あわいを往く者

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昔日の夕日

  
  
「どんなキーホルダーなんだ? 詳しく教えてくれるか?」
 原田の問いに、ユキは訥々とその詳細を語り始めた。
 失くしたのは、テレビCMもやっていた有名ゲームに出てくる、従者猫のキーホルダーなのだという。「すっごくカワイイの!」と目を輝かせるユキを見て、ヒカリも原田も口元に苦笑を浮かべた。
「どこで失くしたんだ?」
「たぶん、このへんに落ちたはずなんだけど」
「落ちた?」
 二人の声が綺麗に揃ったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。ヒカリはポーカーフェイスを意識しながら、原田の次の言葉を待った。
「落とした、じゃなくて?」
 大仰に首をかしげてみせる原田に、ユキは大きくかぶりを振った。
「キーホルダーをヒナちゃんに見せようって思って公園に来たんだけど、誰もいなくて、しかたなくブランコしてたら、カツヤくんがやってきて、キーホルダー見せろって言って取ろうとして、イヤだって言っても全然聞いてくれなくて、取られないように頑張ってたら、キーホルダーがポーンと飛んでいってしまって……」
「で、この辺りに落ちた、と」
 ユキがぶんぶんと頷く。
「その張本人のカツヤとやらは、それからどうしたんだ」
 ヒカリのツッコミに、ユキは頬を膨らませた。
「逃げた」
「逃げたぁ?」
「本当にどうしようもない奴だな」と吐き捨てるヒカリを、何故か原田が「そう言ってやるなよ」なんてなだめてくる。
「落ちた時、何か音とかしなかったか?」
「遠かったから、はっきりとは聞こえなかったけれど、見えなくなってからも鈴の音が聞こえてきたような気がするから、たぶん、落ちたところから少し転がったんだと思う」
 それは面倒なことになったな、と唸るヒカリの横で、原田が右手を口元に当てた。考え込む時の彼の癖だ。
「キーホルダーって、転がるような形なんだ?」
「顔だけだから、丸いよ」
「大きさは?」
「このぐらい」
 ユキが両手で、ゴルフボールよりも少し大きい円を示した。
「材質とか、わかるか?」
「ゴムっぽいの」
 ふむ、と相槌を打ってから、原田は足元の草むらに視線を落とした。そのまま、二、三歩向こうに進んだかと思えば、「おお」と声を漏らす。
 不思議に思ったヒカリが原田のあとを追うと、雑草の陰にコンクリの土台が見えた。かつて何か遊具が据えつけられていた跡のようだった。
「ところで、カツヤって子とキーホルダーを取り合ったところって、どこだ?」
「ブランコの前」
 ユキが指さしたのは、そこから十メートル近く離れた場所だった。
「随分と飛んだんだな」
 ヒカリの呟きに、原田も小さく頷いた。
「あれだけ離れていて、鈴の音が聞こえたということは、転がったんじゃないな」
 遊具があるエリアと違って、今ヒカリ達がいる場所には、一面に草が生い茂っている。そんな中をキーホルダーが転がったとしても、まず音は立てないだろうし、仮に音を立てたとしても、ユキの耳には届かないだろう。
「ここでバウンドした、ってことか?」
「たぶん」
 そう一言答えて、原田は道路とは反対側――ブランコから見て、今ヒカリ達がいる場所の右側――の、公園の奥のほうへと歩き始めた。
「なんで、そっちへ行くんだ」
「バウンドしたあとの鈴の音が聞こえたということは、少なくとも草むらを飛び出す程度にはキーホルダーが跳ねたんだ。材質がゴムっぽいっていうのなら、接地の状況によっては、それなりに弾むだろう。それがキーホルダーが飛んでいったのと同じ方向だったら、流石にユキちゃんも気づくだろ。道路側はすぐ先が石畳になっているから、もっとわかり易い金具や鈴の音が聞こえるはず。となると、消去法で、こっち側に跳ねたかな、と思ってね」
 公園の奥は、道路と並行に金属製の柵で仕切られていた。
 原田は、柵に手をかけると、その向こうをひょいと覗き込んだ。
 一歩遅れて原田の右側に到達したヒカリも、柵の外に視線を落とす。
 そこには、幅一メートル、深さ一メートル半ほどの水路があった。公園沿いに真っ直ぐと、更にその先の道路脇をと、ところどころ暗渠あんきょとなって右手の方角へ滔々と流れていく。
 原田が、ユキを振り返った。
「ここに落ちたってことは?」
 柵の隙間は、十センチほど。キーホルダーがすり抜けるのも可能な幅だ。
「わかんない」
「水音は聞こえなかった?」
「うーん……」
 考え込むユキを、原田もヒカリも無言で見守る。
 静まりかえった公園に、どこかの排水溝から水路に合流する水の音が、風に乗って聞こえてくる……。
「ずっとちゃぽちゃぽ音がしてるから……」
「そうだね……」
 原田とユキのやりとりを耳に遊ばせながら、ヒカリは柵から身を乗り出して、夕闇に沈む水路内を覗き込んだ。
 ヒカリの足元から水面までは、ユキの背丈分ぐらいは優にあった。水深は十センチほどだろうか、流れている水は澄んでいて、平らなコンクリの底がどこまでも見通せる。水面より上にあるコンクリの継ぎ目に、ところどころ雑草が生えている以外は、目立った障害物は見当たらない。
 ――金具はともかく、マスコットはたぶん水に浮くな。
 ヒカリは、右手、下流のほうに目を凝らしたのち、ゆるゆると首を横に振って身を起こした。キーホルダーは既に下流へと流れ去ってしまったか、そもそもこの水路には落ちなかったか。どちらにせよ、ここを捜索範囲に含めるのはナンセンスだ。当初の予定どおり公園内をしらみつぶしに探すべきだろう。
 溜め息一つ、「残業」を覚悟して、ヒカリは原田を振り返った。
 同じく水路を覗き込んでいた原田は、ヒカリに少し遅れて身を起こすと、正面から視線を合わせてきた。……いつもの、あの、悪戯っぽい笑みをにんまりと浮かべて。
「雛方、お前、もう帰れ」
「は?」
 買ってもらったばかりのオモチャを自慢したくてたまらない悪ガキもかくや、得意げに瞳を輝かせる原田の顔を見て、ヒカリは唇を引き結んだ。
「……わかった」
 こんな表情を見せた原田が、こんな中途半端な状況で、オーディエンスを黙って帰らせるはずがない。
 ――ということは、私が帰る、もしくはことが、「必要」ということか。
 ヒカリは、目を丸くしているユキに、「じゃあ、私は帰るね」と声をかけて、回れ右をした。そうして、ゆっくりとした歩調で公園の出口のほうへ歩き出した。
 普段ならば、「随分と素直だな」だの「さっさと帰れ帰れ」だの何かしら余計な一言を投げかけてくるだろう原田は、案の定、無言のままだ。
「え? え?」と狼狽するユキの声が、背後から聞こえてくる。
 ヒカリが五歩ほど進んだところで、原田が「さてと」と口火を切った。
「邪魔なおねーさんもいなくなったことだし、ユキちゃん、おにーさんが代わりのキーホルダーを買ってあげるから、一緒においで」
 よく通る低い声が、夕暮れの空気を震わせる。
 ヒカリはそうっと原田を振り返った。
 挑戦的な眼差しが、ヒカリを真っ直ぐに射抜く。「まあ、見てなって」と言わんばかりの表情で、原田は更に言葉を続けた。
「同じやつを買ってあげるから、おにーさんと一緒にイイトコロに行こう」
 その瞬間、なにやら焦燥感溢れるわめき声が、地の底から響いてきた。
 間を置かず、同じく低い所から激しい水音も聞こえてくる。
 水路の中だ、とヒカリがそちらへ視線を走らせると同時に、子供の手が下から伸びてきて、柵の根本を力強く掴んだ。
「行っちゃダメだ、ユキ!」
 やっと、その子が何をわめいているのか、ヒカリに聞き取れた。
「ユキを放せ、ヘンタイ野郎! 警察を呼ぶぞ!」
 必死の形相でコンクリの壁をよじ登ってきた少年は、お互いに離れて立つヘンタイ野郎とユキ、そして、帰ったはずのおねーさんの姿を見て、あっけにとられた表情を浮かべる。
 原田が、底意地の悪い笑顔で、少年に向き直った。
「キーホルダーは見つかったんだな? カツヤくん」
 目を見開き口をパクパクさせている少年の、丸く膨らんだズボンのポケットから、灰色の猫の耳がちらりと見えていた。
  
 バツの悪そうな顔で、カツヤがポケットからキーホルダーを掴み出した。そのまま、勢いよくユキに向かって手を突き出す。「ん!」と顎をしゃくりながら。
「『ん』じゃねえよ。言わなきゃいけないことを、きちんと言え」
 説教する原田から、カツヤが露骨に顔を背ける。
 ヒカリは大きな溜め息をつくと、敢えてユキに向かって語りかけた。
「なあ、この子何年生? 『ん』しか言えないってことは、ユキちゃんよりも年下?」
「え、同じ三ね……」
 ユキが素直に答えかけた途端、カツヤがふてくされた調子で、だが大きな声で、「ごめん!」と言いきった。
「返す。受け取れ」
「キーホルダーが水路のほうにバウンドしたことに気づいたのか?」
 原田が問いかけるも、カツヤはそっぽを向いたままうんともすんとも答えない。
 だが、原田は特に気にしたふうもなく、「目がいいんだな」と、勝手に合点して頷いている。
「で、遠くまで流れていってしまう前に拾おう、と、すぐに下流のほうへ向かった、と」
 カツヤが、驚きの表情で原田を見た。
 原田は、淡々と話し続ける。
「全速力で走っていって、向こうのほうで水路におりて、そのまま水の流れを遡っていったら、雑草に引っかかっているキーホルダーを見つけた」
 カツヤは、呆然と原田を見つめながら、ぼそりと呟いた。
「引っかかってたのは、雑草じゃなくて石だ」
「おお、そうか、訂正サンキュ。で、石に引っかかっていたキーホルダーをゲットして、公園の近くまで戻ってきたけれど、どうやってこれをユキちゃんに返したらいいのか、いいアイデアが思いつかなくて水路から出られずにいたら、公園のほうから、聞き慣れない声が聞こえてきて、咄嗟に暗渠――トンネルになっているところに隠れた」
 そこで原田は一旦言葉を切った。それから、カツヤに「どうだ、正解か?」と得意げに笑いかける。
 目を見開き、口をぽかんとあけたカツヤが、痙攣するように小刻みに首を縦に振った。
「暗渠、って、すぐそこにあるやつか?」
 ヒカリの質問に、原田が「ああ」と頷いた。
「水流が、暗渠の出口付近でいい感じに渦を巻いていたんでね。ああ、これは流れの中に何か……誰か立ってるな、と」
 さっき水路を覗き込んだ時、原田はヒカリよりもすこしだけ左手、上流側に立っていた。そのすぐ左側に暗渠が口をあけていたのを思い出し、ヒカリは思わず唇を噛んだ。下流だけでなく上流のほうにも注意を払っておれば、ヒカリの位置からならカツヤの足が見えたかもしれないというのに、と。
 一人悔しがるヒカリをよそに、カツヤはすっかり感服した様子で、瞳をキラキラ輝かせながら、原田を見上げている。
「アンタ……、凄いな!」
「いやいや、それほどでも」
「ううん、本当に凄いよ、カッコイイよ! ありがとう、お兄ちゃん!」
 ユキも、カツヤ同様キラキラとした眼差しを原田に向ける。
 その瞬間、カツヤの顔が複雑そうにしかめられるのを見て、ヒカリの口元に苦笑が浮かんだ。
  
 もう暗くなるから送っていこうか? との原田の申し出を、カツヤは必死で両手を振って固辞した。
「いいよ。俺の家、ユキの家のすぐ近くだから」
「そうか」
 原田は、大きく頷いたのち、カツヤに向かって「あのさ」と声をかけた。
「何?」
「……いや、やっぱ、何でもない」
 何か言いかけたものの、原田はそれを静かに呑み込んで、それからカツヤに「頑張れよ」と言った。
 小首をかしげるカツヤの横で、ユキがまた深々と頭を下げる。
「おにいちゃん、本当にありがとう!」
「帰るぞ! ユキ! もたもたすんな!」
 さよならも言わずに、カツヤがさっさと公園の出口へと向かう。
 ユキは、しばしの間、カツヤの背中と原田とを交互に見ていたが、もう一度原田にお辞儀をすると、「お兄ちゃん、またね!」と手を振った。
「ユキ! なにやってんだ、このノロマ! 早く来いっての!」
「わぁ、ひっどーい! ノロマって言ったの、おばさんに言いつけるから!」
「悔しかったら、さっさと来たらいいんだ。ノロマ」
「カツヤくんなんて、大っ嫌い!」
「俺だって、お前のこと、大っ嫌いだからな!」
  
 わめきながら去っていく二つの小さな人影を、ヒカリは含み笑いとともに見送った。
「もうちょっと素直になりゃ、『大嫌い』なんて言われずにすむのに」
 その傍らで、原田が大きな溜め息をつく。
「こればっかりは、本人が気づかんことには、なあ」
 原田が再度深い溜め息を漏らすのを聞き、ヒカリは、ここぞとばかりに攻勢に転じることにした。
「それにしても、あのカツヤって子の行動を、よく読めたな。精神年齢が近いんじゃね?」
 ――さて、どこからどんな反撃がやってくるか。
 臨戦態勢で反応を待つヒカリに、原田は「まあな」とだけ返答すると、「じゃ、また」と軽く右手を上げて背を向けた。
 完全に予想外の展開に、ヒカリは何も言うことができず、ただ、呆然と原田の背中を見送るのみ。
 その背中が、やけにもの寂しそうに見えて、ヒカリは眉間に皺を寄せた。
 ――まさか、わざわざ落ち込んでみせて、相手に罪悪感を植えつけようという、新手の反撃か?
 そう胸の奥で独りごちてから、ヒカリは大きく息を吐いた。解っている、と。わざわざそうみせているんじゃなくて、何故かは知らないが彼は本当に落ち込んでいるのだろう、と。
 宵闇のおりる草むらに向かって、ヒカリは、足元に転がっていた小石を思いっきり蹴り飛ばした。
  
  
  
〈 了 〉