The one who treads through the void

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頂き物SS 治療 - white version -

 
 
 
 綺麗に磨こうとしてデンタルフロスを使ったら歯の詰め物がぽろっと取れてしまうなんて、今日は朝からついていない。
 と化学室でぼそっと零したら、「いい歯医者、紹介してあげる」と目をキラキラさせてケータイを手にした理奈が、私に口を挟む隙を与えず、電光石火の早業で予約を取ってしまった、らしい。
「ええっ? 今から? そんなあ、あんまりだよ」
 今日は、おそらく、この後久しぶりに準備室で……、なのに、ひどい。
 と正直に言ったらみんなどんな顔をするのだろう。
 もちろん、実行に移せるはずはない。私のために。何より、先生のために。
「何があんまり、なのよ。歯は自然治癒することなんてないんですからね。志紀、あんたまさかこの年で歯医者が怖いとか?」
 あんな所、好きな人なんていないだろうけど、ちょっと小ばかにしたような理奈の表情にかちんと来る。
「こ、怖くなんてないよ。童顔だからって、いい加減子ども扱いするの、やめてよね」
 ぷい、と横を向くと、私たちの輪から少し外れた席に座っている先生と目が合う。
 かすかに口元を歪め「子供どころか」と薄笑いを浮かべた表情に、かーっとなって思わず目を背ける。
「あー、わかった、わかりました。理奈のおせっかい、もとい、ご親切、ありがたく受け取らせてもらいます」
 後ろ髪引かれる思いでチラっと先生を見てから部屋を出ると、校門を出てすぐ、メールの着信音が聞こえる。
『たぶん迎えに行けると思うから、後で連絡するように』
 とくん。と胸が小躍りする。
「先生ったら……」
 我ながら現金。たちまち顔がにやける。
 浮き足立ったせいか、理奈が書いてくれた地図を危うく飛ばしそうになってひやりとしながらも、無事その歯医者にたどり着く。
 
「こちらの問診表にご記入をお願いします」
 受付でボールペンとクリップボードを手渡され、待合室のソファに座って書き始める。
 住所、氏名、電話番号以外は丸印を打つだけなのでスラスラ書いていたが、ふと手が止まる。
『Q.現在、妊娠している、もしくは、しているかもしれない』
 もちろん、先生はいつだってきちんと避妊してくれてるんだから、“はい”は有り得ない。
 考え込む必要など全くないのに。
 産婦人科じゃあるまいし、単にレントゲンや使用する薬などの関係での設問に過ぎない。そんなこと、わかっている。流れ作業的に答えれば済むことって。
「どうかしてるな……」
 
 周囲に悟られるようなことがあってはならない。
 そう心配していたものの、“その前”と“その後”で、一緒に生活している親ですら何も気づかない様子に、安堵したものの、反面、そんなに変化がないのかとちょっぴり拍子抜けもしたけど。
 でも、時折、例えば柏木くんのいぶかし気な視線から逃れるために、今までより心持ち子供っぽい仕草を演出してしまうかもしれない、そう、さっきみたいに。
 
「有馬さーん。どうぞ」
 問診表を受付に出ししばらくぼーっとしていたら、どうやら呼ばれたらしい。
「はい」と答えて診察室に向かう途中、段差の下側に靴が並んでいるのを見てスリッパを探すが見当たらない、まさかみんなマイスリッパ持参?
「初めての方でしたね。こちらのボタンを押してくださいね」
 自動滅菌スリッパ?
 こんなの、初めて見た。
 機械の下側に落ちてきたスリッパを手で挟み、衛生士さんの後に続く。
 案内された席に座ると、衛生士さんがエプロンをかけてくれる。
 カサカサでちゃちな作りなのは、これが使い捨てだからなんだろう。
 コップも紙コップでこれも使い捨て、台の上にはビニール袋に密封されたピンセットや針のような器具数本。
 空気清浄機に、除菌フィルターを使った水。
 子供の頃にかかった歯医者さんとは全然違う。
 今どき、このくらい衛生管理を徹底させないとやっていけないのかしら、大変ね。
 
「こんにちは」
「あ、こ、こんにちは」
 きょろきょろしている最中にいきなりだったから、こんな基本的な挨拶で噛んじゃった。
 ところで、急に私の視界の中に入ってきたこの男性が理奈おすすめの歯医者さん?
 見た目すごく若そう。
 ベテランのナイスミドルをイメージしていたから、ちょっとギャップが。
「どの歯の詰め物が取れましたか?」
「え、あの……、ここです」
 問診表を見ていたはずの歯医者さんにじっと覗き込まれて、ちょっと慌てる。
「あの、取れた銀も持ってきたんですが」
 私はポケットのコインケースから、ラップの包みを取り出す。
「あんまり使うことは……。そうですね、一応お預かりしておきましょう。では、レントゲンを撮りますのでこちらへどうぞ」
 レントゲン室と書かれた部屋に案内される。
「この鉛のエプロンを着用していただきますね」
「お、重い……」
 防弾チョッキってこんなのかな? って想像している間に撮り終えたらしい。
 
 席に戻り、歯医者さんがカチャカチャとマウスをクリックすると、モニター画面にレントゲンの画像が映し出される。
「えっ、もう?」
 まさかこれは見本で、他人の歯だったら笑えるけど。
「これはデジタルレントゲンと言って、従来のフィルムタイムと違ってとても早いし、X線の量も断然少ないし、フィルムや現像液などの廃棄物が出ないので地球環境にも優しいんですよ、そうそう、現像液特有のにおいもしませんし、あれ、劇薬が混ざっていますので処理も大変ですしね、おまけに劣化もしないし管理も楽、まさにいいことづくめでしょう?」
「はあ」
 十代にして浦島太郎になった気分。
「この歯ですね。うーん」
 欠けてる部分は素人目にも一目瞭然なんだけど、ほかに何かひっかる箇所があるのかしら?
 私は、ビクビクしながら、歯医者さんの一挙一動を見続ける。
「では、椅子を倒しますね」
「あ、はい」
 ウィーンと小さな音を立てて背もたれが水平になっていく。
「はい、お口を開けてください」
 私はバカ正直にあーっと大きく口を開ける。
「んがっ」
 先が尖った器具で歯を探られ、ピリっとした痛みが走る。
「少し風をかけますね」
「んががっ」
 シュウっと空気をかけられただけのはずなのに、ひりひりしみて、思わず顔をしかめる。
「はい、結構です。お口をゆすいでくださいね」
 背もたれが垂直に戻る時間が何とももどかしい。
 
「残念ながら、虫歯になっていますね」
「え? 虫歯ですか?」
 ずっと前に治療して、今朝まで銀が詰まっていたのに、まさか今日半日でできたってこと?
「治療された歯がまた虫歯になるのは、実はよくあることなんです」
 詰め物をすると本物の歯と詰め物の接着する部分から虫歯になりやすく、隙間ができて詰め物が外れるケースがかなり多いことを説明され、唖然とする。
「みなさん、治療は終わったんだから虫歯になるはずがないって思い込んでるパターンが非常に多くて、もう少し早く来ていただければ何とかなったのに、と残念に思うこともよくあります」
「私の場合はどうなんです? 手遅れなんですか?」
 ちょっと自分でも必死すぎだと言った後気づいたが、仕方ない。
「この黒っぽくなっている部分がそうなんですが」
 歯医者さんは私の問いには答えず、レントゲン画像を指差す。
「うわっ。結構大きい」
 点というには面積のある影がくっきり映っていることに、ショックを受ける。
「もっとひどくなってるケースは山ほどありますしね、この程度でしたら決して手遅れではないと思いますよ」
 今日、デンタルフロスを使わなかったら、きっとまだ外れてなかったに違いない、そしたら、これがもっと進んでいたんだ、ああ恐ろしい。
「というわけで、虫歯になった部分は削ることになりますが、よろしいですか?」
「はあ」
 そんな同意を求められても。
 ああ、そうか、これがいわゆる“インフォームド・コンセント”ってやつね。
「麻酔なしだとかなり痛いと思いますので麻酔を使いますが、よろしいですか?」
 注射は痛いから嫌だと言えたらいいけど、なしで削るのはもっと痛そうだから仕方ない。
 私はおずおずと頷く。
「では、まず表面麻酔して、麻酔針が最初に刺さる痛みをなくします」
 麻酔の前の麻酔?
 へえ、そんなのがあるんだ。
「では、倒しますね」
 歯ぐきにゼリーみたいなものを綿棒の先でちょんちょんと塗られる。
 
「数分で浸透しますから、そのままお待ちください」
 まな板の鯉とはまさにこのことかもしれない。
 数分って言うからにはせいぜい五分程度なんだろけど、十分にも、いや、一時間にも感じてしまう。
「では、麻酔を打ちますね」
 どうかさっきの表面麻酔とやらが絶大な効果がありますように、と心の中で念じる。
「大丈夫、痛くないように打ちますから、緊張せず、リラックスしていてくださいね」
 針がゆっくり歯茎に突き刺さる。
 そう、痛くない、痛くない。
 痛いと思うから痛いんだから。
 という暗示のせいだけじゃない、本当に痛くないかも。
 チクっていうよりは、爪楊枝でツンツンされてる感じ、もちろん全く痛みを感じないわけではないけど、この程度で済んでしまうなんて。
「では、口をゆすいでください」
 注射時間が長かったせいでもう効いてきたのか、うまくうがいができずに水を零してしまったのがちょっと恥ずかしい。
 
「麻酔が効くのを待っている間に、詰め物について説明しますね」
 材質別に、見た目、持ち、治療費と料金が一覧になっている紙を見せられる。
 だんだん口元がぶよぶよしてきたけど、話を聞くくらい、大丈夫だろう。
「有馬さんの場合は、この『奥歯のインレー』という所をご覧ください」
 ああ、違う場所見てた、歯の場所と虫歯の進行具合によって、違うのね。
「見た目は写真で判断していただけると思います。あと、それぞれメリット、デメリットについて、簡単に書いてありますが、何か質問はありますか?」
 写真を見る限りでは、保険の効かない材質の方が見た目はいいけど、高いわ、桁一つ違うなんて。
「人の価値観はそれぞれですからね。金属アレルギーの方は保険のインレーは使えませんが、特にそういったことがなければ、見た目を気にされる方、保険の範囲でとおっしゃる方、持ちを重視される方、千差万別です」
 そうねえ。
 どれにしたらいいんだろう。
 自分じゃ見えないけど、口開けたら他人には見えてしまうことが気にならないといえば嘘になる。
 先生なら、何て言うかな?
 そういうことにはてんで無頓着なような気もするけど。
 あ、やだ、こんな時に先生の顔を思い浮かべてしまうなんて。
 
 他人の目は気にしないという前提で選ぶとしても、保険のインレーは一番安いけどあんまり持たないって書いてある、長い目で見たら、どっちが得なんだろう?
「持ちを重視されるんでしたら、実はゴールドインレーが一番おすすめなんですけどね」
「金歯が? それはちょっと……」
 笑ったら金がキラっなんて想像したくないな。大昔のギャグ漫画じゃあるまいし。
「金という金属は柔らかいので、ご自身の歯にピッタリとフィットして隙間が限りなく小さくなるんですね」
 歯医者さんは、そんなことなどお構いなしに大真面目に説明を続ける。
「詰め物をした歯が虫歯になってしまう最大の原因が隙間ですから、それを小さくできれば当然虫歯になりにくいです。元々金は菌を寄せ付けませんし」
「でも、見た目があまりにちょっと。金はいいです」
 とりあえず選択肢から一つ消えたけど、どうしよう。
「もっとも、持ちに関しては、材料の良し悪しもさることながら、歯科医の技術やその後のメンテナンスといった要因で大きく変わるのも事実です」
 歯科医の技術なんて言い切っちゃって、この歯医者さん、自分の腕には自信があるの? お任せしても大丈夫?
 考えれば考えるほどわからない。
 こういう時は、人に決めてもらうのが一番ね。
 
「あの、これって、今日決めなきゃならないことですか?」
「と言いますと?」
 歯医者さんの顔色を窺ってみると、別段怒ってないよう、じゃ、言ってみよう。
「まだ養ってもらってる身なので親に聞いてみないと。あの、これ、あとでメモ取ってもいいですか?」
「ああ。そういうことですか。ええ、結構ですよ。会計時に受付でこれと同じもののコピーをお渡ししますね」
 よかった。
「では、とりあえず、今日は虫歯部分を可能な限り小さく削って仮の蓋をします。次回、お選びいただいた材料に合わせてもう一度削り直すことになりますが、それでよろしいでしょうか?」
「はい、それでお願いします」
 
 ここまで丁寧に説明してもらえて、私は感動していた。
「あの。高校生相手にきちんと説明してくださってありがとうございました」
 軽く頭を下げる。
「いえ。当然のことです。それに、有馬さんは見た目も話し方もとてもしっかりしていらっしゃって、大人の女性となんら変わりがありませんよ」
「えっ」
 大人の女性って響きがくすぐったくて少し頬が熱くなる。
 先生も少しはそう思ってくれてるといいのだけど。
「さて。麻酔のほうもそろそろいいでしょう。では、倒しますね」
 感傷に浸る間もなく、すぐ現実に引き戻される。
 感動の心は隅に追いやられ、どんよりした気持ちが代わりにドカンと腰を下ろす。
「削る音が苦手でしたら、音楽の流れているヘッドホンをお貸ししますが」
 本当に至れり尽くせりなんだ。
 感動の心が少し持ち直した私は「いえ」と首を振り、今度こそ腹をくくる。
 
「案ずるより産むが易し、だったわね」
 夜風が冷たさが心地よい。
 削っている間、痛かったら左手を上げるように言われたが、そんな機会は一度もなく今日の治療は無事終わった。
 次の予約が楽しみだなんて、来る前には想像もできなかったな。
「もうこんな時間。家に電話しなくちゃ。あ、電源オフにしたままだった」
 ケータイの電源ボタンを押した途端、着信音が聞こえて、びっくりして落としそうになる。
 わっ、先生だ、いけない、終わったらすぐに連絡するんだった。
「きゃあっ」
 慌てて出ようとしたら、後ろから肩を掴まれ、飛び上がって振り返ると。
「先生!?」
 どうして?
 狐につままれたような気持ちになって、私はその場に固まる。
「そんなに大声出さなくても」
「す、すいません。今さっき終わったばっかりで」
 私が連絡しなかったことを怒ってるのかな? と様子を窺おうにも、先生はくるっと背中を向けてしまって、表情が読めない、というより、これって激怒?
「ま、待ってください」
 さっさと歩き出す先生の後を追う。
「ここでは何だ。話は車の中で」
 振り向きざまにそう言うと、先生はまた前を向きまっすぐ歩き始める。
 あまりくっついて歩かないようにしなくては、なんて配慮は全く不要なほどの早足で、あと半年もしたら堂々と並んで歩けるのに……。と物思いにふける余裕も、当然ない。
 すぐ近くのコインパーキングへ入っていく先生の後に続き、一応、辺りを見回し、助手席のドアに手をかける。
 
 先生がエンジンキーをカチリと挿す。
「あの……」
 私はブルルというエンジン音を聞き、条件反射のようにシートベルトをはめながら、右を向く。
 駐車場のライトからは死角で、先生がどんな顔をしているのか、ここからはわからない。
「どうして……、あっ」
 着信音が鳴り出したのは私の方。
 理奈からか。
 電源切っておけばよかった、とため息をつく。
「どうぞ」と言うように、先生がエンジンを切る。
「すいません。手短に済ませます」
 気兼ねしながら通話ボタンを押す。
『どうだったあ?』
 唐突にかん高い声が聞こえてちょっと腰が引けてしまったが、きっと彼女なりに紹介した責任を感じてくれてるのだろう。
「うん。なかなかいい感じだった。いいトコ紹介してくれて、ありがとう」
 こう言えば、理奈も肩の荷を下ろしてくれるだろう。
『そうでしょ? やっぱ、いい男だもんねえ』
「誰のこと?」
 歯医者の話ではなかったのか。
 首を傾げる。
『先生のことに決まってるじゃないのよ』
 え? 先生? バレた?
 私はギョッとなりながら、隣を見る。
『だから、高辻先生。受付のお姉さんにあれだけ念押ししておいたのに、まさか、高辻先生じゃなかったの?』
 それは、もしかすると今日の歯医者さんの名前なんだろうか?
「すごく親切丁寧だったけど名前知らない、顔もよく覚えてない」
『えーっ、信じられなーい』
 マスクで顔の半分近く隠れてるし、治療中は目を瞑りっぱなし、顔なんて見てやしない。
 名札もつけてたかどうか全然記憶にないし。
『あの高辻先生にトキメカナイなんて、志紀、あんた、ほんとに女?』
 なんか、相当失礼なこと言われてる気がする。まあ、そんなこと、どうでもいいよ。
 それより、さっきから先生に睨まれているような気がして、もう一度横を向いて確かめてみると、ああ、やっぱり!
 手短って言っておきながらダラダラしゃべってるの、怒ってるんだわ。
「理奈、ごめん、ここ電波の調子悪いみたい。あとでかけ直すから」
 ぴっ。ついでに、電源ボタンも、ぴっ。
 
「先生、すいません。どうでもいい話なのにすぐ切らなくて、本当に……えっ」
 何が起こったの?
 なぜ、先生の人差し指が私の下唇の上に?
「川村さんが『格好良くて素敵な歯医者さん』と紹介したのは私も聞いていたし、原田などは『ホイホイ喜んで出て行ったのが意外だ』と少なからずショックを受けていたようだが」
 うそ。
 ただ、いい歯医者、としか聞いていない。
 あ。そういえば、他に何か言っていたかもしれない、あの時は歯医者に行くことになったのが嫌、先生との逢瀬を邪魔されたのがもっと嫌、ってことばっかり考えてたから。
 でも、何か言い返そうにも、先生の指先が口の中をするっと割り込み、ゆるゆると私の歯列をなぞるもんだから、まともにしゃべることができない。
「んぐっ……」
 まだ麻酔が残っているせいで、特に治療した歯付近を触られると、普段とは違う、変な感覚に襲われる。
「はぁ……」
 私の様子に気づいたのか、先生はそこばっかり重点的にいじり始める。
 ビリビリビリ、神経がおかしい。
 それは、麻酔のせい? いや、それだけじゃなくて……。
「あっ……」
 いけない。ただでさえしまりのない状態なのに、こんなことされて、唾液がだらり垂れてしまう。
「イケメン歯科医に口をまさぐられた時も、そんな顔したのか?」
 
 先生がみっともないとなじるのは当然なのかもしれない。
 でも、こんなの……。
 私は思わず先生の手を押しのける。
「帰ります」
 シートベルトのバックルに右手をかけて外そうとしたら、タッチの差で先生の手に押さえつけられ、そのまま固定される。
「私……」
 やだ、どうして涙が出てきてしまうんだろう。
 こんなのだから、やっぱり子供だってあきれられてしまうのに。
「私、あの歯医者さんは親身になっていろいろ説明してくれてとても感じがいいとは思ったけど、ただそれだけ」
 さっと俯き、ぎゅっと目を瞑って、たまってる涙を下に落とし、また顔を上げる。
「今のは先生の指だから……、先生に触れられると私……」
 どう説明したらいいのか、理系なのに、理路整然とした表現は得意だったはずなのに、変だわ、先生のことになるとてんで頭が回らない。
 
「え?」
 伸びてきた手が、うなだれていた私の顎を持ち上げる。
 先生の顔がスローモーションのように近づいてくる。
 そして、当たり前のように唇が重なる。
 先生の唇が、放心状態の私のそれを何度も啄ばみ、感触を楽しむかのように触れ合う。
 私も知らず知らずのうちに顔の向きを合わせ応えてしまっているなんて、歯だけじゃなくて、全部の神経が麻痺しているに違いない。
 先生が私のシートをゆっくり倒し、そっとのしかかってくる。
 もう後は流されるしか術はない。
 がっくり力の抜けたのを見届けてか、先生の舌がぬるりと侵入してくる。
「ん、んんっ……」
 先生の舌が私の口の中をいやらしく這いずり回る。
 
 バタン。
 近くに停まっている車のドアの音で、我に返る。
 ここは誰もが自由に出入り可能な街中のパーキング、このまま流されるわけには……。
「だめッ」
 先生を払いのけようとしてみるが、右手はずっと押さえつけられたまま、シートベルトも外せやしないし、唯一自由に動く左手でどんどん押してみたところでどうこうなるものでもなし、半端な抵抗はかえって逆効果だと深くなるキスで気づくが、時既に遅し。
「んんっ……」
 口が溶けてしまいそう。
 もう、拒絶する力なんかない。全部、先生のなすがまま……。
 
「あっ!」
 異常事態発生、成り行き任せなんて悠長なこと、言っていられない。
「すまない」
 さすがに先生もバツが悪そう、ええ、そうでしょうとも。
「先生、ひどい」
 思わずキッと睨みつけると、たじろぐ先生。
「どうしよう」
「何とかなるから、落ち着きなさい」
 元はと言えば、先生が……。
 にじむ視界の中で、私は目の前の影をただぼんやり見ていた。
 
 
+ + +
 
 
「あの時はどうなるかとものすごく焦りましたけど、ほら、こんなに綺麗に」
 出来上がったばかりのピカピカの詰め物をお披露目してるっていうのに、先生は一瞥しただけで素っ気無い。
「でも、本当によかったんですか?」
 私が上目遣いにそう尋ねると、ようやく先生が私を見てくれる。
「ああ。“スポンサー”になったこと?」
 私は「はい」という返事の代わりに首を縦に振る。
「まあ、あの場合そう言うしか」
「私は脅してなんかいないのに、先生の被害妄想です」
 削ってもらった歯の仮の蓋がキスの最中に取れてしまうなんて、びっくり仰天、取れた本人も、取ってしまった張本人も。
「あんなに責められた上に、“詰め物一覧表”を見せられてはねえ」
「だから、あれはわざとじゃないって、何度も説明したじゃないですか!」
 
 慌てふためくだけで何もできない私を横目に、まだ診察可能か、仮の蓋を付け直してもらえるのか電話で聞くように指示、私が電話している間に一覧表を見つけて、「どうせならいい材料にしなさい。お金は出してあげるから」とポンと背中を押してくれたのはいいんだけど、いざ、それが収まってしまうと、言い知れぬ罪悪感が付きまとって仕方がない。
「どれどれ」
 先生は確認するために私の口に触れただけなのに、ビクっと震えてしまう。
「悪くないだろう」
 とりあえずOKが出たらしい、私はほっと胸を撫で下ろす。
「私が買ってあげたものを君が肌身離さず持っているっていうのも、ね」
「え?」
 咄嗟のことでうまく頭が回らないけど、なんて言うのか、これって先生にとっては指輪か何かをプレゼントするのと同レベル?
「先生ってやっぱりヘンな人ですね」
「そういう君こそ」
 お互い顔を見合わせくすくす笑う。
「さて。また外れては一大事だからな。装着具合を点検しよう」
 ずっと見つめ合っていると、ふんわり抱き寄せられる。
 そして、私たちは長い長い口付けを交わした。
 
 
 
<了>