二 師弟
琥珀色の液体が、ランプの灯りを反射しながら杯の中で揺れる。幻想的に絡み合う光の曲線を見つめ、ロイは一つ溜め息をついた。
彼が都を離れて、今年で十年の歳月が経った。
七歳で孤児になり、十歳の時に魔術学校の門をくぐることを許され、寄宿舎生活を八年の間続けた。そして、宮廷魔術師の末席から頂点まで駆け上がった九年間。イの町で二人の弟子と過ごす時間が、自分の人生で一番長い期間を占めてきているということに、ロイは少し驚いていた。
こんなに感傷的になるのは、今朝の朝食での会話が原因なのだろう。再度ロイの口から深い息が漏れる。思いがけずに掘り起こされた記憶はどこか現実味が薄く、なのにどこか生々しく、まるで季節外れの東風のようにロイの胸の奥をざわめかせていた。
軽いノックの音に続いて静かに扉が開き、珈琲の香りが居間に侵入してきた。
「先生、こちらにいらしたんですか」
シキが、小脇に本を抱え片手に湯気の立つカップを持って部屋に入ってきた。夕食の片付けが終わって、一息つきに来たというところであろう。
「もうお休みになっておられるのだと思ってました。……おや、お酒ですか、珍しい」
ロイはあまりアルコールに強くない。頂き物の酒類は、専ら戸棚の飾りとなっている有様だ。
「たまには、ね」
「無理しないでくださいよ」
そう言いながら、シキは空いている肘掛椅子に腰をかけた。傍らの小机にカップを乗せ、本を読み始める。
ロイは、長椅子の肘掛に頬杖をつきながら、揺らめく炎に照らされる愛弟子の横顔を静かに眺めた。
つい十日前のあのひととき、彼女は自分の腕の中にいた。薬のせいとはいえ、情欲に濡れた瞳で自分を見つめ、口づけを交わし、甘い吐息を漏らしさえもした。
もしもあのまま邪魔が入らなければ。あえなく幻となったもう一つの結末を、ロイは幾度となく夢想した。華奢な身体をそっと寝台に横たえ、一枚一枚衣を剥いでいくさまを。あらわになった首筋に刻むは、吸い口の痕。首から襟、そして胸へと、白い肌に花びらを散らしていけば、彼女は一体どんな歌を歌うだろうか……。
かつて、ころころと犬の仔のように纏わりついてきた少女は、十年の歳月を経てすっかり成熟した大人の女となった。丸みを帯びた柔らかな腰、動きに合わせて控えめに揺れる胸のふくらみ、絶妙な曲線を描く脚、それら蠱惑的な肉体が男の劣情をどんなにかき立てるのか、シキは全く分かっていないようだった。なにしろ、二人もの異性の同居人に対して、彼女の態度は子供の頃からと何ら変わることがなかったからだ。
幸い、彼女が進んだ道は「女」の存在しない世界だった。魔術師として生きるために、彼女は自らの性を隠そうとした。体形の現れにくい男物の服に身を包み、簡潔に喋り、機敏に動き、鋭い眼差しで彼女は世界と対峙した。「女魔術師」という存在に当初はあらぬ期待をしていたであろうギルドの連中も、現実を知った者から意気もろもろが萎えていった様子で、やがてそのうち誰も彼女のことを気にとめぬようになった。
――愚かな奴らめ。
ロイは心中ほくそ笑んだ。仮にも術師ならば、外見に囚われずに真理を見抜くことができてしかるべきはずなのに、と。無能な奴らには想像もできないのだろう、シキがどんなに優しく微笑むのか。どんなに楽しそうに笑うのか。うっかり失敗をした時の、あの困ったような表情も、唇を噛み自省するあの眼差しも。
体術の稽古中、組み合った時の彼女の荒い息遣いは、それだけで身体中の血液が沸騰してしまうようだった。彼女が苦しそうな表情で突きを払うさまを思い出し、またもロイの思考はあのひとときへと引き戻された。腕の中で震えるシキの、悩ましげな媚態へと。
――もしもあのまま邪魔が入らなければ……
「先生?」
シキの落ち着いた声に妄想を破られて、ロイは大きく息を呑んだ。
「何か、私の顔についてます……?」
ロイは慌てて背筋を伸ばすと、取り繕うように口を開いた。
「いや、ああ、この間はすまなかったね」
「この間?」
「わざわざ雨の中、薬を買いに行ってくれただろう」
「ああ。そんな、大したことないですよ」
にっこりとそう言ったのち、シキはそっと柳眉を寄せた。「でも、結局、治療院のお世話になってしまったじゃないですか。薬もいいですけど、やっぱり……」
「ああそうだね、今度は考慮しよう」
シキの言葉を思いっきりばっさりと打ち切って、それからロイは心持ち膝を前に出した。
「そんなことより、薬を買った時、薬草屋は何か言っていたかね?」
「カレンさんが、ですか? ええと、特に何も仰ってなかったような……」
「彼女の様子は、どうだった?」
「どうって……、いつもどおりというか……」考え考え言葉を吐き出しながら、再度シキが首をかしげる。「それに、私、カレンさんとあまり喋ったことがないし……」
そうか、とロイは長椅子に背もたれた。
カレンがシキに媚薬を盛ったのは間違いないだろう、そうロイは心の中で頷いた。事故か、悪戯か、……事故でなかったとすれば、その対象はシキなのか、この自分なのか。
そこまで考えて、ロイはふとある可能性に気がついた。
「レイが遠出していることは言ったのかい?」
「えっと……、言ったんじゃないかなあ。ちょっと良く覚えていないんですけど」
なるほどな。小さく呟くロイの脳裏に、あの妖艶な美女の姿が浮かび上がる。あれはいつのことだったか、「解毒」の術で身体から淫薬を抜いたロイを、彼女は至極残念そうにねめまわしていた……。
私はただ楽しい時間を過ごしたいだけなの、他は何も要らないわ。そう笑う女に、ロイはかつての自分を見た。師のもと、ただひたすら知識を求めて、夢中になって魔術を研究した懐かしい日々、あの時確かに自分は、もう他に何も必要ない、と思った。学問を続けることさえできるのなら、他には何も要らない、と。
だが……、と、ロイはおのれを顧みて苦笑を浮かべた。欲しいものはただ一つ、などと臆面もなく口にするような者ほど、得てしてそれだけでは足りぬのだ。他には何も必要ない、と殊勝な表情で唱えながら、その一方で貪欲に全てを喰らい尽くそうとするに決まっている。
そうして自分は宮廷魔術師長となった。そればかりか、魔術師として最高の権力を手中に収めておきながら、まだ手に入れていない何かを求めて帝都を離れた。
同様にカレンもまた、新たな何かを欲したのだろう。
ロイはこれまでに何度か、薬草屋を訪れるレイの姿を目にしていた。遂に奴も一人前の男としてあの女に認められたのか、と感慨深く思いこそすれ、ロイはその逢瀬自体を驚きはしなかった。気が向いた時に、気が向いた男を嗜む、それが彼女の日常だったからだ。
それが、今回のあの薬だ。きっと、カレンは、レイと一つ屋根の下に住むシキが目障りになったのに違いない。シキをさっさともう一人の同居人とまとめてしまって、レイの周りから女の気配を絶とうとしたのだろう。あの女が、既に一度ならず関係を持った男相手に、そのような回りくどい方法を取ろうとするということは……、きっと彼女は欲しくなったのだ。これまで彼女が手にしたことのない何か……を。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもないんだ」
怪訝そうに問いかけてくるシキを適当にかわして、ロイは杯を傾けた。そして慎重に胸の中で計算をする。ルドスの古物商との取引が無に帰した今、あの媚薬はロイにとって非常に有用な代物だった。あれを手に入れることができれば、夢想は現実のものとなる。出口の見えない隧道から、ロイは抜け出すことができるのだ。
空になった杯をロイが置いたその時、居間の扉が勢い良く開いた。
「……びっくりしたー」
大きく息を吐いて、シキが恨めしそうな声を上げる。彼女の視線の先には、廊下の暗闇を全身に纏ったレイが、荒い息で立っていた。
「レイ、扉は静かに開けなさい」
「あ……、はい」
何やら溜め息を吐いたレイは、少しだけ決まり悪そうな表情をこぼした。
「そんなに息を切らせて、何の用だね」
「あ、いや、……その、俺、ちょっと先生に訊きたいことがあって」
「私も、お前に少し訊きたいことがあったのだ。座りなさい」
扉を開けた時の勢いはどこへやら、レイは大人しくロイの向かいの長椅子に腰を下ろした。
「レイ、この十日ほど、家事をシキに任せっぱなしにしているようだが」
レイはほんの刹那身をすくませたのち、膝の上で組んだ両手を見つめた。
「鍛冶屋のおっさんが腰を痛めたってんで、手伝いに行ってるんだよ」
その答えに、ロイは意外そうに小さく片眉を上げた。
「そうだったのか。エイモスさんが。そんなに悪いのかね?」
「あ、まあ、もうそろそろ、良くなってきたみたいなんだけど……」
訥々と言葉を返していたレイは、そこで勢い良く顔を上げた。
「それよりも先生、先生は何故俺達を引き取ってくれたんだ?」
予想もしなかった突然の質問に、ロイは数度まばたきを繰り返した。
「どうしたんだね、突然」
「いや、前から一度訊いてみたいと思っていたんだけど、今朝の先生の話を聞いてさ、改めて気になってさ……」
レイの言葉を聞いたシキも、同じように身を乗り出してきた。
「私もです。せっかく皇帝陛下のお傍でご活躍しておられたのに、一体どうしてイに留まることを決めたのですか?」
二人は揃って口元を引き結び、真剣な表情で答えを待っている。ロイはしばし無言で、弟子達を交互に見つめていたが、やがて悪戯っぽく口の端 を上げた。
「シキが私のことを『おとうさん』って呼んだからだ、と言ったらどうする?」
ゆっくりと立ち上がったその子供は、名前を問うロイの声に答えることなく、ただじっと彼を見上げ続けた。ロイの外套の端を握り締めたまま。
自分を見つめる深緑の瞳に魅入られ、身動きもとれずにただ立ち尽くすロイの目が、はっと驚きに見開かれた。
――黒髪、なのか。
視線を巡らせば、傍らに立つもう一人の子供も同じように漆黒の髪をしていた。外套を掴む子供よりも若干短いが、色も質感も全く同じ、夜の闇を飛ぶ鴉の羽のような果てなき黒。このような色味の髪がこの世に存在するとは、と絶句したところで、ロイの外套が軽く引かれた。
「……おとうさん……?」
それはとても弱々しい声だった。喉に貼りついてしまった言葉を、無理矢理吐き出そうとしたかのように、酷くかすれて聞こえた。
言葉の意味を問い質そうと、ロイが口を開きかけたその時、小さな影が目の前で動いた。
「あんた、誰だ」
髪の短いほうの子供が、もう一人を守るように、両手を広げてロイとの間に割って入ってきた。
「シキ、しっかりしろ。こいつはお前の父さんなんかじゃない」
一人前にも、ちらちらと背後を気遣いつつも、その子供はロイを睨みつけた。
「あんた、何者だ。何しに来た」
大人の自分をもたじろがせるほどの眼光に、ロイは心の中で舌を巻いた。だが、そんなことはおくびにも出さず、悠然と少年の眼前に迫る。少し大人げないかな、と僅かな罪悪感を抱きつつ、ロイは負けじと目元に力を込めて少年を睨み返した。
「私が? お父さん、って呼んだんですか? 先生を?」
びっくり眼で声を上げるシキの傍らで、レイが声を押し殺して笑っていた。
「そうそう。それで先生、あの時、大真面目な顔で名乗ってから、『残念ながら、まだ誰の父親にもなったことはない、はずだ』って……」
「そんなこと、言ったかな」
額を指で押さえて記憶を探るロイに、レイはなおも言い募る。
「言った言った。『はず』ってなんだよ、はっきりしろよ、って思った記憶あるし」
「命の恩人に、随分な態度だな」
「それも言ってた」
にやにやと追い討ちをかけるレイに、鋭い一瞥で反撃しておいて、それからロイはわざとらしく咳払いを一つした。
「まあ、印象深い出会いだったのは間違いないということだな。あの時も言ったと思うが、私は、七つの子供が魔術を使えるという噂を聞いて、イにやって来たのだ。まさか女の子とは思わなかったけどね」
いよいよ話が本題に入ると分かって、二人の弟子は揃って居住まいを正した。その様子に至極満足そうに頷いてから、ロイは静かに言葉を継いだ。
「私がどんなに驚いたか、解るか? 女には魔術は使えない、それは真理ではなかったのだから。真理ではないものを真理として思い込まされていたという事実に、私は愕然としたよ」
そうロイは悔しさを声に滲ませた。
「いわれてみれば確かに、どの書物にも、古代ルドス魔術の使役に性別が限定されるなんてことは記されていない。それでも、現実問題として、女性の術師は私の知る限り存在しない。君を除けば」
じっとシキを見つめながら、ロイは膝の上で両手を組んだ。
「あの時、君が『灯明』を見せてくれた時、私は思ったんだ。ここに糸口があるのかもしれない、と。まだ手に入れていない真理への鍵が、ここにあるのではないか、そう思ったんだ。
それに、君の術は子供とは思えないぐらいに見事だった。この才能がどこまで伸びるのか、見極めたいとも思った」
熱の籠もったロイの視線を受けて、シキが少しだけ眉を寄せつつはにかんだ。それを見ながら、レイが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「どうせ、俺はオマケだよ……」
拗ねた声に、ロイは心外だと言わんばかりに大きく息を吐くと、鋭い視線を真っ直ぐにレイへと向けた。
「オマケなものか。私はお情けや同情で子供を引き取ったりなぞしない。忘れたのか?」
「私のところへ来ないか?」
治療院の一室で、ロイはそう言ってシキに微笑みかけた。「魔術を教えてあげよう。君ならばきっと素晴らしい魔術師になる」
差し出された手を、戸惑う瞳がじっと見つめた。小さな手が胸元でぎゅっと握り締められ、そのまま硬直したように動きを止める。
「だめだ!」
部屋の隅に立っていた少年が、必死の形相で叫び声を上げた。「シキは家族をなくしたんだぞ。それなのにまだ更にシキを一人ぼっちにしようっていうのかよ!」
またお前か、と肩を落としながら、ロイはレイに冷ややかな眼差しを投げつけた。
「お前には関係ない。それに、私は彼女を帝都へ連れて行くつもりはない。あくまでも主体は彼女なのだからな。住み慣れた町を離れたくないと言うのなら、それはそれで構わない」
それに私はあの街を出てきたのだからな、と胸の中で呟いて、それからロイは司祭のほうに向き直った。
「どこかこの近くに、空いている家などありませんか?」
「ああ、それなら、ええと、確か、町の西の外れに……」
何事も無かったかのように司祭と相談を始めるロイに、酷く切羽詰まった声が縋りついてきた。
「おれも……、おれにも魔術をおしえてくれ!」
それが人にものを頼む態度か、という心の声がどうやら届いたようだった。レイは慌てて姿勢を正すと、神妙な顔でもう一度繰り返す。
「おれにも魔術をおしえてください!」
「私は無駄なことはしない」
「むだかどうかなんて、やってみないと分かんないだろ!」
ここに及んで、思わずロイは目を細めた。ぎゃんぎゃん吠えるばかりのこの仔犬が、得意そうに尻尾を振るところが、ふと目に浮かんだのだ。それとも、尻尾を巻いて悲しそうに鼻を鳴らすか、悔し紛れに遠吠えするか、……どちらにせよ、想像するだに面白い。
さて、どうするか、と顎をさするロイを尻目に、レイが勢い良くシキを振り向いた。
「シキ、お前、さっきの術、できるようになるまで何日かかった?」
「え……、その……、おぼえてない……」
か細い声で呟いて、そうしてシキは俯いてしまった。
身勝手にも不満そうに唸るレイを、ロイの冷たい声が打つ。
「二週間」
まるで講義でもするかのように、ロイは淡々と言葉を継いだ。「一般的な教本では、『灯明』に二週間を割いている。ただしこれは、古代ルドス語の読み書きができることが前提であり、加えて、数学と……」
「一週間だ」
ロイの話を途中で遮って、レイが真っ向から睨んでくる。あまりのことに、ロイは茫然と口を開いた。
「……お前に呪文書が読めるのか?」
「読めるわけないだろ。シキにおしえてもらう。だから、半分の一週間でいい」
「いや、あれは凄かったな。これが、火事場の底力というものか、と本当に感心したよ」
半分からかうような口調のロイに合わせて、シキはしみじみと相槌を打った。
「口頭で習うほうが、教本を使うよりもずっとややこしいですよね?」
「そんなこと、あの時の俺に分かるわけないだろ!」
過去の自分の無謀さが相当気恥ずかしいのだろう、すっかり不貞腐れた様子で、レイが長椅子の背に背もたれた。「大変だったんだぞ、本当に」
「ああ。……よく頑張ったな」
そう頷く師の瞳は、いつになく優しかった。
「レイ、君は若い頃の私に良く似ている。勘も良い。今でも私の見立ては間違っていなかったと思っている」
「ええええ!? レイが先生に似ているんですか? ……どこが?」
レイ自身も、師匠の言葉に驚いているようだった。口を半開きにしたまま、まばたきも忘れて目を丸く見開いている。
驚愕する二人の弟子に苦笑しながら、ロイが続けた。
「似ているとも。私もこの十年で随分丸くなったからね。そうだな、レイがもっと強くより高みを望むのならば……私を超えることも可能かもしれないな。なにしろ、あの底 力 だからな」
冗談めかしてそうつけ加えたのち、ロイの眼差しがふっと遠くなる。
「……私も、君達と同じぐらいの歳に孤児になったからね。ある篤志家のお陰で魔術を習う機会を手に入れて、それで生き永らえることができた。……そうだな、同情はないとは言ったが、同一視はしていたかもしれないな。かつての自分と、君達とを」
背もたれから身を起こし神妙な表情で耳を傾ける二人に、ロイは訥々と語り続ける。
「私は、物心がつく前に父親を亡くしているのでね。こうあってほしかった、という父親像を自分で体現しているのかもしれないな……。ふむ、今まであまり深く考えていなかったが……、人の心とは難しいものだな。自分のことですら良く解らないときた」
ロイが口を噤めば、沈黙がしばしその場を支配した。
二人の弟子は語るべき言葉を見つけられず、ただ黙って師匠の顔を見つめている。ほどなくして、レイが大きく息を吸った。
「……先生が俺をそんなふうに見てくれていたなんて、思ってもいなかった。正直、この髪の色がなければ、俺はシキのオマケにもなれないんだと考えていた」
「そんなことはない」
ロイが即答した。
「確かに君達の髪の色に驚きはしたが、そのような理由で弟子を取ろうなど思ったりはしない。ただ……」
語尾に躊躇いがちにつけ足された一言を、シキは静かに復唱した。
「ただ?」
「黒髪という存在について、何ら含意がなかったかと言えば、断言することができないというのが正直なところだ」
やけに歯切れの悪い師の言葉に、二人の声が重なる。
「それは、どういうことですか?」
「今朝、君達に昔語りをしている時に、思い出したのだ。兄帝陛下が、『黒髪の巫子』と仰られたことを」
「黒髪の、巫子?」
二人の問いかけに、ロイは静かに語り始めた。ギルドが暗黒魔術を封印した報告を聞いた兄帝が、浮かない表情を浮かべたことを。ロイが退出したのち、兄帝が漏らした独り言を。
「君達と出会い、ともに暮らすことを決めた時、あの言葉が頭のどこかに引っかかっていた可能性は否定できないというわけだ。まぁ、だからといって、黒髪ならば誰でも良かったなんてことは絶対にないだろうがね」
「でも、黒髪の巫子、って一体誰、というか何、ですか?」
「解らぬ。巫子、と言うからには、何か信仰に関わる役割を担うのだろうが……、だが、私が知る限り、アシアスの教義にそのような言葉は出てこない」
自信たっぷりにそう言いきったロイに、シキは更に身を乗り出した。
「すると、私達のこの髪は、アシアス以外の神に関わるというのでしょうか?」
「だから、解らないのだ。大体、君達は異教徒ではないし、そんな神々に関わったようなこともないだろう?」
「確かに、異教の神さんなんか知らないな」
口を開こうとしたシキを遮って、レイが言い放った。有無を言わさぬ強い響きに、シキは思わず彼を振り返る。
「リーナの奴の言うとおり、ナントカの導師っていうのが、その巫子なんじゃねーの?」
「そうだな、陛下の話もあるし、まるきり無関係とは言えないかもな」
師とともに平然と議論を続けるレイを、シキは無言で見やった。
この黒髪が異教に関わるものかもしれない、そう言ったのは彼だった。崖崩れのあとの治療院で、彼がそう語ってくれたのだ。
言い知れぬ不安が、胸の奥でのたりと波打っている。シキはそっと眉をひそめ、レイの横顔を見つめ続けた。