息がどんどん上がってきた。
 レイの手が、背後から自分を絡め取り、外套を剥ぎ取り、身体を撫でまわす。肌をまさぐる男の指は次第にその数を増し、生き物のように、シキの身体全体を這いまわる……。
 弾かれたように顔を上げると、シキは激しく頭を振った。
 一体何がどうしてしまっているのか、シキには見当もつかなかった。自分は依然として外套を羽織って、雨の中を歩いている。そう、見渡す限り、雨、雨、雨。そして外套姿の自分。……ここに在るのはただそれだけだ。
 それだけのはずなのに、シキは外套を脱がされ、服を剥かれ、絡みつく沢山の手に嬲られる。それらは触手のようにうねりながら、彼女の首筋に、胸に、そして、まだ誰も触れたことのない箇所へ……。
 シキは気合を込めるように大きく息を吐いた。そうして両の拳を握り締めた。手のひらに爪が喰い込む痛みが、辛うじて彼女を現実に引き戻す。永遠に続くとも思える長い家路を、シキは朦朧としながら辿り続けた。
  
  
  
 午前中に一眠りできたお蔭だろうか、心持ちさっぱりした気分でロイは目を覚ました。身体のだるさがましになったところを見れば、熱が下がり始めているのかもしれない。ふう、と安堵の溜め息を漏らしてから、彼は慎重に寝台に起き上がった。痛む喉に顔をしかめながら、薬を探して小机の上に視線を巡らせる。
 ――ああ、そうだ、薬が無くなったのだ。
 シキが買いに行ってくれているんだったな、とロイは窓を振り返った。小降りにはなっているようだが、外はまだ雨が降っている。それでも彼女は、こんな悪天候の中を自分のために出かけてくれたのだ。一晩中つきっきりでタオルを絞ってくれていたシキの、不安そうな瞳を思い出し、ロイはつい口元をほころばせた。いつも、保護者である自分が彼女らを心配する立場であったが、たまにはそれが逆転するのも悪くない。
「癒やし手に診てもらいませんか」と、シキは何度も訴えかけてきた。だが、ロイはそれに頑として首を縦に振らなかった。この程度の自分の不調など、わざわざ誰かに見立ててもらうほどのことではない。大体、自分について、他人に見当違いの知ったかぶりで語られることほど、腹の立つものはないだろう。
「薬が効いている以上は、往診は無しだ」
 そう言い張るロイに、シキはほとほと困り果てた色を顔に滲ませていた。
 それでも、彼女は無くなってしまった薬を買いに雨の中へ出てくれたのだ。手の焼ける師匠だ、と少しばかり眉をひそめながらも、あの澄んだ瞳を真っ直ぐ前に向けて。
 ロイはそっと瞼を閉じた。
  
 十年前、戦勝に沸く宮廷を辞し、ロイは旅に出た。
 最果ての街サランが陥落したという一報が宮城にもたらされたのは、ロイが遠征から帰京した次の日の朝議の席のことだった。本来は宮廷魔術師の長として城を守るべき立場にあったロイだったが、東部三領のうち一番北に位置する国に、既に帝国領となっていた北方の王国の残党が入り込み、挟撃や奇襲で帝国軍を多分に苦しめたため、請われて特別に戦列に加わっていたのだ。無事に勤めを果たしたロイを讃える声は、ほどなく勝ち戦を喜ぶ大歓声に呑み込まれた。
 だが、その時ロイの胸中に去来したのは、名状しがたき不安感だった。
 最初は、罪悪感かと思った。この一ヶ月、ロイは戦争の名の下に、躊躇うことなくその力を振るってきた。いざ平和が訪れると知った今になって改めて、自分は罪の意識を感じているのだろうか、と。
 しかしおのれを冷静に分析する限り、どうやらそれは間違いのような気がした。その不安感は、過ぎ去りし出来事に対してではなく、来たるべき「何か」に根ざしているように思えたのだ。
 おのれの四肢に見えない糸が絡みついているような気がして、ロイは背筋をぞくりと震わせた。自分は本当にここにいても良いのだろうか、何故か唐突にこんな疑問が生じた。
 ロイは意識を目前へ戻した。目の前の大テーブルでは、将官達が、新たに増えた領土の再編成と行政組織の割り振りについて口角泡を飛ばしている。切り開かれた森には、地ならしが必要なのだ。そうして今度は、維持してゆかねばならない。それは酷く単調でつまらないことのように思えた。
 ここは自分のいるべき場所ではない。衝動にも近い思いが、ロイの胸の中に突如として湧き起こった。
 それは、身体の奥底で渦巻く不安感が生んだ錯覚だったのかもしれない。だが、振り払おうとしても振り払おうとしても、べっとりとへばりつくその思いは、みるみるうちにロイの心を支配していった。
 そう、自分が為すべき事は、もうここには無いのだから、と。
 
 ロイは城を出ることを決意した。
 戦の始末やこれからの国土再編に大わらわの宮城には、ロイを引き止める余裕は微塵もなかった。彼は自分の代理を立てるや否や、手際良く業務を引き継がせ、最低限の荷物をまとめると港行きの馬車に乗った。漂泊の足を東へ向けたのは、贖罪の意味が少し含まれていたのかもしれない。とにかく、えも言われぬ焦燥感のままに、こうやってロイは住み慣れた街をあとにしたのだ。
  
 そうして旅の途中で、彼はある噂を耳にすることになる。それが、全てのはじまりだった。
 酒場で相席となった老いた魔術師は、まるで自分のことのように誇らしげに胸を張ると、二つ隣の町に住むというある子供のことを語ってくれた。第五位の魔術師の忘れ形見だというその子は、まだ七つだというのに、第二位までの簡単な術を使うことができるとのことだった。
「まだ若いのに、夫婦揃って戦で亡くなってな、可哀想にその子は今は教会で世話になっとるんだそうじゃ。術を教える者もおらなければ、宝の持ち腐れってやつかねぇ」
 あの当時、戦争孤児など珍しくもなんともなかったが、魔術を使えるということとその年齢とがロイの気を引いた。まさか第二のロイ・タヴァーネスとはいかないだろう、と思いつつも……なんとなく親近感を覚えたのも確かだった。半ば気まぐれからイの町の教会を訪れたロイは、そこで劇的な邂逅を果たすことになったのだ。
 暴走する馬を止めるべく咄嗟に放った「盾」の呪文の向こう、もう一人の子供の陰から手を伸ばしたその子は、静かにロイを見上げてきた。白磁のような頬に、深く澄んだ常盤の瞳。まるで人形のようだ、とロイが思ったその時、小さな手が彼の外套の裾を掴んだ。
「シキ!」
 傍らの子供が何か切羽詰まったような声を上げる。その声に振り返ることなく、その子はゆっくりと立ち上がった。ロイの外套を握り締めたまま、じっと彼のことを見つめながら。真っ直ぐな眼差しに胸を射抜かれて、ロイは身動き一つ取ることができなかった。
  
 あれから十年。あの時の幼子は、術師としては既にこの近在では五本の指に入るほどまでにも熟達していた。そればかりか、癒やし手である友人の指導を受けて癒やしの術さえ習得し始めている。この素晴らしい逸材を自分が育て上げたという事実に、ロイは酔いしれていた。そう、彼女はいつだってあのひたむきな眼差しで、この自分の望みに応えてくれる……。
 ふう、とロイは大きく息をついた。それから小机の上の濡れ手拭いで顔を拭いた。冷たい空気がすうっと額を撫でるが、頭に纏わりつく重苦しい靄は依然として拭いきれないままだった。
 彼女の、真っ直ぐ自分を見つめる信頼しきった瞳。それが最近のロイには、重荷だった。密かにいだく彼女に対する欲望が、罪悪感となって彼を苦しめるのだ。
 彼女は強い。だが、それでいてとても脆い面も持ち合わせているように思えた。下手を打てば全てが粉々に壊れ去ってしまうことだろう。行き場のない感情を押し殺しながら、ロイは出口のない迷路をもうずっと彷徨い続けていた。
 幸いにもシキ自身の行いによって、これまで彼女に近づこうとした余計な虫は、ことごとく打ち落とされ振り払われてきた。しかし、それもそろそろ限界だろう。彼女がそれを望まなくとも時が満つれば、「社会」という形無き怪物が彼女に伴侶をあてがうことになる。そこまで考えたところで、ふと脳裏にレイの顔が浮かび上がり、ロイは奥歯を噛み締めた。今はシキの才能に嫉妬し反発している彼も、修行を離れれば一人の男に過ぎない。何かの拍子に彼女を女として認識するようにでもなれば、一体どんなことになるか。なにしろ、彼はこの自分よりも長い時間をシキと過ごしてきたのだから。
 ――だが、もうすぐ、だ。
 いささか卑怯な手だとは思うが、これ以上この閉塞した状況で足掻き続けるわけにはいかない。そうロイは独りごちた。あれを見つけられたということもだが、あれの存在をこの自分が知ったということが何よりも天啓に思えた。とにかく、今は身体を休めるのみだ。レイの奴が帰ってくる頃には、体調も治っていることだろう。そうすれば……。
 はやる気持ちを抑えるべく、ロイは大きく伸びをした。寝汗ですっかり濡れてしまっている服を着替えようと衣装棚に向かいかけた時、部屋の扉に何か重いものがぶつかる音がした。
「誰だ!」
 ロイの誰何の声と同時に、ドアノブが弱弱しく回転した。そしてゆっくりと開く扉に取り縋るようにして、シキが部屋の中へと倒れ込んできた。
「シキ!」
 ロイは傍らの眼鏡を掴むと、ふらつく身体に鞭打ってシキのもとへと駆け寄った。慎重に助け起こせば、彼女の瞳が薄っすらと開く。
「……せんせい……これ、くすり……」
「あ、ああ。ありがとう。それよりも大丈夫かね」
 震える指から受け取った薬の包みを傍らに置き、ロイはシキをしっかりと抱え込んだ。雨に冷えきった髪とは対照的に、彼女の身体は湯気が立つほどに上気していた。
「からだが……あつい、んです……」
 荒い息の合間に、甘い声が漏れる。濡れた瞳に絡め取られ、ロイはしばし息をするのも忘れて彼女を見つめ続けた。たっぷり一呼吸ののち我に返ると、慌てて手をシキの額に当てる。
「熱があるわけではないようだが……一体何があった」
「分かり、ません……」
 シキはゆるりと顔を横に振ると、それから瞼を閉じた。
 大きく上下する胸元。荒い呼吸を繰り返す半開きの唇。桜色に染まったうなじに、艶めかしく貼りつく黒髪。時折びくんと小さく身体を震わす悩ましい様子に、ロイの口の中に生唾が溢れてきた。
 それは、匂い立つような「女」の気配であった。そう、今彼の腕の中にいるのは「弟子」でも「被保護者」でもない。火照った身体を持て余し、媚態に身をよじらせる一人の女の姿だった。
「……シキ……?」
 そっとシキの耳元に唇を寄せてみるものの、力尽きたのか彼女はぐったりと目を閉じたままだ。しかし、そんな状態でも彼女の身体はほんの僅かな刺激にも小刻みに震え、時に男を誘うように波打っている……。
 表情こそ冷静だったが、ロイの身体の中では血潮がたぎり始めていた。しどけないシキの姿態に、今まで絶えず彼を縛っていた呪縛が、ゆっくり解きほぐされていく……。
 ロイは少し屈むと、そっとシキに口づけをした。劣情のままに彼女の身体を抱きしめた。夢中で彼女を床に押し倒そうとしたところで、……ロイは気がついた。
 ――媚薬か。
 カレンだな、とロイは苦笑した。この独特の癖のある甘い香りに、彼は覚えがあった。というのも、何年か前にロイもカレンに一服盛られたことがあったのだ。幸いすぐ異変に気がつけたため、「解毒」の呪文で事無きを得たのだが。
 ルカカラの根から採れる一種の興奮剤を元に作られた、欲情の薬。その効力は、他に類を見ぬほどに大きい。そう、男を知らない乙女を、淫乱な牝に変えてしまうほどに。経験の乏しいシキには、身体の疼きをどう処理してよいのか解らなかったに違いない。狂おしいほどの肉欲に呑み込まれながらも、彼女はどうすることもできずにただその身をくねらせ、悶え苦しんでいた……いや、苦しんでいるのだ、今も。
 腕の中、力無くもたれかかってくるシキをロイは黙って見つめた。
 これは、願ってもない状況ではないだろうか。そう考えてロイはまた生唾を飲み込んだ。今、彼女は明らかにこの自分を欲している。普段あまり頼み事をしない可愛い弟子が、抱いてくれ、貫いてくれ、と、こんなにも切々と求めているのだ。聞いてやらないわけにはいかないだろう。
「お使い」が無駄になってしまうな。そう低く笑ってから、ロイは今度は先ほどよりも力強く彼女を抱きしめた。彼女の顎をすくい上げ、もう一度唇を重ねようとした、その時――
  
 ――その時、突如として雷を思わせる轟音が家中を響かせた。
 欲情に浮かされるロイを嘲笑うかのように、その音は玄関のほうから強く激しく聞こえてくる。どうやら、誰かが力任せに玄関の扉を何度も打ち鳴らしているようだった。
「……あれ……? 私……」
 あまりの騒音に、とうとうシキが意識を取り戻した。ロイは小さく舌打ちしてシキから身を引く。と、野太い声が合奏に加わり、騒がしさはいや増した。
「先生! タヴァーネス先生!」
 扉を叩きながら叫ぶのは、鍛冶屋のエイモスだった。あの巨躯にあの調子で叩かれては、扉はほどなく壊されてしまうだろう。ロイはふらつくシキをあとに残し、玄関ホールへと向かった。平静を取り戻すべく大きく二度深呼吸をし、それから閂を外す。
 扉が開くなりエイモスがびしょ濡れで転がり込んできて、そして息も絶え絶えに絶叫した。
「先生! 大変だ! 町外れで崖が崩れたんだ!」
「落ち着いて。どこで、どんな規模で?」
「サランへの街道だ! 森のこっち側、あの崖がごっそりいってしまったんだ! 何人か埋もれてしまっているようなんだ!」
 エイモスの叫びに、短い悲鳴が重なる。驚いて背後を振り返ったロイは、蒼白な顔で廊下に立ちすくむシキを見た。
 と、不安と恐怖に翳る彼女の瞳が、一転して強い光を宿す。
 次の瞬間、彼女はロイの傍らを駆け抜けて、壁にかかっていた自分の外套をひっ掴んだ。
「待ちなさい、シキ! 私も行こう」
「だめです! 先生は家にいてください! エイモスさん、先生は病気なんです。絶対に家から出さないでくださいね!」
 外套に袖を通すのももどかしそうに、シキが厩へと走っていく。その後ろ姿を、ロイはただ無言で見送っていた。