The one who treads through the void

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DUSK IN BLACK 第十五話 夜を司り、死をもたらす者

  
  
  
    三  階梯
  
  
 ロイがランデのタヴァーネス邸から帰宅して二日が経った。
 再任の宮廷魔術師長の前には文字どおりなすべき仕事が山積しており、ロイは取り憑かれたようにそれらに没頭し続けた。胸の内で渦巻く漠然とした不安から目を背けるがごとく。
 タヴァーネス子爵のこと。
 不愉快な夢のこと。
 そして……シキのこと。
 ロイはそれら全てを無理矢理に脳裏から追い出して、ただひたすらおのが仕事にのめり込んでいた。
  
  
「全てが終わったようだよ」
 御前に立ったロイに向かって、アスラがまるで春の陽炎のように暖かい笑みを見せた。
「は。何が、でしょうか」
 執務室の机に両肘をついて上目遣いでロイを見上げるその瞳が、溢れんばかりの喜びをたたえているのを見て、ロイは怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだ、随分と景気の悪い顔をする」
「……いえ、陛下はいつもそんな表情で、私に無理難題を吹っかけなさるものですから」
「言ってくれるな」
 柳眉を緩ませながら、アスラが口角を微かに上げた。「まあ、良い。今度ばかりは朗報だ」
「どうされましたか」
「ザラシュ・ライアンが死んだよ」
 ロイの身体が一瞬にして硬直した。少し遅れて、言葉の意味がじわり、と胸の奥に浸透していく。
 ――前宮廷魔術師長が。この自分がかつて師と仰いだ彼が……死んだ?
 次に浮かんだ言葉は、「何故」の一言だった。彼ほどの術師が、一体全体どうして、どのようにして。
 半ば我が耳を疑いながらも、ロイはぐるぐると思考をめぐらせる。いつ、どこで、どうやって、ザラシュは命を失ったというのだ。よわい六十という老境に身を置きながらも、十五年の過酷な放浪の果てに新たなる術を得て、我が前に立ち塞がった大いなる存在。その彼が、一体何によって地に伏したというのだ。
 そこまで考えたロイの頭に、二番目に浮かび上がった言葉も「何故」だった。ただし、先ほどとは疑問の矛先が違う。
「……何故、陛下はそのようなことをご存知なのですか?」
 今日は朝議以降、アスラは誰とも会っていないはずだった。ならば、彼は一体どこからこの報せを受け取ったのか。もしも昨日以前のことだというのならば、このような情報がロイの耳に入らないわけがない。
 眉間に皺を刻むロイを見て、アスラが小さく笑った。悪戯が成功した子供のように。
「ルドスの警備隊隊長に、ある物を預けてきた。ザラシュ・ライアンに対抗するために」
「ある物、とは?」
 その刹那、アスラの瞳が、ぎらりと光ったように見えた。
「『死』の指輪、だよ。使えば『しらせ』が飛ぶようにしておいた。それが、先ほど届いたのだ」
 世に謂われる暗黒魔術、その筆頭ともいえる術が「死」であった。その術を受けた者は、一瞬にしてその生命の終焉を迎えることとなる。
 術者よりも被術者の力量が上回っておれば、術を弾き飛ばすことも可能だろうが、そもそもが「死」は最高位の術である。それを習得し施術しようとする人間に対して、一体誰が対抗できるというのだろうか。
 そして、この術はロイにとって唯一の未知の術であった。彼がこの術を会得する前に、ギルドが暗黒魔術を封印してしまったからだ。
「陛下、『死』の指輪など、一体、どうなさったのですか」
「数年前に、譲り受けた」
「どなたから」
「さあ、誰だったかな。憶えておらぬ」
「憶えてらっしゃらないと!? 『死』の指輪ですよ!」
 思わず上げた自分の声が上ずっていることに気がついて、ロイは我を取り戻した。慌てて非礼を詫びて、一歩下がる。
 アスラは、何事も無かったかのように、どこか遠い瞳でロイに微笑みかけてきた。
「指輪は発動した。彼があの指輪をザラシュ以外の者に使うようなことはあるまい。ならば、奴が命を落としたのはまず間違いないだろう」
 その指輪に術を込めた術者の技量が、ザラシュを上回っているとしたならば。その仮定条件をロイは密かに呑み込んだ。アスラの表情を見る限り、それについて論じることが酷く無意味であるように思えたからだ。
 帝国一の魔術の使い手、ロイ・タヴァーネス。自らもそう信じて疑わないロイの胸中に時折生じる微かな躊躇い。そんな時、ロイの心には常にアスラ兄帝の姿が浮かんでいた。
「信用しておらぬようだな。まあ、良い。そのうちに『風声』なり鳩なりが吉報を届けてくれるであろう」
  
  
 そして二日が経ち、アスラのその言葉どおりとなった。
 その日は朝から、まるで城を押しつぶさんばかりに、鉛色の雲が低空を覆い尽くしていた。どこか遠くで雷鳴が微かに轟いている。
 まだ正午を少しまわったばかりだというのに、辺りは宵闇に閉ざされているかのようだった。ぽつりぽつりと降り始めた雨の中、魔術の風が宮城に届けたルドスからの報せは、瞬く間に宮廷中を揺るがした。
  
 ルドス郊外の山中にて、警備隊が反乱団を追い詰めたこと。
 そのさなかに、山の一部が崩れ落ちたこと。
 反乱団の首領達が、その崩落に巻き込まれたこと。
 魔術をも駆使しての捜索にもかかわらず、彼らの生存が確認できなかったこと。
 二日が経過した現在も、状況に何も変化が見られないこと……。
  
 ルドス郊外では昨日から降雪が見られ、崩落現場も雪に閉ざされつつあるとのことだった。たとえ、生存者が土砂の下に埋もれていたとしても、彼らの命運は尽きてしまったと言っても差し支えないだろう。
「風声」がロイのもとに届いた時、彼は自分の執務室の机についていた。
 おのが師の末期を改めて耳にしたロイは、作業の手を止めて軽く両目を閉じた。
 思いもかけない、喪失感。それはやはり、あの未知なる術の存在に拠るところが大きいのだろうか。それはとりもなおさず、術の使い手であるザラシュ本人に対する畏怖でもあった。
 惜しい人間を亡くした。ロイは心からそう思った。
 そうこうしている間も、魔術が天険を超えて届けた声は、淡々と報告を続けている。耳を傾けながら、ロイは手元の書類に視線を落とした。仕事を続けるべく、インク壷にペン先をつける。
 次の瞬間、ロイの右手からペンが転がり落ち、紙の上に墨色の軌跡を描いた。
 落石の犠牲となった者は全部で五名。反乱の首謀者並びに謀反者の名前に続いて、最後に読み上げられたのは、誰あろうシキの名前だった。
  
  
  
 疲れ果てた身体で城内の自室へと帰り着いたロイは、真っ直ぐに寝室へ向かうと、そのままばたりと寝台に倒れ伏した。
 首を横に向ければ、真っ暗な窓を無数の水滴が叩いている。ロイは大きく溜め息をついて、寝返りをうった。
 反乱団壊滅、の一報に、宮城は瞬く間に大騒ぎとなった。報告の裏を取るべく即座に査察団が組織され、早々にルドスへと出立していった。宮廷魔術師達は皆、各地のギルドと連絡をとるのに駆り出され、それに加えてロイは臨時閣議にも引っ張り出され、夕食を摂るのもままならない有様だった。
 忙しいほうがいい。ロイは胸の内でそう呟いた。忙しければ、余計なことに悩む時間もなくなるだろう、と。
 寝台に仰向けになったロイは、そっと右手を上に差し伸べた。
 ――この手をいくら伸ばそうと、もう彼女には届かないのか。
 ロイには、シキが死んだということが信じられなかった。いや、信じたくなかった。
 だが、各方面に確認を取れば取るほど、その情報は信頼性を増していった。現場の状況が詳しく判るにつれ、彼女の生存は絶望的なものとなった。
 ロイの右手が、ぱたりと力無く身体の脇へ落ちた。
 途方もない喪失感に、ロイの中の大勢は打ちひしがれていた。だが、胸の奥、ずっと深い部分でどこかしら安堵している自分に、彼は気がついていた。
  
 これで、彼女はもう誰のものにもならない。彼女は、誰の手も届かないところへ行ってしまった。
 自分と同じように、奴もまた無念のうちに彼女と引き裂かれてしまったのだ。
  
 涙は、もう三十年も前に枯れ果ててしまっていた。その代わりに手に入れたのは、悲しみを遣り過ごすすべ
 大きく息を吸って、静かに自分に言い聞かせるのだ。おのれを見よ、と。我は依然として何も損なわれることなく、ここに自分の足で立っているではないか、と。
 ――そうだ、私には力がある。比類なき力が。何人なんぴとたりとも、我を傷つけることはできない。……だから、悲しむことは何もない。
 ロイは寝室の窓を打つ大粒の雨を黙って見つめ続けた。
  
  
 朝が来ても、雨脚は一向に弱まる気配を見せなかった。
 自分の代わりに天が泣いてくれているのだろう。いつになく感傷的なおのれに苦笑を禁じ得ずに、ロイは口のを上げた。先ほど使用人がおこしてくれた暖炉の火が、室内の凍った空気を静かに溶かし始めている。
 着替えを取ろうと衣装戸棚の扉を引き開けたロイは、ふと、戸棚の片隅に無造作に突っ込まれている一つの鞄に目をとめた。
 シキの、鞄だった。
 ルドス郊外で袂を別った時、シキは着の身着のまま、レイの手に縋るようにして去っていった。
 ロイの手元に残されたのは、このくたびれた鞄が一つきりであった。
  
 あの時、彼女の手を放さなければ。
 ならば、今も彼女は、生きて、私の傍らに居るはずだった……。
  
 ロイは頭を振った。夢想に囚われて無駄な時間を費やしている場合ではない。宮廷魔術師の長として、自分には為すべき事が山ほどあるのだ。
 そう自分に言い聞かせながらも、つい、手がその鞄に伸びていた。
 持ち上げようとして腕に感じるその重さに、小さくはにかむシキの姿が思い返された。自分で運びます、と慌てる彼女を制して無理矢理持ち手を握った時、シキは少しだけ困ったような表情で、ありがとうございます、と微笑んでいた。
「未練だな」
 わざと声に出した呟きは、激しい雨音にかき消されてしまった。
 ロイは大きく溜め息をついてから、鞄を持ったまま部屋の反対側へと向かう。寝台に腰をかけ、傍らに置いたシキの鞄を開けた。
 寝台脇の小机に置かれたランプに照らされて、若草色がロイの目を射た。彼がシキに贈ったドレスだった。極上の手触りの布地を、ロイは腹立たしそうに鷲掴みにすると、そのまま脇に投げ捨てる。ただそれだけの動きにもかかわらず、ロイは大きく肩で息をついた。
 空中にふわりと舞った鮮やかな色彩が、音もなく掛布の上に着地する。
 もう一度覗き込んだ旅行鞄の中は、味気のないほど単色で占められていた。ルドスにおいて彼女が黒を好んで着用していたのは、奴を偲んでいたからだろう。その事実を至極冷静に認識できた自分に、ロイは少しだけ驚いた。
 死者に囚われ続けていた女が、今度こそ死に囚われただけのことだ。何も悲しむべき事ではない。大きく頷いてから彼は顔を上げた。
 ――いつまでも済んだ過去を悔やんでいては、先へ進めない。この鞄は燃やしてしまおう。彼女の物は全て。思い出もともに。
 ドレスを再び鞄に詰め込もうとしたロイは、鞄の底に見慣れない書物が埋もれていることに気がついた。
  
  
 ぱらぱらとページを繰り終わって、ロイは『ルドスの歴史』という本を閉じた。
 一体どういうつもりでシキはこの本を手に入れたのだろうか。魔術書ならともかく、彼女がこのような御伽噺に興味を示した理由がロイには思いつかなかった。小首をかしげてから、ロイはもう一冊に手を伸ばす。黒い装丁のその本には、表紙に古書体で『神々の黄昏』と記されていた。中表紙を開ければ、写本である旨の注記が添えられている。
 それは、八百万やおよろずの神々についての本であるようだった。いや、アシアス一神教のこのマクダレン帝国においては、邪神について、と言い換えるべきであろうか。何故、シキはこの本を大切に所持していたのか。ロイはまたも首をひねりながら、ページをめくっていった。
 その手の動きが止まる。
 多大な情熱を費やして原本から写しとったのであろう、繊細な筆致の挿絵の数々。その中でロイの目を引いた、優しくも儚げな微笑。
 ――シキ、だ。
 ロイは驚きのあまり、思わず数度目をしばたたかせた。
 良く見れば確かに別人だが、その女神の表情といい雰囲気といい、非常にシキと似通っていた。姉妹、と言っても充分通用する。
 見れば、『豊穣の女神フォール』と添え書きがあった。
 なんと数奇なえにしであろうか。シキに施術し、失敗に終わったあの呪文は、この女神のものであったのだ。
 ――私の望みよりも、彼女の望みを優先するわけだ。
 ふと胸の内で呟いてから、ロイは愕然と目を見開いた。
 ――彼女の望み。
 そうだ。そこに彼女の想いは存在していなかった。あの時、あの行為に在ったのは、ロイ自身の願望、欲望だけであった。
『愛し合う二人を、更に結びつけるもの』
 それがあの呪文の本意だったのだ。
 ならば……、
 だから……。
 ロイはほんの刹那奥歯を噛み締めると、それからゆっくりと大きく息を吐いた。
  
 沢山の挿絵に興味を惹かれるがままに、ロイはページを繰り続ける。ふと、思い立ってアシアス神の記述を探してみれば、目指すページは簡単に見つかった。
 我らが偉大なる神アシアスは、単なる光の玉として描かれていた。今でこそ、勇ましい男神として知られているが、信仰改革以前は偶像崇拝が禁じられていた。それ故の抽象的な肖像画なのだろう。
 続けて次のページを開いたロイは、つい思わず眉をひそめた。更にページを一枚めくり、その裏を確認する。
 見開きの右側、そしてその裏面。
 他のどのページもびっしりと文字で埋め尽くされていたにもかかわらず、その二ページには、たった三行の記述しかなかった。挿絵もない。その密度の落差は、奇異を通り過ぎて不気味にすら感じられた。
 ロイは、その文字列に目を走らせた。写手による注釈、という一文に続いて、几帳面な文字で、こう書かれていた。
『原本に破損あり。この箇所、一頁欠落。現存する全ての版から、同じ頁が失われている。何者かによる意図的な欠損である可能性を疑う次第である』
 ……故意に葬り去られた、神。
 不意に、ロイの背筋を冷たいものが走り抜けた。
  
  
  
 まさしく小春日和であった。
 五日もの間降り続いた雨は昨夜遅くにようやく止み、第三城壁に囲まれた中庭は、芝生の上で煌く幾万の露に眩しいほどであった。その小さな宝石を蹴散らしながら、幼子が緑の上を歓声を上げて走り回っている。
「貴方が帰ってきてくれて、本当に良かったと思います」
 奥方と戯れる愛息の姿に目を細めながら、弟帝が穏やかな声でロイにそう言った。会議に必要な書類を取りに、自室のある「風見鶏の塔」に戻ろうとしたロイは、一家で中庭を散歩中だったセイジュに呼び止められたのだ。
 ロイが帝都を離れて間もなく、セイジュは西方の貴族の娘を妻に迎えていた。アスラが一向に身を固めようとしないこともあって、彼ら夫婦には、世継ぎを望む声が不躾なまでにかけられていたと聞く。
 そんな多大な重圧の中で生まれた皇子も、来年の春には御歳おんとし五つ。人々の愛を一身に受け、天真爛漫に笑う小さなその姿に、ロイもぎこちないながらも優しい笑みを返してしまっていた。
「あんなに楽しそうな兄は、この数年見たことがありません」
 息子に手を振り返してから、セイジュは傍らのロイのほうに向き直った。ロイは、何と返事をしたものか悩み、とりあえず曖昧に頷くことにした。
「兄には、対等に語り合うことのできる話し相手がいませんでした。ですが、貴方だけは別なのです。貴方ならば、兄の言葉を聞き、兄に言葉を届けることができる」
 セイジュの視線が、植栽の向こうにそびえる「鷲の塔」に向けられた。
「私は、兄の力にはなれない。それどころか、兄がいなければ、おそらくは何もできない……」
 言葉半ばで絶句して唇を噛むセイジュに、ロイは慌てて口を開いた。
「そんなことを仰らないでください。何もできないなどと、そんな馬鹿なことを」
 光を集めて形作られたのに違いない。セイジュのことをロイはそう思っていた。
 どこか陰を感じさせるアスラに対して、その傍らに立つ双子の弟は、常に明るく、常に力強く、そして常に朗らかな笑みを絶やさなかった。優しげな瞳は弱き者に注がれ、穏やかな言葉は目下の者を安らがせた。
 彼は自分とは対極の位置に立っている。並々ならぬ敬意を、憧れと嫉妬の気持ちを、ロイは密かにセイジュに対して抱いていたのだ。その彼が、今、自分の目の前で、力無く打ちひしがれうなだれている。その事実は酷く納まりの悪い心地をロイにもたらしていた。
「……セイジュ様……」
 知らず溢れ出す言葉を、ロイは素直に口にのぼした。
「……荒れ野を切り拓く行為は偉大です。ですが、拓かれた土地を均して維持し続けるということも、同等か、もしくはそれ以上に大切で、大変な仕事であると思います。アスラ様だけでなく、セイジュ様がいなければ、帝国は現在の繁栄を手に入れることはできなかったでしょう」
 心のどこかが、柄にもない、と自らをはすに構えている。しかし、何故かロイには、セイジュをこのまま捨て置くことができなかったのだ。
「あまり卑下なされば、稀代の名君という二つ名が悲しまれます」
「名君、ね」
 灰色の瞳が、自嘲の色を浮かべる。「兄の術とは違って、私の行使する力は解り易いからね。それ故の『名君』呼ばわりなのだろう」
「そのようなことは」
「いや、良い。私は自分のことぐらいは解っているつもりだ。
 そう、私には、兄のような力は無い。先を見通す目も持っていない。だから、せめて、この手を、足を、身体を、人々のためになるように使うことができたら……」
 セイジュの拳が固く握り締められた。
「少しでも、兄の双肩にかかる重圧を、肩代わりすることができたら、本当に良いのだけれど」
 ロイは為すすべもなく、ただ無言で、自分の主君の半身を見つめ続けた。
  
  
 忘れ物を無事に手にしたロイは、「鷲の塔」に向かおうとして躊躇した。最短距離の中庭を通れば、また弟帝達にまみえることになってしまうからだ。
 ――正直なところ、本当に柄ではないのだ。他人を慰めるなどということは。むしろ、この私のほうが誰かに慰められたいぐらいだというのに。
 胸の奥に潜むしこりの原因は、おそらくは先週の訃報だろう。自己統制は得意だったはずだが、無意識の領域まではさしもの自分も手を出すことは叶わない。鬱々とした寝覚めが晴れる日は、一体いつ訪れてくれるのだろうか。ロイは大きく嘆息した。
 とにかく、これ以上他人の悩みに付き合う余裕など、今の自分にはかけらもないのだから。遠回りを決め込んで、ロイは第三城壁の中を走る回廊へと歩みを進めた。
  
 南に向かって伸びている回廊は、最後に大きく東に進路を変え、「緑の塔」の西辺に繋がっている。
 四方に櫓塔を備えた、東西に長い直方体の「緑の塔」は、城壁に連なる建物の中では一番大きい。城の中枢である「鷲の塔」の南南西に位置するこの建物には、城壁を通り抜けるための一際大きなアーチがしつらえられており、第一城壁の正門から、第二城壁、第三城壁、と大きく左右に折れ曲がりながら鉤の手状に伸びるアプローチの、最後の関門となっていた。
 この通路を通れば、セイジュ達に見つかることなく「鷲の塔」へと入ることができるだろう。開口部を左に曲がろうとしたロイは、聞き憶えのある声に、ふと、足を止めた。
「魔術顧問様ー!」
 純朴そうな大柄の男と、まだ少年の域を出ない小柄な若い男が声を揃えて呼んだのは、ロイのルドス時代の肩書きだった。微かに見憶えがあるにはあるが、警備隊の誰かだということしか解らない。
「タヴァーネス先生ー!」
 もう一人は、白い僧衣を身に纏っていた。少々恰幅の良い、大仰な走り方。なんと、あれは……。
「わしじゃよ、ナガーダじゃ。久しぶりじゃのう」
 息せき切って駆け寄ってきたイの町の司祭は、ロイの手を両手で握って破顔した。「急にいなくなるから、何か事故でもあったのかと、皆で心配しておったのだぞ」
「司祭様、どうしてここに」
「弟帝陛下にお呼ばれしての。はるばる帝都までやってきたのじゃ」
「セイジュ様に?」
「リーナも一緒だったんじゃが……ちと、面倒が起こっての。とにかくわしだけでも、陛下の命に従わねば、と、彼らに連れてきてもらったのじゃ」
 司祭のその言葉に、巨漢の警備隊員が小さく頷いた。
「君は確か、ルドス警備隊の……」
「エンダと申しますです。こちらはレンシ。ええと、こちらでもお見せしたほうがいいんでしょうかね……サベイジ隊長からの紹介状と、ルーファス・カナン様から預かった通行証なんですが……」
 突然の情報の洪水に、ロイは少しばかり面食らいながら一歩下がった。とにかく現状を把握しようと、右手の人差し指で額を押さえる。
「ちょっと待ってくれないか。最初の門で門番に書面を見せたのだね?」
「はぁ。それで、『緑の塔』ってところの控えの間で待てと言われたんですが」
 ――それならば、その言葉に従えば良いものを。
 憮然とした表情を浮かべそうになったロイは、彼らがこの城を初めて訪れた客であるということを思い出し、すんでのところで態度を取り繕った。
「ならば、こちらだ。案内しよう」
「ありがとうございます! 助かりますです!」
  
「緑の塔」の中へと取って返したロイは、三人を従えて二階へと上がる。丁度アーチの上にあたる部分が、目指す控えの間だった。
 部屋の扉を押し開けて一同を招き入れようとした室内、中央に立つ人影を認めて、ロイは思わず足を止めた。
「せ、セイジュ様」
「ロイ、君は会議中のはずでは」
 ――その会議に遅れてしまっているのは、他でもない貴方のせいですが。
 そう言いたい気持ちを呑み込んで、ロイは殊更に静かな声を絞り出した。
「緑の門で彼らに出会ったものですから」
「そうか……、ルドスとイは、貴方の馴染みの土地でしたね」
 つい先ほどとは打って変わって、セイジュはすっかり仕事の顔を見せていた。兄と同じ端正なおもてに少しばかりの憂いを込めて、しばし何かを思案している。
 ロイの背後では、突然の最高権力者のお出ましに、三人がかちこちに凍って立ち尽くしていた。
「ナガダ殿」
 名を呼ばれ、司祭は慌てて床にぬかづいた。一拍遅れて、エンダとレンシも平身低頭の姿勢をとる。
「遠路を、はるばるご苦労でした」
 一旦言葉を切ったセイジュの視線が、その刹那、微かにぶれた。そうして、まるでロイを避けるかのように、ほんの少しだけ顔を背ける。
「急なことで申し訳ないが、ナガダ殿、貴方には、ここ帝都で我々のために力を貸してほしい」
 司祭が一瞬だけ浮かべた不思議そうな表情を、ロイは見逃さなかった。
「司祭様、何か?」
「い、いえいえいえ! なんでもございませぬ!」
 ロイは、ひれ伏したまま血相を変えてかぶりを振る司祭の傍に膝をついた。
 不自然なセイジュの態度といい、どうにも何かが引っかかる。少しでもこのもやもやを晴らしたくて、ロイは司祭の耳元に口を寄せた。
「……教えてください、司祭様。何か問題でも?」
「滅相もありませぬ」
「司祭様」
 有無を言わさぬ強い意志を込め、ロイは再度呼びかける。司祭は息も絶え絶えの様子で、辛うじて幽かな擦過音を漏らした。
「……書状には、地方の困窮する村々のために、と……、ですから、少し、驚いただけで……」
 自身もそのまま消え入ってしまいそうなほどのかそけき声を吐き出してから、司祭は更に限界まで姿勢を低くした。
 少し拍子抜けして、ロイは立ち上がった。無礼を詫びるつもりでセイジュのほうへ顔を向けると、弟帝はまたしてもロイから視線を外した。
 ――偶然か、それとも……?
 ロイの胸の奥で、靄が渦巻く。
「当面の滞在先はお決まりですか?」
「は、はい」
「それでは、またのちほどそちらへ連絡しましょう。今日のところはこれで」
 軽やかに、セイジュがきびすを返す。そのまま振り返ることもなく、彼は奥の扉へと姿を消した。
 言い知れぬ不安をロイの中に残したまま。
  
  
  
 西日に染まる校舎内、硬い物が砕ける音が響いた。
 嫌な予感がして慌てて教室を覗き込めば、教壇付近の床の上に色とりどりのガラス片がばらばらになって散らばっている。
 一番前にある自分の机の上では、ガラス切りが衝撃の余波を受けてくるくると回っていた。落下を免れた赤色のガラスが、作業中だった型紙の上でまだカタカタと小刻みに震えている。
「…………ごめん……!」
 ひとけの無い黄昏時の教室、眩いほどの黄金色の中、右手に教鞭を持った級友が真っ青な顔でうなだれていた。彼の足元には、黒板消しが転がっている。
 何が起こったのか、彼女はすぐに理解した。理解して……湧き上がる怒りが口をついてほとばしった。
「どういうことよ!」
「本当に、ごめん。俺、その……、黒板消しをはたこうと……」
 黒板消しを空中に放り投げて、落ちてきたところを教鞭で叩く。最近、掃除時間に男子が好んでしている遊びだ。
 ――こんなところで、こんなことをすれば、どうなるのか。普段からそう言っていたのに。
 あまりの腹立たしさに二の句も告げず、彼女は拳を握り締めて立ち尽くしていた。
「悪かった……、本当に。俺、どうすればいい? ……そんな、許してもらえるなんて思っていないけど……」
 そうだ。ここまで作り上げるのに、二週間もかかっていたのだ。息をするのも苦しいほどの憤怒に苛まれて、リーナは無言でサンを睨み続けた。
 サンは、二、三度目を逸らし、それから意を決したかのように真っ向からリーナの目を見返してきた。思いつめたような表情で、リーナの口から断罪の言葉が放たれるのを待っている。
 なんだ、こんな表情もできるんだ。唐突に、リーナはそんなことを考えた。
 剣術が上手いとか、かっこいいとか、多くの女生徒が彼をちやほやしているが、単にへらへら軽薄そうに笑っているだけのお調子者だと思っていた。来るものは拒まず、去るものは追わず、などと女の子に囲まれながら分かったふうな口をきいていたのを耳にして以来、リーナの中でサンの評価は見事なまでに地に落ちてしまっていたのだ。
 だが、今、目の前に立つ彼は、何かに酷く怯えているようにすら見えた。
  
 ああ、そうか。怖いんだ。
 嫌われるのが、怖いんだ。
 私に、というよりも、とにかく「他人に」拒絶されるのが怖いんだろう。
 軽く、調子よく、必要以上に深入りすることなく。そうやって他人と距離をとれば、自分の存在を拒否されることはない。ならば、自分が傷つくこともない。
  
 ――大きななりをしてるくせに、弱虫なんだ。
 そう考えたら、リーナは思わずふき出しそうになった。不審に思われないように慌てて咳払いをして取り繕うと、とりあえず思いついた疑問を口にしてみる。
「……なんで、こんな時間まで残ってたの?」
 大抵の生徒は、放課後真っ直ぐ家に帰る。よほど裕福な家庭でもない限りは、家の手伝いが待っているからだ。司祭様に頼まれた仕事が無ければ、もしくは家に自分の机があれば、リーナだってこんな時間に学舎には残ってはいなかったろう。
「え……、いや、その、ライン先生に稽古つけてもらってたから」
「稽古?」
「柄じゃないだろ? 恥ずかしいから内緒な。……それよりも、……その、それ……」
 少しいつもの調子を取り戻しかけて、それからサンは再び悲愴な顔をした。
「……いいよ」
「え!?」
「壊れ物を出しっぱなしで席を外してた私も悪いと思うし」
 腰に両手をあて、軽く溜め息をついてから、リーナは笑みを浮かべた。
 サンは激しく反省しているようだし、何より壊れてしまったものは仕方がない。それに、ステンドグラスはまた作り直せば良いのだ。司祭様は期限を定めておられなかったから。
 一旦割りきってしまえば、諦めの良さには定評のあるリーナだった。いざ、服の袖をまくり上げて、床に散らばるガラスの破片を拾い集め始める。
 サンは、信じられないと言わんばかりに目を見開いて、そんなリーナを凝視していた。
「許して、くれるのか?」
「まあね。でも、このかけらはしっかり拾ってもらおうかなー。勿体ないもんね」
「それだけで、いいのか?」
 リーナが頷くと、サンは泣きそうな表情になった。それから、眩しいぐらいの笑顔を見せた。
 本物の笑顔だ、とリーナは思った。
  
  
「彼のことを思い出しているのですか?」
 ルーファスの声に、リーナは我に返った。
「うーん、まあ、そんなところかなあ」
 二人がいるのは、帝都へと向かう大型帆船の甲板だ。昨日にイシュトゥの港を出港して以来、穏やかな凪が船を包んでいた。行き足は遅いが、乗り心地は悪くない。
 あの時、あの夕暮れの教室以来、リーナはずっとサンのことが気になっていたのだ。
 翌日からの彼は、憎らしいほど普段どおりで、リーナとも挨拶以上の言葉を交わすことはほとんどなかった。
 だが、注意深く見ていると、今までとは違う彼に気がつくことができた。
 彼は、決して他人の領域に深く立ち入らない。そして、他人を立ち入らせない。肩を叩きあったり、じゃれ合ったり、そんなふうに躊躇いなく他人の身体に触れ、あれだけ親しげに笑っているくせに。
 ――ヘンな奴。
 その、ヘンな奴のヘンなところに気がつけたことが、リーナは少しだけ嬉しかったのだ。
  
  
「ここは寒いです。下に戻りませんか?」
「うん……もう少しだけ。騎士様、先に下りておいてください」
 寂しそうな背中を見つめながら、ルーファスは両の手を固く握り締めた。
「リーナさん……、やめましょう」
 苦渋に満ちたルーファスの声に、リーナが静かに振り返る。
「彼の遺志を継ごうとなさる、貴女の気持ちは良く解ります。ですが、同じように私も彼の遺志を想うのです。……彼が貴女を守ろうとなさったように、私もまた、貴女を守りたい」
「ありがとう。でも……」
 言いよどむリーナに、ルーファスはつい声を荒らげた。
「危険過ぎます。やはり、貴女は故郷へ帰るべきだった。ガシガルに着いたら、すぐに帰りの船を用意させましょう」
「だめよ」
 だが、リーナの声は、揺るがなかった。
「『の者』をこのままにしておいても、何も良いことないでしょ? いいや、それどころか、どんどん世界は歪んでいく。私、そんなの嫌だもん」
 ――それは、どこまでが貴女の考えなのですか。
 ルーファスは密かに唇を噛んだ。
 あの神殿でリーナに憑依した存在の記憶は、間違いなく彼女の中にある。「それ」がリーナに言わしめているのではないのだろうか。彼はそう思わずにはいられなかった。
「それにね、私、『遺志』なんて思ってないよ? サン達が死んだなんて、絶対に嘘」
「え?」
「皆知らないかもしれないけれど、シキって凄いんだから。前にイであった崖崩れの時もね、こう、崩れてきた土砂を、こんな感じで凍らせてね。タヴァーネス先生も、もうびっくり、みたいな。
 それに、彼女ほどじゃないけどレイもあれで一応一人前以上の魔術師なのよ。……全然そう見えないけど。たとえ老師が……いなくっても、あの二人が揃っていれば、絶対大丈夫」
「ならば、尚更、貴女は故郷に……」
 リーナが、ゆるりと首を振った。
「彼らは、彼らの道を選んだ。そう言ったのは騎士様でしょ?」
 空を映した瞳が、真っ直ぐルーファスを射抜いた。
「だから、私は、私の道を選ぶ」
 海鳥の鳴く声が、遠く、近く、風に乗っている。
 しばしの沈黙のあと、リーナは決まり悪そうな表情で頭を掻いた。
「……って、騎士様に色々お世話になっている私が偉そうに言うことじゃないよね。こんなに立派な船まで用意してもらっちゃって」
「いいえ。元々帝都までの旅費は陛下から賜っておりますから」
「本当に、色々ありが……っくしょっっん」
 リーナが放った豪快なくしゃみに、二人は顔を見合わせて笑った。
  
  
 船室に戻るために船首から離れようとして、ルーファスは足をとめた。
「兄帝陛下の信仰改革が全くの嘘だったとすれば……」
 舳先を見つめながら、彼は静かに言葉を継ぐ。
「あの像は……一体何なのでしょうか」
 彼の視線の先には、舳先に据えつけられている胸像があった。陽光を受け、艶々と黒く光る、神の像が。
 リーナは、弾かれたように像に向かって走り出した。ルーファスも慌ててそのあとを追う。
 ――像。突然この世に現れたアシアスの神像。違和感しか感じられなかったあの像。
 言葉に言い表せない不安を持て余したあまり、リーナはまともに神像と対峙することを避けていた。毎日教会へ通っているにもかかわらず、一度として直視したことがなかったのだ。
 今、まさに初めて対面するはずのその姿に、リーナは見憶えがあった。
 否、自分の記憶ではない。
 心の中に刻みつけられた、遥か太古の映像。かつて「黒の導師」と呼ばれた人間の記憶の中、目の前の神像が、ある肖像と重なった。
「……ルドス王国最後の王、だ」
 リーナの呟きは、船体を揺るがし砕ける波の音に、あっという間に呑み込まれてしまった。
  
  
  
「何するんだ! やめろよ!」
 足掻く少年の首を、毛むくじゃらの腕が締め上げる。
  
 この腕を噛めばいい。そうやって私は難を逃れたのだ。
 でも、そのせいで母さんが。
 馬鹿を言うな。そうしなければお前も殺されてしまうぞ。
  
 山賊の腕に、思いきり噛みつく。
 口の中に、鉄錆の味が広がる。
 僕はこんなところで死ぬわけにはいかない。生き延びるんだ。生き延びなければ……!
 男の手が喉元へと伸びてくる。
  
 そうだ、このあと、首を絞められ、例の杖を引き抜き、魔術でその場の全員を切り刻む。
 何度繰り返せば良いのだろうか。
 いつまで囚われ続けなければならないのだろうか。
  
 男の手は、予想に反して少年の頭を撫で始めた。
 やたらと思わせぶりに。ねっとりと。
「お前のその髪、その容姿なら、上客がつくぞ」
 ふざけるな。それでお前が俺の最初の客になろうってか?
  
  
 …………なぜ、こんな昔の夢を見る?
 いつもの悪夢ではない。あれにはもっと明瞭な他意が感じられる。
 これは……、もっと奥底から湧き上がってくる、何か。違うモノ。
 警告?
 啓示?
  
  
 地面から黒い影が湧き起こった。聞き憶えのあるような、聞いたことのないような、ヒトのものかも定かではない「声」が響き渡る。
「……すごいじゃないか」
  
 誰だ? タヴァーネス子爵?
  
 立ち上がった影は、無限の闇を思わせるほどに虚ろだった。
 ロイはおそるおそるその傍へと歩みを進めていく。
  
 子爵ならば、顔を……顔を見せてください。
 貴方が間違いなく存在したという証を……。
  
 虚無と対峙したロイの指がひらめき、魔術の灯りを紡ぎ出した。
 眩い光が、闇のベールを剥ぎ取る。
  
  
 アシアスの神像が其処に立っていた。