The one who treads through the void

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頂き物SS 治療 - black version -

 
 
 
「何よ、これ。話が違うじゃないのよ!」
 いきなり診察台に座らされるって、どういうこと?
「まあまあ、落ち着いて。眉間のしわが増えちゃうよ」
 しわ伸ばしのマッサージ、とか言いながら気安く触んないでちょうだい。
「誰のせいよ! こっちは途中で抜けてきたのよ、なのに、これのどこが急用だって言うの?」
 菜々ちゃんたちと一緒に外食って、朗さんだって了解済みだったわよね?
「今日のメンバーはみんな女の子ばっかり、アルコールも全然で、やましいことは何一つないんだからね」
 ちょっとでも男性とお酒が混ざる食事だと、目くじら立てて怒るんだから。
 器が小さすぎるっちゅうの。
「この間、松本さんにクリーニングしてもらった時も、虫歯なしってお墨付きもらったもん、ここに用なんてないわよ、話ならよそで、っていうか、家でいくらでもできるじゃん」
「そうじゃなくって。ちゃんと説明するから、話聞いて」
 また、話かみ合わないシンドローム、発症。
「とにかく、帰る。まだ腹五分目くらいだから、どっか寄……、ちょ、ちょっと、何するのよ!」
 立ち上がろうとした私を無理やり診察台にくくりつけるなんて。
 だいたい、このロープ、どこから持ってきたのよ? 診察に使うものじゃないでしょ?
「僕も、愛する妻に手荒なことなんかしたくないんだけど、みゆきが話を聞いてくれないから、断腸の思いで」
 ダチョウだか脱腸だか知らないけど、この私がそんなナルちゃんポーズに引っかかるはずない。
「まさか、患者さんにもこんなこと?」
「ないない、絶対ない。物腰の柔らかい、親切、丁寧、腕もいい歯科医で通ってるんだからね。ま、仕事もきちんとこなしつつ、日々の勉強にも余念がないのだから、当然と言えば当然かと」
 時には顔がいいってのもくっついてくるかなって、あー、自意識過剰もここまで来ると、つける薬がないわね。
 
「わかった、話なら聞いてあげるから、早くほどいてちょうだい」
 全然納得いかないけど、このままじゃいつまで経っても平行線。
 仕方なく、私の方から折れてあげよう。
 私って、なんて寛大なんだろ。
「いや。そのままでも話は聞けるから」
 ポーカーフェイスを装ってるけど、一瞬ニヤっとしたの、見逃すもんですか。
「嫌! 聞けない」
 なんでそうなるのよ。
 ああ、もう、ほんと、一々ややこしい男だこと。
 このみゆきさん、いくら寛容だからって、限度があるわよ、限度が。
 といっても、今はこの格好はいくらなんでも不利だな。
 うーん、背に腹はかえられない。もう少し妥協してあげるよ。
 みゆきさん、出血大サービス、太っ腹。
「しょうがない、我慢してあげるから、ちゃっちゃと話済ませて。頼むわ」
 
 思えば、ずいぶん辛抱強くなったわよねえ、私って。
 このわがまま大王、外面だけはめちゃくちゃよくって、世間では私が朗さんを振り回してるって誤解してる人間がたくさんいて腹立たしいことと言ったら。
 みんな、見た目に騙されすぎよ。
「みゆきったら、わざとよそよそしい態度取っちゃって、照れなくてもいいんだよ。どうせ、みんなもう帰っちゃって、ここにいるのは僕ら二人っきりなんだから」
 こんなことになるなら、さっき松本さんとすれ違った時、無理やり残ってもらうんだった。
「四の五の言わずに、早く言いなさいよ」
 
「じゃあ、ちょっと口開けて」
 朗さんがスティックのような器具を私の口の中に入れる。
「右上5番のインレーなんだけどね」
 おお、目の前のモニターに映ってるのは、私の歯?
「これ、カメラ? 初めて見た。あん、でも、これじゃ、よく見えない」
 モニターを覗き込もうとしても、こう縛り付けられてちゃ身動きできない。
「ああ、この口腔内カメラ? みゆきには使ったことなかったっけ。これ、こういう静止画像も保存できて、なんとプリントアウトもできる優れものでね」
 なんで、後半部分はスルーするかな。
 そりゃ、いつまでもカメラが口の中に居座ってたらしゃべることもできないから便利なんだろうけど。
「そんなことはどうでもいいから、ロープ!」
「で、これ、たぶん二次カリだと思う、この感じから言って」
 あっさり無視ですか、ああそうですか。
「カレーがアルカリってな……、痛っ、ちょっと、急に何するのよ!」
 いきなり針みたいな棒で歯をコンコン叩かれる。
「やっぱり間違いないな」
「さっきから何よ、全然意味わかんない」
 自分の世界に引きこもってないで、私にちゃんと説明してよね。
「つまり、この第二小臼歯はレ充で処置されてるんだけど、おそらく二次カリエスだろう、ということさ」
「はあ?」
 朗さんがペラペラしゃべってるのって、ひょっとして宇宙語?
「だからわかんないって言ってるでしょ! この自己チュー歯科医」
 食ってかかっても、テキは一向に涼しい顔、ああ、このロープさえなかったら。
 
「な、何よ?」
 急接近した朗さんが、じーっと私を見つめる。
 いくら毎日見慣れてるっていっても、元々好みの顔、ガラにもなくドキドキしちゃうわ。
「だから、この歯なんだけど」
 そのままキスされるかもってほど迫ってきてたのに、あっさり引っ込んで何事もなかったかのようにモニターを指差す。
 何なのよ、ドキドキして損しちゃったわ。
「たぶん、これ、虫歯」
「えっ? なんで? ずっと前に治したよ?」
 かなり前、正確に思い出せないけどたぶん高校の時くらいに、近所の歯医者で治してもらったはず。
「うん。治療してあるね。でも、インレーの下で虫歯が爆発しちゃっうのって、よくあることなんだ、ほら」
「ぎゃっ、痛っ」
 不意に攻撃しないの!
「健康な歯ならこれくらいで痛くならないよ。試しに、こっち」
 朗さんが左側の歯を棒でコンコン叩く。
「あ、ほんとだ」
 確かに響き方が全然違うや。
「ちょっ……、何するのよ」
 何の前触れもなく背もたれがウィーンと音を立てて倒れて、びっくりする。
「何って、CR(コンポジットレジン)を外さなきゃ」
「その前に、ロープ!」
 ああ、もう、また無視だわ、ゴーイング・マイ・ウェイなのは知ってたけど、ここまでとは。
「ま、マスク!」
 代わりにそう叫んだら、朗さんが怪訝そうな顔をする。
「そんなこと気にするような間柄じゃないでしょ?」
「でも!」
 朗さんの顔が近づくとドキドキしちゃうのよ、目を瞑ったって、吐息に反応しちゃうでしょ。
 なんて正直なことは言ってやらない、だってつけあがるだけなんだもん。
「朗さんのマスク姿って、いかにも仕事頑張ってますって感じで、キリっと凛々しくて好きだなーなんて」
「みゆき……」
 あー。ちょっとミエミエだったかな。
「照れ屋さんのくせに、ド真ん中投げてくるんだから」
 気持ちの悪いほどにこにこしながら、朗さんは私の頬に軽く口付けする。
「いくらでも惚れ直していいからね」
 いや、まあ、どういう理由でも、ちゃんとマスクしてくれればいいのよ、それが勘違いでもね。
 
「やっぱり」
 インレーとかいう詰め物を外した朗さんが、勝ち誇ったように言う。
「できてたの?」
 背もたれが元の垂直に戻る。
「ああ、残念ながら。じゃ、口ゆすい……、あっ」
 ふふふふー。
 口ゆすぐのにこのままの格好じゃあね、そりゃ、まずいでしょ、やっと解放される、と喜んだのも束の間。
「はい」
 朗さんの右手には、水の入った紙コップ、左手には、ええと、バキュームって名前だったっけ、吸い込む機械って。
「これをどうしろと?」
 一応、聞いてみる。
「飲ませてあげるから。で、その後、バキュームで吸ってあげる」
 予想通りの答えが返って来たよ。
「朗さんにそんな手間をかけるなんて」
 いかにも申し訳なさそうに。軽く上目遣いなこの角度に、朗さん弱いはず。
「いや、去年、ノロにやられた時の世話に比べたら、こんなの、ちょろいもんさ」
 あぎゃあ。
 確かにあの時はひどい醜態さらしたわよ。でも、仕方ないじゃない、病気だったんだし、そもそもそのウィルス、誰が拾ってきたんだっけ?
「遠慮せず、甘えればいいんだよ」
 ぎゃー、どうやったらこんなに自分中心に考えられるんだろ、この天動説男めが。
「もう、わかったわよ」
 ああ言えばこう言う、いつまでも水掛け論じゃ疲れちゃう。
 朗さんみたいなエゴイストには私みたいな心の広ーい人間が合ってるのかもしれん、うん、そういうことにしておこう。
 
「いい子、いい子」
 いやいやうがいをしたら頭撫でられた、情けない、ああ、自由の身だったら!
「どうも納得してないようだから、証拠に、ほら」
 腑に落ちないのはこの扱いであって、虫歯ができてることなんて疑ってないのに、またさっきのカメラで撮影される。
「ねえねえ、こういうのってレントゲンで確認しないの?」
 ここに初診に来た時、最初はレントゲンから始まった記憶がある。
「ああ、普通はね」
 さらっと流そうとした今の言い方、妙にひっかかる。
「じゃ、なんで?」
「だって、レントゲン室行くのに、ロープほどかなきゃならないでしょ」
 えーっ!
「まあ、いいじゃん。仮に二次カリじゃなくても、このCRかなり変色してたから、審美的にも替え時だったって」
 な、な、なんですって!
「もちろん自費の材料使うけど、僕のプレゼントだから、みゆきは何も心配しなくていいからね」
 そんな心配なんかしてないよ。
「ぎゃっ」
 お願いだから、椅子倒すときは前もって言ってよ、ものすごくびっくりするじゃない。
「かなり削ることになるなら麻酔するね」
「麻酔ですって!?」
 ちょっと!
 かわいい妻が叫んでるんだから、こっち向きなさいよ。
「表面麻酔のジェルなんだけどね、いちご味、バナナ味、メロン味、どれにする?」
「どれも、嫌!」
 味にはうるさいから選ばせてあげようと思ったって、そういう問題じゃないでしょ。
「私が注射がどれほど嫌いか、よくわかってるくせに!」
 もちろん、麻酔なしで削ったほうが痛いことは知ってるわよ。
 でも、でも、嫌なものはしょうがない。
 もちろん、最終的には我慢するつもりでいるわよ、でも、ここであっさり、はいそうですかとはねえ、落としどころまでギリギリごねておかないと。。
 このロープをほどくのは必要最低条件よね、あと、この際だから何か言っておきたいことって、ほかに……。
「あれ? 朗さん?」
 いつの間にか朗さんの姿が消えてる。
 まさか、これ、放置プレイとか? えー、嘘……。
 
「お待たせ」
「ひゃあっ」
 急に声をかけられて飛び上がりそうになった。
 縛り付けられてなかったら、落ちてたかも。
 でもよかったとは思わないわよ、決して。
「な、な、何よ、それ」
 朗さんがゴロゴロ引っ張ってきたのは掃除機じゃなくて、キャスター付きの台にガスボンベが載ってるんだけど、何かの機械?
「亜酸化窒素。化学式はN2O」
「はあ?」
 そんなこと聞いても、何に使うものなのかわかるわけないじゃん、この私が。
「またの名を笑気ガス。聞いたことは?」
「ない!」
 私は刺々しく返事をする。
「無色でわずかに甘い香りのある無刺激性のガスで、鼻マスクで吸入、緊張感や恐怖感が取り除かれ心身がリラックスするが、治療中の意識はハッキリしたまま、低濃度だから鎮静状態からすぐ回復、副作用の心配もなし」
 朗さんが何かを読み上げてるみたいにに淡々と説明する。
「一般的には、にこやかで楽しい気分になるガスってとこかな。人によっては、温かい感じとか手足が痺れるとか、ふわーっとした感じで、ちょっと朦朧としたり、ハイなっちゃうこともあるようだけど、浸麻(浸潤麻酔)は切れるまで相当時間かかるのに比べて、これはマスク外せば終わりだから」
「唇がびよーんって伸びる感覚もないわけね?」
「もちろん」
 注射が痛いのももちろん大嫌いなんだけど、麻酔が効いてる時の口元のだらしなさとか、切れた時に本来の痛みが襲ってきたりとか、かなり長時間、不快な感じと付き合うのも嫌なわけで、それがないのなら万々歳。
「でもさあ。聞いてるといいこと尽くめなのに、前はお勧めもされなかったし、今日も私が嫌って言ったからこれ出てきたんでしょ? なんで? 高価なの? レアなの?」
 ハイになるって、ちょっと怪しそうだしね。
「そのへんはちょっと事情が、ね。保険は効くから患者さんの負担は少ないんだけど、まあ、その、みゆきはその辺のことは知らなくていいから。それより、どうする?」
「注射いや。そのガスにする」
 聞くまでもないことを。
「あれから僕も痛くない注射の打ち方を研究したから披露したかったから、ちょっと残念だけど」
 打ち方で変わるもんなのかあ。でも、それ聞いても、決心は変わらないけどね。
 
 鼻がマスクで覆われ、ぷしゅーっと何か出てくる。
「始めは酸素だけで、徐々に笑気を混ぜていくからね」
 ふーん、そういうもんなんだ、って思ってるうちに、何となくぽかぽかしてきたような感じがしてくる。
「じゃあ、そろそろ削るね」
「りょーかーい」
 ありゃ、なんか、私、すごくバカっぽい声、出しちゃった?
 前からバカだから、そんなことはどうでもいいけど。
「はい、口開けて」
 キーンって削る音がはっきり聞こえる。意識もはっきりしてる。確かに痛みも感じる。
 でも、そんなの関係ない、どうにでもして。
「大丈夫……、って聞くまでもなさそうだね、その顔」
 途中気になったのか、朗さんが一旦削るのを中断して私の様子を見る。
「じぇんじぇん、へーき」
 酔っ払ってるわけじゃないのに、ヘンにろれつが回らないや、ま、いいけど。
 
「はい。終わったよ」
 笑気ガスが取り外され、背もたれが垂直に戻る。
「ゆすいで」
 紙コップの水が口の中に入るけど、普通の麻酔の後みたいに、だらっと零れることもない。
 バキュームで吸い上げると、朗さんはまた診察台を倒す。
「型取ってる間に、これ片付けてくるね」
 冷たい粘土のような物体を咥えさせられた私は、返事もできず、チラと横目で笑気ガス一式がゴロゴロ引きずられていくのを見る。
「あとは仮封材を、と」
 仮の蓋をするね、とペタペタペタとセメントのようなものを削った部分に塗られる。
「固まるまでじっとしててね」
 あー。ヒマだ。
 することがなくて、ただ時間が経つのを待ってるだけって、辛い。
 おなか空いたなあ。
 この近くで食べるとこってあったかしら?
 朗さん、あっちの電気消したりとか、いかにも帰る支度してるから、これさえ固まればすぐ帰れるんだよね、うん、もう少しの辛抱だわ。
 
「さて。もういいかな」
 ん?
 何か違和感があるなと思ったら、朗さん、素手じゃん。マスクもしてないし。
 ま、もうほぼ終わりのようだから、いいけどさ。
「麻酔ももう残ってない?」
「うん。全然。前からあったんなら、笑気使ってくれたらよかったのに」
 たぶん感覚を調べるために朗さんが私の唇を撫でたり軽く摘んだりしてるんだろうけど、ちょっとその動き、えっちぃよ。
 あ!
 こんな格好してるから、変な想像しちゃうのかも。っていうか、とっくに必要ないじゃん、これ。
「ねえ。ロー……」
 ぞくっ。
 錯覚じゃない。
 口の中に指先を入れられて、すくった唾液を指の腹で塗りつけられて。
 ヤダ。変な気持ちになっちゃう……。
 
「あの時も、あったさ」
 朗さんが私をじっと見つめる。
「でも、君が注射が嫌いと言って笑気を使ってたら、果たして、今の僕たちはいただろうかって思うと……」
 確かに、結婚どころか付き合ってもないかもしれないけど。
 視線が突き刺すように痛くて思わず顔を背けると、こっちを見ろ、と言わんばかりに、私の頬に手が添えられる。
「朗さん……」
 ゆっくりと顔を近づけてくる朗さんに合わせるように、私はそっと目を閉じる。
 でも、ちゅっと口付けされたのは、口の端、それも触れるか触れないかってくらい。
「いじわる」
 私はねだるように唇を少し突き出してみると、今度は反対側の口の端っこに。
「もう、朗さんってば!」
 今度は思い切り口を尖らすと、やっと真ん中に唇が下りてきて。
「あん」
 どうしてすぐ唇を離しちゃうのよ!
「キスしちゃ、だめなの?」
 いたずらっ子のように笑う朗さんは、絶対確信犯。
 悔しい、両手が自由なら、頭を抱えて引き寄せるのに。
「ねえ、ほどい……あっ」
 私の台詞をかき消すように、口を吸われる。
 始めは弱く。だんだん強く。
「んん……」
 私が少し口を開くと、朗さんの舌がそっと入ってくる。
「あ……、んんんっ」
 朗さんの下が容赦なく私の口内を這いずり回る。
 そう、それはちょっと苦しいほど、でも、頬を両手でかっちり押さえられてて、どこにも逃れることなどできない。
 溶けちゃいそう……。
 
「うーん。だめか……」
 はあはあ息の上がっている私の横で、朗さんがぼそっと呟く。
「何が?」
 どこか怪しげな朗さんに視線を走らせる。
「違ったのかな……」
「はあ?」
 朗さんが言うには。
 今日、治療に来た女の子が、しばらくしてから「仮の蓋が取れた」って青い顔して戻ってきたらしい。
「これって、すぐ取れちゃっても不思議じゃないものなんじゃないの?」
 実際、私も前の時、取れかかったもん。
「まあ、よくあることなんだけどね、ちょっと気になってさ。制服のままだったから帰宅前だろうけど、かばんは持ってなかったし」
「そんなこと。例えばロッカーに預けたとか」
 ばかばかしい。何が問題なのかしら。
「ちょっと! いきなり、何よ」
 急にうなじを強く吸われてびっくりする。
「そうそう、こんな感じだったよな」
 自分がつけたキスマーク見ながら、何一人で納得してるのよ。
「その子のここにもこういうのがついてたのさ。一回目の時はなかったのに、ね」
「そんなの、虫刺されとか、単に目の錯覚とか」
 
 私はだんだん悲しくなってきた。
「じゃあ、何? 私は、その探偵ごっこに付き合うために、食事の途中で呼び出されて、無理やり虫歯を削りとられたってわけ? ひどい、ひどすぎる!」
 言ってて、涙が出てきた。
「そうじゃないって、ねえ、みゆきったら」
 朗さんが私の目じりに口を寄せる。
「ふと疑問に思ったっていうか、キスで取れるものなのか、ちょっと好奇心がわいたから試してみただけだって」
「実験台なら、ほかを当たれば」
 だめ。止まってた涙がまた出ちゃう。
「だから違うんだ。その子も二次カリだったのさ、金パラ(金銀パラジウム合金=いわゆる銀の詰め物)外れたのは右下5番だったけど、そういえば、みゆきの右上5番は一度ちゃんと見たほうがよさそうだってこと思い出してさ。カリエスだったら、早く治さなきゃならないし」
「どうして早く、なの?」
 その女の子は外れちゃったんだから急がなきゃいけないだろうけど、私のは、わざわざ外したんだもん、別に今じゃなくても。
「なんでさ。こういうのは、出来ちゃったら治すの後回しになっちゃうでしょ?」
 出来ちゃったら? 何が? って、ひょっとして、赤ちゃん?
「朗さん……」
 私ばっかりで、朗さん自身はあんまり積極的に欲しがってなかったように見えたけど、内心では望んでくれてたの?
「嬉しい」
 そうだわ、私、早く授からないかなあってことばっかり考えてたけど、いつ授かってもいいように体勢整えておく義務があること、すっかり忘れてた。
「朗さん、ありがと」
「いや、わかってくれればいいんだ。僕はいつだってみゆきのことを一番に考えてるってね」
 朗さんが私のおでこにそっと口付けを落とす。
 
 愛されてるって、幸せ。
 って抱きつこうとしたけど、まだこんな格好だった。
「ねえ、朗さん。そっちの片付けより、私の方が先……えっ」
 しまったはずの口腔内カメラを手にしてるのって、もう一度口の中を見るの?
「せっかくだから」
 診察台を起こされたんだけど、なんだかよからぬ空気が漂ってきましてよ、すごく嫌な胸騒ぎ。
「ぎゃあっ! 何するのよ」
 例え夫婦だからって、いきなりスカートめくるなんて、犯罪よ、DVよ。
「ふーん。相当感じてるな、とは思ったけど、ここまでとは」
「な、な、何のことよ」
 前言撤回!
 感動なんて、するんじゃなかった。
「じゃ、このしみは、何?」
「何って、そ、それは……、知らないっ!」
 私は真っ赤になってプイと横を向く。
「ほら。こんなになってるんだよ?」
「いやあっ」
 モニターいっぱい、恥ずかしいしみが大写しになる。
「そのカメラ、こんなことのために使うもんじゃないでしょ!」
「ディスポ(ディスポーザブル=ここでは使い捨てビニール)かけてるから、大丈夫」
 そういう問題じゃない。
「ぎゃあっ! 変態!」
 下着脱がして、何撮ってるのよ!?
「自分の持ち物なのに、よく見たことないでしょ? 僕って親切」
 だ、だ、誰が見るもんですか、そんなもの。
 私は反対側を向いたまま、きつく目を瞑る。
「いい機会なのに」
「やめて!」
 見たくない。
 でも、さっき一瞬見てしまった映像が瞼に焼き付いて離れない、いくら目を瞑っても、いや、かえって目を閉じれば閉じるほど鮮明に浮かび上がってくるなんて。
「あっ、動いてる、ヒクヒクしてるよ、ほら、見てご覧」
 中継なんてしないでよ、バカ。
「あっ、何かにじみ出てきた」
 一々説明しなくてもいいのに。
「自分の体がどれだけいやらしいか、自分の目で確かめてみなよ」
「いや! いや、いや、いや……」
 私は、ただ、夢中で首を振り続ける。
「やめてよ! 嫌いになっ……あ、ああっ」
 突然、指が侵入してくる。
「いやっ、やめ……、あ、あ、あ、あっ」
 拒絶したくても、まな板の鯉ではどうすることもできない。
 それに、いい場所なんてとっくに知ってる朗さんに、ポイント外さず責められたら……。
「ああっ、もう、だめえっ」
 
 
 
*  *  *
 
 
 
「あれ?」
 頭がぼんやりする。
「大丈夫?」
 朗さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
「ええと……」
 何がどうなったのか、さっぱりわからない。
「治療中に気を失ったんだよ。酸素の量は十分足りてたはずなんだけどね、昔は高濃度のせいで医療事故があったって聞いてはいたけど、まさか……」
 そういえば、注射が嫌だからって、笑気ガス吸いながら削ってもらってたんだっけ。
「ごめん。僕がついていながら、こんなことに」
「いいのよ、朗さんのせいじゃないって。眠っちゃっただけだよ、うん、全然平気、ほらね」
 私は診察台から立ち上がり、腕をぶるんぶるん回してみる。
「治療中に寝ちゃうのは、みゆきの十八番(おはこ)だし?」
「もう! ひどい」
 笑いながら朗さんをちょんと小突く。
 
「ん?」
 マウスに触れたのか、真っ暗だったモニターがぱーっと光って映し出されたんだけど、あれって!?
 一瞬顔色の変わった朗さんが、何事もなかったかのように手早く電源を落とす。
「どういうことよ!」
 夢にしちゃ、やけにリアルだと思ったわよ。前科があるだけに、危うく思い込むところだったけど。
「信じられない、朗さんなんて、大っきら……ん、んんっ」
 振り上げた手を掴まれ、口も塞がれる。
「いつものようにキスでごまかそうとしてもだめなんだか……、きゃっ、やめて」
 診察台の上に叩き落される。
「みゆきがいけないんだ」
 え? 私?
「やっ、だめっ」
 朗さんが私のうなじに舌を這わせながら、カットソーの下に手を入れる。
「けだるそうに潤んだ視線を向けられて、何度治療を中断して襲おうと思ったことか」
「やんっ」
 耳たぶを甘噛みされ、たくし上げられむき出しになった胸をいじられる。
「心を鬼にして治療に専念したんだ。少しくらい楽しませてもらってもいいだろう?」
「ああっ」
 乳首を指先でつままれたり、口でコリコリと吸われたり。
「もっとも、楽しんだのは僕だけじゃなかったようだが」
「そんっ……、ああっ」
 朗さんが私の乳首を強く吸いながら、手を太ももに伸ばす。
「びしょ濡れだったからな、ちょうど今みたいに」
 下着のクロッチ部分を朗さんの指先が行き来する。
「やだ、やめ……」
 朗さんの手が私のお尻を一通り撫でてから下着を剥ぎ取っていく。
「人の職場で、何こんなに濡らしてるの?」
「そ、それは……ああん」
 全部朗さんのせいなのに。
 つっぷり入ってきた朗さんの指が、私の壁の内側をゆるゆるこすっていく。
「やっ、あ、あ、あっ」
 はしたない水音が散々してから、かちゃっと朗さんのベルトを外す音が聞こえてくる。
 よかった。楽になれる。
 私は心持ち腰を浮かせながら、目を閉じて待つ。
 
「あ。でも、そういえば」
 入り口に先端を当てながら何かを思い出すの、やめてちょうだい。気が狂いそう。
「さっき、誰かさん、嫌い、とか何とか」
 ここでそれを言うなんて。
「そんなことはどうでもいいから、早く」
「いや。どうでも良くないさ。大事なことだと思うけど?」
 もう!
 全然大事じゃない、っていうか、出し惜しみしなくてもいいじゃないのよ、減るもんじゃなし。
「それ、聞き間違い。私がそんなこと、言うはずないで……ああっ」
「そりゃ、よかった」
 やっと、朗さんが私を貫く。
「愛してるよ、みゆき」
 体をいっぱい揺すられながらディープキスされると、ものすごく気持ちよくて、さっきのことはどうでもよくなっちゃうんだけど。
 
「ああ、なんてこと!」
 終わってから、私は頭を抱える。
「どうしてこんなに沸点の低い体になっちゃったんだろう。それもこれも、みんな、あの……」
 鼻歌交じりで帰り支度を始めた夫の姿を見ながら、私は盛大なため息を吐き出した。
 
 
 
<了>