「餅は餅屋、ってね」
同じ文化部棟の四階。原田は軽音楽部と書かれた扉を軽くノックした。
一拍おいて、「どうぞー」と野太い声が奥から響いてくる。
「篠原、いるかー?」
おう、という返事を待たず原田が扉を開いた。声の主であろう、正面の窓際に立つ男が、にこやかに片手を上げる。
「原田! この間はありがとうな。お陰でほら」そう言って彼は傍らのキーボードに手を伸ばし、ドレミファソ、と音階を奏でた。「このとおり、もうすっかり元どおりだ。ホント助かったよ」
ありがとう、助かった、と何度も繰り返す声に、原田が照れたように頭を掻く。左手奥の机に座っていたもう一人が、感心したように口を開いた。
「もしかして、修理してくれたっていう工作部の人? 凄いなあ。僕のベースが壊れた時も、頼めるかな」
「部品があればね。依頼は会計通してな」
背後で感嘆の溜め息を漏らす茉莉に得意げな目配せを投げてから、原田は部屋の中へと歩みを進めた。
「篠原、お前さ、『ふるさと』って弾ける? 『うさぎ追いしー』ってやつ」
「ああ」
篠原と呼ばれた男は、ちょっぴり得意そうにキーボードに指を走らせた。幾つか音をさまよったのち、やがて訥々と旋律を弾き始める。
「うさぎ美味しいー」
よく通るバリトンで字余りの歌を歌う篠原に、原田は、「いきなり喰うか」とツッコミを入れてから、ニヤリとヒカリを振り返った。
どこもかしこも馬鹿ばっかりかよ、とヒカリは目線で原田につき返す。
ド ド ド レーミレ、ミ ミ ファ ソー
ファ ソ ラ ミーファミ、レ レ シ ドー……
「シ、か……」
弾き手の手元を見つめながら、原田が唸った。オルゴールに欠けていた箇所は「シ」の音だったのだ。
「『ロ』とも言うよね。ハニホヘトイロ、で『ロ』」
「ツェー、デー、エー、エフときて『ハー』かもな」
本題に入ったからには遠慮は無用、とばかりにキーボードの周りに押し寄せてきたヒカリ達を見て、篠原が目を丸くした。誰? と慌てる彼に、原田が苦笑を浮かべる。
「ちょっとこの子らの調べ物を手伝っててさ」
「へー。君らもしかして一回生? 何学部?」
律儀に「経済です」と返事をする茉莉を放っておいて、ヒカリは原田に向き直った。これみよがしに尊大な態度で腕組みをし、皮肉を込めて口元を歪ませる。
「さて、迷探偵殿は、これらをどう料理するんだ?」
「急かすなよ。お前、ケツの穴が小さいだけじゃなくて、早ろ……」
「シモネタはもう充分だ」
光の速さで、ヒカリの肘が原田の鳩尾に入った。腹を抱えて呻く背中にとどめを刺すべく、ヒカリは刺々しい声音を投げつける。
「欠けている音が判明したわけだが、これで謎が解けるのか?」
「お前は? 何か思いつかねーのか?」
質問に質問で返す不躾さに、ヒカリは眉を大きく跳ね上げた。
「これはアンタが言い出したネタだ」
「じゃあ、お前に何か他のアイデアがあるのか?」
いつになく静かな眼差しで問いかけられて、さしものヒカリも言葉に詰まってしまった。
「代替案があるってんならともかく、他にいい案もないのに、偉そうに突っかかってくるってのは、どうよ?」
「……それを言うなら、アンタだって充分偉そうな態度じゃないか」
目元に力を込めて、ヒカリが原田を睨みつける。だが、当の原田は全く怯んだ様子もなく、そればかりか、至極嬉しそうに口元に笑みを浮かべた。
「な、何だ」
「『アレ』呼ばわりから『アンタ』になったな」
しまった、とヒカリは目を見開いた。
「ってことは、俺、妖怪から人間に昇格したんだな?」
そう言って楽しそうに笑う原田の、どこを何で殴りつけてやろうか、とヒカリが考えを巡らせていると、突然オルゴールが鳴り始めた。
何事かと振り返れば、篠原の横で茉莉が、「ここが一音欠けているんですよー」とか何とか言いながらオルゴールを回していた。
「あれ? ……違うな」
ぼそり、とこぼされた篠原の声に、ヒカリも原田も一変して真顔になって、彼の傍に駆け寄った。
二人が口を揃えて「何が」と問うのを見て、茉莉の眉がそっと緩む。
「何が違うんだ?」
原田の改めての問いに、篠原はついと視線をキーボードに落とした。
「音がね。ほら」
篠原の指が、先ほどと同じ鍵盤の上を滑る。オルゴールの曲に追いついたところで、彼の言わんとすることをその場の全員が理解した。
オルゴールの音とキーボードの音が合っていない。
合奏を諦めて、篠原は同じ高さの音を探し始めた。キーボードの上で指を行ったり来たりさせること数秒、やがてオルゴールとキーボードの音はきれいに重なった。先ほどの不協和音とは打って変わって、見事な二重奏が部屋の空気を震わせる。
旋律が一巡したところで、どちらからともなく演奏は終わりを迎えた。
「へー、ト長調かあ」
篠原の呟きに、原田が身を乗り出した。
「どういうことだ?」
「さっき俺が弾いた時には、黒鍵は使わなかっただろ。俺は絶対音感なんて上等なもの持ってないからさ、音と音の音階の差だけ拾って、単純にハ長調でメロディを探したんだ。でも、本当はファにシャープのついたト長調だったんだ」
ソラシドレミファソ、と篠原が黒鍵を交えて弾いたその音は、何も知らない素人の耳には、まるで「ドレミファソラシド」のように聞こえる。
と、その時、奥にいたもう一人の軽音楽部員が口を開いた。
「楽譜では、ヘ長調になっているけどね」
「マジ?」
篠原が机の傍へと向かう。ベース担当と言っていた部員は、手に持った大判の冊子を開いてみせた。
「そのキーボードの付録の楽譜に、載ってるんだよ、『ふるさと』が。ほら」
「本当だ、ヘ長調だ」
遅れて駆け寄る一同が、篠原の肩越しに楽譜を覗き込んだ。
ふるさと、とタイトルを冠した五線譜には、フラットが一つだけ、ちょこんと飾りのようについている。
「童謡とか唱歌とかって、ヘ長調が多いと思ってたから、ト長調って聞いて意外に思って」
「でも、ヘからトだと、わざわざ変調するメリットってあまりないよな?」
ヘはファ、トはソの音名だ。ファを主音とした長調がヘ長調で、ソを主音としたのがト長調である。
「相当音域の限られている楽器なら別だけど、オルゴールだしなあ」
「ギターみたいにコードとかも関係ないもんなあ」
ぶつぶつ呟くアマチュア演奏家二人の間に、原田が少しだけ遠慮がちに身を割り込ませた。茉莉から受け取ったオルゴールを示しながら、おずおずと問いかける。
「ト長調ということなら、結局欠けているのはどの音なんだ?」
「ファ、だな」
「シャープがついている音か……」
もう一度オルゴールと同じ音で弾いてみてくれないか、との原田の言葉に、篠原は気前よく頷くと、キーボードの前に戻った。
ソ ソ ソ ラーシラ、シ シ ド レー
ド レ ミ シードシー、ラ ラ ファ ソー……
「じゃあ、今度はシャープを取っ払ってみてくれ」
「いいけど」
ファ、のところで白鍵を押さえた途端、弾いている本人も含めた全員の眉間に皺が寄った。
「わ、変なの」
「たかが半音で、気色悪くなるものだな」
顔をしかめてぼやくヒカリ達に、軽音楽部員が苦笑を返す。その横で、原田がただ一人、無言のままじっと立ち尽くしていた。彫像のごとく微動だにせず、難しい顔でおのれの足元を見つめている。
やがて彼は勢いよく顔を上げると、「サンキュ」とだけ言い残して、そのまま部屋を飛び出していった。
礼もそこそこに軽音楽部室を辞したヒカリ達が、工作研究部の部屋に戻ってみれば、原田がドライバー片手にオルゴールに挑みかかろうとしているところだった。
「わー! 原田さん、何するんですかっ!」
「壊すなー!」
ヒカリは右手、茉莉は左手、と見事な連係プレーで二人は原田を押さえにかかった。期せずして両手に花となった原田が、ちょっと赤い顔で叫ぶ。
「壊すか馬鹿!」
「じゃあ、なんでドライバーなんか持ってるんですか!」
間違いなく姉譲りの茉莉の恫喝に若干怯えつつ、原田はそろそろとオルゴールを指差した。
「この櫛を外してみようかと思って」
「何故そんなことをする」
憮然としたヒカリに得意そうな笑みを投げてから、原田はルーペを手に取った。さっきとは違って、今度は櫛のネジのあたりを拡大して見せる。
「……これは……」
「台座の酸化した部分と、櫛の端っこと、ほんの僅かだがズレてるだろ。さっき見た時は、気のせいかなと思ってたんだが――」と、そこで原田は勿体ぶるように言葉を切った。「――たぶん、この櫛は『違う』んだ」
「違う?」
「元々このオルゴールについていた櫛とは違うものに、取り替えられているんだろう」
原田はあらためてドライバーをネジに当てた。
「取り替えられた櫛は、恐らくハ長調。『ファ』の音に、シャープはついていなかったんだ」
原田の言葉を聞き、ヒカリの背筋が、ぴん、と伸びた。
「そうか、だからわざわざ『ファ』の歯を切り取ったんだ」
「そう。そのままだと櫛が違っていることがすぐにばれてしまうからな。音の違う一本を折っておけば、単に壊れているとしか思われずにすむ」
「え、でも、どうして兄ちゃんてばそんなことを……」
きょとんとする茉莉に、ヒカリが口角を上げた。
「兄ちゃん、とやらは、たった一人にだけ、知らせたかったんだよ。櫛が壊れているんじゃなくて、櫛が違 っ て い る んだ、ってことを」
「絶対音感を持つ、たった一人に、な」
原田の言葉が終わるのと同時に、ネジが、ころん、とテーブルに落ちた。
自重で櫛が、外れる。
三人は一様に小さく声を上げた。
櫛に隠されていた台座の部分に、何かが刻まれていた。目打ちか何か針のようなもので彫られた、五ミリにも満たない小さな文字が三つ、スタンドライトの光にきらきらと浮かび上がる。
それは、たった三文字のメッセージだった。思いの丈を込めて刻みつけられた、たった一言のメッセージ……。
一同は、しばし無言でそれを見つめ続けた。
「……何と言うか、あれだな、他人宛のラブレターを間違えて読んでしまった気分だな」
「まさしく、そのとおりだろーが」
律儀にツッコミを入れつつも、ヒカリもすっかり疲れきった表情で天を仰ぐ。その横で茉莉が頭を抱え込んだ。
「兄ちゃん……まわりくどすぎるよ……」
三者三様で茫然とすることしばし、やがて我に返った原田がそそくさと櫛を再びネジどめする。
アクリルカバーを元どおりにし、オルゴールを箱に戻し、紙袋に入れ、……それから三人は同時に大きく溜め息をついた。
「ねえ、姉ちゃんがこのメッセージに気づかなかったらどうしよう……」
次の講義に出るべく文化部棟を出たところで、茉莉が不安そうな言葉を漏らした。
うむ、と唸るヒカリとは対照的に、原田の声はやけに素っ気なかった。
「その男が自分で選んだ修羅の道なんだから、松山さんが気にすることはないさ」
「思いっきり他人事だと思ってるだろ」
「あったりまえだろ?」と、底意地の悪い笑みを浮かべる眼差しが、ふと、遠くなる。「幸せは自力で掴むもんだからな」
「そんなー! ね、ヒカリ、どうしたらいい? このままじゃ私、気になって夜しか眠れないよ!」
うむ、と再びヒカリは考え込んだ。
……とはいえ、原田の言うことも確かに一理ある。送り主は熟考の末に、運試しをする覚悟を決めたのだろう。それを第三者がどうこうするのはいかがなものか。
結局、他人事ってことか。ヒカリはそっと息を吐いた。
いつも、いつも、肝心なところでこの男には敵わない。普段、あんなにちゃらんぽらんなことを言っているくせに、こういう時だけは正論を吐くのだから。
――だから、ムカつくんだよ。
もう一度、ヒカリは深く息をついた。そうして、ほんの束の間、そっと目をつむる。
それから彼女は、原田には見えないように茉莉に微笑んでみせた。
「大丈夫だよ。茉莉の姉ちゃんならきっと気づくさ。音の無い音に」
「無音の音、ね。禅問答みたいだな」
原田が、顎をさすりながらしみじみと頷く。
と、突然、茉莉が何か思いついたように「あっ」と手を打った。
「そうだ。もし仮に気づかなかったとしても、『よくも不良品を掴ませてくれたね!』って兄ちゃんを締め上げて、本当のことを聞きだすよね、姉ちゃんなら」
あまりにあんまりな言いざまに、ヒカリは思わず足を止めた。
なーんだ心配して損したー、と満面の笑みを浮かべる茉莉をまじまじと見つめるうち、ヒカリの喉から、知らず「怖えぇ」と声が漏れる。
それと全く同じタイミング、同じ調子で発せられた同じ言葉に気づいて、ヒカリは思いっきり顔をしかめた。
「真似するな」
「そっちこそ」
対峙する、仏頂面とにやけ顔。
その傍らで、いきなり茉莉が盛大に吹き出した。息をするのも苦しい様子で、身体を二つに折って笑い転げている。
「ま、松山さん?」
「や、だって、もう、だって……」
「どうした、茉莉」
「……だって、さっきから、ふたりってば、息、ぴったりで……」
「冗談じゃない!」
待ってよヒカリ置いていかないでー、と縋る声を振り払いながら、ヒカリは、一人早足でその場をあとにするのだった。
〈 了 〉