The one who treads through the void

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DUSK IN BLACK 第八話 絡み合う糸

  
  
  
    第八話   絡み合う糸
  
  
  
    一  隙意
  
  
「隊長、こちらにいらっしゃいますか」
 ノックの音に続けて表から聞こえてきたのは、警備隊副隊長インシャの声だった。
 シキの上にのしかかっていたエセルは、眉間に深い皺を刻むと、目をきつくつむった。それから溜め息をついて、シキの身体から、寝台から、降りた。
 即座にシキも、勢いよく立ちあがり、エセルに対して一挙一足の間合いを取る。
 そんなシキの様子には一瞥もくれず、エセルは険しい眼差しを扉に投げかけた。
「何だ」
「パレードにて暴漢が出ました」
 冷静な声が、部屋の空気を一変させる。仕事の顔に戻ったエセルは、玄関扉に駆け寄るなり、勢いよく扉を開け放った。
「被害は」
 戸口に姿を現したインシャは、表情一つ変えず報告を続けた。
「アスラ皇帝陛下が軽い傷を負われました」
「騎士団組は何をしていた」
「彼らの最善を尽くしたのでしょう」
 舌打ちの音とともに、エセルは懐から取り出した何かを、インシャに手渡した。「お前達は本部で待機しておけ」とだけ言い捨てて、靴音も高らかに走り去っていく。
「シキ」
 インシャに名を呼ばれ、シキも慌てて部屋を飛び出した。
 決まりの悪さから視線を地面に落とすシキの横で、何事もなかったかのようにインシャが、エセルから受け取った鍵で扉を施錠する。
「では、戻りましょうか」
 インシャの声からは、何の感情も読み取れなかった。
  
  
 警備隊本部の一階、玄関ホールのすぐ左手に位置する談話室。南北に長いこの広い部屋には、食堂として使われていた頃の名残の長いテーブルが中央に置かれている。
 玄関ホールに一番近い北側の壁に一つ、長廊下に面した西側に二つ。この部屋には全部で三つの扉があった。それとは別に、南側の壁、暖炉の脇に厨房へと通じるアーチが一つあり、水差しを持ったインシャがそこから姿を表した。
 皇帝陛下襲わるる、の一報に、どうやら他の隊員全員が出払ってしまっているようだった。いつになく静かな部屋の中に、水差しからカップに水を注ぐ音が一際大きく響く。
 シキは椅子から立ち上がると、インシャに向かって深々と礼をした。
「さっきは、ありがとうございました」
 インシャが来なければ、どうなっていたことか。シキは改めて感謝の意を表した。
 エセルがシキの懇願を聞き入れてくれれば問題はないが、もしも、彼が強硬手段に出たならば。そうなれば自分は彼を拒みきれなかったに違いない、と、シキは思っていた。
 小奇麗な部屋、上等な寝台、高価な衣服。隊ではあまり表立って語られていなかったため知らなかったが、エセルは特権階級に属する人間なのだろう。あの時、シキはそう悟ったのだ。
 ルドスに移り住んで半年、警備隊の仕事を通じて、シキは身分制度というものを嫌というほど目の当たりにしてきた。権力者がもの申せば、黒も簡単に白くなる。彼らに逆らうことの難しさたるや、生半可なものではない。それに、シキは、今警備隊を辞めるわけにはいかなかった。反乱団の奴らに鉄槌をくだすには、警備隊の情報網と権力が必要だからだ。
 となれば……、エセルが我を通そうとする限り、シキに残された道は一つしかない。
 シキはもう一度溜め息をつくと、再度インシャに頭を下げた。
「それと……、すみません……せっかくの忠告を無駄にしてしまって」
「別に貴方が謝ることではありません」
 テーブルの上に二つのカップを並べてから、インシャはシキに席に着くよう促した。そうして彼女もシキの隣の椅子に腰をかける。
「こうなることが解っていて、はっきり言わなかった私も悪いのだから」
「え? 解っていた……って?」
「貴方の気配が……昨日までとは明らかに違っていて……」インシャは少し言いよどんだのち、躊躇いがちに言葉を継いだ。「その、なんだか急に女らしく、色っぽくなった、というか……」
『一体何が……、いや、誰が、君を〈女〉にした?』
 エセルの言葉を思い出し、シキの眉間に皺が寄る。
「そんなに、私の気配、変、ですか?」
「いえ、一般的には『普通になった』と言うべきなのかもしれません。でも、今までの貴方を見慣れていた人間にとっては、あまりにも突然で、そして刺激的だった……」
 大きな溜め息を吐き出してから、インシャはシキを正面から見つめた。
「彼がそんな貴方を放っておくはずがありません」
「え、でも、そんな、それだけで……」
 理解できない、と首を振るシキに、インシャはまたも溜め息をつく。
「半年もここにいて気がつきませんでしたか? 彼の華々しい女性遍歴に。ガーランなどが、始終それをからかっていたでしょうに」
 ルドスに来てからというもの、シキは極力他人と深く関わらないようにしていた。その結果がこのざまだ。シキは思わず唇を噛んだ。おそらく、エセルの身分についても、知らなかったのはシキぐらいなものなのだろう。
「……その、……単なる冗談だと、思っていました……」
「女と見れば、見境なしだから、彼は。……警備隊隊長としては、優秀な方なのですけどね」
 やれやれ、と肩をすくめたインシャの口元が、僅か綻んだ。薔薇色の唇から、白い歯がこぼれる。
 エセルのことを、まるで手のかかる子供か何かのように語るインシャの瞳はとても優しくて、シキは思わずどきりとした。
「鉄の女」だとか、「怒れる女神」だとか、インシャを揶揄する言葉は隊員達の口によくのぼる。だが、その口調にいつも親愛の情が込められていることに、シキも気づいていた。たぶん、皆、副隊長のこの笑顔を一度ならず見たことがあるのだろう。勿論、隊長も……。
「何か?」
「いえ、その、副隊長も色々大変だな、と」
 つい余計なことを想像してしまい、シキは慌てて態度を取り繕った。だが、インシャの槍のごとき視線は、容赦なくシキに突き刺さる。
「どうして?」
「あ、いや、その、いつも隊長の補佐で傍にいなきゃいけないわけだし」
「彼が私に言い寄ってくる、とでも?」
「だって、副隊長、素敵だし……」
 そこでインシャは少し意外そうに片眉を上げた。
「その意見は初耳だわ」
「当たり前のこと過ぎて、皆わざわざ言わないだけですよ」
 お世辞と思われたらどうしよう、と心配しながらも、シキは思いきって断言した。だが、インシャはにべもない様子で視線を逸らせる。
「私が隊長の誘いに乗ると思う?」
「……そうですよね、副隊長はそんな迂闊じゃないですよね」
 私と違って、と、シキが自虐的に一言つけ加えたところで、インシャの冷たい声が宙を切った。
「迂闊だわ。そして、どうしようもなく愚かしい」
 自分のことを言われたのだと思って、歯を食いしばるシキの目の前、インシャの表情が、切なそうに歪んだ。
「貴方のことではありません、私のことです」
「え?」
「私は、貴方が思っているような人間ではありません」
 そう言い切ったインシャの青い目は、まるで底なしの淵のようだった。
  
  
 数刻後、シキとインシャの二人は資料室にいた。
 窓の外はすっかり闇に沈んでしまっていたが、同僚達はまだ誰も帰ってこない。皇帝陛下襲撃事件ともなれば、そう簡単に事は片付かないのだろう。待機中といえども、ただ無為に時間を潰すのはいかがなものか、と揺れるランプの火を頼りに、二人は反乱団についての手がかりを探し続けた。
  
「どうして、職務を無断で離れたのですか?」
 先刻、談話室でインシャにそう尋ねられ、シキは素直にサンのことを語った。故郷での出来事も、資料室で脱走近衛兵の通告書を見つけたことも、全て包み隠さずインシャに話した。
 シキがレイのことを他人に語ったのは、実にこれが初めてのことだった。事態は何も変わっていないというのに、ただ話を聞いてもらったというだけで、何故かシキの心はほんの少しだけ軽くなったような気がした。
「通告書があったということは、人相書きも回ってきた可能性がありますね」
 インシャの一言で、二人は資料室へと足を運ぶことにしたのだ。そうして書類の箱をあちこちひっくり返すこと半時、サンと言われればそう見えなくもない、かなり微妙な出来の似顔絵を部屋の片隅から見つけることができた。
「通告書を処理した者は調べてみないと誰か分かりませんが、きっとこの絵では何の役にも立たないと思ってよけておいたのでしょう」
 大きな溜め息をついて、インシャが人相書きを机の上に置いた。「所詮は帝都での問題に過ぎない、と判断する気持ちも分からないでもありません。人相書きを掲示する場所にも限りがありますし」
 でも、これからは、どこからのどんな通告書であろうと、隊内での周知を徹底しなければ。インシャは自分に言い聞かせるようにそう呟いてから、さっき訓練場の壁から剥がしてきた一枚の人相書きを、サンのそれの横に並べた。
 そこには、波打つ黒い髪を肩の下まで伸ばした男が描かれていた。
「これは、昨年に嶺北州から回ってきたものです。二年前の北方での騒乱で目撃された、その首謀者と見られる男の人相書きだそうです」
「もしや、この人が」
「今回の襲撃者の中にこの顔があったことを、目撃した騎士団組の一人が奇跡的にも覚えていました」
 騎士団との兼任隊員は、多忙を理由に日頃滅多に本部に顔を出すことはない。当然、訓練に出ることもなければ、訓練場の壁一面に並んだ人相書きを見ることもないわけで、インシャが力を込めて「奇跡」と言うのも至極もっともなことだ。
 我々のうちの誰か一人でもその場に居合わせておれば、と、心底悔しそうに、インシャが絞り出した。
「現場で目撃された主だった襲撃者は、三名。残る二人は、『長身の男』と『白い頭巾をかぶった男』だそうです。確認を取ってみないと分かりませんが、背の高いほうが、貴方の言う『サン』であるかもしれません」
「ということは、今回の事件は反乱団の仕業かもしれない、と」
「ええ、状況から考えてもその可能性はかなり高いでしょう。それに、この黒髪の男も、反乱団に関わっていると目されていますから。ただ……」
 不意に言いよどんだインシャに、シキは知らず身を乗り出した。
「ただ?」
「ただ、この人物については、……死者が甦ったという眉唾物の噂があるとのことで、それで我々も今まであまり重要視していなかったのです」
 ――死者が甦る。
 その冒涜的な響きに、口にしたインシャは勿論、シキも青い顔で黙り込んだ。
 ランプの芯が燃える微かな音が、二人の影を揺らす。
 と、その時、どこか遠くから微かに呼び鈴の音が聞こえてきた。
  
 本部玄関のそれとは異なる、聞いたことのない音色に、シキが眉をひそめる。その横で、インシャが静かに立ち上がった。少し席を外します、と一言言い置いて廊下の扉へ消えていく。
 一人残されたシキは、机の上に広げられていた資料を、黙々と整理し始めた。
  
  
 一通り片付けが終わり、人相書きを訓練場の壁に戻しにいくべきか、と悩んでいるところへ、ノックの音とともにインシャが戻ってきた。
「シキ、こちらへ来てください」
 酷く事務的な口調が気になったが、シキはインシャにいざなわれるがままに資料室を出た。
 淡い月の光が、階段ホールをぼんやりと照らしている。インシャは振り返ることもなく、三階へのぼる階段に歩みを進めた。
 そこは、シキにとっては初めて足を踏み入れる場所だった。
 三階には勝手に立ち入らないように。そうシキは入隊した時に説明を受けていた。そもそも、この建物はかつて貴族様のお屋敷だったという。会議室は遊戯室、談話室は食堂、資料室は書斎、訓練場は大広間。警備隊本部として譲り受けたのは、一、二階のみで、三階は未だその貴族の持ち物となっている、とのことだった。
 何故副隊長は、使われていないはずの三階へと向かっているのだろうか。不思議に思いつつもシキはインシャにつき従って、最上階の床に立った。
 意外なことに、その廊下は綺麗に掃除がなされていた。埃一つ無い床が、窓から差し込む月光に浮かび上がる。
 インシャは、階段ホールから大通りに沿うように伸びる廊下を南へと進んでいった。
「あの……、副隊長、どこへ?」
 資料室を出て以来沈黙を守り続けていたインシャは、突き当たりの扉を押し開けながら、ようやく口を開いた。
「ここよ。さあ、入って」
 月明かりに慣れた目が、暗闇に視力を奪われる。シキは慎重に部屋の中へと一歩を踏み出した。
「副隊長、ここは一体……?」
 返答の代わりにゆっくりと扉が閉まり、部屋が闇に閉ざされる。
 シキが身を硬くして息を詰めていると、部屋の中央が急に明るくなった。
「さて、昼間の続きといこうか」
 覆いを外したランプの傍らに、エセル・サベイジが立っていた。
  
 ランプが置かれたテーブルに、二脚の椅子。少し離れたところに見えるのは、寝台か。周囲が完全に闇に沈む中、右手、正面、左手、と、三方に並ぶ窓の影が、かろうじて部屋の輪郭を浮かび上がらせている。窓の数を見る限り、どうやらこの部屋は資料室二つ分以上の広さを持っているようだった。
「私専用の仮眠室、みたいなものかな」
 シキが問うよりも先に、エセルが答えた。
「もともとは当主の部屋として使われていたからな、単なる寝室とするには少々広すぎるきらいがあるが……まあ、そのおかげで、色んな楽しみ方が、できる。なあ、インシャ」
 すぐ後ろでインシャが身じろぐ気配を感じ、シキは思わず振り返った。
「副隊長?」
 インシャが、顔を背けた。きつく唇を噛みながら。シキの視線を避けるように。
 仕方なくシキは再びエセルのほうに向き直った。
「一体どういうことなんですか? 何故隊長がここにいるんですか? 襲撃事件は? 私はどうしてここに連れてこられたんですか?」
「だから、昼間の続きを、と言ったろう」
「はァ?」
 驚きよりも恐怖よりも、呆れる気持ちが全てを上まわった。こいつ相手では話にならない、と悟って、シキは再度インシャのほうを向く。
「副隊長、これは一体……」
 インシャは、依然としてシキのほうを見ようとない。
「彼女を責めないでやってくれ。私の命令に従ったまでだからな」
「命令?」
「ああ、そうだ。『命令』だ」
 その瞬間、それまで軽薄の極みにあったエセルの気配が、一転して凄惨さを増した。
「インシャ、シキを我がもとへ」
「それは命令ですか」
「そうだ。命令だ」
 表情一つ変えず、インシャがシキの右手を掴んだ。荒くれ者を取り押さえる時のように、シキの右手を背中のほうへ軽くねじる。そうして、部屋の中央へ、エセルのもとへ、シキをゆっくり押しやっていく。
 あまりにも痛々しいインシャの気配に、シキは抵抗することができなかった。ただ呆然と、二人の顔を見比べるばかり。
 エセルの口元には、毒々しいまでの嘲笑が浮かんでいた。にもかかわらず、その眉間には深い深い皺が刻まれていた。
 インシャは、あくまでも無表情だった。衝撃を与えれば壊れてしまいそうな、陶器人形のようだった。
 エセルの前で、インシャはシキを解放した。そうしてそのままきびすを返す。
「……やはり何も言わないんだな」
「何と申せばお気に召すのか、解りかねますので」
 それだけを吐き出して、インシャは静かに扉へと向かう。
「失礼します」
 そして、彼女は一度も振り返らないままに廊下へと姿を消した。