[R15] 中学生以下の方は閲覧をご遠慮ください。
邂逅
目が覚めたら、そこは異世界だった。
さやさやと、やけに乾いた風が頬を撫でる。エアコンのスイッチを切り忘れていたか、と慌てて身を起こした朗は、そのまま凍りついたように動きを止めてしまった。
思わず数度まばたきをして、それから彼はそっと眼鏡を外した。空いている右手で両の目頭をぎゅっと押さえ、更に固く目をつむってみる。たっぷり三秒間心の中で数えてからおそるおそる瞼を開けば……、依然として眼前に広がるのは、全くもって見覚えのない風景。
――なんだ? ここは。
彼の周囲見渡す限りに、広大な荒地が展開していた。サバンナ、と言うには少々植生が高緯度向きかもしれない。そこかしこに転がる岩塊の隙間に、低木がまだらに群生している。既視感に苛まれる朗の脳裏に、古い外国映画の映像が浮かび上がってきた。モノクロームの画面に展開する、愛憎に彩られた復讐劇。ヒースの丘に建つ、嵐の名を冠した古い館……。
「どこだ、ここは?」
荒涼たる風景の真っ只中で、朗は呆然と一言を呟いた。アパートでもなければ職場でもない、……そんな見るまでもないようなことをわざわざ思考にのぼしてしまうほどに、今、彼の頭は混乱の極地に達してしまっていた。
――夢か? 夢だな。絶対、夢だ。
汗ばんだ手のひらが、ごわごわとした分厚い布地に触れた。どうやら朗は、帆布に似た薄汚れた敷物の上で眠っていたようだ。いや、眠っていたのではなくて、こういう設定で夢が始まった、と言うべきだ。そう頭の中で言い直し、朗はもう一度辺りをじっくりと見まわした。
――しかし、のっけから夢だと自覚できる夢というのも、珍しいな。
空の色、木々の声、吹き渡る風の感触、土のにおい。どれもこれも無駄に現実的で、臨場感に満ち溢れている。舞台設定は、やはりヨークシャーなのだろうか。だが、学生時代に名画座で一度見ただけの映画が、どうして今頃夢に出てくるのか。しばし思案していた朗は、ふう、と大きく息を吐くと、諦めたように首を振った。
そう、フロイティアンでもあるまいし、夢判断など何の意味もない。かくなる上は、荒唐無稽な物語をせいぜい楽しむこととするか。
朗は、ゆっくりと立ち上がった。
午後の太陽が、世界を優しく照らしている。雲一つ無い青空の下に横たわる赤茶けた大地。遠くに見える緑色は森だろうか。単調なラインを描く地平線は振り返るにつれ勾配を増し、朗の背後で雄大な円錐を成していた。均整のとれた稜線の頂からは、うっすらと煙が立ちのぼっている。
――なかなか壮大な舞台設定だな。
口元に皮肉の笑いを浮かべた朗だったが、ほどなく眉を大きくひそめて愕然とした表情を作った。
思い出せない。
眠る前、自分が何をしていたのか、どこにいたのか。全く思い出すことができないのだ。
普通に考えれば、アパートの自分の布団に潜り込んで、といったところだろう。だが、それが今一つハッキリしない。いや、そもそも、昨日は平日だったのか? それとも休日? 何月の何日、何曜日だった?
確か春休みは終わったはずだった。一日千秋の思いでようやく迎えた四月を喜ぶ間もなく、新学期が、新生活が始まって、それぞれ諸々に忙殺され……。
朗の眼差しが翳り始めたその時、後方、大岩の陰から微かな足音が響いてきた。
「お、気がついたか」
慌てて背後を振り返った朗ににこやかに笑いかけてくる一人の男。
どこかで見たことのある顔だ。記憶の表層まで浮かび上がってきたそれを朗が掴み取る前に、男は大きな動作で朗に背を向けた。
「おおーい。奴さん、気がついたぜー」
「本当? 良かったー」
男が岩陰へと投げかけた声に、別な声が応答する。聞き覚えのあるその声音に、朗は思わず一歩を踏み出していた。
軽やかな足音が声に続き、やがてそこに……志紀が姿を現した。
「どうか気を落とさないでくださいね」
「そうそう。あんまり気に病んだら、思い出せるもんも思い出せなくなるって」
荒地を進むこと、たっぷり一時間――いや、夢の中での体感時間でおよそ一時間。鄙びた集落の一角の小さな小屋に朗は落ち着いていた。絵本や絵葉書に描かれた風景のような、素朴な家々の屋根が窓の外に疎らに並んでいる。
リアリティ溢れる夢の登場人物は、朗を除けば現在二名きり。この忌々しい配役に、朗は何度おのれの深層心理を呪ったか分からない。
男は、レイ、と名乗った。馬鹿らしいほどに、そのまんま、である。年の頃は二十代後半だろうか。朗の知る「彼」とは違い、彼は長髪を首の後ろで一つにまとめ、強い意志と充分な自信とをその瞳にたたえていた。鍛え上げられた肉体に、精悍な顔立ち。十年後の原田嶺、というには、少々色をつけ過ぎているように思える。
どうして私が、夢の中で奴にこんなサービスをしてやらなければならないのか。朗が憮然と彼から視線を外すと、もう一人と目が合ってしまった。「彼女」に似て、「彼女」に非ざるもう一人と。
その女もやはり、シキ、と自らを名乗った。ひねりのないネーミングも年齢設定も彼と同じ。そして、どういうわけかこの夢では、彼らが恋人同士ということになっている、らしい。
一体全体何がどうして、こんな不愉快な夢を見なければならないのだろうか。朗の視線が暗さを帯びる。
もしや、バーチャルに略奪プレイを楽しもう、という趣向なのだろうか。他人の女を無理矢理おのれのものにする、そういうシチュエーションだとでもいうのだろうか。……具体的に考えを巡らせ始めた朗の喉が、ごくり、と鳴った。
シキの、志紀と違 わぬ屈託のない笑顔と、志紀とは異なる大人びた仕草が相まって、朗の煩悩を強烈に揺さぶっていた。倦怠期だとかマンネリだとか、そんな単語とはまだまだ無縁だと思っていたが、もしかしたら自分は心の底ではもっと鮮烈な刺激を求めていたのかもしれない。この身を焦がさんばかりの悋気は、きっと、来るべきご馳走のオードブルということなのだろう……。
無理矢理にこの状況を納得することにして、朗は椅子に深く座りなおした。知らず寄りかかっていたテーブルから、大儀そうに身を起こす。手作り感たっぷりの小さな木の椅子が、彼の尻の下で嫌な響きを立てた。
「色々不安でしょうけど、明後日には隣町に戻る予定なので、もう少しだけ我慢していてくださいね。この村にはお医者も癒やし手もいないんです」
シキが心配そうに朗の顔を覗き込んできた。
いくら夢の中とはいえ、舞台設定も物語構成もさっぱり解らないままに右往左往するのは、あまりにも自分が情けな過ぎる。そういうわけで、朗は記憶障害を装うことにしたのだ。名前も、歳も、どこから来てどこへ行くのかも解らない、と、そうすれば、彼らをこちらのペースに乗せることができるはず。そう思っての措置だったのだが……
「いわれてみれば、確かに先生に似てるよな」
「でしょ?」
どうやら、夢のほうが一枚上手だったらしい。朗はしぶしぶ彼らの話題に乗っかることにした。
「先生、とは?」
「私達に魔術を教えてくれた方なんです。本当に貴方にそっくりなんですよ。だから、岩場に倒れている貴方を見つけた時、物凄くびっくりしたんです」
「そっくりってったって、髪の色が違うけどな。先生は銀髪で、アンタは……」
「だから、余計にびっくりしたんじゃない」
曰くありげに二人が視線を交し合うのを見て、朗の胸のうちでどす黒い炎が火勢を強める。
「大体、先生はこんなに若くないだろ。どう見てもこの人は……、って、呼びづれぇなあ、なあアンタ、名前ぐらいは覚えてないのか?」
「……たぶん、朗、だ。そんな気がする」
朗が白々しくそう口にした途端、レイの眉が大きく跳ね上がった。
「ロウ! 名前まで似てるのかよ。まあいいや。で、話を戻して、だ。どう見てもロウは俺達と同年代ぐらいだろ? それに、先生が愛する奥方置いてこんな辺境までやってくるわけがないし。他人の空似。偶然、偶然」
「それはそうなんだけど……、でも……」
どうやら、自分はややこしい役どころに収まってしまっているらしい。朗は小さく溜め息をついた。
「ま、なんにせよ全てはネイトンに戻ってからだ。あの熊親父だったら、ロウの記憶を戻すぐらい、朝飯前なんじゃねーの?」
連発される未知の固有名詞に、つい眉間に皺寄せた朗の視界の端、窓の向こうから押し殺した笑い声が聞こえてくる。
「熊親父……って、それ、副長に直接言ってみろよ」
「サン!」
今度は、高嶋珊慈の登場か。眩暈を感じた朗は、頭を抱えテーブルの上に肘をついた。レイ達と同様十年の歳月を経た姿で、教え子がもう一人、茶髪を揺らしながら窓枠を乗り越えて入ってくる。やはりこちらも現実の彼より幾分ガタイが良い。これは一体どういうコンプレックスが夢に反映しているのだろう、と朗は心の中で首をひねった。
「どうして、ここに?」
「ネイトンに予定よりも随分早く着いたから、伝令に来たんだ。この辺り、何か色々歪んでるとかで『風声』使えないからってさ」
「そんなの、下っ端に任せりゃいいのに」
「息抜き兼ねてンだよ。俺が自分から引き受けたからいいの。いいか、カラント王立魔術団副長殿からの伝言だぞ。『さっさと戻って来い、このノロマ野郎』……以上」
「って、まだ『赤岩』の辺りを調べてねえんだぞ」
「だから、『ノロマ野郎』なんじゃねーの?」
ついこの間まで化学室で見られた風景のごとく、二人は心底楽しそうに言い合っている。奴らは何十年経ってもこんな調子なのだろう。朗は、延々と続く彼らの会話に誘 われるようにして、そっと身体を起こした。
「だから、それってお前、絶対都合よくノせられてんだよ」
「そんなことねーって。それを言うならレイだってそうだろ?」
「俺はお前みたいな下っ端体質じゃねえからな」
「……あ、お前、そんなこと言うか。そういうことなら……って、え? 先生!?」
自分を指差す震える指を、朗は苦笑で受け止めた。熊親父、とやらは誰が演じているのだろうか、などと考えながら。