The one who treads through the void

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DUSK IN BLACK 第八話 絡み合う糸

  
  
  
    三  嵌絵
  
  
 昼下がりのジジ家の浴室で、手桶で浴槽に湯を張り終えたシキは、ふぅ、と溜め息をつくと服を脱ぎ始めた。
 一階は基本的に家主であるジジ夫人の私空間だが、浴室と食堂だけは下宿人が立ち入ることを許されている共用部分だった。早番扱いで昼前に帰宅することができたシキは、夫人に頼み込んで早々に湯浴みすることにしたのだ。
 一糸纏わぬ姿になって、シキは浴室の片隅にある洗面台の前に立つ。鏡の中の自分は、これ以上はないというほど難しい顔をしていた。
  
  
 昨夜、本部三階のあの部屋からインシャが出ていったあと、エセルはしばらくの間微動だにしなかった。
 今のうちに逃げるべきだろうか、と思いつつ、シキもまた一歩も動くことができなかった。ほんの僅かな衝撃で、全てが粉々に砕け散ってしまいそうな、そんな張り詰めた空気が恐ろしかったからだ。
 先ほどはインシャに気を取られていて気がつかなかったが、エセルが纏う気配も、非常に悲痛さを感じさせるものだった。鬼気迫る眼差しは、怒りというよりも悲しみに満ちていた。口元に浮かぶ嘲笑は、むしろ苛立ちの表れに見えた。
 やがて、舌打ちの音とともに、エセルの右足が動いた。優美な曲線で飾られた木の椅子が、派手な音を立てて転倒する。エセルはそれを起こそうともせずに部屋の奥へ向かうと、寝台の上に仰向けに倒れ込んだ。
「……隊長……?」
 シキがおずおずと問いかければ、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。
「なんだ? 抱いて欲しいのか?」
「いいえ!」
 全身全霊の力を込めたシキの返答に、エセルが鼻を鳴らした。
「嫌がる女を無理に抱かねばならぬほど、不自由はしていない」
「え?」
「誘いには全力で応じさせてもらうがな。そういうわけではなかったのだろう?」
「は、はい」
 先刻は、「昼間の続き」などと言っていたというのに、一体いつ誤解が解けたのだろうか。首をかしげながらも、シキはほっと胸を撫で下ろす。
「無様なものだな……」
 ぼそり、と独りごちてから、エセルが寝台の上に身を起こした。
「シキ、ここへ来てくれないか」
 あからさまに警戒しつつ、シキはゆっくりと寝台へ近づいた。
「私はしばらく仮眠を取る。すまないが、傍にいてくれないだろうか」
 広い寝台の足元に座るよう指差し、エセルが苦笑を浮かべる。「迷惑のかけついでだ。頼む」
 力なく微笑む、濃紺の瞳。だが、その奥に潜む激しい渇望の色を見とめて、シキは思わず息を呑んだ。
 今、エセルが見つめているのはここにいる自分ではない、そうシキは直感した。彼の視線はシキを通り過ぎて、どこか遠いところに注がれていたのだ。
 シキには、その眼差しに見覚えがあった。
 それは、毎朝身繕いのたびに鏡の中から自分を見返してきた。おのれの黒い髪に、黒い服に、そして額の異教の印に、「彼」の微かな痕跡を探し出そうとする、縋りつくような昏い眼差し。目の前の男は、それと同じ色を瞳にたたえて、今、シキを見つめている。
 シキはそっと息を吐いた。この男もまた、どんなに手を伸ばそうと決して届かない何かを求めているのだ。そして今、それをシキに映し込んでいる……。
 ――私と同じだ。
 そう独りごち、シキはそっと眉間を緩ませた。
  
  
 シキは湯船につかると目を閉じた。身体ばかりか心までもが、ゆっくりと弛緩していくようだった。
 ここルドスには、潤沢な雪解け水を利用した水道が、町中に張り巡らされている。天険に冠する万年雪のおかげで、真夏でも水不足に悩まされることはない。井戸と川に頼っていたイの町とは違い、ルドスの人々にとって風呂は比較的身近な存在だった。
 湯の中で手足を伸ばし、ふう、と一息つく。そうしてシキは、靄の晴れた頭で、今朝の出来事を思い返した。
  
 寝台に腰掛けエセルの寝息を聞いているうちに、いつの間にか眠ってしまっていたのだろう。気がついた時には、見事な朝焼けが部屋の中を満たしており、シキはたった一人、広い寝台の真ん中で掛布に包まっていた。
 慌てて部屋を飛び出して、談話室に駆け込むと、仮眠を終えたばかりの第一斑が珈琲を流し込んでいるところだった。休みじゃなかったのか? と同僚が怪訝そうに指差した輪番表には、インシャの筆跡でシキが非番である旨記されていた。
「隊長は?」
「夜中のうちから城へ詰めてる」
「あれさ、隊長がかけあわなきゃ、俺ら徹夜させられるところだったらしいぜ。騎士団組の奴らは早々におねんねしてるってのに、冗談じゃねえよな」
「隊長が宵の口に『寝てくる』って帰っちまった時は、一瞬『あんたもか』って思ったけどな。二時ふたときも経たずに『寝てきた。今度はお前らが寝ろ』だぜ、まいったよ」
「隊長に叩き起こされてきたっつー騎士団組の顔、見たかよ。これでしばらくは酒が美味ぇや」
 せっかくの非番なんだから休んどけ、と言う同僚達を尻目に、シキは黙々と雑務にあたった。そうして、インシャが登庁するより少し早く、本部をあとにした。
  
 シキは、どんな顔をしてインシャに会えばよいのか、分からなかったのだ。
 隊長には気をつけて。シキの身を案じてそう忠告してくれた一方で、エセルの命令を受けて、シキを彼のもとへと引き立てていく。そもそも普段の彼女ならば、エセルの戯言を一刀両断で切り捨てていただろうに。
 何故、昨夜に限って、インシャはあのような行動をとったのか。何故、あんなにつらそうな表情を見せたのか。
 それに、エセルの態度も変だった。シキを抱くために呼び出したかと思えば、そのつもりはないなどと言う。挙げ句の果てに「傍にいてくれ」だ。
「だめだ。解らない」
 深く、深く息を吐いて、シキは湯に身を沈ませた。
  
  
 新しい服に袖を通し、シキは両手で頬をぴしゃりと叩いた。
 浴槽を空にして、浴室の窓を開ける。冷たい風が吹き込んできて、鏡の露を見る間に掃っていった。
「さっぱりした?」
 廊下に出たシキに、ジジ夫人が朗らかに声をかける。
「はい。ありがとうございました」
「そうそう。やっぱり女の子はそうやって笑ってないと。お風呂に入って、美味しいもの食べて、そしてぐっすり眠るのよ。それが元気の出る秘訣なんだから」
 そう言って自分に笑いかけてくれるジジ夫人に、シキは思わず抱きつきたくなった。なんて温かい存在なんだろう、と心から思った。幼い頃の記憶がないシキには、想像することしかできなかったが、きっと「お母さん」とは、このような存在なのだろう。
 潤み始めた瞳を、シキは欠伸で誤魔化した。今は感傷に浸っている場合ではない、と、改めて口元を引き締める。
「ええとね、シキちゃん。私、今から買い物に行くんだけれど、どうする? 一緒に来る?」
 シキはゆっくりと深呼吸をして、それから微かな笑みをジジに向けた。
「残念ですが、やらなければならないことがあって……」
「あら、そぅお? じゃあ仕方ないわね。それじゃあちょっと行って来ますから」
 ジジは外套掛けから上着と帽子を取ると、玄関の扉を開けた。柔らかな午前の光が、ホールに満ち溢れる。
「戸締まりはしておいてね。鍵持っているから」
「分かりました。いってらっしゃい」
 扉が閉まり、辺りが再び薄闇に閉ざされる。
 ――解らないことは、もう一つある。
 遠ざかっていく軽やかな靴音を背に、シキは決意を込めた瞳で二階への階段を見上げた。
  
  
 二階に上がったシキは、少し逡巡してから書斎の扉の前に立った。
 居間と、書斎と、ロイの寝室。二階にある部屋はこれが全部だ。お互いの寝室以外は、二人とも自由に使うことができる。それがロイとシキの間に暗黙の了解として存在するルールだった。
 だが、あくまでもロイは師であり、シキは弟子である。それ故シキは、いつも書斎の使用許可をロイに問うていた。
 今、初めて、彼女は無断でその部屋に足を踏み入れようとしている。多少の後ろめたさを感じながら、シキは静かに書斎の扉に手をかけた。
  
 半年の間にイの町から少しずつ移された蔵書は、部屋の四方の書架をほぼ満たしていた。シキは目的のものを探すべく、書物の背表紙を端から順に目で追い始めた。これは、というものに当たるたびに慎重に棚から取り出しては、丁寧に中身を確認する。
 シキは知りたかったのだ。レイがどのような術を自分にかけたのかということを。
 彼が一体どのような手段でその術を会得したのか、シキには見当もつかなかった。だが、あれから半年の時を経てロイがそれを解除したということは……、呪文書があるはずなのだ。間違いなく今、ここに。
 ――それを読んでみたい。
 読めば、答えが見つかるに違いない。シキはまばたきをする間さえ惜しんで、一心不乱に呪文書を探し続けた。
  
  
  
 玄関の前に、一台の二輪馬車が横づけされた。
 どこか憔悴しきった表情でロイは馬車から降り立った。立ち去っていく蹄の音をしばらく見送ってから、ロイはゆっくりと玄関の段をのぼる。
 扉には鍵がかかっていた。夫人は午後の買い物なのだろう。ロイは外套のポケットを探った。ようやく見つけた鍵を鍵穴に差し入れようとして、彼は自分の手が震えていることに気がついた。
 皇帝の命令は絶対だ。
 お前も一緒に来い、そう言葉を成された以上は、もはや従う他に道はない。それに、よくよく考えるならば、十年間も自分を放っておいてくれていたということに感謝するべきなのだ。しかも、役職を空席としたままで。
 それでも、ロイは即答することができなかった。
 考える時間を、と不遜な言葉を絞り出したロイに、兄帝は不気味なほど穏やかな笑みをたたえて、是、と言った。
 だが。いくら考えたところで、選ぶことができる道は一つしかない。兄帝の瞳は、言葉とは裏腹にそう語っていた……。
  
 疲れきった身体を引きずるようにして真っ直ぐ寝室に向かおうとしたロイは、ふと書斎の前で足を止めた。
 何者かの気配が、書斎の中で蠢いている。
 ロイは両のこめかみを右手で掴むようにして押さえた。面倒事というものは、どうしてこう次から次へとやってくるのだろうか、と。
 とはいえ、アスラ帝の御前でその視線に晒されることに比べたらば、今のロイには怖いものは何も無かった。彼は大きく息を吸うと、一気に書斎のドアを押し開けた。
「誰だ!」
 本棚の前、シキが驚愕の表情で扉を振り返った。
「睡眠」の印を半ばまで紡いでいた右手を下ろし、ロイは大きく溜め息をついた。
「……ああ、すまなかった。君が帰っているとは思っていなかったから……」
 ロイの帰宅に全然気がついていなかったのだろう、相当度肝を抜かれた様子で、シキがおろおろと口を開く。
「……せ、先生、お帰りなさい。あの、私、ちょっと調べ物を……それで……」
 ぐらり、と眩暈を覚えて、ロイは額に手を当てた。目の前の風景が歪み、耳鳴りが周囲の音を呑み込んでいく。
 ロイは大きく息を吐き出した。
 再び明瞭になる視界の中、おののきうろたえるシキの姿が見える。その首筋に絡まる濡れた髪。湯浴みをしたのだろうか、ほんのり色づいた頬。襟元から覗く白い胸元、喘ぐように大きく上下する胸……。
 自分を見つめる怯えたようなシキの瞳が、ロイの中の「何か」を粉々に砕いてしまっていた。
  
  
 ロイが、無言でシキを見据えたまま、後ろ手で扉を閉める。
 師の気配が急に変化したのを感じとって、シキは思わずあとずさった。
「……先生?」
 ロイは無言でシキのほうへと近づいてくる。
 距離を保つように、シキは後ろへと下がっていく。
「……どう、されましたか……? 先生……」
 遂に、シキの踵が机にぶつかった。
 一瞬シキの注意が背後に逸れた。その隙を見逃さず、ロイは大きく一歩踏み込むと、シキを書斎机の上に押し倒した。
 ペン立てが派手な音を立てて転がり、床へと落下する。
 机の縁に強く背中を打ちつけてしまい、シキはすぐに身を起こすことができなかった。それを良いことに、ロイはすかさずシキの足の間に身体を割り入れる。
「やめてください! 先生、気を確かに!」
 肩口を強く押さえつけられる痛みに顔をしかめながら、シキは必死で叫んだ。
「気を確かに、とは、穏やかじゃないね」
 ロイは、熱の籠もった瞳でシキを見下ろした。「私が正気を失っているとでも言うのかい」
「そうです!」
 シキの断言に、ロイは一瞬怯んだのち、不快そうに眉を寄せた。
「……レイが私にかけた術というのは、単に服従を強いるというものではありませんね?」
 シキは、真っ直ぐにロイを見つめた。真実を見通そうというかのごとく。
「何故、そう思う」
「もしや、他の男性が私に興味を持たないように、何らかの制約を課する効果もあったのではないですか?」
 言葉に詰まるロイの様子を見て、シキは自分が正解を引き当てたことを確信した。
「おそらく、術の効果が消えたその反動で、必要以上に……その、……私に魅力を感じてしまわれるのだと……」
 そうとしか考えられない。一昨日までは何事も無かったのだ。それが突然、事態は豹変した。
 
『貴方の気配が……昨日までとは明らかに違っていて……その、なんだか急に女らしく、色っぽくなった、というか……』
『女は化ける、とはよく言ったものだ。つい昨日までは、少年のようにしか見えなかったのに、これではまるで別人だ』
 
 ――私は何も変わっていないというのに。……一点だけ、レイの術が解除されたということを除いては。
 現に、あれから一日が経過した今日、皆の様子は随分落ち着いてきていた。今のシキを、見慣れてしまったのだろう。
「……だから、先生、落ち着いてください。これは所詮まやかしです」
 そう言ってシキはロイの胸を押しのけようとした。しかし、ロイは更に重心を傾けて、シキの上に圧しかかってくる。
「先生……っ」
「まやかしではない」
 懸命のシキの説得にもかかわらず、ロイは僅かとも揺らがなかった。
「惑わされてなどいない」
「ですから、術が」
「私を誰だと思っているのだ?」
「でも」
「くどい!」
 肩を掴むロイの手のひらが、熱い。それに増して熱を帯びる彼の眼差しが、痛いぐらいにシキに突き刺さる。
「だって、こんな、突然……」
「突然ではない。ずっと前から、こうしたいと思っていた」
 視界一杯にロイの顔が大写しになる。思わず目をつむったシキの唇に、柔らかいものがそっと触れた。
  
 その瞬間、シキの中で、嵌絵の最後の一片が、すとん、と正位置に嵌まり込んだ。
  
 一昨日の夜にロイがシキに投げかけた問いが、シキの脳裏に甦ってくる。
『どうしてレイは、恋人であるはずの君を、邪教の魔術で服従させなければならなかったのか?』
 邪教の魔術でシキを支配下に置き、無理矢理反乱団へ連れて行くつもりだったのなら、幾らでもその機会はあったはずだった。なのに、レイはそうしなかった。
 ここに、師の言葉との大きな齟齬が二つある。一つは術の効果について。そしてもう一つは、レイの目的について。
 レイの目的が違っていれば、術の効果についても評価が変わってくるだろう。となれば、どちらに転んでも、くだんの術について再考する必要が出てくるのだ。
 ――そう、果たしてその術は本当に、被術者を強制的に従わせるためのものであるのか、どうか。
 シキは、愕然と瞼を開いた。
 その術は、他の男性がシキに興味を持たないように、何らかの制約を課する効果があった。
 ならば、レイは何のためにその術をシキにかけようと思ったのか。
「シキ……、愛している」
 熱に浮かされるような眼差しとともに、ロイが微笑んだ。先日のあの妖しい夢の中で、レイが囁いたのと同じ口調で。
 そして、再び、唇が重ねあわされる。
 柔らかいものが入り込もうとする感触に、シキは弾かれたように首を振った。
「先生、まさか……」
「まさか? 何だね?」
 まさか、レイは、先生の気持ちに気づいていたのではないだろうか。そして、それが成就するのを阻止するために、シキにあの術をかけたのではないだろうか。
 ――と、いうことは、レイが命を落とした原因は、先生に……、そして……
  
 しばしの間、まばたきすら忘れて目を見開いていたシキの、まなじりに光が宿った。溢れる涙が珠となって、白磁の頬を滑り落ちていく。
 それを見たロイが、困ったような表情でそっと眉をひそめた。
「私のことが、嫌いかい?」
 シキは反射的に首を横に振った。
 嫌いなはずがない。孤児だった自分達を引き取ってくれた恩も、深い知識に対する尊敬や憧れも、そして何より、師とともに過ごした十年間の思い出が、シキの胸の中には詰まっているのだ。
「ならば、どうして泣いているのだ」
「……だって、」
 だって、レイが死んだのは、私のせいだったのだから。心の中でそう叫びながら、シキはいつまでもはらはらと涙を流し続けた。