あわいを往く者

  [?]

忘れ物

  
「で、俺はいつまで、ここでソレの主が来るのを待ってなきゃいけないんだ?」
 工作研究部の部室に入るなり、原田は作業台脇のベンチにがっくりと腰をおろした。
「別にずっと待ってる必要はないだろ。こうやって場所さえ決めれば、伝言を残すのも簡単だし」
 ドアに一番近い丸椅子に腰掛けたヒカリが、涼しい顔で返答する。
「伝言?」
「ラブレターに置き換えてシミュレートしてみろって」
「あ、そうか。そうだな。確かに、面と向かって『私のです』って言うのは、ちょっとな……」
 原田はまたも深い溜め息をついて、それから作業台の上を恨めしそうな眼差しで見つめた。そこには、手持ちの茶封筒に入れられたくだんの原稿が鎮座ましましている。
「しかし……、なんとなく落ち着かないな」
「そんなに怖がらなくてもいいだろ。原稿は噛みついたりしないぞ」
 ヒカリが事も無げにそう言えば、原田の眉間に深い皺が幾つも生まれた。
「誰だって、苦手なものがあるんだ。お前だって、女が縛ら」
「それ以上言ったら、今度こそ脳天かち割るぞ」
 間髪を入れずに切り返され、原田が一瞬ムッとした顔を見せる。だが、すぐに彼は何かに思い当たったような表情になり、ヒカリからついと目を逸らした。
「すまん。ちょっと調子に乗るところだった」
「調子に乗るところ、じゃなくて、もう乗ってただろ」
「……ああ、そうだな」
 いつになく真剣な顔で原田が頷く。
 ヒカリはここぞと鼻を鳴らした。が、こちらもほどなく神妙な表情を浮かべて、……視線をそっと手元に落とす。
「……私も、アンタが嫌がっているのをわかってて調子に乗った」
 小さく息を呑む音が聞こえて、やけに慌てた様子で原田がヒカリのほうへ身を乗り出した。
「いや、でも、普段俺も、お前が苛烈に反応するのが面白くて、しょーもないこと言ったりしてるし」
「『面白くて』?」
「あ、いや……」
「こっちはそのたびに、嫌な思いをしてるっていうのにか?」
「お前も、さっきまで俺の反応を面白がってただろーが!」
 原田の言葉が、正面からヒカリに突き刺さる。
 そのとおりだ、とヒカリは唇を噛んだ。最初は日頃の意趣返しのつもりだった。今まで散々あのふざけた態度に付き合わされてきたんだ、少しぐらい仕返ししてもいいだろう、と。しかし、途中から明らかに自分は、原田がうろたえる姿を見て愉しんでいた……。
 すまない、の一言を喉に貼りつけたまま、ヒカリは原田から顔を逸らす。
「おんなじだ」と彼の呟きが聞こえた。少しかすれた声が、もう一度、「おんなじだったんだな」と繰り返す――。
 ヒカリが視線を向けるのと同時に、原田が両手を高く上げて大きく伸びをした。
「あー、もう、俺はこういうのは得意じゃないんだ! 仕切り直そうぜ!」
 彼の子供じみた言動が、今この時ばかりは少しだけありがたかった。ヒカリは敢えて挑戦的な笑みを作って、鞄を手に椅子から立ち上がった。
「んじゃ、この原稿をよろしくお願いしますセンパイ」
「待って。ちょっと待って! ここで待つ以外に何かできることがないか、もうちょっと一緒に考えてくれない!?」
「……まあ、ちょっとだけなら」
 ヒカリが椅子に座り直すのを見届けて、原田もまた、浮かせていた腰を再びベンチに落ち着けた。
 作業台の上、乱雑に積まれた書類のてっぺんで、目覚まし時計がカチカチと秒を刻んでいる。
 正直なところ、ただ待つという選択肢しかヒカリには思いつかなかった。どうしたものかな、と彼女が息をついた時、原田が「はー」と派手に息を吐き出して、作業台の上に突っ伏した。
「まったく、経済の奴か文学部の奴か知らねーが、余計な仕事を増やしやがって……」
「どうして、経済か文だとわかる?」
「ああいうモノをコピーするとして、知り合いがうようよいる場所で作業したいと思うか? できるだけホームグラウンドから遠ざかろうって思うのが、自然じゃないか?」
 確かに、経済学部と文学部の校舎は、工学部の校舎群から離れた場所にある。しかし、問題の発端となった工学部七号館はキャンパスの辺境、その二つ以外の学部とも、なんなら同じ工学部の他の校舎とも、そこそこな距離がある。
「ならば、理とか農だって該当するんじゃないか?」
「理系なら、自分ちのPC使うだろ」
「今時、文系でも普通に使うだろ。入学の時にパソコン必携って言われるんだし」
「それはまあ、そうなんだけどさ……。でも、俺ならなんとしてでも自分ちで済ませようとするけどなあ……。人目につくリスクをとらねばならない理由を考えると、なにかそのあたりに制限があるんじゃないかな、って思ってさ……」
 と、そこに、ドアからやや躊躇いがちなノックの音が響いてきた。
「どうぞ」
 原田が、心持ち居住まいを正して扉に声をかけた。
 しばらく待つものの、一向に扉が開かれる気配はない。先に痺れを切らしたヒカリが椅子を立って、そうっとドアをあける。
「何か?」
「あ、あのー、工学部七号館のコピー室の、忘れ物のことで……」
 廊下に立っていたのは、ヒカリと同じぐらいの歳かさの、一人の女子学生だった。肩口にかかるさらさらの髪がパステルオレンジのシフォンスカートによく似合う、とても可愛らしい雰囲気の子だ。
 部室の戸口に咲いた一輪の花に、ヒカリも原田も、しばし言葉を失った。
「……あ、ああ、ええと、あなたがもしや?」
「はい。コピー本の原稿を忘れてしまって……」
 ヒカリの問いかけに彼女は静かに頷いて、それから「失礼します」と部屋の中へと入ってきた。
 まさかこんな直球でくるとは思わなかった。ヒカリは少しどぎまぎしながら、この肝の座った女子学生を見つめる。
「一応念のために、本人確認したいんだけど……」
「えっと……、それじゃあ、内容を言えばいいですか?」
「えっ?」
 心底驚くヒカリを尻目に、彼女は何か物語のタイトルと思しき名を挙げた。「――というシリーズの、オリジナルファンタジー漫画なんです。今回は、剣士のサンと、その主君の……」
 よどみなくあっけらかんとくだんの原稿について語る彼女に、ヒカリは知らず大きく息をついた。
「それで充分だよ」
「そうですか? ありがとうございます」
 まさしく花ほころぶように彼女が微笑む。
 ようやく石化が解けたのか、原田が「ええと」と声をかけた。
「君、何学部?」
「理学部です」
 その答えを聞き、ヒカリがにんまりと口元を緩めた。ほらみたことか、と底意地の悪い笑顔を原田に向ける。
 だが、原田はそれを無視して、畳みかけるように問いを重ねた。
「忘れた原稿は何ページ目?」
「アンタなあ、文系だ、っていう自分の推理が外れたからって……」
 あきれ返るヒカリの視線をものともせず、原田は更に質問を投げかける。
「……その原稿、本当に君のもの?」
 ふ、と、女子学生の顔から表情が消えた。
 冷たい目を原田に向けていたヒカリも、怪訝に思って「忘れ物の主」を見やる。
 原田は勿体ぶるようにしておもむろに椅子から立ち上がると、「失礼」と一言断ってから、女子学生の右手を取った。手のひらの付け根、手首の関節のところにポコリと小さく盛り上がった箇所を指し示し、静かに問う。
「これ、『マウスだこ』だよね。これだけ日常的にパソコンを使っているにもかかわらず、原画の複製にパソコンを使わない理由は何?」
 原田に手を預けたまま、彼女は足元に視線を落とした。何も言わずに。
 ヒカリは、まさか、と思いつつも、まず原田の論理の穴にツッコミを入れることにした。
「本体だけで、プリンタやスキャナを持っていない、ってことだってあるだろ。それか、突然壊れたとか」
「ネット経由でコンビニでプリントアウトすることだってできるだろ。それなら原稿を忘れるなんてリスクを負うこともない」
 本人そっちのけで、二人はひたすら相手の急所を探り合う。
「スキャナ持ってなきゃ、意味ないだろうが。そもそも、理系だからパソコンが自由自在に使える、って、ある意味偏見だろ。もしかしたら、大学の授業関係以外はさっぱり苦手、という人かもしれないじゃないか」
「確かにそれらの可能性はゼロじゃない。だけど、少し引っかかるんだよ」
 不毛な議論にようやく終止符を打った原田は、そっと彼女の手を戻し、ヒカリのほうに向き直った。
「あの原稿について口頭で説明しろと言われたら、俺なら、細かい内容よりも先に、『十八歳未満の方にはお見せできない漫画です』とでも言うかな」
 原田の言葉に、自称「持ち主」が目を丸くした。
「そう。モノがモノだけに、内容は後回しにして、外郭から説明しようとするのが普通だと思う。紙のサイズ、種類、使った筆記具、あと、ページ数も立派な本人証明になる」
 と、そこで、原田は大きく嘆息した。
「そもそも、アレを正面切って『私のです』って言えるかな、と思うんだよね。しかも、同性の雛方だけならともかく、見知らぬ野郎が横にいるのに。俺なら、架空の友人のもの、ってことにして回収しに行くなあ。たとえ、本人バレバレでも、表向きはね。前後のページを『預かってきた』つって見せれば、本人確認も問題ないだろうし」
 ふとヒカリの脳裏に「友人がラブレターを落としました」と主張する原田の姿が浮かび上がり、彼女は盛大にふき出しそうになった。
「君、もしかして、漫画の登場人物とその設定しか知らなかったんじゃない?」
 静かに、だが有無を言わせぬ口調で、原田が語りかける。
 しばしの沈黙ののち、持ち主と名乗っていた女子学生は、やにわに勢いよく頭を下げた。
「すみません! あの、本当は、それ、友達のものなんです!」
「友達?」
「『今日コピー本用のコピーをする』って言ってて……、会えるかな、ってコピー室に行ったら、忘れ物の張り紙に知ってるキャラ名が書いてあって……、それで……」
 やれやれ、と、天を仰いでから、ヒカリは傍らの作業台にもたれかかった。
「友達なら、本人に『忘れ物してるみたいだよ』って言ってあげたらいいのに」
「もしも違ってて、ストーカーみたいに思われたら嫌だったから、原稿を確認してから、連絡しようかな、って……」
 思いもかけない単語に、今度は原田の眉間に皺が寄った。
「ストーカー? いつどこで何をコピーする、って、予定を教えてもらえる仲なんだろ? なんでストーカー?」
「あの……、友達って、その……、ネットの……」
 ネット、という単語を聞くや、またもやヒカリの「ツッコミスイッチ」がオンになった。
「やっぱりその人もパソコンを使うんじゃないか。原稿の複製を家でするかしないかに、パソコンは関係ないんだよ」
「あ、いいえ、アナログ絵師さんで、プリンタはあるけどスキャナは持ってないって……、SNSに絵を上げるのも写真に撮ってだから」
「ほら、俺の推理どおりだろ」と、原田が勝利の笑みを浮かべた。「それで、ネットがどうしたって?」
 二人の勢いに目を白黒させつつも、彼女は訥々と話を続ける。
「……そのぅ、ブログに、今日、コピー本用のコピーしに他学部の穴場コピー室に行く、って書いてて……、これまでの書き込みで、なんとなく同じ大学っぽいのが判ってたから……、それで、もしかして、って思って探してみて……」
 そこで、ヒカリと原田は思わずお互いに顔を見合わせた。
「ちょっと待って。コピーのこととか、その人から直接聞いたわけじゃないんだ?」
「本当に友達なのか?」
 一気に核心を突いた原田の台詞に、彼女は思いっきり柳眉をひそめた。
「確かにSNSは相互じゃないですけど、リプライのやりとりは普通にしてますし、ブログへのコメントにもちゃんとお返事を貰ってますし……」
 ポカンと、口をあけるヒカリと原田。
「だから、私から忘れ物を届けてあげようって思って……。それで……」
「忘れ物の引き渡しは、本人限定!」
 それはもう、見事なまでに二人の声が揃った瞬間だった。
  
    * * *
  
 翌々日、工作研究部の扉のところに一通の封書が挟んであるのが見つかったそうだ。
 手紙は、忘れ物を適切に保護してくれたことに対するお礼の言葉に始まり、本人証明代わりとみられる鉛筆書きのイラストとともに、
『原稿は燃やしてしまってください』
 と、締めくくられていたとのことである。
  
  
  
〈 了 〉
この物語はフィクションです。実在する小説の登場人物(特にその嗜好)とは、一切関係ありません。