三 葛藤
シンガツェの祠の森には、「主の大木」と呼ばれる大きな楢の切り株がある。
シキとレイは、その切り株に並んで腰かけて、ザラシュに与えられた「宿題」の答えに頭をひねっていた。
「あーーーーーーーーっ! わっかんねぇ!」
大きく仰け反って頭をがしがしと掻き毟り、レイは雄叫びを上げた。
「フォール神の呪文書ってったって、そんなのパラパラと流し読みしただけだぜ……。まともに読み込んだ術は一つだけだし……」
その横でずっと黙りこくっていたシキが、レイのその呟きに初めて反応らしい反応を返してきた。
「その術って……もしかして……」
「んぁ? ……ぁあ。その……アレだよ。その……、東の森で……したヤツだ」
行為そのものよりも、あの時の自分の軽率な判断が恥ずかしくて、レイは少し言いよどんだ。
結局、自分もロイと同根なのだ。シキに拒絶されるのが怖くて、小手先の業を弄した挙げ句に、大切なものを見失ってしまった。今、こうやって彼女と再び巡り会うことができたのは、必然というよりも幸運の賜物だろう。
それに、レイは気がついていた。ロイの名前を耳にするたびに、シキの瞳が微かに揺れることに。
あの時、あんな術に頼らずにシキと二人で家を出ておれば。ならば、二人の間に禁忌など生じなかったであろうに。
「……レイは、どうやってその呪文書を手に入れたわけ?」
前を向いたまま、シキが静かに問いかけてくる。話すべきか……話さないべきか。レイは逡巡した。
――シキをこれ以上苦しめたくない。
再会して以来、彼女はロイの話題を頑なに避けている。何があったのかレイに知られたくない、ということなのだろう。思い出したくない、ということなのかもしれない。だから、レイも極力ロイのことを話題にしないようにしていた。
それに、無意識のうちにレイは怖れていたのだ。
ロイの名前を聞けば、シキの心に未練が生じるのではないか、と。ロイと袂を別ったことを、彼女が後悔しないだろうか、と。
だが、黙することによって、その怖れは更に増幅する。胸の奥の重苦しい錘は、レイ自身も気がつかないまま、彼を更に深みへと引きずり込んでいく。
それでも。
水面から差し込んだ僅かな光の筋を頼りに、レイの心は浮上を試みた。
根拠など何もない、それは、半ば直感だった。ぐるぐると思考が渦を巻く中、彼の唇は勝手に言葉を紡ぎ出していた。
「ロイが熱を出した日、あったろ」
師匠の名前を久方ぶりに口にした瞬間、えも言われぬ感情のうねりがレイを揺さぶった。
「うん」
「あの時頼まれたお 使 い の中身が、その呪文書だったんだよ」
シキがゆっくりと、右を、レイのほうを向いた。
もう、後戻りはできない。一瞬だけ目を固くつむって、レイは覚悟を決めた。
「崖崩れに遭う前に、俺は寄り道して呪文書をあの洞窟に隠したんだ。ロイがお前にあの術を使わないように」
「やっぱり、そうだったんだ……」
シキが目を伏せる。
やっぱり、と言うからには、シキもうすうす想像していたのだろう。ルドスの安宿で「私がいなければ」と声を上げた彼女を思い出し、レイの胸はちくちくと痛んだ。
もしかしたら、自分は今、彼女の傷に塩を塗り込んでいるのではないだろうか。レイは悔恨の念に苛まれて奥歯を噛み締めた。やはり、禁忌は禁忌としてそっとしておかなければならなかったのだろうか、と。
一呼吸の間を置いて、シキが静かに口を開いた。
「どんな術?」
「え?」
「教えて、レイ。私にかけた術はどんなものだったの?」
再び顔を上げたシキの、その瞳には、いつもの光が戻っていた。真っ直ぐにレイを見つめるその視線に込められているのは、ただひたすらに真実を求めようとする強い意志。
レイは、シキのそんな眼差しが大好きだった。
生き生きと、水を得た魚のようにシキは知識の海を泳ぐ。どうしても彼女と同じものを見ていたくて、レイは必死で魔術の勉強に取り組んだ。その視線の先に立つ稀代の大魔術師に、羨望と嫉妬の情を抱きながら……。
――ああ、そうか。そういうことだったんだ。
何故、こんなにも今の自分達が不安定なのか、唐突にレイは理解した。
そう、忌避すべきなのは、否定すべきなのは…………
「どんな術って……、そうだな、『お前は俺のもの、一応俺もお前のもの』って感じ?」
レイは、殊更に軽い調子でそう答えた。
ふざけているとしか思えないその口調に、シキの眉間に皺が寄る。
「…………は?」
そんな彼女の様子をあえて無視して、レイは話し続けた。
「フォール神ってのが豊穣の神だってのは、知ってるんだよな?」
「あ、うん。……あの、お母さんにそっくりな」
「そ。で、フォール神の術は、両思いの男女一組で唱える必要があるんだ。
豊穣の祈りなんて大事な仕事をするって時に、浮気したりとか浮気されたりとか、相手が略奪されたりなんてことになったら大変だろ。そんな面倒な事態を防ぐための術ということだ」
大胆に総括するレイの言に、シキがより一層眉を寄せる。
「相手を服従させる術だって……その……、聞いたけど?」
「確かに『支配下に置く』みたいな記述はあったけどさ、『お互いに』なんて書いてあったし、服従と言うのとは少し違うのかもしれない、と思う。大体、俺、確かめてないし」
そこまで言ってから、レイはわざとらしく眉をひそめた。
「そうか、しまったな……。どういうふうにシキを『支配』できるのか、試してみるんだった」
「なっ、何よ、それ」
「決まってるだろ? 普通に頼んでもシキがしてくれなさそうな、あーんなこととか、こーんなこととか頼むんじゃん」
「馬鹿っ!」
顔を真っ赤にさせて、シキがそっぽを向いた。レイはにやにやと笑いながら、そんな彼女の顔を覗き込む。
「何、想像してんだよ? やらしい奴だな」
「何も! それより、術の説明!」
「はいはい。……えーっと、どこまで話したっけ? ……ああ、そうそう。とにかく、二人の間に邪魔が入らないように、被術者の『性』が他の人間に対して封印される。要するに、他人から色恋沙汰の対象として見られることがなくなるんだ。
ただし、術をかけた奴にも当然代償はあって、その術をかけた相手以外と肉体関係が持てなくなる。なんでも、相当な苦痛が与えられるらしい。……そっちも、試したことはなかったけどさ」
明後日の方向を向いて頬をふくらませていたシキが、ゆっくりと、吃驚した表情で振り返った。
シキの口の中に、生唾が溢れてくる。からからに乾いた喉を必死で動かして、彼女は唾を呑み込んだ。
ただ強権的に隷属させられる、服従させられる。……それでも、別に構わなかった。それだけレイが自分のことを求めてくれているのだと、そう考えるのは、決して不快なことではなかったからだ。
「どうした?」
レイが不思議そうに問いかけてくる。
シキの鼓動は、今や早鐘のようだった。言葉を発しようにも、まるで麻痺したかのように上手く舌が動かない。
でも、これだけは、この気持ちだけは、今、彼に伝えておきたい。シキは喘ぐように息を継ぐと、下を向いて訥々と語りだした。
「……その……、もっと一方的な術だとばかり思っていたから……レイがそんな制約を受け入れてくれていたってことが、…………嬉しい」
シキの台詞が終わるのを待たずに、レイの腕がシキの肩にまわされた。その腕に力が込められるのを感じて、シキはうっとりと目を閉じた。
レイの抱擁に答えるべく、シキも腕を彼の背中へと伸ばす。逞しい身体をそっと抱きしめようとして……、シキは我に返った。
――なんて、浅ましい女……!
レイが禁欲的な日々を送っていた間、一体自分は何をしていたのか。
レイの術に守られているとも知らず、ただひたすら悲嘆にくれ、運命を、レイのことをすら呪っていた。そして、術が解け周囲の状況が動き始めれば、今度は流されるがままにロイの求愛に首を縦に振ったのだ。いくらレイが死んだと思い込んでいたにしても、それはあまりにも恥ずべき行為ではないだろうか。ロイはレイを殺した……殺そうとした相手なのに。
なんという、浅ましい女だろうか。
そればかりか、レイが生きていたと分かるや否や、それまで傍に寄り添っていたはずの師を、手のひらを返すように捨てたのだ。
――私は、レイの好意を受け取れるような人間ではない!
その瞬間、シキの頭の中は真っ白になった。
恐慌をきたした彼女を、内なる声が揺り動かす。逃げろ、逃げてしまえ、ここから逃げるんだ、と。
シキは必死でレイの腕を引き剥がした。驚きの表情を浮かべるレイの手を振り払うようにして立ち上がり、枯れ葉を蹴散らしながら、木立の中へと駆け込んでいく。
「待てよ!」
レイの上ずった叫び声が追い縋る。がさがさと枯れ葉を踏む音が一気にシキの背後へと迫って来た。
左手首を掴まれ、力ずくで振り返らされたシキは、傍らの木の幹に背を向けた姿勢でレイに押さえ込まれる。
「…………待てって言ってるだろ」
荒い息、呆れたような声。そしてシキはレイにしっかりと抱きしめられた。
「あのさ」
シキの首筋に顔を埋めながら、レイが静かに囁いた。
「あんまり自分を責めんなよ」
――見透かされていた!
絶望に似た衝撃がシキの全身を打つ。だが、強張るシキの身体を、レイはより強く抱きしめた。
「早とちりすんなよ、シキ。お前はいつも肝心なところで変に暴走するからな」
そうしてそのまま、一音一音確かめるように言葉を紡ぎ出す。
「いいか。お前は何も悪くない」
「でも、レイが私のこと探して、待っててくれてたのに、私……、私は……」
「何も言うな」
「でも……!」
悲鳴にも似た叫びを、レイは身体で受け止めてくれた。
「死んだフリしてた奴のことなんか気にすんじゃねえ」
レイの落ち着いた声が、シキの耳元を震わせる。
硬直していたシキの手足から、ほんの僅か力が抜けた。
「俺が生きていると知ってたら、話は全然変わってくるだろ?」
そう問われて、シキは頷いた。最初はぎこちなく、だが、次に大きく力強く。
「じゃあ、それでいいんだよ。俺は生き返った。全てはそれで元通り、めでたしめでたし、ってことさ」
シキの背中を優しくぽんぽんと叩いてから、レイがそっと身体を離した。
「分かったか? もう二度と自分を責めんな。今度似たようなことしてみやがれ、お仕置きしてやるからな」
嫌だつっても腰が立たなくなるまでやってやるからな、と嘯 くレイに、シキは精一杯の笑顔を浮かべた……浮かべようとした。
「あー、まぁ、あの略奪劇は……、ちょっと先生には気の毒なことしたかな、って思うけど、でも、そもそも最初にあっちが他人の女をかっさらってったんだしな。一勝一敗で恨みっこなし、ってやつか」
「一勝一敗……」
「そ。痛み分け。てか、あの大魔術師と引き分けなんだから、俺ってちょっと凄くないか?」
そう言ってレイは照れたような笑いを見せた。つられたようにシキも微笑んで、それからおずおずと口を開く。
「レイは先生のことを恨んでないの?」
「恨んでないわけでもないけれど、恨んでるわけでもないと言うか」
レイはしばし考え込む素振りを見せてから、ゆっくりと話し始めた。
「十年間、先生は俺達に勉強を、魔術を、その他沢山のことを教えてくれた。住む場所も、食事も、生活に必要な物も、全てを充分過ぎるほど与えてくれた。俺達の育ての親だ。そうだろ?」
ふ、と、レイの眼差しが、遠くなる。
「そう見えなかったかもしれないけどさ、俺だって先生のことを尊敬してた。ガキっぽく反発したりしてたけどさ。良い先生だった。自慢の先生だった。それが、まさかこんなことになるなんて、な。お前と再会できるまで、どうやってあいつに仕返しするかってことばっかり考えてたんだぜ、俺」
そこでレイは、シキの両手をしっかりと握った。それから真っ直ぐシキを見つめた。
「でもさ、それまでのロイとの時間を否定することはないんだ。……いや、否定しちゃいけないんだ」
「レイ…………」
「あいつと何があったかなんて、忘れちまえ。いや、忘れさせてやる。だから、無闇やたらに全てを否定するな。俺達の先生は、間違いなく、ロイ・タヴァーネスだったんだからな」
力強いレイの声に誘発されるようにして、シキの胸に熱い塊が込み上げてきた。
時に優しく、時に厳しかった先生。
魔術のこととなると寝食を忘れて没頭し、些細な発見でも目を輝かせて私達に語り聞かせてくれた先生。
子供は苦手だ、と言いつつ、正面きって生徒と対峙していた不器用な先生。
孤児だった私達を引き取って、十年もの間、導き、育ててくれた先生。
シキの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「レイ、私……先生のことが好きだった。先生の弟子にしてもらえて、とても嬉しかった。いつか先生のようになりたいと思っていた……!」
「……ああ。俺もだ」
「私……先生のこと、忘れない。でも……」
そこまで言って、シキはレイの胸に飛び込んだ。
「……今は……今だけは…………忘れさせて……」
返事の代わりに、レイは静かにシキに口づけた。
自分と世界の境界が、曖昧になる。
再会以来のどこか危機感に煽られるような刹那的な情動ではなく、もっと深いところで求めている、求められている、そんな気がした。
お互いの唇をついばみ、舌を絡め、激しい水音を立てながら、二人は夢中で口づけを貪った。
レイの首にまわした腕に力を込めれば、シキの頭を掴む手にも力が入る。息を継ぐ間も惜しんで、だが荒い息で、二人は唇を重ね続けた。
ごめんなさい、先生。
逃げ出したこと、きっと怒っているでしょうね。
でも、先生も私に嘘をついていたのだから、おあいこ、と言ってもいいですか?
いつまでも一緒にいたかったのは、本当です。
好きだったのも、本当です。
でも……、さようなら。
シキは陶然とした面持ちで、全てをレイに委ねた。
眼下に広がるシンガツェの町が夕闇に沈んでいく。
上気した顔で帰り着いた二人を迎えたのは、無人の山小屋だった。
「あれ? あいつらどこ行ったんだ?」
「夕ご飯食べに行ったんじゃない?」
シキがそう言った途端に、レイのお腹が大きな音で空腹を主張した。その絶妙な符合に、シキは思いっきりふき出してしまった。
むすっと唇を尖らせるレイの横、次いでシキの腹の虫も活動を開始する。一瞬の沈黙のあと、二人は顔を見合わせて笑い始めた。
「俺達も何か食べに行こうぜ」
「賛成」
山小屋と祠のある高台から町に向かって、石造りの階段が設えられている。二人はその階段を辿って、町の中心を貫く坂道に降り立った。
「さーてと、確か広場の辺りに何か店屋が並んでいたよな……」
辺りをきょろきょろと見まわしながら、レイが先導する形で歩き出す。
丁度時間も夕げ時。さほど道幅のない往来は、買い物客や家路を急ぐ人々でごった返していた。お互いがはぐれないように、レイはシキの手をしっかりと握って人波をぬうように進んでいく。
うっすらと頬を染めて、シキは彼の背中を追い続けた。
兄帝の失政、邪教狩り、黒髪の巫子、反乱団……、全てを忘れて、こうやってレイと静かに暮らしたい。ほんの半年前には当たり前だったことの、なんと遠い記憶だろう……。
突如、前方の広場で騒ぎが持ち上がった。
喧嘩か何か、数人の怒号と剣を切り結ぶ音が、人の波を越えて響いてくる。
と、やがて、大きな歓声が上がった。どうやら何かの決着がついたらしい。
大勢が取り囲む人の輪の中心部、頭一つ飛び出したサンの姿を認めて、二人は必死で人垣をかき分けた。
「サン! 何があった!?」
「見てのとおりさ」
レイを振り返ることなく、サンが言う。彼の眼差しは、自らが構えた長剣の先に注がれていた。そこには、屈強な二人の男に取り押さえられた、暗灰色の外套の男。
「さて、貴様の目的を吐いてもらおうか」
ウルスの横に立つ小柄な青年が、殺気を放ちながらそう言って一歩進み出た。眼下の男をねめつけて軽く顎を上げた拍子に、固く結い上げられた栗色の髪が揺れる。
その視線の先、ルーと名乗っていた男が、唇の端に血を滲ませながら、きっ、と顔を上げた。