邪念
あー、あー。本日は晴天なり。てすてす。
ハウリングののちにグラウンド中に放送局員の声が響く。日差しにはまだまだ夏の気配が残る十月初旬、ここ楢坂高校は一年に一度の体育祭を迎えていた。
「なんつーかさ、不公平じゃね?」
威勢良くシャツを脱ぎきった原田嶺が、傍らの高嶋珊慈にしかめっ面を見せる。声を出さずに、何が? と眉で問いかける親友に、嶺は更に顔をしかめてみせた。
「俺達は五十人で一部屋、女子は二十人で一部屋、なんつーか、不公平じゃね?」
繰り返すようだが、今日は全校を上げての体育祭。全ての生徒が一斉に体操服に着替えるには、体育館の更衣室は狭すぎる。よって、二クラスごとに組になって、片方の教室を男子が、もう片方を女子が、それぞれ更衣室として使うことになっているのだ。
ここ、三年十組の教室では、九組と十組の男子五十三人が暑苦しい人口密度に閉口しながらも着替えの真っ最中であった。
「いや、もう、不公平とかどうとかよりも、来週の模試どーするよ」
クラスメイトの一人が、脱いだシャツをすぐ前の机に放り投げながら嶺に話しかけてきた。「俺、全然勉強してねー。原田はどうよ?」
「それを俺に聞くな」嶺もまた、がっくりと肩を落とし、それから小さく唇を尖らせた。「大体、文化祭終わってまたすぐに体育祭って、イベントが目白押し過ぎんだよ……」
三年生は文化祭の仕事を免除されていたはずだということなど頭からすっかり抜け落ちてしまっているのだろう、自己責任なんて単語は知らない、とばかりに、一同は口々勝手に文句をこぼし始めた。
「そうだよ、落ち着いて受験勉強させろ、っての」
「体育祭つったって、どうせ午前中だけなんだしさ、一、二年だけでやってくれたらいいのにさ」
「あー、かったりー」
いくら変わり者が多い楢坂高校とはいえ、彼等もやはりイマドキの若者である。授業の延長程度の、通り一遍の陸上競技に燃え上がるほどの熱血野郎は少ない。
「陸上部の連中ぐらいだろ? 盛り上がってんの」
「いや、俺らはもう総体で燃え尽きたから」
にべもない陸上部員のコメントに、辺りの雰囲気は更に重くなった。
「いや、まてまて。そうは言っても学校行事には違いないし、とりあえずは前向きに行こうぜ! クラブ対抗リレーもあることだしさ」
自分がぼやきの口火を切ったということを忘れているのか、嶺が場をまとめにかかる。どの口が言うか、と冷ややかな視線を投げかける珊慈はともかく、一同はすぐに嶺の言葉に乗ってきた。
「そうだな、アレがあったか」
「アレぐらいだよな、楽しみなのは」
「誰か出る奴いるのかー?」
「へーい。落研(落語研究会)で出るよー」
「また座布団か?」
「あれ抱えて走るのかなりつらかったから、今年はメクリ(噺家の名を掲示する紙)にしようかな、って部長がさ」
「落語つったら座布団だろ、座布団。んで、タッチの時に是非一席ぶってくれ」
話題がクラブ対抗リレーに流れたことで、辺りは俄然活気を帯び始めてきた。
クラブ対抗リレーは、正確には「文化系クラブ対抗リレー」と「運動系クラブ対抗リレー」の二本立てで行われる。各クラブからそれぞれ一学年に三人ずつ、顧問の教師も加えた十名を選出してのこの競技、それぞれ一位にはささやかながら特別予算がつくとあって、毎年かなりの白熱ぶりを見せていた。
このリレーの特色は、走者が各々の部活のユニフォームを着用することにある。更に特筆すべきは、リレーに使用されるバトンが各々の部で自由に決められるという点だ。いかに皆の意表をつくか、勝負そっちのけでウケ狙いに走るクラブも少なくない。去年、デッサン用の石膏像を抱えて走った美術部の勇姿は、まだ皆の記憶に新しいことだろう。
「他に出る奴は……? 原田と、高嶋と……。高嶋は剣道部で?」
クラスメイトの問いかけに小さく挙手しながら、珊慈が口角を上げる。
「化学部も。モテモテだから、俺」
「いいよな、化学部は。人材豊富で」
確かに、兼部員と幽霊部員の数では化学部の右に出るものはいない。だが、嶺はそんな皮肉の気配に頓着する様子もみせず、ただひたすら能天気に胸を張る。
「いいだろー。今年も、文化系一位は俺達化学部がいただくぜ。なにしろウチには剣道部一の駿足と、八組、九組の代表とが揃ってるんだからな!」
嶺は、クラス対抗リレーの走者でもあった。ちなみに、八組の走者で化学部員というのは柏木陸のことである。
「はははは、甘い、甘いぞ、原田!」
悪代官のような高笑いを上げるのは、去年物理部の部長を務めていた大沢だった。
「今年の物理部はひと味違うぞ! なにしろ、今年は顧問枠に野田先生が出られるんだ!」
校内の若手の教師は運動部の顧問であることが多く、化学部の顧問である朗の存在はかなりのアドバンテージだったのだ。
「野田は顧問じゃねえだろ!」
「物理教師だから、いいの。生徒会の許可はとってあるし」
理科系教育に力を入れている楢坂高校だが、中でもとりわけ物理が優遇されている。他の理科科目とは違い、物理室は実験室と計算室の二部屋が用意され、更に加えて、常勤で三人の教諭が存在するという大所帯だ。その人的余裕から、物理教師が一年生の理科総合Aを担当することになっており、物理贔屓な授業がのちの物理選択者を増やし、それで余計に物理が重要視される、というポジティブフィードバックについては、この物語にはあまり関係のない話である。
「なんか釈然としねえな……。ま、ともかく、物理部は今年は何持って走るんだ?」
「酸素分子。これが本当のエアバトン」
しれっと言いきった大沢の言葉に、周りの全員が一気に脱力した。
「お前ら……去年もUSBメモリつって凄く地味だったろ。服だって普通に体操服のままだったし、ちょっとぐらいは空気読めよ……」
「そうは言うけどな、去年のアレは、ロボコン用制御プログラムの入ったヤツをカバー外して端子剥き出しのままで持って走ってたんだぞ! しかも、バックアップデータ無しというこの男気、どうだ!」
「アホか」
この瞬間、大沢を除く全員の心が、この嶺の言葉に重なっていた。だが、大沢は怯むことなく持論を滔々と語り続ける。
「それに、体操服のまま、って言うけどさ、白衣羽織った程度で偉そうにコスプレを語るなよ、化学部。あれで食いついてくるのは、腐女子ぐらいなものだ!」
「白衣がどうしたって?」
柔らかいバリトンが、大沢の背後から静かに投げかけられる。
その場に居合わせた誰もが、この時確実に辺りの気温が数度下がったように感じたという。だが、ただ一人異変に気づけなかった大沢は、その声に問われるがままにもう一度胸を張った。
「白衣なんて、コスプレの初歩中の初歩。体操服を笑う価値なし!」
「それで?」
冷たすぎるその声音に、さしもの大沢もようやく自分の置かれている状況を認識した。凍りついたような皆の視線を辿りながら、おそるおそる背後を振り返る。
「……た、多賀根……せんせ……」
「……着替えが終わった者から、順次グラウンドに集合。違うか?」
「は、はい、そうです」
「担任でもない私がこうやって呼びに来る理由も解るな?」
「はい……」
限界まで張りつめた空気に、朗の眼差しが深く突き刺さった。
「ならば、さっさと外に出たまえ」
「は、はいっ!」
模範的な返事とともに、全員があっという間に廊下へとまろび出ていった。ぼやくようなざわめきも、上履きの立てる音も、みるみる遠くなっていく。
しばしの間、朗は両手を腰に当てて満足そうにそれを見送っていた。
高校三年生ともなれば、体格などはもはや朗も彼らも大差ない。多対一にもかかわらず、おのれの言葉が充二分に効力を発揮した事実に、朗はすっかり上機嫌で教室を出た。
ふと、扉を閉めようとした朗の手が、止まる。
ひとけの無くなった校舎内は、まるで異世界のような静けさに包まれている。その完全なる静寂の中、朗の喉がごくりと鳴った。
一呼吸のち、朗はゆるゆると首を振った。眉間に深い皺を刻み、馬鹿な考えを振り払うかのように。
祭りの開始を告げるマーチの楽音が、校庭のスピーカーから響き始めた。
* * *
「え? 白衣? 洗濯するのに持って帰ったままですけど?」
志紀が怪訝そうな表情を作る。
放課後、化学準備室を訪れて直ぐに妙な質問を投げかけられては、こんな顔をするのは当たり前というものだ。
「あ、何か手伝うことがあるんですか? 制服じゃまずいんだったら、体操服に着替えましょうか?」
「体操服……。あ、いや、そこまでしてもらわなくても良いから。気にしないでくれたまえ」
「そうですか? 私にできる事だったら、手伝いますよ」
「いや、いいんだ」
微妙に歯切れの悪い朗の口調に気づくことなく、志紀は申し訳なさそうに眉を寄せる。
「早めに言ってくださったら、武藤さんとかリレー出てた子に借りられたんですけど……」
「いや、気にしないでくれ」
「……先生のじゃ、サイズが大き過ぎて余計に危ないですしね」
「…………」
「先生? どうかしました?」
「いや、なんでもない。それはまた今度……、また今度にしよう……」
〈 了 〉