あわいを往く者

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消えたサドル

  
 ――犯人は、こいつかもしれない。
 横を歩く太田を目の端に捉えながら、ヒカリは駐輪所へと向かっていた。
 よほど親しい間柄でなければ、他人がどんな自転車に乗っているかなんて、気にしないのが普通だろう。ましてや、サドルの色や形まで把握しているなんてことは滅多にない。
 だが、サドルを盗ったのが太田だというのならば、話は別だ。隠し場所だって知っていて当然だろう。
 どういうつもりか。どうすればいいのか。悶々と悩み続けて駐輪所にやってきたヒカリは、あるものを目にして、顎を外しそうになった。
 彼女の視線の先、見知らぬ第三の人物が、今まさしくヒカリの自転車からサドルを盗ろうと、孤軍奮闘しているところだった。
「てめえ、何してやがる!」
 辺りに響きわたったヒカリの怒号に、太田が、そしてサドル泥棒が一瞬怯む。
 ヒカリは、間髪を入れずに駆けだした。
 抜きかけたサドルもそのままに、泥棒が逃げる。
 走り去る背中が向かう先、弥勒が植え込みをまわり込んで来るのが見えた。
「そいつ、サドル泥棒だ!」
 生垣と自転車の列とで囲まれた、細長い一本道。血相を変えて突進してくる泥棒に動じたふうもなく、弥勒はふっと両足を肩の幅に開いた。ゆっくりと両手を前に突き出したかと思えば、次の瞬間、泥棒が地面にころりんとひっくり返った。
 合気道だ。
「窃盗犯が別にいたとはね」
 両手を軽くはたいてから、弥勒が泥棒の腕をねじり上げた。いてててて、と呻きながら、泥棒が顔を上げる。
「窃盗じゃねえよ! 嫌がらせだよ!」
「ふざけんな!」
 腹の底から声を絞り出して、ヒカリが凄みを効かす。
「なんでてめえに嫌がらせされなきゃいけないんだ!」
 だが、相手も、悪あがきをやめようとしない。手足をばたつかせながら、ヒカリにくってかかる。
「アンタが俺の自転車を倒したからだ!」
「は?」
 ただでさえわけがわからない状況に、更にわけのわからない言い訳が飛び出てきたことに、思わずヒカリの顔面から力が抜けた。
 泥棒改め嫌がらせ男は、ここぞとばかりに文句を垂れ流し続ける。
「せっかくバイト代はたいて買った、びあんきのかめれおんてに大きな擦り傷つけやがって……!」
「暗記のカメレオン? ごめん、何言ってるかさっぱりわからない」
「自転車のブランドと車種名だよ。イタリア製だったかな」
 涼しい顔で男を押さえ込み続けながら、弥勒が解説を入れる。
「そのカメレオンを私が倒した?」
 どういうことなのかさっぱり理解できず、目をしばたたかせるヒカリの横、ずっと黙りこくっていた太田が口を開いた。
「雛方さんじゃないよ」
 皆の視線を一身に受けながら、太田は真剣な表情で話し始めた。
「俺、見たんだ。昨日の昼、雛方さんが駐輪所から出てきた直後に、自転車の倒れる音がして、びっくりして覗いてみたら、雛方さんの自転車のすぐ横に自転車を停めかけていた奴が、きょろきょろ辺りを見回して、それから物凄い勢いで逃げていって、雛方さんの自転車の横の自転車が五台ほどドミノ倒しになっていて……」
 嫌がらせ男が、弥勒の腕の下で息を呑んだ。
「……起こしたほうがいいかな、とか悩んでいたら、その人がやってきて、凄い剣幕で雛方さんの自転車の回りをうろうろして、それから雛方さんの自転車からサドル抜いて、そこのゴミ箱に捨てて」
 太田の指さす方角には、公園などでよく見られるスチール製の網籠があった。
「とりあえずゴミ箱からサドルを回収したけど、元に戻しておいたら、さっきの人が今度はもっと悪質な嫌がらせをするんじゃないか、と思って、それで」
「植え込みの下に隠した、と」
 満足そうに頷きながら、弥勒が太田のあとを受ける。
 拘束を解かれた嫌がらせ男は、魂が抜けたような顔で、ふらふらと立ち上がった。
「……アンタじゃなかったんだ」
「おう」
 すっかり毒気を抜かれてしまったヒカリは、半分あきれ顔で一言を返した。
 対する男は、真っ青な顔で、深々と頭を下げる。
「悪かった。すまん。いや、申し訳ありませんでした!」
「まあ、アンタも大事なカメレオン傷物にされて悔しかったんだろうし、サドルも戻ってきたから、もういいよ」
「ゆ、許してくれるのかっ?」
 ぱあっと顔を綻ばせる男に、はあっとヒカリは息を吐いた。なるほど、この調子で簡単に脳天に血をのぼらせて、ヒカリのサドルを抜くに至ったに違いない。
「今回は許してやるから、もうこういう馬鹿なまねはしないでくれ」
  
 せめてものお詫びに、と、サドルの交換を手伝って、そうして嫌がらせ男は立ち去っていった。何度も何度も頭を下げながら。
 それをにこやかに見送っていた弥勒が、事も無げに呟いた。
「自転車に傷をつけるとかパンクさせるとか、そういう仕返しはしたくなかったんだろうね」
「ああ、なるほど」
 ぽんと手を打つヒカリに、眉を上げる弥勒。
「あれ? 彼の自転車愛にほだされて許してあげたのかと」
「いや、単にサドルが無事だったから。誤解がとけたから、もう嫌がらせもないだろうし、これ以上ややこしくすることもないかな、って」
 淡々と返答してから、ヒカリは「あ、そうだ」と太田を振り返った。
「それにしても、事情を知っていたのなら、早く言ってくれたら良かったのに」
「あ、いや、その……」
 途端に太田がバツの悪そうな表情になって、しどろもどろに口ごもる。
 その様子を見て、ヒカリは、昨日のおのれの行動を思い返した。
「あ、そっか。昨日は私、急いでたから、そんな暇なかったか」
「いや、ええと、実は俺」「そうだね、すぐに帰らないと、って、鬼気迫るオーラを出していたもんねえ」
 のんきな声が、太田の声に綺麗にかぶさった。そのまま口をつぐむ太田に、弥勒が「だよね?」と語りかける。
「あ、まあ、それは確かにそうなんですけど……」
 もの言いたげな太田の様子が気になったものの、それよりももっと気にかかっていたことを確かめるべく、ヒカリは今度は弥勒のほうへと顔を向けた。
「そうだ、どうして、あの時余分なサドルなんか持ってたんですか?」
「ああ、これ、ね。学生課から廃品を譲り受けてね、丁度僕の自転車のサドルが傷んできていたから、交換させてもらおうかな、って」
 疑ってごめんなさい、と心の中で謝りながら、ヒカリは殊更に明るい声を出した。
「へー、学生課ってそんなこともしてるんですか」
「いや、ごめんごめん、言葉が足りなかったな。事務の人がご自分の自転車を個人的にうちの部に譲ってくださったんだよ」
 ……何か嫌な予感とともに、一つの単語がヒカリの頭に引っかかった。
「うちの……部?」
「ああ、言ってなかったね。工作研究部」
「こ……!」
 一点の曇りもない、見ようによっては白々しさ最高潮な笑顔で、弥勒が居住まいを正した。
「部長の平坂です。雛方さんには、不肖の平部員がいつもお世話になっております」
 その瞬間、ヒカリの脳裏に「あれ」の顔が問答無用に浮かび上がってきた。襟足にかかる髪を無造作に首の後ろで縛った、人を食ったような根性悪い笑みを口元に刻む、あの顔が。
 咄嗟にヒカリは、頭の中からあの忌々しい顔を引っぺがした。真っ二つに引き裂いて、くしゃくしゃに丸めて、踏みつけて、それから思いっきり遠くへ蹴り出した。
「どう、雛方さんも入らない? 我が工作研究部に」
「断っ固、お断りします!」
 キラーン、と星になって飛んでいく「あれ」を妄想の中で見送って、それからヒカリは自転車のスタンドを外した。
「平坂さん、サドル貸してくださってありがとうございました。太田くんもありがとう。じゃ、また明日」
 すっかり蚊帳の外に追いやられてしまっていた太田が、慌てて引きとめにかかる。
「ま、待って、雛方さん」
「何?」
 眉間の皺を隠そうともせず、ヒカリは振り返った。
 太田が、若干及び腰で、それでも意を決したように言葉を継ぐ。
「……いや、その、もしも駅のほうに行くのなら、途中まで一緒にいけるかな、って……」
「ああ。私、今から買い物に行くから、そっち方面には行かないな」
 きっぱり返答して、ヒカリは自転車に跨った。ぐずぐずしていると、そこらの茂みの下から「あれ」が「よお」とかなんとか言いながら這い出てくるような気がしたからだ。
「じゃあ、また明日。失礼します!」
  
    *
  
 ヒカリの後姿が、颯爽と遠ざかっていく。
 がっくりと肩を落とした太田の背を、平坂が優しくぽんぽんと叩いた。
  
  
  
〈 了 〉