The one who treads through the void

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DUSK IN BLACK 第十三話 置き去られた想い

  
  
  
    二  霹靂
  
  
 昨夜の礼を言いたくて、というのは理由の半分だった。残る半分は、何かあの男の情報が手に入らないだろうかと思ってのことだ。昨日の今日の気まずさをなんとなく胸に抱きながら、サンは「小鳥と鈴」亭の扉の前に立った。
 山毛欅ぶな通りには、娼館が幾つも軒を並べている。普通の酒場や宿屋よりもやや派手な看板が並ぶ華やかな往来は、ひなびた故郷では想像もつかない世界だ。
 派手とはいえども、六つ角向こうの蹄鉄通りに比べて幾分大人しめで上品なのは、こちらがより高級な娼街であるからだろう。大抵の近衛兵が足しげく通うのは蹄鉄通りの店だったが、金回りの良い者は専らこの山毛欅ぶな通りを利用する。平民出のサンがこの街で遊ぶことができるのは、御前試合の賞金のお陰と、「遊び」に出る頻度が少ないためだった。
 ――大した金の遣い道だ。
 自嘲ですらない乾いた笑みを浮かべながら、サンは店の扉を押し開けた。
  
 カランコロン、と軽やかな鐘の音が響き、店の奥から女将が姿を現した。昨夜とは違って、その匂い立つような肉体を深紫のドレスで包んでいる。大きくあいた胸元から目を逸らすのに、サンは少しだけ苦労した。
「あら、いらっしゃい。さぁさ、茶話室へどうぞ?」
「いや、その、今日はそういうつもりじゃなくて。とりあえず……昨日はご迷惑をおかけしてすみませんでした」
 おや、と少しだけ眉を上げてから、女将はにんまりと相好を崩した。
「大丈夫だったのね?」
「貴女方のお陰で、あの野郎には俺のことは判らなかったみたいです」
「良かったじゃない」
「ええ、本当にありがとうございました」
「おやおや、我らが英雄は礼儀正しくもあるのね。ますます点数が上がるじゃない?」
 どきりとするほど色っぽい女将の流し目に、サンは慌てて両手を振った。
「いやっ、だからっ、助けたのは俺じゃなくて……って、その昨日の彼だけど、あのあとはここには来てませんか?」
 女将は右手の人差し指を顎に当てて、少し不思議そうな表情を作った。
「いいえ? 貴方のお知り合いだったのじゃなくて?」
「いや……」
 帝国一のお尋ね者が、こんなところでいつまでもうろうろしているわけがない、とは思っていた。しかし、昨夜のあの火柱と、それに照らされながら犬歯を剥き出して咆哮する、あの男の姿があまりにも印象的で、サンはそれを見失った場所に来ずにはいられなかったのだ。
 先刻、宵闇に浮かび上がる街路に立って、それは幻影でしかなかったと思い知らされたばかりだったのだが。
「用はそれだけ? なら、遊んで帰りなさいよ。今日は私の奢りでいいわ。みんなー、サンだよー」
「え? えっ? ちょ、ちょっと……!」
 屈託ない笑顔で女将がサンの背中をぐいぐいと押していく。奢り、と聞いて自分の抵抗が弱くなるのを自覚して、サンは心の中で密かに嘆息した。
  
  
 そして、今、彼の身体の下には、夜目にも白い肉体が震えている。
「あ…………うぅん……」
 手のひらになじむ、しっとりと汗ばんだ肌。サンの背中にまわされた細い指に、ぐ、と少しだけ力が込められた。
 ――なんで、俺、こんなことしてんだろ。
 一瞬だけ浮上した自我は、すぐに寝台の上に引き戻された。女の手が彼自身を優しく握り、ゆるりとしごき始めたのだ。
「何を考えてるの?」
 柔らかい乳房から顔を上げると、濃紺の瞳がサンを見つめていた。幼さの残る目元が、不釣り合いに艶めかしく微笑む。
 本当に陰でくじ引きをしているのだろうか。もう十回を超えた遊郭通いで、サンは同じ娘と二度枕をともにしたことはない。これが普通のことなのか、それとも特殊な例なのか、仲間達はあまり秘め事を表で語らない人間ばかりなので、サンにはそれが判らない。
 ただ、故郷に恋人を残している身としては、ありがたい話ではあった。もしも特定の娘と何度も情を交わすようなことになれば……。
 ――本当に、自分がこんなに弱い人間だとは思ってもいなかった。
「だめよ……」
「ん?」
「他のことを考えちゃ、だめ」
 そう言って彼女は、優しくサンを握った。
「今は、私のことを……ね?」
 サンは返答の代わりに左手を女の腿にそっと這わせた。もったいぶるように、そっと秘部を指で探る。そこは既に洪水のように溢れかえっていた。
 指をそろりと柔肉に潜り込ませるだけで、卑猥な水音が大きく響いた。サンは生唾を飲み込みながら、再び女の胸にキスを落とす。唾液にまみれて固く盛り上がった先端が、彼女の喘ぎ声とともに歓喜に震えている。サンはなおも舌先でそこを攻めながら、指で小刻みに秘筒をかきまわし始めた。
「あん……もう、……焦らさないで……」
「欲しい?」
「欲しいわ……とっても」
 サンの脳裏に、懐かしい声が蘇る――
『もぉ、やだ……、分かってて訊かないでよ……』
 ――ぞくぞくするほど妖艶な笑みよりも、あの不器用な恥じらいのほうが、ぐっとくるというのは……、まだ、自分自身を信用しても良いってことか。
  
 サンは身を起こすと、静かに女の膝を持ち上げた。そそり立つ一物の先で、そっと割れ目の入り口を撫でる。先端が花芽に当たるたびに、女の腰が跳ね上がった。
「っんっ、あぁ……っ」
 ぬるぬるとした液体が混ざり合う。サンのモノが軽く触れるだけで、来てほしい、来てほしい、と淫唇がわななき震えている。
「行くよ」
 充分に濡れている秘壷が、えらの張り出したサンの先端を難なく呑み込んだ。熱い媚肉を押し広げながら、更に奥へ奥へと分け進む。泡立つような水音とともに、遂にサン自身は根元まで咥え込まれた。
「あ……ぁん……す、ご……」
 先が何かに当たっている。腰を更に押しつけて、その何かを刺激するように動かすと、女の喉が大きく伸びきった。
「あぁあ……っ、……やんっ……そんな、奥まで……っ」
 ぎゅ、と内部が締め上がった。そこをすかさず腰を引けば、絶妙な刺激が肉の杭を震わせる。吸いつくように絡みつくそこを味わいながら、サンはゆっくりと抽き挿しを始めた。
「あっ、あっ……いい……っ」
 先端を残すぎりぎりのところまで引き抜いてから、最奥まで一気に突き入れる。粘液をかきまわすいやらしい音が、サンの脳裏の雑音を消し去っていく。
「んふっ……あはぁっ…………もっと……もっとぉ……」
 自分の身体の感覚が、局部に集約する。
 自分と、自分を受け入れている身体と、今はそれだけが世界の全てだった。
  
  
「ねえ。相談があるんだけど」
 シャツに袖を通していたサンは、怪訝そうな顔で寝台を振り返った。
 先ほどまで彼を充分に愉しませてくれていた身体を掛布に包んで、女が身を起こすところだった。
「貴方は信用できるって聞いたから」
 さあ、ややこしいことになりそうだ。あのお尋ね者が施した善行で、どうして自分までもが信用されることになるのだろうか。サンは軽い眩暈を感じつつも、それでも笑顔で女に問いかけた。
「相談っていっても、できる事とできない事があるけど?」
「貴方、城の門のところにいるのでしょう?」
 サンの当惑に気がつかないのか、そのふりなのか、女は乱れた髪を手できながら、視線を彼から逸らして話し続ける。
「兄さんがね、帰ってこないのよ」
 思いもかけない単語が飛び出して、サンは目をしばたたかせた。
「兄さん?」
「そう。癒やし手の、ね。私なんかと違って真面目で、優秀で、良き旦那様で。ランデの町の教会で副助祭をしているの」
 ランデとは、帝都のすぐ南にある都市で、商都とも称される町だ。
 話の向かう先が読みきれずに、サンは黙って女の次の言葉を待つ。
「腕の立つ癒やし手が必要だから、って城に呼ばれたそうなの。それから三ヶ月、兄さんが帰ってこないって、義姉さんはそう言ってた。ねえ、貴方、知らない?」
 なんだ、そんなことか。サンは安堵の溜め息を漏らした。と、同時に、自分の非力さを表明せねばならないことに対して苛立ちに似た思いが胸に湧き起こる。
「……城には毎日沢山の人の出入りがあるから。それに、俺は四六時中門に立っているわけではないんだ。門は幾つもあるし。……君の兄さんの特徴を教えてくれる?」
「私と同じ髪の色なの。男の人にしては少し小柄で……兄妹良く似てるって言われるわ」
 門番の仕事は、不審者からの城の警護だ。逆さに言えば、正規の手続きを経て入城する者が記憶に残ることはない。よほど人目を引く人物でなければ。
「そうか。一応他の奴にも訊いてみるけれど……」
 シャツのボタンをとめ終わってから、サンは剣のベルトに手を伸ばした。重い長剣を易々と持ち上げると、腰にとめる。
「そうだわ、これ……」
 女が身体に掛布をまきつけて立ち上がった。寝台脇の小机の引き出しをあけ、小さな光る物を取り出す。
 それは、細い銀の腕輪だった。蔦が複雑に絡み合ったデザインの、上品な細工物だった。
「これ、親の形見なのよ。同じものを兄さんもつけていたわ。私のはここに赤い石が、兄さんのには青い石が嵌め込んであるの」
 ランプの光を映し込んで、その銀の輪は黄金色に輝いている。
 なるほど、近くで見れば確かに特徴的な代物だ。だが、首から下げて歩くでもしない限り、この腕輪の存在感は無きに等しいだろう。それがどれだけ尋ね人を特定する役に立つというのだろうか、甚だ疑問である。
「判った。調べてみる。だけど、あまり期待しないでほしい」
 サンは、やっとの思いで言葉を絞り出すと、振り返ることなく部屋をあとにした。
  
  
  
 サンが専ら警護を受け持っているのは、宮城の正面、外郭の堀にかかる大きな跳ね橋を備えつけた一番大きな門だ。城の玄関口であるそこは城内で一番人通りが多く、それ故常に五人以上の近衛兵が、この重要な任務についていた。
 すっかり春めいた陽光の下、同僚が門を通過しようとした四輪馬車をあらためているのを、サンはぼんやりと眺めていた。
 ――深茶色の髪に、濃紺の瞳の副助祭。背丈は自分の胸ぐらいか。そして、どちらかの腕に銀の腕輪。
 これだけの条件で尋ね人が見つかるわけがないだろう。そもそも城に来たのは三ヶ月も前だと言うのだから、たとえ目撃されていたとしても既に人々の記憶からはこぼれ落ちてしまっているはずである。
 歳若くして副助祭を務めている優秀な男……。サンは、姉の結婚相手であるイの町の副助祭を思い出していた。瞳の色こそ違えど、あの遊女が語る「兄さん」の肖像は、無性に義兄を思い起こさせる。もしも彼が消息を絶ったらば、姉は一体どうするだろうか……。
 つらつらと思考をめぐらせていたサンだったが、人影が一つ自分のほうに向かってくるのを目の端で捉えて、おのれの任務に頭を切り替えた。
  
 彼は聖職者の服装をしていた。良く陽に焼けた精悍な顔立ちの初老の男は、人の良さそうな表情で真っ直ぐサンに語りかける。
「皇帝陛下のお城へは、ここからでよろしいのですかな」
 その言葉には、少しだけ東部訛りが混ざっていた。近衛兵制式の兜の下で、サンの瞳が一瞬だけ揺れる。
「そうですが、許可なくしてここをお通しするわけには参りません」
「それがなあ、案内してくださった騎士様とはぐれてしまっての」
 心底困ったふうな様子で男は頭を掻いた。
 どうした? と同僚が一人、駆け寄ってくる。サンが状況を説明しようとしたその時、男が一人、息せき切ってこちらへと走って来た。
 二人の近衛兵が無言で見守るのとは対照的に、初老の男は途端に顔を綻ばせた。
「おお、騎士様」
「すみません! 司祭殿、こちらにおいででしたか」
 騎士は肩で息をしながら、懐から取り出した通行証をサン達に見せる。
「すみません、ご迷惑をおかけしました。通りますよ」
  
 ――随分腰の低い騎士だな。
 門をくぐっていく二人を見送るサンに、同僚が語りかける。
「ああ、知らないか? 『カナン家のみそっかす』だぜ」
 胸の内での呟きに返事があったことと、その内容とに驚かされて、サンは勢い良く同僚を振り返った。
「って、あの公爵家の?」
「ああ。本草学の道を選んだ変わり者が、兄君が病死したってんで、急遽跡継ぎとして騎士の叙勲を受けたらしい」
「詳しいのな」
「この間、偶々ご本人と話す機会があってな。まさか公爵家のご子息が、公園の繁みに這いつくばって薬草採取しているとは思わないだろ? 話をしているうちに、こっちは真っ青になったぜ」
 サンは、第二城壁のアーチに吸い込まれていく二つの影をじっと見つめた。
「あの人当たりの良さからか、雑用ばかりが廻ってくるんだそうだ。気の毒に。器用な奴は上手く立ち回って楽をしているんだろうにな」
  
  
  
 それから二日は、何事も無く過ぎ去っていった。
 いつもどおりの、うんざりするほど変わりのない日々。平和なことは良いことだ、とは思うのに、妙に遣りきれなくなるのは何故なのだろう。サンは営舎の食堂で朝食の皿をつつきながら、頬杖をついた姿勢で溜め息を漏らした。
 近衛兵営舎での生活は三食つきだ。だが、その食事は質、量ともにあまり満足のいくものではなく、その日の勤務の終わりには、皆大抵町に繰り出すことになる。
 昨夜もサンはいつもの店のいつものテーブルに落ち着いていた。懲りない性格なのか、相当の馬鹿なのか、ディイはまた同じ女給仕に絡み始め、そして彼女は今度は早々に厨房に引っ込むと、二度と店内に姿を現さなかった。
  
 そういえば、とサンは辺りを見まわした。ディイの姿が食堂に無い。
 奴が朝の訓練をサボるのは決して珍しいことではなかったが、食事を抜くというのは考えられない。いや、それどころか、今朝の朝食は幾分席が寂しいではないか。普段は隙間なく埋まっているテーブルに、ちらほらと欠けが散見される。どういうことだ? とサンは首をひねった。
  
「サン、ダイル、ジェン、それから、テッセン、アディアマス、タンタ!」
 ささやかながらも食後のお茶を愉しんでいた一同に、警備部長の声がかかる。名を呼ばれた六名は、即座に椅子を蹴って立ち上がると、直立不動の体勢で指示を仰いだ。
「ディイ達の調子が悪くてな。本日はお前達に彼らの代わりを頼むぞ」
 食堂のそこかしこで怪訝そうに交わされる視線を意識して、警備部長は咳払いをする。
「酷い腹痛らしくてな。夜中に城内の治療院に搬送された。今日明日は使い物になりそうにない。サン達の穴埋めは、悪いが非番の者に頼む。そちらの人員の詳細は、会議室で発表しよう」
 そこまで言ってから、警備部長は口ひげを撫でつけながらサンの顔を覗き込んだ。
「どうやら食あたりか何からしいが、お前達も昨夜は『龍の巣』に行ったのだろう? どうだ、調子は?」
「は。特に問題ありません」
「だよな。俺も少しとはいえ、つまみに行ったしな。あいつら、一体どこで何を食べたんだ……」
 ふと、サンの脳裏に勝ち気そうなあの女給仕の顔が思い浮かんだ。
 これが彼女の意趣返しだとしても、何も不思議はない。むしろ、そう考えるほうが自然というものだろう。思わず苦笑を漏らしそうになったサンは、すぐ横に立つジェンが肩を震わせているのに気がついた。
「自業自得だろ」
 微かな呟きを聞くに、どうやら彼も同じ想像をしているようだ。サンはジェンの肩を軽く叩いてから、退出する警備部長のあとを追った。
  
  
 三重の城壁に囲まれた、難攻不落の城。堀から立ち上がった十二の塔を、巡回路を頂いた堅牢な石組みが繋いでいる。近衛兵の営舎は、この第一城壁のすぐ内側にあった。城の裏手に広がる、訓練に使われる緑地と農園を見ながら、サン達は警備部長に従って第二の城壁にある「鐘の塔」へと入っていった。
 塔をくぐり抜けた六人は、そこに立つ儀式部長へと引き渡された。
 近衛兵は大きく二つの部に分かれている。少数の儀式部と残り大多数の警備部。ディイ達が属しているのはその儀式部だ。式典などで皇帝陛下の至近をお守りする輝かしい仕事。それ故普段は三交代の輪番からは外れている、俗に言う閑職でもあった。彼らが「職を金で買った」と陰口を叩かれる所以である。
 堂々たる体躯の警備部長とは対照的に、儀式部長は今にも倒れそうな線の細い男だ。未だ壮年にもかかわらず、既に立ち枯れた冬の木のような気配を見せるその男は、神経質そうな眉間に皺を刻んでサンたちを出迎えた。
「こちらだ」
 いざなわれるがままに最後の城壁を通過した彼らは、遂に要塞の一番内側の領域に足を踏み入れた。足元で動いた影を追って背後を振り仰ぐと、城壁の上の巡回路を警備する同僚が怪訝そうな顔で自分達を見つめていた。
  
  
 名実ともに城の中核を担う「鷲の塔」の中、彼らが通されたのはなんと皇帝陛下の謁見の間だった。ただひたすら驚愕の表情を浮かべて、サン達は美しく磨かれた大理石の床の上に立ち尽くす。
 剣の競技場が優に三つは納まりそうな広い室内には、天窓からの明かりがきらきらと差し込んでいる。見上げるばかりに高い天井の全てには、美しい絵画がえがかれていた。
 部屋の中央にある、一際雄大な丸天井は、「鷲の塔」の中央にそびえる大塔の内側なのだろう。あの無骨な塔の内部にこんな見事な天井画がえがかれているとは、今の今まで彼らは知らなかった。
 命じられたとおりに直立不動の姿勢で横一列に整列したものの、視線が辺りを彷徨ってしまうのを彼らは止められなかった。その様子に気がついた儀式部長が、険しい顔で口を開く……いや、開こうとした。
 だが、次の瞬間、儀式部長の気配が急に変化した。
 彼の身に一体何が起こったのか、儀式部長のおもてからはいっさいの表情が消え、その眼窩はまるでうろのようだった。驚いた六人が思わず列を乱しかけたその時、最上座の扉が閉じる音がした。
 いつの間に入室していたのだろうか。その人物は今度は気配を殺すことなく、靴音を響かせながらサン達のほうへと歩み寄ってきた。
  
 緋色のマントがひるがえる。
 式典で目撃される時よりは随分と控え目な装飾の、それでも充分煌びやかな衣服に身を包んだその人は、誰あろう、アスラ兄帝その人に他ならない。
 サン達は一様に息を呑んで、それから慌てて最敬礼した。跪いたほうが良かったのだろうか、と胸の内で思案しながら。
「選り抜きの兵とはその者達か」
「はい」
 やはり、儀式部長の反応は虚ろだった。だが、アスラはそれに頓着する様子もない。
「顔を上げよ」
 自分達一兵卒が、立ったままでおもてを上げるなど許されないのではないだろうか。サン達は激しく動揺しながらも、おずおずと命に従う。
 間近で見る兄帝は、息を呑むほどに美しかった。美丈夫、という言葉がこれほど似合う人物は、帝国中を探しても彼ら双子以外に見つからないだろう……。
 自分に見惚れる六人の近衛兵を満足そうに見まわして、それからアスラは何事かを呟き始めた。
  
 その兆候は突然訪れた。
 頭に釘か何かを打ちつけられるかのような痛み。急に襲いかかってきた激痛をこらえようと、サンは御前にもかかわらず両手でこめかみに爪を立てた。
 自分の両側に並んだ同僚達が、一人、二人、と頭を抱えて床に膝をつき始める。あまりの苦痛に呻くことすらできずに、サンは強烈な疼痛と戦い続けた。
「なるほど。お前の見る目は確かなようだな。前の者どもよりも随分と骨がある」
「恐縮です」
「愚鈍な者どもを傀儡くぐつと成すのは簡単で良いのだが、こうも使い勝手が悪くてはかなわないからな。人員を入れ替える丁度良い機会だ」
 兄帝と儀式部長のやけに平静な声が耳に飛び込んでくるが、頭を苛む苛烈な痛みは言葉の意味を考えさせてくれない。
 隣のジェンが、どさりと床に倒れ伏した。ほぼ同時に、その向こうのダイルとタンタが崩れ落ちる。右手では、更に誰かが昏倒した気配。テッセンか? アディアマスは無事なのか?
 遂にサンの膝が折れた。頭痛は耐え難い吐き気に席を譲り、臓腑をねじられるような感覚に全身が支配される。四つん這いの姿勢で、嘔吐しようと喉の奥をせり出しても、そこから漏れるのは喘ぐような荒い呼吸だけだった。
 ――なんだ? 何が起こっているんだ?
 脂汗が頬をつたって床に落ちる。必死で喘ぐサンの前に、綺麗に磨かれた白い靴が立った。
「全てを我に委ねるのだ。…………楽になるぞ」
 それは、喩えようもなく甘美な囁き。
 アスラの声はこれ以上ないほどに優しく、サンの意識を包み込んでいった。
  
  
  
「何か」が、自分に指図している。
  
 ――地下に行け。
 ――礼拝堂の地下へ。
  
 六つの人影が、無言でその指図に従う。祭壇の裏の隠された扉を古めかしい鍵で開き、暗闇へと続く階段を降りていく。
  
 ――そこに、麻布をかぶせられた物体があるだろう。それを運び出せ。
  
 通る道も定められている。来た道とは別な螺旋階段。自分の手足すら定かではない闇の中、彼らは一度も躓くことなく階段をのぼり続けた。荷物を乗せた担架の四隅を握り締めて。
 一人が突き当たりの扉を開く。眩い外の光と冷たい風が、怒涛のごとく彼らに襲いかかる。だが、六人は身じろぎ一つしない。
「鷲の塔」の北の端の塔。この建物にそびえ立つ四つの尖塔すら見下ろす、一番高い櫓塔が目的地だった。
 この塔では、皇帝の紋章である鷲が餌づけされている。大きな翼が遠くへ羽ばたいては帰投する、その力強さはまるでこの国を象徴しているかのようで、この塔を見上げる誰もが敬意を表さずにはおられない。宮城の中心にあるこの棟が「鷲の塔」と名づけられた所以だ。
 その塔の天辺に荷物を置く。
 振り返らずにそこから出る。
 自分達に課せられた任務はそれだけだ。あとは、再び謁見の間まで戻るだけ。
 彼らは黙々と仕事をこなした。強い風にあおられながら、表情一つ変えずに荷を下ろす。空いた担架を再び四人で持ち、残る二人が前後を詰める。
  
  
 それは、ほんの微かな光だった。
 櫓の外壁の影の中、きらり、と何かが光ったのだ。
 しんがりを務めるサンの虚ろな瞳が、その光を捕らえた。そのまま「指図」に従って通路への扉に向かう彼の、脳裏に閃く女の声。
『これ、親の形見なのよ』
  
 反射的に、サンはその光へ振り向いた。
 外壁ぎわの暗がりに転がる、銀色の輪。蔦のモチーフの見憶えのある腕輪。小さな青い光が目を、眼底を、脳天を射る。
 心拍数が急激に跳ね上がった。心臓が喉元へとせり上がってくる。
  
『兄さんがね、帰ってこないのよ』
『腕の立つ癒やし手が必要だから、って城に呼ばれたそうなの』
  
 どういうことだ?
  
 ――余計なことを考えるな。
  
 これが、何故、ここにある?
  
 ――何も考えるな。
  
 俺は今、何をしているんだ?
  
 ――振り返るな。
  
 俺は今……
  
 ――見るな。
  
 …………俺は今、何を運んで来た?
  
 ――見ては、いけない!
  
  
 大きな羽ばたきの音が舞い降りる。
 幾つもの羽音と、唸るような鳴き声。
 せわしなく何かを啄ばむ音。
 風に舞う血の臭い。
  
 自分を縛る見えない枷を引きちぎるようにして、サンはゆっくりと振り返った。
 舞い散る茶色の羽々。
 群がる鷲達の隙間、麻布が風にめくれている。その下から覗くのは、白い……布?
  
 喘ぐように息を継ぐサンの視界の端、五人の同僚が虚ろな瞳で次々と剣を構え始める。
 だが、サンは何かに取り憑かれたかのように、あらわになっていくそれを見つめ続けた。
 一番大きな鷲が一瞬飛び上がり、再び降り立つ。その拍子に、ごろり、とサンのほうを向いたのは…………血の気のない、顔。
 白い僧衣の襟元、血を流す口元。
 ほんの三日前には、この唇は懐かしい東部訛りを紡ぎ出していた。良く陽に焼けた精悍な顔立ちの、人の良さそうな老司祭……。
  
 サンは、絶叫した。