The one who treads through the void

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DUSK IN BLACK 第六話 虚空を掴む指

  
  
  
    第六話   虚空を掴む指
  
  
  
 宵闇に沈む奥まった路地に、微かに目抜き通りの喧騒が響いてくる。鎧戸から漏れる光が夜空の星のようにちらちらと瞬くその一角に、完全に闇と同化している建物があった。
 かつて酒場だったその三階建ては、もう随分前から空き家のはずだった。だが、板を打ちつけられた扉の向こうから、微かな人の気配が漏れてくる。
 と、石畳に響く虫の声が、ぴたりと止んだ。
 張りつめる空気。
 次の瞬間、幾つもの黒い影が音もなく姿を現した。影達は、間髪を入れずに、封鎖された元酒場の扉をぶち破る。そうして、靴音も高く一気に室内へとなだれ込んだ。
 既に本来の目的で使用されなくなって久しいのだろう、部屋の隅には幾つもの椅子やテーブルが乱雑に積み上げられていた。埃だらけで床に散乱する酒瓶やグラス、分厚いカーテンで覆われた壁、部屋の中央にはランプが乗ったテーブルが一つ。カーテンは、光が外に漏れないようにするためのものだろう。
 そのテーブルを囲んでいた五人の屈強な男達が、突然の侵入者達に驚いて腰を浮かせていた。
  
 剣を構え男達を包囲するえんじ色の壁。それを割って、切れ長の目をした青年が、ジャケットの裾をひるがえしながら前に進み出た。
「警備隊だ。室内をあらためさせてもらおう」
 その言葉がきっかけとなった。
 男達は口々に叫びながら人垣を突破しようとする。テーブルが倒され、椅子が飛び交う。ほどなく室内は乱戦状態に突入した。
  
 乱闘の隙間をぬって、一人の男が階段へと逃れた。すかさず追い縋る隊員に、男は持っていた椅子を投げつけて、階上へと姿を消す。
「隊長! 一人、上へ!」
「慌てるな。逃げ場はないはずだ。追え」
 先ほどの青年が命令する声に、二人の隊員が従った。あっという間に、靴音と怒号が階段を駆け上がっていく。
 ほどなく、重苦しい破壊音が階段の上から響いてきた。次いで、呼び子の符丁。
 多くの廃屋と同様、不当な侵入者を防ぐべく、この建物も開口部を全てしっかりと板で塞がれていたはずだった。追い詰められた鼠が、あらぬ底力を発揮したということか。隊長と呼ばれた青年は、残る四人の賊が取り押さえられつつあるのを確認するや否や、褐色の髪をなびかせて外へ飛び出した。
 石畳に降り注ぐ、木材の破片。見上げれば、カンテラの光に微かに浮かび上がる三階の窓に、蠢く影。
 即座に隊長が、小声で一言二言、傍らの隊員に指示を出す。了解、と小気味良い返事とともに六人が闇の中へと駆け出していく。
 と、影が夜空に見事な弧を描き、道を挟んだ向かいの家の屋根に賊が飛び移った。
 あとを追わんと三階の窓から身を乗り出した隊員らが、何か大きなものを屋根から投げつけられ、慌てた様子で部屋の中へと身を引くのが見えた。そのあとも、何か硬い物がぶつかる鈍い音が、ひっきりなしに聞こえてくる。
 牽制しているつもりなのか、どうやら逃亡者は隣の家の屋根材を片っ端から追っ手に投げつけているようだった。彼らの立つ路地にも、壁に跳ね返った木の板やら重石やらが幾つも落ちてくる。少し離れた所でくぐもった悲鳴が聞こえたかと思うと、一人の隊員が頭を抱えてうずくまった。
 口元を強く引き結ぶ隊長の眉が、不意にひそめられた。視界の端に何か動くものを捉えたのだ。
 顔を巡らせると、隣の家の塀から、一階、二階と庇を足がかりに軽々と屋根を目指す人影があった。やがてその影は、男のいる屋根の上の死角に姿を消した。
「小僧、そこをどけっ!」
 屋根材の雨あられが止んだかと思えば、今度はドスの利いた声が上空から降ってきた。そして何かの打撃音。重い靴音、また打撃音。
 路地からは、屋根の上で何が起こっているのか窺い知ることはできない。戸外に立つ警備隊員達は、一様に難しい表情で夜空を仰ぎ続けた。
  
 やがて、どすん、と鈍い音が辺りの空気を震わせた。
 三階の隊員達が、窓から身を乗り出して歓声を上げる。と、先刻隊長の命で先回りをしに行った六人のうちの二人が、屋根をつたって現場に近づいてきた。
「隊長ー」
「なんだ」
「こいつ、どうやって下に下ろしましょう?」
「どんな状況だ」
「見事にノされてます。流石は……」
 その声が終わりきらないうちに、影が一つ、ひらり、と庇つたいに地上へと降り立った。
 今回の捕り物の一番の功労者をねぎらうべく、隊長がそちらに足を向ける。
「良くやった」
「するべき事をしたまでです」
 表情一つ変えずに通り過ぎる影を、隊長は溜め息とともに腰に手を当てて見送った。
 黒いズボンと黒いシャツ、暗い色の髪が闇に沈み、官給品の丈の短いジャケットが一際目立つ後ろ姿。首の後ろで括られた髪が、えんじ色を背景に揺れている。
「相変わらず愛想の悪い奴だな」
「隊長、嫌われてるんじゃないんスか?」
 隊員の一人にまぜっかえされて、彼は憮然としたおもてを作った。
「……私だけを嫌っているわけじゃなさそうだがな」
 魔術が使えるにもかかわらず、この新参者の隊員は危険な接近戦を好んで行っていた。
 ――もしかしたら、奴は自分自身すら好いていないのではないだろうか。
 ルドス警備隊隊長の視線の先、捕縛した男達を牽き立てるカンテラの光が、往来へと投げかけられる。その光に照らされて、黒尽くめの影――シキ――は眩しそうに目を細めた。
  
  
    一  光陰
  
  
 イの町から西へ、街道を馬でひた走り十日。眼前にそびえ立つ雪を頂いたナナラ山脈、その中でもとりわけ人目を引く、切り立った絶壁を誇る聖峰ガーツェの麓に、その街はあった。
 峰東州の州都、ルドス。名前が示す通り、ここにはかつて古代ルドス王国の都が存在したといわれている。一度は滅び廃墟と化したこの街は、失われた知識の断片をかき集めて、再び歴史の表舞台に返り咲いた。以来、もう何百年もの間、ここは古代ルドス魔術の中心地として盤石の地位を誇っていた。魔術師なら誰でも一度はこの街を訪れて、知識の源泉たる呪文書の原本を拝んでみたいと思うことだろう。
 そんな古い都にも、帝国軍は等しくやってきた。今から十年前、ルドスはその自治権をあえなく帝国に明け渡した。歴史あるルドス領は解体され、新しく編成された峰東州の一部として新たな物語を刻むことになったのだった。
 ルドスの街は、南北に連なる高山の裾野に帯状に広がっている。辺境からほぼ真っ直ぐ東西に伸びてきた街道は、ルドスの手前で大きく北に進路を変え、街の北門からそのまま街の中央を縦断して、南門へと抜けていくのだ。
 その南北の大通りの東側は、いわゆる庶民の居住地であった。反対側、商業地を挟んで西側には、上層階級の住居が建ち並んでいる。そして街を見下ろす一段高い所に、領主の城が堂々たる姿を誇っていた。
  
  
 夜勤組に仕事を引き継いで、シキは家路を急いでいた。ルドス警備隊の証であるえんじ色の短上衣は鞄の中に仕舞われているため、彼女はさながら闇夜の鴉のようだ。
 大通りから少し坂をくだった所にある、三角破風の家。重厚な木の柱と少しくすんだ白い壁、そして破風に絡まる蔦。素朴且つ上品な佇まいのその家の、二階と屋根裏がシキ達の住まいだ。鍵を開けて玄関をくぐり、ホール脇の階段に足をかけたところで、奥の扉から恰幅の良い中年の婦人が顔を出した。
「お帰りなさい」
 家主のジジ夫人は、少し大袈裟に両手を広げると、優しくシキを抱きしめた。
「……ただいま」
「あらら、顔に何かついてますよ」
 夫人はエプロンのポケットから布巾を出して、シキの頬を優しく拭ってくれた。子供のいないジジにとって、シキは可愛い娘みたいなものなのだ。シキは少し頬を赤くして、小さな声で礼を言った。
「ありがとうございます」
「……怪我、は無いの?」
 拭き取った汚れが乾いた血であることに気がついて、ジジがそっと眉根を寄せる。
「はい」
 ふと頭上で階段の軋む音がして、二人は同時に顔を上げた。
 ロイが悠然と二階から下りてくるところだった。
「今帰りました」
「随分遅かったね。何かあったのかい?」
「明日の朝、隊長から先生に報告が入ると思います」
 淡々とそう告げるシキに、ロイが片眉を上げる。
 ロイは、一年半前から非公式にルドス警備隊の顧問の役に就いている。隊専任魔術師の教育と評価、隊員に支給される魔術道具の生成など、そういった仕事が彼に任せられていた。イに居る頃に断続的に繰り返されていたロイの州都出張は、こういう事情が背景にあったのだった。
 しかし、どういうわけか彼は表に出るのをあまり喜んではいないようだった。特にこの半年、ルドスに居を構えるようになってからの彼は、限られた者にしか所在を明かさず、ひっそりと隠遁生活を続けている。
「先に休みます。おやすみなさい」
 一階に降り立ったロイと入れ違うように、シキは階段をのぼっていった。それを心配そうに見送りながら、ジジは大きな溜め息をついた。
「あんな子があんな危険な仕事をするなんて。先生、なんとかならないものですか?」
「……彼女がしたいというのだから仕方がない」
 ロイは少し苛立たしそうに、溜め息とともに言葉を吐いた。
「でも……」
「それに、あの『子』と言うが、彼女はもう十九、立派な大人だ」
「……ああ、そうでしたっけねえ。どうもシキちゃんを見ていると……『女性』という気がしなくてねえ」
  
 シキの額のフォール神の印。不肖の弟子の裏切りによって刻まれたそれは、「偽装」の術を封じた指輪のお蔭で人目に触れることはないが、依然としてそこに存在する。その禍々しい刻印に、ロイは今でも怒りが湧き起こるのを禁じ得ない。
 だが、ロイが最も腹立たしく思うのは、その術の効果についてだった。
 封印された「女」の「性」。
 ロイは下唇を噛んだ。既に自分とシキの間を阻むものがないにもかかわらず、彼はどうしても「その気」になれなかったのだ。自分がいだいていた欲望や妄想、それらの記憶はロイの中ではもはや単なる過去のものでしか過ぎず、ふとした弾みに手が触れ合っても、そこには木石を触る以上の感慨が存在しなかった。
 ――苛立たしい。そして忌々しい。
 魔術で一気に引導を渡すのではなく、この手で奴の身体を切り刻むべきだった。そうすれば、自分がこれほどまでの憤怒に捕らえられることもなかったのではないだろうか。ロイは拳を固く握り締めた。
 あれから半年。山から吹き降ろす刃のような風が、秋の終わりを告げ始めている。
 辺境の田舎町から賑やかな州都にやってきたというのに、シキはほとんど笑わなくなった。年頃の娘達が華やかに着飾っては余暇を楽しんでいるというのに、シキが仕事以外で外出することはほとんどなかった。
 彼女の目立つ黒髪は、額の印と同じく「偽装」の指輪によって隠されている。誰もが見知った人間である故郷と違い、黒髪は奇異の目をもって迎えられるだろう、というのがロイがシキにその指輪を与えた一番の理由だ。それに、反乱団の黒の導師の噂のこともある。もう一つ、ある不安感――そのために、彼は極力公の場から遠ざかっていたのだが――も手伝って、ロイは指輪に人目を欺く魔術を込めたのだった。シキがこれを嵌めている限り、そしてシキの魔力が尽きぬ限り、彼女の黒髪は深茶の髪に、そして額の印は肌の色に、それぞれ偽装され続けるのだ。
 肩までしかなかったシキの髪は、夏を過ぎて少し伸び、無造作に首の後ろで束ねられている。相変わらず身に纏うのは女らしさとはほど遠い服。それがどれも黒い色であることに、ロイは最近気がついた。
 死してなお、シキの全てを所有する存在。ロイは呪詛の言葉を何度も呑み込んだ。
  
  
  
 自分にあてがわれた屋根裏部屋で、寝台に仰向けに横たわりながら、シキはぼんやり天井を眺めていた。
 何度も脳裏で繰り返されるあの風景を持て余しながら。
  
 半年前のあの日、町の方角で莫大な魔力が炸裂するのを感知したシキは、咄嗟に洗濯物の籠を放り出して家の前へと飛び出した。小道を街道へと駆け上がり、東の空に目を凝らす。
 遥か上空に、小さな光点が生じた。それは、みるみるうちに細い光の筋となって、真っ直ぐに大地へと突き刺さる。一呼吸遅れて、微かな地響きが足元に伝わってきた。
「天隕」の呪文だ、とシキは呟いた。彼女がまだ習得していない、最高位の魔術。遥か虚空の星のかけらが、恐るべき凶器となって地上へと落とされるのだ。その破壊力は他に比類されるものがない。
 ――先生だ。
 ごくり、とシキは唾を飲み込んだ。でも、何故。何のために、師匠はそんな術を使ったというのだろうか。
 シキの心臓が、ぎりぎりと不安に締めつけられる。レイと連れ立って出かけた先生。その先生が殺戮の呪文を放ったのだ。
 ――何に対して。いや、誰に対して……?
 シキは身動き一つできずに、ただ祈るような心地でその場に立ち尽くした。
  
 どれくらいの間、東の空を見つめていたのだろう。やがてシキの目が、砂煙を上げて近づいてくる何かを捉えた。
 それは二頭の馬だった。先生と、レイが帰ってきたのだ。安堵のあまり泣きそうになりながら、シキは二人を出迎えようと歩みを進めた。
 だが、ほどなくシキの瞳に怯えの色が入る。
 ロイが上衣の裾をひるがえしながら馬を駆っていた。その後ろ、手綱を引かれた「疾走」。その馬上には、……誰も、乗って、いない。
 愕然とした瞳で、シキは足を止めた。
 蹄の音も高く、シキの傍まで一気に駆け込んできたロイは、馬上から険しい声を投げかけてきた。
「シキ、至急荷物をまとめなさい。州都へ行く」
「先生! 何があったんですか! レイは!? さっきのあの呪文は一体!?」
 血相を変え、矢継ぎ早に問いを重ねるシキに、ロイは静かに語りかけた。
「……落ち着いて聞きなさい、シキ。彼は我々を裏切ったのだ」
「え?」
 突然思いも寄らない単語が飛び出したことで、シキは二三度目をしばたたかせた。
「そう、レイは、皇帝陛下に叛旗をひるがえそうとしていたのだよ」
「叛旗?」
「サンは反乱団の一味だったのだ。彼がレイを引き込み、そしてレイは君を手駒とするために……解るね?」
「手駒?」
 混乱のあまりに、シキはオウムのようにロイの言葉を繰り返す。
「そうだ。君を利用しようとしていた。篭絡して、その力をおのが野心のために悪用しようとしていたのだ」
 そう言いきって、ロイはひらりと馬から飛び降りた。そうして真っ直ぐシキの目を覗き込んだ。
「レイは私に言った。力こそ全てだ、と。彼は七か条の規範に背いた。魔術師としての道を踏み外してしまったのだ」
 その瞬間、シキの脳裏にレイの声が閃いた。
  
『俺が魔術師になったのは、力が欲しいからだ』
 闇に沈む小屋の中、刃のように鋭い声が空気を切り裂く。
『他人のための力じゃない、俺自身のための力だ』
  
 シキの頭を覆っていた靄が一瞬にして晴れ、ここにきてようやくロイの言葉の意味がシキの中に浸透し始めた。
 ――サンが反乱団で、レイを仲間に引き込んで、それで今度はレイが私を引き込もうとして……。
「そして、その挙げ句に、彼は私を殺そうとした。反乱団にくみすることを私に咎めたてられたからだ。あれはもう、我々の知っているレイではなかった。彼は力に魅入られ、力に溺れてしまったんだ……」
 ロイは悲しそうに軽く首を振り、手綱を引いて家へと向かい始めた。
「彼らはまた君の力を狙ってくるだろう。ここは危険だ。とにかく一度州都へ行こう。あそこなら、頼もしい味方が大勢いる」
 茫然とロイの背中を見送っていたシキは、そこで、はっと我に返って、必死の形相で師のあとを追った。
「……ちょっと待ってください!」
 からからに乾いた唇を無理矢理に動かして、シキは声を絞り出した。きっと何かの間違いだ、と心で強く願いながら。
「レイはどこですか。直接彼の口から説明を……」
 大きな溜め息とともにロイがゆっくりと振り返った。そして、シキを諭すように静かな声で答えた。
「レイは……もういない」
 シキの瞼の裏に、先刻東の空を切り裂いた一筋の光が浮かび上がる。
「私が、殺した」
  
  
 あのあと、サンは忽然と姿を消した。そればかりか、聞いた限り、シキ達の他に誰もサンが帰ってきたことを知らなかったのだ。
 たとえサンが反乱団の一味ではなかったとしても、彼が何か良からぬ事態に陥っているのは間違いないだろう。そういえば、あの時分、レイはサンの話題を避けていたふしがあった。彼らの間にあらぬ密約が交わされていたと考えるのは、そう不自然なことではない。
 ――でも、本当にレイは裏切り者だったのだろうか。
 一縷の望みをかけて、シキは何度も何度も自問する。だが、彼女はそのたびにいつも、同じ迷宮の中をぐるぐると彷徨うことになってしまうのだ。
 あの時、ダンの小屋でレイは魔術師の規範を鼻で嗤った。自分が必要と思うならば、ダンに術を使うことさえ厭わないと言った。力が欲しい、だから魔術師になったと言った。
 力、力、力。力を求めるあまり、彼は、先生に黙って東の森で特訓までしていたのだ……。
『俺にはお前だけだ』
 ――あの台詞も偽りだったのだろうか。本当に必要だったのは私の「力」で、私自身なんてどうでも良かったのだろうか。
 大きく息を吐いて、シキは寝返りをうった。
 堂々巡りを始めた思考を、シキは無理矢理に打ち切った。これ以上考えても、つらくなるだけだから、と。とにかく、何としてもサンを捕まえるのだ。そうすれば、きっと真実が明らかになる。それまでは、もう、何も考えたくない。
 力無く敷布に顔をうずめたシキを、揺らめくランプの光がそっと撫でた。
  
  
  
 自暴自棄、ということなのか。ロイは二階の書斎で独りごちた。少し伸びをしてから椅子の背にもたれかかり、ぼんやりと天井を見上げる。
 階上で眠っているであろうシキのことを、彼はつらつらと考えていた。
  
 レイを屠った翌日には、ロイはシキを連れてイの町を引き払った。最低限の身のまわりの物を携えて。
 家の管理は町長に一任してきた。蔵書の類は追々人を頼んで運び出せば良い。とにかくロイはあの場所から少しでも遠く、一刻も早く離れたかったのだ。シキが平静を取り戻す前に。彼女についた嘘が綻ぶ前に。
 もっともその「嘘」について、ロイは、嘘とは言いきれないのではないかとも思っていた。なにしろ、反乱団の一味は、あの時確かにロイの家を監視していたのだから。秘密裏のうちに帰郷していたサンが、わざわざ危険を冒してまでロイ達の前に姿を現したのには、何か理由があるはずだ。それにあの時のレイの様子を見る限り、サンが本当に彼を手駒として引き入れようとしていた可能性は高い。
 加えて、ロイには、レイの行動を細部まで再現できる自信があった。何しろ十年間も同じ屋根の下で暮らしてきたのだ。レイがどういう条件下でどのような行動を取るか、模擬するなど朝飯前だ。
 そうやってでっち上げた「嘘」は、自分でも惚れ惚れするほど完璧な出来栄えだった。とはいえ、兄弟同然の幼馴染みの造反を俄かには信じられなかったのだろう、州都へ出立する直前まで、シキはサンを探して町中を走り回っていた。そのことが、よりはっきりとロイの説を裏づけることになろうとは、一体なんという皮肉だろうか。
 ――私の勝ちだ。
 確かにレイには先手を打たれてしまった。だが、現在、シキは自分の傍にいる。フォール神の呪文書も取り返した。あとは……、この忌々しい術を解除するだけだ。そうすれば、シキはレイの亡霊から解放される。今みたいに、自ら進んで危険に身を投じることもなくなるだろう。
 そこまで思考をめぐらせて、ロイは大きく溜め息をついた。机の上に開きっぱなしになっている、くだんの呪文書に目を落とす。
 天才の名をほしいままにするロイにとって、この程度の呪文など物の数ではない。おそらく十日もあれば充分だろう。
 充分なはずだった。
 既に「半身」の術について九割がたは理解できていた。だが、あと一息だというのに、根本的なところで全くやる気がおきないのだ。
 たった一つの呪文が、十日どころか半年かかっても未だ習得できていないという事実。それでも悔しさすら感じられない。理由は簡単、自分がシキを欲していないからだ。いや、むしろ彼女に対して禁忌に近い感情さえ湧き起こる。
 ――実に良くできた術だ。
 ロイは皮肉の笑いを口元に刻んだ。
  
 フォール神は豊穣を司る女神だ。
 古来より人々の生活を土台のところで支えてきた、大地の恵み。その豊穣を願って人々は神に祈りを捧げた。現在はもうほとんどその信仰は残っていないが、その祈りの形は、収穫祭での感謝の踊りに垣間見ることができる。男女一組が向かい合わせとなって、手を取り、歌い、ステップを踏む。それはまさしく、フォール神神聖魔術の作法に他ならない。
 術の主導権は女性側にあった。それ故、女の術者の力量は男性のそれよりも重視されたらしい。そして、腕の良い術者をめぐって争いが起きることも少なくなかったということだ。「半身」とは、無用な争いを防ぐための呪文だったのだろう。
 拍子抜けだな、とロイは小さく鼻を鳴らした。別の書物で初めてこの術のことを知った時は、もっといかがわしい、男性が女性を一方的に虜囚にする術のような気がしたものだが、と。
 頬杖をつきながら、ロイは気だるそうにページをめくった。目は文字を追っているのだが、どうしても内容が頭に入って来ない。今日はこれぐらいにしておこう。そう思って呪文書を閉じかけたロイの目が、ある一文を捉えた。
『……効力は術者に依存する』
 ロイは弾かれたように姿勢を正して呪文書を開き直した。
 効力は術者に依存する。
 効力。
 依然として存在する、シキの額の印。
 ロイは愕然と目を見開いたのち、思いきり奥歯を噛み締めた。
「生きているのか……! レイ!」